メンダコ1/4

ささやか

メンダコ1/4

  教室と海中はよく似ている。


 黒板に残った乱雑な文字を消しながら、免田小海はそんなことを思った。教室には潮のように流れる空気がある。生徒たちはその中で上手く呼吸をしていかなければならない。もしも流れに乗って呼吸できなかったら一大事だ。そんな子は教室の底で息もできずに溺れるしかない。


 きっと小海はそんな子だった。4分の1だけ呼吸ができない子だった。だから教室の隅でひっそりと、けれど必死に呼吸に努める。そうしないと生きていけないから。


 教室ではクラスメイトが束の間の自由を謳歌していた。小海は背を向けて、ただ日直の務めをこなしていた。


「そういえばさ」


 教室の中央いる仲良し女子グループ。そのうちのひとりが思い出したように小海を一瞥する。小海はそれに気づかないふりをして、黒板消しにクリーナーをかけた。うるさい駆動音で、後に続く言葉が聞こえませんようにと小海は祈った。もちろんその祈りは叶わなかった。彼女の声は小海の耳にはっきりと届いた。


「……あの子なんだか変じゃない?」

「あー、なんか、母方のおじーちゃんがメンダコらしいよー」

「えっ」


 返ってきた答えに彼女は小海を二度見してしまう。そうだ、小海は変だった。だって彼女の顔には祖父の血が色濃く受け継がれていたから。少なくとも中学生の彼女らは変としか言い表せなかった。


「へー、そうなんだー。なるほどねー……」

「まー、悪い子じゃないけどちょっとねー」

「だよねー」


 彼女たちは曖昧な否定を口にしてから何事もなかったかのように次の話題に移る。


 なるべく気にしないように努めても小海のやわらかな心に安易な釣り針は突き刺さる。釣り針はしばらく抜けそうになかった。胸から流れる鮮血は、海流に乗ってそのままぼやけて消えていく。だから誰もその痛みに気づかなかった。





 ふつう。


 今、ここにあるのはふつうの家庭だ。テレビを観ながら三人で囲む食卓は団欒と言ってよかった。


 画面のなかではレポーターが楽しそうに水族館の催しを報じている。

 小海はぼんやりとそれを観ながら、水族館に行ったときのことを思い出した。彼女の小学校では、学習の一環として四年生になると近くの水族館に行くことになっていたのだ。


 水族館にはたくさんの生物が囚われていた。水槽を泳ぐ魚たちは美しいとも言えたし、哀れとも言えた。人間とは異なることを理由に見世物にされる彼らの生涯を、小海はクラスの群れから外れたところで静かに眺めていた。


「おい、あれ、免田じゃん」

「ほんとだ。免田小海いるし」


 クラスでも騒がしい男子が水槽の奥にいたタコを指さすと、隣にいた男子もそれに追従する。彼らは小海に視線をやった後、幼さ特有の酷薄さで笑う。


「免田ってきもいよなー」

「表情ないしなー」


 小海は何か言うべきだった。きっと怒るべきだった。けれども彼女の口が開くことはなかった。水槽を泳ぐ見世物たちのように、ただ観賞の視線に耐えた。

 昔からみんなと違うことは知っていた。けれども、あんなにもハッキリと違うを突き刺されたのはあれがはじめてだった。


「――小海、今日の学校どうだった?」


 母親の問いに、テレビから視線を外す。母親の頭髪にはメンダコの特徴が現れ、触手状になっている。でも、それだけだ。どうして、はずっと心の奥底で問い続け、とうの昔に擦り減っていた。だから小海は母親のふつうの質問に笑顔で答える。


「ふつうだよ」


 ふつう。


 ふつうでないことは決して不幸であることを意味しない。けれどもそのありふれた評価は、どこまでも平凡にひとりの少女を海底へと沈めていった。







 今日の日直は小海だった。

 日直は男女ペアでするのがクラスの決まりごとだ。男子の日直は深見くんだった。彼はクラスでも活発な男子で、そういうタイプなありがちなことに、日直なんて細々とした仕事を真面目にやりたがろうとはしなかった。


 だから黒板を消したり観葉植物に水やりしたりするのは全て小海がしなくてはいけなかった。彼女だってこんな仕事はひとりで全部するのは嫌だったけれども、深見くんに注意するのはそれ以上に嫌だったし、そもそもそんなことできなかった。


 そうやって全部ひとりで抱えこんで、小海は放課後までがんばった。残った仕事は学級日誌を書くだけだ。誰もいない教室で淡々と項目をうめていく。


 最後に今日の感想を書けば終わるというところで、小海のペンは止まってしまった。ふと顔をあげて教室を見回す。そこは海底だった。彼女以外誰もいない冷ややかな世界だった。


 いったい何を書けばいいのだろう。小海は嘲う。感想なんて何もなかった。


 それから秒針がぐるりと一周した頃、教室の引き戸が開いた。


「わるい、日直ってこと忘れてた」


 それは深見くんだった。深見くんが教室に戻ってきたのだ。彼は一直線に小海のもとまでやってきた。


「ちょくちょく思い出してたんだけど、結局何もしなかったな。ごめん、もう終わった?」

「あと日誌の感想書くだけ」

「んじゃー、それ俺が書くわ」


 ペン貸して、と差し出された手に持っていたシャープペンシルを渡す。深見くんは小海の机におおいかぶさるようにして、今日の感想を書いていった。


「よし、できた」


 ほどなくして深見くんが書き終わる。


 確認すると日誌には、『日直忘れてて全然仕事しませんでした。免田さんに悪いと思いました。次はちゃんとやろうと思います。』と実にふつうな感想が書かれていた。


 深見くんの字は少し乱雑で、小海の薄くて小さな字と対照的だった。その違いをなんとなしに見ていると、深見くんが気まずそうに尋ねる。


「なあ、もしかして怒ってる?」

「そんなことないけど」


 ただちょっと割り切れないだけだ。小海が否定すると、深見くんはほっとしたように笑った。


「ならよかった。免田っていっつも無表情だから。俺なんか何考えてるかわかんなくって」


 その何気ない感想は、小海の胸ずっと残っている釣り針を強くひっぱった。やわらかな傷口が広がり、また血が流れる。


 何度も味わったその痛みに小海はようやく口を開く。


「……無表情に見えるかもしれないけど、わたしだって色々思ったり感じたりするんだよ」


 メンダコの顔は表情が出にくいから無表情だと思われてもしかたない。わかっている。だけどそう自分に説明しても受け入れきれなかった。どうして自分は他の人と違うのだろう。感想欄がうまっても彼女の空欄はうまらない。だからこそ彼女の表明はか細く震えて頼りなかった。


「じゃあわかった」


 深見くんは軽い調子でうなずく。


「俺、これから免田のことちゃんと見てるよ。それならお前が何思ってるかわかようになるだろ」


 それはきっと彼にとってなんでもない一言だった。それでもその言葉は教室の底で静かにもがく小海を水面へ引き上げてくれた。

 水面が破れる。またすぐに沈んでしまうとしても、これまでよりは上手く呼吸できる。そう思えた。


「ねえ、わたしも感想書いていいかな?」


 返事を待たずに一言だけしたためる。今なら空欄だって4分の1くらいはうまる気がした。


「できた」


 これを深見くんに見せるのはどうも気恥ずかしかった。小海はそのまま学級日誌を閉じて立ち上がる。


「先生に出してくる」


「一緒に行こうぜ。んで、そのまま帰ろう」

「うん」


 深見くんのありふれた提案で、二人は並んで歩く。海底でもなんでもないただの廊下を並んで歩く。それがまるでふつうであるかのように。


『ありがとう。』


 胸にあった釣り針は、きっともう外れていた。



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