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今年の花は足が早い。
五月になったばかりなのに、すでに藤は散り始めていた。甘い匂いの残滓を、初夏の陽気に溶け込ませるように。藤は散り際にあってさえ、優しい顔を見せてくれる。
わたしは支度をしながら窓の外を見つめた。青い空には雲ひとつなかった。
袷の着物で出かけるのは暑いだろうか、と一瞬考えたが、わたしは昨日から用意してあった藤色の着物に袖を通した。帯は少し涼しげに、柳の図柄を織り込んだ夏物にする。着道楽だった母の影響でわたしも一年を通しての着物には事欠かなかった。大部分は母から譲り受けたものだけれど、自分で仕立ててもらったものもいくつかある。この正絹の着物は正にそうで、わたしのお気に入りのひとつだった。
昨日の夜、今日の日程を確認するためのメッセージが、夕紀さんから届いた。
《わたしの都合で申し訳ないのですが、自由が丘のマリ・クレール通りの改札を出たところでお待ちしています。十二時には着いていると思います。ランチをご一緒できれば嬉しいです。》
自由が丘なんて、何年ぶりだろう。自由が丘という言葉の響きすら、わたしの耳には蜜のように甘かった。しかし帯を締めるときのキュッという音が、わたしの溶けていきそうな心に一線を引く。
この気持ちを悟られてはいけない。あくまでもわたしたちは友人同士として会うのだから。それ以上を望んではいけない。
そう思っても、わたしは彼の姿を想像することを止められなかった。背は高いだろうか、それとも小柄だろうか。声の質はどうだろう。彼の文体から察するに、年はそう離れていないはずだ。二十五から三十のあいだ。あるいはもっと年上かもしれない。
友人に会いに行くので今日は遅くなる、と伝えると、夫からは気のない返事が返ってきただけだった。自分も外で食べてくるから構わない、好きにすればいい、と。その態度に、夫に内緒で男の人に会いに行く罪悪感が、薄れた。わたしが浮気をするかもしれないなんて、少しも思っていないのだろう。考えてもいないのだろう。それは信頼しているからではなく、わたしに興味がないだけだ。失望したわけではなかった。かえって安心して外出することができたくらいだ。
支度の最後に藤の花の練香を手首と首筋に擦り込み、家を出た。ふと振り返ると窓の内側から、飼い猫の綺色がわたしを、じっと見つめていた。
最寄りの駅から、自由が丘まで。乗り換えはたった一度きり。それでも長いあいだ地下鉄にゆられていると、不意に綺色の蒼い目を思い出した。わたしを見つめるあの双眸は、何を訴えていたのだろうか。猫の目は未来を見通す、と書かれた小説があったのを思い出した。なら、綺色はわたしの背中に、いったい何を見たのだろう。
考えても答えは出なかった。ただ、少し悲しくなっただけだった。
家を出たときと同様に、自由が丘の空も晴れ渡っていた。しかも五月の連休中とあって、人でごった返している。駅の正面口では、何か催し物も行われているようだ。
《改札を出てすぐのところに、白杖を持って立っているので目立つと思います。それがわたしです。声をかけてください。》
南口の改札を出て辺りを見回すが、まだ早かったようで、夕紀さんらしき人は見当たらなかった。時計を見るとまだ十一時半になったばかりだった。わたしはその場を離れ、少し周囲を散策することにした。以前、七八年前に来たときと少しも変わっていない街並みが広がっている。本当は店舗などが入れ替わっているのだろうが、久方ぶりのわたしにはよくわからなかった。
近くのビルの地下に入っている書店で、自由が丘の特集が組まれた雑誌をぱらぱらと、見るとはなしに立ち読みする。去年発売されたものらしいが、未だに平積みで置かれていた。
しばらく書店の中をうろうろしていると、スマートフォンのツイッターのアプリに、メッセージが入った。
《今着いたところです。雨さんはこれからお着きですか?》
《ごめんなさい。早く着いてしまったので本屋さんで時間を潰していました(汗)すぐに伺いますね。》
慌てて地下から建物の外に出ると、陽射しがわたしの目に白い幕をかけた。首筋が汗でしっとりと濡れ、藤の匂いが立った。
駅前では待ち合わせをしている人が大勢たむろしていた。皆思い思いにスマートフォンを眺めている。わたしは改札の近くに白杖を持った男性がいないかと目を凝らしたが、それらしい人物は見受けられない。……そのときだった。
ふと、柱の陰に、黒い喪服のようなワンピースを着た、少女が立っているのが見えた。じっとスマートフォンを耳に押し当てるその姿には、何か切迫した切実さのようなものを感じた。
よくよく見ると、右手に白い、杖を持っている。
……まさか、と思った。もう一度左右を見回す。盲人用の白杖を手にして立っているのは、彼女だけだった。
なぜだろう、その姿を見て、心に何かが、すとんと落ちてきた。
わたしは落胆したわけでも裏切られたと思ったわけでもなかった。ただ寂しいような、切ないような気持ちになっただけだった。ずっと慕っていた人が、好きかもしれないと思っていた人が、女性だった。それなのに、少しも嫌だとは思えなかった。
夕紀さんの小説を読んでいて、誤字以外にも感じていた違和感があったのを思い出した。誤字の多さよりもなによりも、女性の心の機微について、あまりにもリアルな筆致だった。女性ならではのものの感じ方が、しっとりとした筆で書かれていた。あるいは最初にわたしが勘違いしなければ、夕紀さんを女の人だと見誤らなかったかもしれない。そう思うと胸が微かに痛んだ。
わたしはツイッターのやり取りの中で夕紀さんを、男性扱いして言葉をかけていなかっただろうか。夕紀さんを傷つけるようなことはしていなかっただろうか。今はただ、それだけが心配だった。
「夕紀さんですか」
思い切って声をかけると、彼女の思いつめたような表情がほどけた。
心持ち視線を上げて、わたしの方に顔を向けた。
「雨さん?」
「はい。お待たせしてしまったみたいで。ごめんなさい。電話中でした?」
見えていないのだとわかっていても、わたしはぺこりと頭を下げた。
夕紀さんは若く、小柄だった。わたしの唇の位置に彼女の額があった。ピンクブラウンに染められたショートボブの髪が、彼女の動きに合わせて小さくゆれた。
「いえ、メールが来ているかと思って、読み上げで確認していたんです。それにまだ待ち合わせの時間の前ですし。気になさらないでください。わたし南口ってしっかり書いていなかったから、迷ってしまわれたのかと思って、ちょっとドキドキしていたところだったんです」
そう言って彼女は苦笑した。それから少し目を伏せて、申し訳ないのですが、歩くときに雨さんの右肘を貸していただけませんか、と言った。
「肘、ですか」
「ええ。手引き……じゃなくて誘導をお願いするのに、そこを掴むのが一番しっくりくるんです」
わたしが、では、と言って右腕を差し出すと、夕紀さんは左手でわたしの肘のあたりを、探るように、力を入れ、しっかりと握った。彼女の指は細く、小さく、そして着物越しにもわかるくらい、冷たかった。
「あ、もしかしてお着物、ですか」
驚いたように、夕紀さんが一瞬手を離した。
「ええ。夕紀さんにお会いするので、ちょっと気合を入れてきました」
わたしが答えると夕紀さんは頬のあたりに小さな笑みを浮かべた。芙蓉の花が咲いたような、はにかみを含んだ、それは可愛らしい笑みだった。
「すごくいい手触りです。わたしの手で汚さないように、気をつけなきゃ、ですね」
歩き始めると白杖がアスファルトを擦る、カリカリという音が聞こえた。彼女は杖をあまり振らず、地面を擦るように、まっすぐに伸ばしていた。白杖の持ち手にはアクセサリーやらお守りやらがいくつも下がっていた。服装とはあまり合っていなかった。でも、もしかしたらそれらは、夕紀さんが誰かから貰ったものなのかもしれない。だから大事につけているのかもしれない。統一性のなさが逆に彼女の人となりを示しているような気がするのは、あるいはわたしがすでに好意を抱いてしまっていた、その現れだったのだろうか。
ゴールデンウイークの人出と喧騒を避けるようにしながら、路地を進んでいく。陽射しが眩しい。わたしの履物がからりからりと音を立てる。夕紀さんの白杖のカリカリという擦れる音と、ひとつのハーモニーを奏でている。
ひと気のない通りに野菜料理専門の小さなお店を見つけて、わたしは足を止めた。彼女のために外に置かれたメニューをざっと読み上げてみる。
「どうでしょう、無農薬野菜のアンティパストですって。ランチ、ここでもいいかしら?」
「はい。でも」
夕紀さんは言い淀むように口を噤んで、それから、
「わたし、上手に食べるのが苦手で。この目のせいで零したり、お皿に残してしまったり……見ていてお見苦しいかもしれませんが、許してくださいますか」
「ううん、そんなこと、気にしないでくださいな」
目が見えないのだ。そういうことだってあるだろう。そう思ってわたしは彼女に笑いかけたが彼女の表情は動かなかった。見えていないのだから気づかないのが当たり前だと理解したのは、お店の席に着いたあとのことだった。
東京藝大の学生さんが出展している椅子のモチーフの作品を横目に脇道に入り、日陰のベンチに二人並んで腰を下ろした。頭上をオリーブの枝が覆っている。雑踏のざわめきと、どこかから流れてくる軽妙で明るい音楽が、涼しげな風に乗ってわたしたちの足元に届いていた。
「ごめんなさい」
夕紀さんは小さな声でそう言って、顔を俯かせた。さっきのことを思い出しているのかもしれない。わたしは気にしないで、と言って、少しだけ彼女の方に体を寄せた。
先ほどのランチの際、わたしたちの前に運ばれてきたのは、厚い木の板に盛られた色とりどりの野菜料理だった。一つひとつが等間隔に並んでいて、そのどれもが美味しそうに見えた。けれど。
夕紀さんはどうしたらいいのかわからないというように、恐る恐る板に触れているだけだった。
「あの」
わたしが声をかけると、
「これ、どうやって食べたらいいんでしょう」
困ったように、そう言うのだった。わたしは慌てて店員さんに取り皿をもらい、彼女のためにひとつずつ、美しく盛られていたものをそこに移し替えた。これがズッキーニのマリネで、こっちがディルと焼いた玉ねぎを和えたもので……そうやって説明を加えながら。夕紀さんは申し訳なさそうに、その都度わたしの給仕を受けた。
ただ食事をするだけなのに。それだけなのに。
食べ慣れないものを、見えない中で食べるのは、これほどまでに困難なのか。そのことを改めて思い知った。目の見えない人は箸の方が食べやすいということも初めて知ることになった。食事を終えてここまで歩いてくるあいだ、夕紀さんは青い顔をしていた。無口だった。
「……本当にごめんなさい。初めてお会いする方とお食事をするのが久しぶりだったので、すごく緊張してしまって。正直、味もよくわかりませんでした」
夕紀さんは疲れた表情でため息をつきながら、座って乱れたワンピースの裾を、両手の指で探るようにして、直した。
わたしも自分の着物の襟を、そっと撫でた。
「夕紀さんって、本名ですか」
おずおずとそう訊ねると、彼女は小さく首を横に振った。
「いえ。本当はもっと女の子らしい名前なので。嫌いなんです」
「自分の名前がお嫌いなの?」
「雨さんは? 雨さんも本名ではないですよね」
質問に質問で返されて、わたしは少し気勢をそがれた。
「わたしは、本当は霞という名前なのね。嫌いではないけど……霞の雨冠をとって、そのまま〝雨〟と。ユィと読ませたのは、中国語で雨をそう言うから」
まさかあなたの小説から名前をいただきました、とは言えず、わたしはそんな風に説明をした。
「わたし、今日会うまであなたを男性の方だと勘違いしていました。ごめんなさいね」
「ううん。でも、わたしは雨さんが女の人だって、最初からわかっていましたよ」
夕紀さんはそう言って、静かに笑った。ひどく大人びた艶やかな笑みだった。
それからわたしたちは小説の話をした。何を思って書いているのか、どう読まれたいのか。どこに心を配っているのか、書く喜びはなんなのか。そういったようなことを。
「夕紀さんは普通の……という言い方は違うわね。ええと、例えば男女の恋愛の話は書かないの?」
「わたしは」
彼女は少し言い淀み、静かに目を閉じた。
「自分の性別に違和を抱えて生きています。正直、……男の人を好きになれないんです。ただ、胸を晒しで潰して男の人の格好をするのも何か違う、……ううん、わたしには合わないと思っていて。だから、せめて小説の中だけでは、思うような恋愛がしたいなって、思ったんです」
気がつくと苦い色をした瞳が、まっすぐにわたしの方を向いていた。
「わたし、女の人が好きなんです」
わたしはそれに、どんな言葉で答えればよかったのだろう。何も答えられないわたしに失望したのか、夕紀さんがふっと肩の力を抜いたのがわかった。
彼女の黒いワンピースの裾が、五月の風にさらさらとゆれた。
「……どうして喪服を着ているの」
「喪服じゃないですよ。MIHO MATSUDAってブランドのお洋服です。わたしこういうゴスの格好をするのが好きで。……ふふっ、雨さんに会うので。ちょっと気合を入れてきたんです」
そう言って、夕紀さんは苦笑した。わたしが和装をしてきたと伝えたときの台詞そのままだったので、わたしも小さく笑った。
「ただ、目が見えないのにわたしがこんな服を着てって。雨さんは思いますか」
言葉の意味がわからなくて、どうして、と訊ねた。
「好きな服を着ることに、目が見えないとか……関係あるの?」
夕紀さんは一瞬きょとんとして、それから芙蓉の花が色づくように、頬を緩めた。
「ありがとうございます。雨さんなら多分そう言ってくれるかなって、思っていました。でも、——わたし、二十歳になるまでに死んでしまうと思うんです」
「え?」
わたしは驚いて聞き返した。心がひやりとした。
「なぜ? なぜそんなことを言うの?」
「なんとなく。ただそう思うんです。だからわたしの着ている服が喪服に見えるというのなら、それはある意味正しいのかもしれません」
「そんなことを言って。夕紀さんはおいくつなの?」
「十九です。雨さんは?」
「わたしは二十七。もうおばさんね」
「……そんなことないです。雨さんの、あなたの小説は、とてもみずみずしいもの」
わたしは年甲斐もなく照れた。モチーフになってくれた妹に、このときばかりは感謝した。
「ごめんなさい。あの、おトイレに行きたいんですけど……近くにありますか」
わたしは立ち上がり、周囲を見回した。小道をはさんだ隣の区画にゲームセンターが見えた。あそこだったら、トイレを借りられるかもしれない。
「向こうにあるお店で借りられるかもしれないわ。ご一緒しましょうね」
再び彼女はわたしの右腕を掴んだ。ゲームセンターはかまびすしく、耳が痛いほどだった。弱視のためほとんど目が見えず、耳に頼らざるを得ない夕紀さんにとっては、なおのこと苦痛だったかもしれない。手早くトイレを済ませ、外に出たとき。わたしはふと、自分が喉の渇きを覚えていることに気づいた。時計を見るとかれこれ二時間近くも話し続けていた。
いつの間にか日が陰っていた。夕紀さんも光の加減でそれに気づいたのだろう、もの寂しげな表情を浮かべていた。
わたしは、けれどこのまま帰りたくないな、と思った。もう少し一緒に話をしたいな、と思った。
「喉、乾いていませんか」
「はい。ちょっと喋り過ぎちゃいましたね」
だからそろそろ帰りましょう。そう言われる前に、
「なら、飲み物を買ってきます」
「え?」
「何がいいですか」
夕紀さんは二度瞬きをして、冷たい紅茶を、と言った。わたしは少しここで、このまま待っていてください、と告げ、近くにある自動販売機に向かった。けれどそこに目当てのものはなかった。次の自動販売機は十メートルほど離れていて、でも、そこにも紅茶は売っていなかった。三つ目の自動販売機で紅茶を購入して戻ってくると、夕紀さんは白杖を両手で握りしめ、静かに立っていた。
やわらかな西日が、彼女の顔を美しく染め上げていた。悲しそうに伏せられたまつげに、引き結ばれた唇に、陽の光が当たっていた。まるで真冬に咲く、青く凍った百合のようだと思った。
わたしはそれを見て、声をかけるのをためらってしまった。綺麗だったから。悲しいくらい、綺麗だったから。ずっと見ていたい。そう思ってしまった。
足を止めて五秒間、彼女を見つめたあと、
「夕紀さん。遅くなってごめんなさい」
わたしは掠れてしまいそうな声で、そう言った。その瞬間、夕紀さんの顔にパッと花が咲いた。氷が散った。霧散したのだ。わたしはその笑顔を見た一瞬で、もう一度恋に落ちた。それをはっきりと感じ取っていた。
男とか、女とか、関係なく。わたしはただ、どうしようもなく。夕紀さんを好きになっていた。
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