「それで、どうするつもりなのよ?」

 露はアイスティーのストローから唇を離して、あきれたようにそう言った。

「どうもこうも」

 わたしも同じタイミングでコーヒーカップから唇を離して、ため息をついた。

「だから、悩んでいるって言っているじゃない」

 カップのふちに、わたしの赤い口紅がついた。まるで何かの熱の残滓のように。

「不倫するのなんてやめておきなさいよ。霞にはそういう才能、ないと思うもの」

 買い物に付き合ってほしいと言われて、わたしたちは表参道まで来ていた。時折こんな風に、わたしは露から呼び出しを受ける。露は店でいくつかの洋服を選んだあと、わたしにそれらを着せて、試着室の外から眺めるのである。マネキン代わりにされるのは腑に落ちないが、いつしかそれにも慣れてしまった。

 買い物が終わると目に付いた喫茶店に入った。わたしはぼんやりとその後ろをついていく。なんだか頭の悪い犬みたいだ。

 ……服なら今付き合っている彼女さんに見立ててもらえばいいのに。そう思ったけれど、口には出さなかった。わたしはやれやれと思って、小さなため息をついた。

 さっきからずっと浮かない顔をしているじゃない、張り合いがないな。席に着くなりそう言われて、ため息をついたのはあなたのせいだとも言えず、実は昨日こんなことがあってね、と言い訳するように切り出してはみたものの、飲み物が来るまでにわたしが語った淡いロマンスを、彼女はお気に召さなかったらしい。ただ彼の目が見えないことや、彼が女性同士の恋愛小説を書いていることついては、妹には言わなかった。変に誤解されたくはなかったのだ。

「不倫なんかじゃないわよ」

 わたしはちょっとムッとして、そう反論した。

「ふん、どうだか」

 あ、それよりも。

 露はわたしを睨みながら、

「ネット小説って言っていたけど、またわたしのことを書いているんじゃないでしょうね」

 わたしは黙って、カップを手に取った。かちゃり、と小さな音がした。

「まあ、どうでもいいけど。霞の書いた小説なんて誰も読みやしないだろうし」

「そうね。夕紀さんに読んでもらえたら、それでいいの」

 わたしがそう言うと、いやらしい、と呟いて、露は鼻の頭にしわを寄せた。わたしはカップに唇を寄せながら、散々女の子を泣かせてきたあんたには言われたくない、と思った。そもそもわたしに小説を書くようにそそのかしたのは露じゃないか。苛立ちを隠すようにコーヒーを一口啜ると、ズズッという大きな音が響いた。

 夕紀さんから会いたいと言われて、わたしは戸惑った。会いたくないわけがなかった。けれど、会ってしまったら。その一線を越えてしまったら。……いったいどうなってしまうのだろう。それを考えると怖かった。だから彼には少し考えさせてください、とメッセージを送った。あの夜からすでに二日が経っていた。

 もともとこの話だって、露にするつもりはなかった。露は別れ際までずっと不機嫌そうにしていた。彼女がこんなに不機嫌さをあらわにするのは、まだ大学院の修士過程を修了していなかったあの日、わたしに子供ができたと伝えたとき以来か。

 北千住の駅で別れ、わたしはひとり帰路に着いた。


 夫がなかなか帰ってこない。

 壁の時計を見ると夜の九時半を過ぎている。

 たぶん残業か何かなのだろうが、遅くなるならメールくらいあってもいいのに、と思う。わたしはため息をついて、キッチンに作って置いてあった料理を冷蔵庫の中にしまった。麻婆豆腐、春巻き、もやしのナムル、青菜の炒め物、……馬鹿みたい。

 自室に戻ってパソコンを立ち上げると仕事関係のメールに混ざって、ツイッターのダイレクトメッセージが届いていた。

 夕紀さんからだった。


《お返事がいただけなかったので、あの話はやっぱり駄目だったのかな、と思って、諦めます。変にお誘いしてごめんなさい。》


 わたしはそれを見た瞬間、


《会いたい。あなたに会いたいです。》


 と、メッセージを送っていた。さらにわたしの指はわたしの気持ちを代弁するように、勝手に動いた。


《返事が遅くなってごめんなさい。でも、やっぱり、あなたに会いたいと思ったんです。》


 すぐに既読がついた。

 わたしはじっと、パソコンの画面を見つめていた。


《嬉しい。》


 たった一言のメッセージに、かくも胸は震えるものなのだろうか。わたしは知らず知らずのうちに止めていた息を吐き出した。気づくと指先が震えていて、わたしはぎゅっと、両手を握り合わせた。

 思い出した。

 誰かを好きなるって、こういうことだった。

 わたしはそれを、何年かぶりに思い出した。


《雨さんのご都合のいい日を幾つか教えてくださいませんか。》


 返事を書き込もうとしたそのときに、玄関がかちゃりと開いて、猫の鳴き声が聞こえた。夫が帰ってきたのだ。


《ごめんなさい。うちの人が帰ってきたから、あとでメッセしますね(汗)》


 わたしは既読の確認もしないでパソコンの電源を落とした。


 その日は嫌な夢を見た。

 実際にそんな事実はなかったのに、なかったはずなのに、夢の中ではいつも誰かがわたしを、わたしの赤ちゃんを、殺そうとしている。わたしはその日もその顔の見えない誰かから、必死で逃げていた。

 わたしはまだ膨らんでもいない下腹部に手を当てて、大丈夫、わたしが絶対に守ってあげるからね。と語りかけていた。額には大粒の汗が浮かび、喉はからからに乾いていた。埃っぽいような、饐えたような匂いがして、気持ちが悪かった。夏だった。蝉の声が聞こえていた。

 わたしは廃墟にいた。

 打ち捨てられた団地の、その外階段の踊り場で、必死に息を殺していた。

 見つかったら殺される。

 相手の姿は見えない。どうしてわたしが、わたしの子供が殺されなければならないのかもわからない。わたしは恐怖に震えながら、その誰かに見つからないように、ただ神様に祈るだけだった。

 でも、足音が聞こえる。かつ、かつ、という、小さな乾いた音が。はっきりと耳に届く。わたしは叫び出したいのを必死にこらえ、ゆっくりと、階下を覗き込む。

 そのときだった。

 誰かがわたしの背中を強く押した。

 わたしは真っ逆さまに落ちながら、わたしを突き飛ばした犯人の顔を、確かに見た。それは、その人物は、

「……や、いやっ!」

 布団から跳ね起きると、全身が汗でびっしょりと濡れていた。心臓が早鐘を打っていた。過呼吸で指先がしびれる。目の前に、チカチカとした光の粒が点滅していた。

 またあの夢だ。そう思いながら、唇を噛み締めながら、わたしは泣いた。ぼろぼろと涙を零した。隣を見ると夫がすうすうと寝息を立てていた。わたしの叫び声にも気づかなかったように、眠り続けていた。残業で疲れているのだろう。ただそれだけなのだろう。けれどわたしはその寝顔を憎んだ。夢の名残がその寝顔に張り付いていることにも。

 あれは、夫の顔だった。夢の中でわたしを突き落としたのは、夫だった。

 わたしが、子供ができたと告げたときの、夫の顔。わたしが流産したとわかったときの、夫の顔。

 わたしは眠り続ける夫の顔を見つめながら、涙を流し続けていた。

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