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月庭一花

 それでもごくたまに、夢の中にふっとあの子の影がさして、涙が止まらなくなってしまうことがある。目覚めてからも前後不覚に陥って何も手につかず、ただ、泣き続けているようなことが。

 きっかけはいつも、思い出の中の〝何か〟だった。

 例えばそれはアスファルトの表面を引っ掻くような、小さな乾いた音を聞いたとき。あるいは土砂降りの雨が街を覆うのを見たとき。燃えるような朝焼けの空、南国の黒い鳥の声、桃の匂い、藤の匂い、あの子の好きだったアールグレイの紅茶の香り。一緒に行ったお店のモヒートの味が、舌の上でよみがえるとき。

 わたしは不意に思い出してしまう。明け方の夢の中でも。あの子との淡い、切ない日々のことを。

 わたしが夢から覚めてベッドの中で泣いていると、つゆはいつも眠たげな目をこすりながら、優しく髪を撫でてくれた。馬鹿ね、と。乾いた苦笑を唇の端に浮かべて。

 わたしの涙が、わたしの泣き言が、露を傷つけているのは百も承知だった。露に甘えているだけなのも重々わかっていた。それでも涙はあとからあとから溢れてきて、止めようがなかった。人前で滅多に泣くことのない露はそんなわたしをじっと、静かに見つめていた。

 朝。窓の外では静かに雨が降っていた。

 しとしとと降る、やわらかな、音のない雨だった。


 ——わたし、二十歳になるまでに死んでしまうと思うんです。


 そう、それがあの子の口癖だった。そんなことを平気で口にするような子だった。

 泣いていると体の中の酸素が薄くなって、指先が痺れてくる。露がわたしの手を強く握っている。露もわたしの視線を追うように、窓の外を見ている。

 アパートの一階の濡れたガラス窓の向こう側で、紫陽花が濃い紫色の花を咲かせていた。緑色の硬そうな葉の上に、雨粒が丸く、真珠のように光っている。

 わたしに左手でそっとテッシュの箱を差し出しながら、露があくびをした。

「お腹が空いたわ。マック行こうよ」

「……朝から? あなたの胃が欲しているのはマクドナルドのハンバーガーなの?」

「だって、エッグマックマフィンが食べたいんだもの」

 わたしが鼻をすすりあげると、露がそれに、と言いながら、くすりと笑った。軽くわたしの指先を握った。

かすみが泣くの、久しぶりだったけど。小一時間も泣いたらさすがにお腹空いたでしょ?」

「……うん」

 なら顔を洗ってらっしゃいよ。

 そう言って手をほどき、露は自分の目をこすった。確かに、そろそろ泣き止まなければならなかった。

 夫との生活を捨て、転がり込んだ露のアパートは、千住の商店街の少し外れにあった。そこは戦争でも焼けなかった辺りで、昔からの細い路地が、まるでわたしを手招きするかのように、暗く、怪しく伸びていた。

 わたしたちは骨の多い、大きめの傘の中で寄り添うようにしながら、アーケードまで歩いた。駅前の大通りには陽気なJポップが流れていた。人通りも多い。足元には薄汚れた黄色い点字ブロックが、駅までまっすぐに続いている。

 アーケードの庇の下で傘をたたむと、雨の滴が濡れた歩道の上にぽたりと落ちた。朝の涙を思い出しはしたけれど、もう、泣きはしなかった。

 駅前のマクドナルドは平日の朝なのに、ううん、それとも平日の朝だからだろうか、思ったよりも人が多かった。サラリーマンのスーツからは湿気った雨の匂いが強く香っていた。なんとなくその匂いのせいで店内では飲食する気になれず、そのままテイクアウトした。

 来た道を戻るようにアーケードを抜ける。露が濡れた傘を再び開く。

 もし、晴れていたら。

 二人並んで、一つの傘に収まることなんてなかった。こんなに近い距離で、露を感じることはなかった。傘の中、ちらりと隣を歩く露の様子を伺うと、彼女は何も言わずに、眠そうな横顔をわたしに向けているだけだった。

 露は昨日、……というよりも日付が変わった夜遅くに、仕事から帰ってきた。遅い時間に入院はあるし、まったく、準夜の次の休みなんて休みのうちに入らないわよ。そう愚痴りながら。雨の気配を引き連れて。同じく部屋で夜遅くまで仕事のメールをしていたわたしは、ご苦労さま、と露を迎え入れ、彼女を慰めた。

 気怠い、とろとろとした粥のような眠りのその果てに、あの子が現れた。きっかけは、多分、露が使い始めた桃の匂いのするボディークリームだった。露とわたしの肌と肌が触れたとき。もっと早くに気付くべきだった。

 夢の中で、久しぶりにあの子の切なげな表情を見ただけで、胸が震えた。あのときと同じ、ゴシック趣味の、喪服のような出で立ちをしていた。ピンクブラウンに染めた短い髪が、朝まだきの血のような光に染まっていた。

 ……わたしはちゃんと知っていた。これは夢だと。もう、あの子はどこにもいないのだと。

 だから、並んで座っていても、抱きしめたときにも、声が、言葉が出なかった。

 なんて声をかけたらよかったのだろう。

 露が宿場町通りから急に脇道に逸れたので、わたしは慌てて彼女の傘を追った。ちらりと振り返った露の横顔には、寂しそうな憐憫の気配が貼り付いていた。わたしを見て、でも、露は何も言わなかった。わたしも何も言わず、彼女の傘の中に、そっと身を添うた。手にしたマックの袋が、かさかさと音を立てた。

 少し歩いて左手に曲がり、さらに進んでいく。いったいどこに向かうつもりだろう。誰も歩いていない。犬の散歩をしている人も、通勤途中の人の姿も、見えない。遠くの方でクラクションの音がかすかに聞こえる。まるで不吉を告げる、黒い馬のいななきのように。

 ふと見ると、右前方に小さな神社の境内が見えた。大黒天を祀ってある古い社の横には立派な公孫樹いちょうの木が高くそびえていた。露は無言のまま、神社の鳥居をくぐり、敷地に入っていく。

 桜、梅、藤……。

 見上げると雨に濡れた葉が、青々としている。本殿の前には夏越の茅の輪があった。それを見て、もう夏になるのかと思った。また、夏になるのかと、思った。

 露が藤棚の下に置かれた銀色の簡易ベンチに座った。表面をさっと手でぬぐっただけでまだ雨に濡れていたけれど、別段気にも留めていなかった。誰かが忘れていった水色のゴムボールが、ベンチの足元の陰に転がっている。

「服が濡れるわ」

 わたしが言うと、

「別に構わないから。座って」

 露が傘を閉じ、やわらかな、抑揚のない声で答えた。恐る恐る腰を下ろすと案の定お尻がひやりとした。

 紙袋から自分のマフィンを取り出して、露がわたしにも同じものを差し出した。

 わたしはアイスコーヒーにガムシロップを二つ入れながら、それを受け取った。マフィンはまだほんのりと温かい。露がブラックのアイスコーヒーにストローを挿し、少しだけ啜る。喉を滑り落ちていくその音が、わたしの耳にはっきりと聞こえた。

 朝の境内はとても静かで。

 その静けさが、なぜだろう、悲しくなるほど怖かった。

「何か言ってよ」

 わたしは小さな声で言った。

「何かって?」

「何かよ」

 露がくすくすと笑う。

 わたしは彼女の囀るような笑い声を聞きながら、そっと目を閉じた。雨の雫がわたしの手と頬に当たった。

 一ヶ月前なら。

 頭上に藤の花が咲いていただろうか。

 本物の藤の花は、どんな匂いをさせただろう。とろりと空気に溶けていくように、甘い匂いを降らせただろうか。

 わたしは目を閉じたまま鼻から息を吸い込んでみた。雨と朝とが折り重なった生活感のない匂いと、マックのコーヒーの匂いが香っただけだった。

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