5
どうして夕紀さんはわたしに会おうと思ったのだろう。
電車にゆられながら、ずっとそのことを考えていた。結局あのあとまた辺りを散策しながら一時間ほども話し、小さな喫茶店で美味しいモンブランケーキを食べ、彼女の最寄りの駅まで送って行ったあと、行きつけのお店だというアジアン料理のお店で遅い夕食を取った。気づくと夜の九時を過ぎていた。話すこと、語り合うことはいくらでもあった。どれだけ一緒にいても飽くことも退屈することもなかった。初対面の人とこれほど長く話をしたことのなかったわたしは、自分の一面に驚かされる思いだった。
自由が丘での散策の途中、猫カフェに行きたい、という話になった。わたしがラグドールの雄猫を飼っていると話したら、彼女が羨ましいと言ったからだ。けれどスマートフォンで検索した店舗まで行ってみるとそこは既に潰れてしまっていた。また、抹茶の専門店があるはずだと夕紀さんが言い、それではそこに行きましょう、となったのだけれど、そちらもどうやら潰れてしまったらしい。わたしたちは顔を見合わせてくすくすと笑いあった。ついてないですね、と。
でも、正直に言うと、わたしは彼女と街を歩くだけで楽しかった。着物姿のわたしと喪服のような衣装の——それも白杖を持った——夕紀さんの取り合わせは、人目を惹いた。すれ違うときにじろじろと見てくる無粋な人も中にはいた。けれどわたしは気にしないようにした。
見たければ勝手に見ればいい。目の不自由な夕紀さんはその視線に気づいていない。だから、構わない。そう思った。
「そうだわ。猫なら今度、うちにいらっしゃいよ。うちの子、抱っこは嫌いだけど触らせてはくれるわ。それにもうすぐ桃が出始める季節だもの。桃と生ハムの美味しい冷製パスタを作ってあげる」
「桃、ってあの桃ですか?」
それって本当に美味しいんですか。夕紀さんが前を向きながら、踏切を渡りながら、小さく笑う。西日に染められた彼女は、まるで生まれたての炎のように美しかった。
かたんかたんと電車がゆれる。
窓の外は既に真っ暗になっていた。街灯や車の明かりが、ちらちらと光っては消えていく。
家に帰ると十一時を過ぎていて、夫は既に床についていた。起きてはいるようだった。ただいま、と声をかけてみたが返事はなかった。気にしないとは言ってみたものの、あまりにわたしの帰りが遅かったので、不機嫌なのだろう。出版社の関係者と会うと帰りが遅くなることも多かったが、そういうときに着物をわざわざ着ていったりはしない。彼は彼なりに、何か感じるところがあったのかもしれない。
シャワーを浴びて出てくると、脱衣所に夫が立っていた。
わたしは慌てて浴室に戻って扉を閉め、出て行って、と言った。こういうことはしないで。
夫はごめん、寝る前に歯を磨こうと思っただけなんだ、と小さな声で言って、そっと脱衣所から出て行った。わたしは濡れた裸の胸を押さえながら、強く唇を噛んだ。夫に裸を見られて動揺している自分がいた。今日一日の楽しい思い出が、ただそれだけのことで、一瞬で消えて無くなってしまった。そのことがたまらなく悔しかった。
夕紀さんはどうしてわたしに会おうと思ったのだろうか。
寝室に行く気にはなれず、わたしは仕事部屋でパソコンの画面を見つめていた。期限の迫った下訳がいくつか溜まっていたが、仕事をする気にもなれなかった。
《今日はありがとうございました。とても楽しくて、思わず時間を忘れてしまいました。遠いところにお住まいなのに、引き止めてしまって、本当にごめんなさい。》
夕紀さんからメッセージが入った。そして続けて、
《また会ってもらえますか。》
……と。
気づくとわたしは泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。どうして泣いているのか、自分でもよくわからない。それでも涙は、後から後から流れ続けた。
《わたしも楽しかった。わたしも、また夕紀さんに会いたい。》
返信にはすぐに既読がついた。
《今日お会いしたときには言えませんでしたが、メッセージのやり取りを始めた頃からずっと、雨さんはどんな人だろうって、考えていたんです。》
《あなたの声を聞いて、あなたに触れて、今日ほどわたしの目が見えないことを悔やんだ日はないです。いつか奇跡が起こってわたしの目が見えたなら。あなたの顔を真っ先に見たいと、切に願いました。》
嗚呼。
これほどまでに愛おしい恋文を、未だかつてもらったことがあっただろうか。その文章はわたしの胸に深く、深く突き刺さった。わたしは両手で口を覆った。そうしないと嗚咽が漏れてしまいそうだった。涙でパソコンの画面が滲んでいった。いつの間にか部屋に入り込んでいた綺色が、静かに、そんなわたしを見上げていた。
……夕紀さんもわたしが好きなの?
だから、わたしに会いたいと思ってくれたの……?
パソコンに伸ばした指が画面に触れて、泣きながらその言葉を口にした瞬間、わたしは黒い奈落に落ちたのだと思う。永遠の魂の
わたしはこのとき初めて、妹が羨ましいと思った。
女性のあいだを蝶のように渡り歩くあの子が、心の底から、羨ましいと思った。
夕紀さんがわたしをイメージして読んでくれていた小説は、本当は全て妹がモチーフなのだ。夕紀さんが想像するわたしは、妹のそれなのだ。どうしてだろう。どうしてなのだろう。わたしは自分自身でついてしまった嘘が、許せなかった。どうしてわたしはこんな小説を書き、看護師だと偽って、夕紀さんに会ってしまったのだろう。胸が痛い。張り裂けてしまいそうなくらい、胸が痛かった。
その日は結局仕事が忙しいふりをして、一晩中仕事部屋にこもっていた。窓の外で徐々に広がっていく燃えるような朝焼けの空を、椅子に座ったまま静かに見つめていた。きっと、何年経ってもこの真っ赤な景色を忘れないだろうと思った。
いつもの時間に、何事もなかったように起き出してきた夫に食事を作り、会社に送り出してから。わたしは夫のいなくなったベッドに横になった。けれど、空虚な気持ちが胸の中に残り続けて、眠りはいつまでたっても訪れなかった。
妹が訪ねてきたのは、その日の午後のことだった。
このあいだ不機嫌にしていたのを反省しているのか、千住で評判のロールケーキを手土産にして。それでもなんとなく拗ねたような表情で、我が家を訪れたのである。
「馬鹿ね、来るなら連絡くらいちょうだいよ。もしもわたしが留守にしていたらどうするつもりだったの?」
「それなら霞がロールケーキに縁がなかったってことでしょう。それに双子だもの。あなたのことはだいたいわかるわよ」
そう言って、露はにっこりと笑った。家に招き入れると、綺色が寄ってきて、不思議そうにわたしたちを見つめていた。
「お茶にするから座っていて」
「うん。きぃちゃんと遊んでる」
綺色はラグドールなのに、抱かれるのが嫌いな猫だった。いつもは付かず離れずの適度な距離感を保ち、けれどわたしが暗い顔をしていると、心配そうに、そっと擦り寄ってくる。彼が人間だったなら、とてももてたことだろう。
露が綺色の耳の後ろを撫でている。綺色はうっとりとした表情で目を閉じていた。その顔は往年のゲイリー・クーパーにそっくりだった。
わたしは自由が丘の駅でお土産に買ってきた、TWGの甘い香りのする紅茶を入れ、ロールケーキを六等分に切り分けた。四つをわたしたちの分にして、残りの二つを冷蔵庫にしまった。夫も甘いものは好きだから。仕事から帰ってきたら、食べるかもしれない。
「うわ、すごくいい香りの紅茶ね。どこの?」
「昨日自由が丘に行ったから。そのお土産」
テーブルの上の青い缶に入った紅茶に目をやり、わたしは言った。
「それって、例の?」
妹が缶から目を逸らし、わたしを見た。
「結局会いに行ったわけだ」
「そうよ」
わたしはなんでもなさそうに、そう答えた。
「ふん。デートの記念品、ね。で、どんな人だったの?」
「どんなって?」
「……背が高いとか、痩せているとか太っているとか、いろいろあるでしょう?」
「女の子だったわ」
わたしは言った。露は唖然とした顔で、わたしを見ていた。
「十九歳の女の子だったのよ」
なによ、それ。掠れた声が聞こえた。初めて聞くような、露の声だった。
「ねえ」
カップを手に取り、
「女の人を好きになるって、どういう気持ちなの?」
紅茶を一口啜る。露の顔が苦痛に歪んでいる。
「それを訊いてどうするつもりなの」
「別に。どうもしないけど」
あのね、と言って、露は深い、とても深いため息をついた。
「……男とでも、女の人とでも、不倫はいけないことだわ。だいたいその子の気持ちはどうなるの? 苦しい思いをするのはその子なのに。年上のあなたが一線を引かないでどうするの? ねえ、確かにわたしは霞からしたら遊んでいるように見えるかもしれない。でもね、今までわたしから誰かのものを奪ったことなんて、一度もない。そういうふうに人を傷つけるのは、絶対に嫌なの。あなたが身を引かなければ……その女の子は罪を背負うことになるのよ」
それでも、とわたしは言った。
「それでも、好きなのよ」
綺色がわたしたちのあいだの緊張を察したのか、間の抜けた声でうなーと鳴いた。露の膝に頭を押し付けている。
「ならさっさと離婚でも何でもすればいいじゃない。意気地なし」
露がわたしの目を見ずに、吐き捨てるようにそう言った。確かにその通りだった。
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