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わたしが
二十七歳の頃で、わたしは当時——あるいは今でもと言うべきなのかもしれないが——スペイン語とポルトガル語の翻訳の仕事をして、口に糊していた。
南米随一の大作家、ガルシア=マルケスに惚れ込んで身を投じた翻訳の世界であったが、それだけでは碌な収入にならなくて、もしも夫の収入がなかったら、わたしはたちまち夏のアスファルトの上のミミズみたいに干涸びていたことだろう。
また翻訳の仕事以外にも時々趣味の延長のような、芝居のレビューを書いたりもしていた。もちろんお金にはならなかった。誰の目にも留まらないような、もし気づいても次の瞬間には忘れさられてしまうようなそんな駄文ばかりを書き連ねていたわけだけれど、ただ誤解のないように言い添えておくと、わたしはそんな生ぬるい生活を心から愛していた。
夫との仲は結婚三年目にして既にぎくしゃくしていたが、好きな演劇を見て、それを文章に、仕事にできる喜びは、何事にも代えがたい愉悦であり、快楽であった。どうしてそれを辞することができただろう。
そんな日々の中、双子の妹の露からの電話があったのは、桜の花が散り終わり、まだ赤子のような葉をつけ始めたばかりの四月の朝のことだった。
わたしは夫を仕事に送り出し、朝の食卓を片付けたあと、飼い猫の
「ねえ、霞。あなた小説を書く気はない?」
と言って、わたしを驚かせた。
「小説?」
「そう。わたしの知り合いがビアン専門の雑誌の、編集をしているんだけど。そこにレズビアン小説を寄稿してもらえないかな、と思って。あ、原稿料ならちゃんと払うって言っていたわ」
よくよく聞いてみるとそれは二丁目界隈にしか出回らないような、同人誌に毛の生えた程度といった代物のようだった。ただ、作り手の情熱だけは露の電話越しからも痛いくらいに伝わってきた。しかしわたしには妹と違ってそちらの
もちろん過去には短編小説を翻訳したこともあるし、演劇の批評を雑誌に書くことだってある。しかしそれらには元になる何かが必ず先に存在していて、その何かを基にして文章なり記事なりにしている。無から何かを生み出すなんてわたしには無理だ。できると思えない。
わたしが小さくため息をつくと、通話口の向こう側で露が押し黙るのがわかった。
看護師をしている妹の交友関係は、驚くほどに広い。くだんの編集者も、きっと、露が行きつけにしているバーの飲み仲間か何かに違いない。
毎週のように二丁目に繰り出している露の友達の中には、ゲイであることをカミングアウトしている高名な舞台演出家がいたりして、わたしに仕事の依頼が舞い込んでくることもあって……などと芋蔓を引くように考えていくと、わたしに対しても利するものがあるのだから、あながち妹の頼みは無下にはできないのではないか、という結論に達してしまう。
面倒なことになったなと思いつつ、わたしはスマートフォンを右手から左手に持ち替えた。どちらの耳にも沈黙しか聞こえてこないのに、この小さな機械の向こう側で、拝み倒している妹の姿が容易に想像できた。ますます断りづらくなってしまった。
時折、本当にわたしたちは一卵性の双生児なのだろうかと疑ってしまうことがある。
社交的で明るく、誰にでも笑顔で接し、不特定多数の同性の恋人と逢瀬を重ねる露と、どちらかといえば引っ込み思案で男といえば夫しか知らず、ましてや同性愛のことなんて欠片もわからないわたしとでは、住む世界も見るものもまったく違う……はずなのに。なのにどうして一卵性双生児などと言えるのだろう。
見た目なのだろうか。瓜二つの顔や体型なのだろうか。それらがわたしと露を結びつけているのだろうか。
わたしはちらりと壁掛けの姿見に目をやった。肩口のあたりで切りそろえた黒い髪が、首を傾げる仕草と同時にぱさりとゆれた。切れ長の目は自分の臆病な性格とは裏腹に、冷たげで、酷薄な色を湛えているような気がしていた。
「わたし、小説なんて書いたことないわよ。それでもいいの?」
「それは引き受けてくれるってこと?」
「まだそう言っているわけじゃ」
「ううん、別に向こうもそんな大層な名作を期待しているわけじゃないんだから。でもありがとう。必ず御礼はするわ。じゃあ、月末までにお願いね」
「あ、ちょ、馬鹿っ、待ちなさいよ」
露は早口で捲し立てた挙句、さっさと電話を切ってしまった。これは確信犯だと思った。
わたしは近くに寄ってきた綺色を撫でながら、途方にくれた。その日一日仕事にならなかった。聞きなれない名前の出版社から正式な依頼のメールがあったのは、夕ご飯を食べたあとだった。
わたしは夫が寝たあとに、ひとり仕事部屋にこもって、インターネットの小説を読みあさっていた。ネットの海のその中に、真珠のごとく光るものが、……ううん、そこまでいかなくとも何か参考になるものがあるかもしれない、と思ったのだ。
わたしの仕事部屋はこぢんまりとしていた。油断するとあっという間に物で溢れかえるから、手紙やプリントアウトした書類などはすぐに仕分けをして、棚に整理をするようにしていた。それでも気がつくと机の上が煩雑になってしまっている。床の上に付箋のついた参考資料が積み重なっていることもしばしばだった。元来整理整頓は苦手なたちである。
レズビアンのための小説を、と思って検索をかけたのだけれど、出てくる大半はなぜか〝百合〟というタグ付けがされていた。
しかし百合という言葉にも馴染みがなく、それがレズビアンを指している隠語なのかどうかもよくわからなかった。淡い、女性同士の友情の延長線上にあるような、同性愛を詠った小説……というわけでもないらしい。そのあたりの線引きが、いまいちはっきりしない。妹に訊いてみればいいのだろうが、それもなんとなく癪だった。
けれどネットの小説を流し読みするうちに、わたしはその世界に少しずつはまっていた。
わたしにはあまり馴染みのない、女性同士の恋愛話のはずなのに、なぜか不思議と心惹かれるものがあった。
その中でもひときわ異彩を放っていたのは「雨」という短編小説だった。作者の名前は
百合、ガールズラブとタグ付けされたその小説は、舞台の主演女優を好きになってしまった照明スタッフの女の子の、切ない失恋話だった。特にしっとりとした心理描写が印象的で、読んでいるうちに自然と心が震えた。
登場人物が明るい会話を交わしていても、暗い情念のようなものが文章の底に透けて見えた。またゲネプロやホリゾントなどという一般の人にはあまり馴染みのない用語が出てくるのは、あるいは芝居の関係者なのかもしれない。そのことが余計にわたしの琴線に触れた。小説を書くのなら、わたしもこんな物語を綴ってみたい。素直にそう思った。
ただ、気になる点が幾つかあった。
その一つは誤字の多さだった。
例えば〝舞台〟が〝部隊〟になり、〝平気〟が〝兵器〟になっていた。見直せばすぐにわかりそうなものなのに、と思うと少し残念な気持ちになった。こんなに優れた小説が書けて、どうして校正の部分だけがおろそかになってしまうのだろう。わたしにはそれが不思議でならなかった。
もしかしたら作者はミリタリーオタクの人で、それで間違えてしまったのだろうか。でも、そんなこと、あるのだろうか。
おせっかいかな、とは思ったのだけれど、彼……あるいは彼女の小説の感想欄に誤字の指摘をメールで送った。驚いたことにすぐにレスがあり、「ありがとうございます。すぐに直します」と、そっけない一文が戻ってきた。わたしはその短すぎる文章を何度か読み返して、やっぱり作者は男の人だったのかな、と思った。
ともあれネットの小説は面白くはあったけれど、自分自身が書く上でどう参考にしていいのか、わからなかった。しかし全く収穫がなかったわけではなかった。ううん、彼の小説を読めたのは大きな収穫だったと言えよう。だから、と言うわけではないが、わたしは彼の短編小説のタイトルから小説を書く際の自分の筆名を〝雨〟とすることにした。霞という字の部首は雨冠でもあるのだし。そう自分自身に言い訳までして。その字を中国語風にユィと読ませたのは、本当にただの気まぐれだった。
霞から、
それがこの新しい世界における、わたしの名前になった。
結局頼まれた小説は、妹が失恋したときの話を、名前を変えて少し誇張して書いてみたのだけれど、あまり評判は良くなかったようで、再びわたしのところに執筆の依頼がくることはなかった。妹は雑誌に載った小説を見て、昔の話を蒸し返してどういうつもりなの、信じられない、と電話口で怒っていた。
わたしは何も言い返さずに黙っていた。わたしの……雨としての最初の小説は、こんな風にして生まれたのである。
以来わたしは百合の小説を書く楽しみを覚え、雨の名義で少しずつ、彼が作品を掲載している小説投稿サイトにアップするようになった。文章に携わる仕事をしていてもこちらは純然たる趣味であり、無聊の慰めといった程度のものだった。第一お金にならない。とあることが原因で夫とわたしはすでにセックスレスの関係だったが、なぜだろう、女性同士の淡い恋愛には、不思議と情感を込めることができた。
あるいはそれは、妹の奔放な恋愛を見ていたからかもしれない。
露には特定の恋人がいないらしく、デートの相手の名前を聞くといつも違った名前が返ってきた。それが羨ましいとは思わないが、わたしとは違った生き方をしている妹が少し眩しく見えていたのは確かだった。
くだんの夕紀さんとは、時折パソコンでメッセージの遣り取りをする仲になっていた。わたしの書いた拙い小説にも感想を寄せてくれた。短いながらも、それは的確で温かく、慈しみ深い感想だった。読んでいると自分の知らない内面にまで気付かされた。そして夕紀さんのメッセージをいつしか心待ちにしている自分を発見して、わたしはこれも不倫になるのだろうか、と考えた。肉体を伴わない精神だけの不倫。姿もわからない相手との、秘密のやりとり。それは罪なのだろうか。わたしは罪人なのだろうか。
相変わらず、夕紀さんの小説には誤字が多かった。わたしはその都度彼の間違いを指摘した。彼は、毎回ですみません、と言いながら、素早く誤字を手直しする。反対にわたしは書き終えたあとになってあれこれ文章をいじるものだから、脱字が多く、それを夕紀さんに指摘されることがしばしばあった。
小説を書くのは、存外楽しい。それは翻訳作業とも演劇のルポルタージュとも違っていた。その楽しさの奥に潜んでいるのが、彼との心の交流……よりももっと深い何かを含んでいることに、わたしは薄々気づいていた。小説を通して出会った顔のない友人にいつしか惹かれていた。それを自覚しないわけにはいかなかった。
一年くらい経った四月のある夜のこと。小さな音で、ダニエル・バレンボイムのピアノ演奏曲集を聴きながら仕事をしていると、こちらも雨の名義で始めたツイッターに、ダイレクトメッセージの通知があった。
夕紀さんから、だった。
《こんばんは。今、大丈夫ですか。》
彼からこんな風にメッセージが入るのは珍しい。
小説投稿サイトがツイッターと連動していたので、わたしも彼に倣って始めたのだが……何を呟いていいのかもわからなくて、自分自身のことをツイートすることはほとんどなかった。もっぱらダイレクトメッセージを使用して、夕紀さんとの誤字脱字の遣り取りばかりに終始していたように思う。わたしがフォローしているのは夕紀さんだけだった。だから他の人がどんな呟きをしているのかなんてさほど気になどしていなかった。既読かどうかがわかるので、小説サイトのメッセージ機能よりも便利だったというだけのことだ。
時計を見る。耳をすませてみる。物音はしない。寝室にいる夫はもう、眠りの底に着いた頃だろう。
《ええ、大丈夫ですよー。そういえばこの前続きをアップされていた小説の誤字、あれも壮絶でしたね(笑)〝蝶々〟が〝超著〟って。ちゃんと見返さないと駄目ですよ?》
わたしがパソコンから彼のツイッターのアカウントにメッセージを送ると、すぐに既読がついた。
けれど次のメッセージがなかなか届かない。わたしの背後ではバレンボイムが甘く、しなやかなピアノを奏でている。カーテンの隙間から窓の外をちらりと見ると、夜の帳が厚いベールのように、空を覆っている。夕紀さんはここ最近、ずっと、学園ものの小説を書いていた。とある秘密を抱えた少女が、進学した女子校で寮生活をするうちにルームメイトでもあるイギリス人のハーフの先輩に惹かれ、やがてゆっくりと心を開いていく。……そんな話だった。
《雨さんの小説って、看護師さんが出てくることが多いですよね。もしかして、雨さんもナースさん、ですか。》
どのくらい時間が経ったのだろうか。そんなメッセージが、不意に届いた。
返信が遅かったから、もしかして彼の気を悪くさせてしまったのだろうかと、少し気を揉んでいたところだった。でも。
……この質問に対してどう答えるべきなのだろう。わたしは画面を見つめながら、静かに考えた。わたしの小説に看護師の登場が多いのは、単に妹をモチーフにしているからだ。わたし自身に女性とお付き合いするような要素がなかったから、というのもあるが、露の身の上に起きたことをあれこれと脚色し、またときには空想しながら書いているのが楽しかった。ただ、それだけだった。
でもそんなことを書いてしまったら。わたしが夫の経済力に頼らなければ生きていけない、ただの売れない翻訳家なのだと知られてしまったら。
夕紀さんはわたしに失望するかもしれない。
それにわたしの中には、妹に無断で彼女のことを小説にしている罪悪感があった。それら全てをつまびらかにするのはなんとなく嫌だった。だから。
《そうですよ。それがどうかしました?》
そう、返事をしてしまった。
《看護師の雨さんにだから、正直に言いますけど。》
彼からすぐに、そんなメッセージが届く。
《わたし、目が見えないんです。わたしの目は光を感じることくらいしかできません。》
「え?」
思わず、声が出てしまった。
目が、見えない?
それは、どういうことなのだろう。
《執筆するときは読み上げソフトを使って書いているんです。誤字がないように何度も読み返してはいるんですけど、それも完璧ではなくて。変な誤字が多いのはそのせいです。ごめんなさい。》
最初、冗談かと思った。
目の見えない人が小説を書けるなんて、思わなかったから。それも、こんなにも色彩豊かな小説が書けるなんて。
わたしは知らず知らずのうちに自分の胸の上に手を当てていた。心臓が、胸の内側からわたしの白い胸骨を叩き続けていた。
《ただ、わたしがこんなことを言ったからって、同情はしないでください。それに雨さんにいつも誤字を指摘していただいて、本当に嬉しく思っていますから。》
彼は、わたしが看護師だと知って、打ち明ける気になったのだろうか。もしもそうなら、わたしは彼に対してひどい仕打ちをしてしまったことになる。嘘をついてしまった。そう思うと胸が痛んだ。なんと返事をしていいのかわからなかった。
小さく開けた部屋の入り口の隙間から、綺色が顔をのぞかせる。その名の由来である綺麗な蒼い目を光らせ、低い声で鳴いて、ご飯をねだっている。
わたしが綺色に餌をあげて戻ってくると、夕紀さんからもう一通、メッセージが入っていた。
《一度お会いすることはできませんか。》
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