夢がこぼれてくる
何の変哲もない一日だったのである。いつも通りの時刻に起きて、いつも通りの時刻に会社に着き、いつも通りの時刻に帰ってきた。業務の内容もいつもと変わらぬ単調な書類仕事である。いつも通り、昼に一時間の休憩を挟み八時間働いて、タイムカードを切った。
けれども帰り道雑踏に揉まれながら歩いていると、いつも通りのはずの風景にどうしてか私は違和感を覚えた。そのせいだろうか、私は歩いている途中いつもよりも周囲の風景に気を配った。どうにも神経が過敏になっていたようである。しかしながら大きな変化は何もなかったように思えた。街路樹の木立は相も変わらず、半端についた葉っぱを風に揺らしていたし、道行く人たちも全く持って大人しく、何一つ異常はない。
だが、安堵する気にはなれなかった。依然として不安は残り続け、むしろ雑踏を縫うように歩いているうちにますます増大してきた。焦燥の楔のようなものが脳裏に深々と刺さって、絶えず私に不快感を与えていた。私はいますぐこの場から飛び出して、どこか遠くへ逃げ去ってしまいたいような、そんな衝動に襲われた。しかしそんなことをするわけにはいかない。それではまるで狂人である。都会のプラットフォームには、人口の多さのためか、それとも他の要因のためか、狂人が度々発生する。私はこれまでに何度も、すっかり理性を失ってしまい、支離滅裂な内容を大声で叫びながらプラットフォームを練り歩く、狂人たちを目の当たりにしていた。こういった時大抵周囲の常人たちは、皆一様に無表情の仮面で武装し、彼らに対し冷ややかな目線を注ぐのである。あのあまりにも自然な軽蔑の込められた視線が、一斉に自分に向けられると思うと、私はゾッとした。私は必死で理性の力を働かせ、自分の情動を抑えつけ、群衆の中に静かに溶け込んだ。
落ち着かぬ気持ちを反映してか、どうにも視線が泳ぐ。階段を歩いている時もそうで、私は壁に設置された広告一つ一つに、目まぐるしくピントを合わせた。どれもこれも変哲のないものである。駅前に近頃建てられた、ラーメン屋のポスター、服飾ブランドのポスター、アミューズメント施設のポスター、などなど様々なものがあったが、何か特に、強烈な違和感のタネになるようなものは一つもない。
しかし、私は階段を下り終えたあとで、あることに気づいた。街並みの雑駁を象徴するかのようなポスター群の中から、痴漢に対する注意を喚起するものがなくなっていたのだ。デザインの差し替えはよくあることだったが、痴漢・スリについてのポスターはどんな時も基本的に、一枚は設置してあるのだ。私はもう7年以上この駅を使用していたが、こんなことは初めてだった。
これが発端となり、私は他にも、様々な掲示物が無くなっていることに気づいた。「テロ対策強化!不審物を見つけたら駅員へ!」、「過労死注意」、「自殺防止のためのホットライン」、何か死や、破壊、犯罪の臭いを感じさせるポスターがことごとく消えていた。
違和感のタネはここにあったのだろうか。私は考えてみたが、どうにも違うような気がした。それに今度は、新しい疑問が湧き上がってくる。どうしてこれらのポスターは、全て取り払われてしまったのか。どれもこれも重要な社会問題に関わるもののはずである。単なる偶然ではないのだろう、何か私の知らない力がどこかではたらいているのだ。そう考えるとますます、私の焦燥の熱は激しいものとなってきた。
いてもたってもいられないような気分で、私はホームの列に並んだ。地下の空気はひんやりと湿っていたが、私は妙に汗をかいた。鼻の上に汗の玉が何度も何度も浮かび上がり、拭っても拭ってもまるでキリがないのである。
早く電車が来てくれることを祈った。何か変化のきっかけが欲しかった。電車に乗れば景色が変わる。速度に流され体を揺らされる。何か激しいものや動的なもの、それを私は望んでいた気がする。
焦りのせいか時間は薄く引き伸ばされ、寸刻がとてつもなく長い時間に思えた。何度も何度も駅に備え付けられた時計を見上げるが、中々時刻は変化してくれない。こんなにも一分、二分が長く感じられたことはこれまでなかった。一日千秋とはよく言ったものである。気の持ちようで時間の幅というものはこんなにも変わってしまうのだ。裁判所で判決が下されるのを待つ被告人など、こんな心持をしているのかもしれない。
それでもじっと、肉体を駆け巡る欲望の奔流を押し殺していると、遂にアナウンスが流れた。電車がまもなくやってくることを告げるものだった。私はその刹那、晴れ晴れとした解放感を覚え、飛び跳ねてしまいそうになった。私は流行る心を必死で抑えつけ、首を捻じ曲げ電車のやってくる方向を凝視した。すると闇の中から、二筋の光線がプラットフォームを照らした。速度を纏って、鉄の塊が風を運んでくる。とうとう列車が来たのだ。胸が砕けてしまいそうなくらい、大きく心音が高鳴る。じわりと両の掌に、ぬるい脂汗が滲む。
しかし、その時だった。私の前に並んでいたのっぽの青年が、突然走行する列車目がけて跳ねた。あっ、と乾いた声が洩れるも、もう遅い。黒髪、黒のダウンジャケットに黒のズボン、全身没個性的な黒で固めた塊が、血飛沫を撒き散らす。
何か安っぽいくらいに血が噴き出た。B級のホラー映画のゴアシーンのように、現実感がまるで感じられない。私はこれが人の死とは、とても思えなかった。むしろ何か気持ちが冷めていくような気がした。私の心を苛んでいたあの激しい焦燥もまた、水のように静まり返ってしまった。
「パシャリ」と、後背からシャッター音がした。振り返ってみると、一人の女子高生が目を見開いて、スマートフォンのカメラで、目の前の血飛沫を撮影していた。長方形の右上に備え付けられた、電子の瞳と目が合った途端、私は自分の意識が大きく揺らぐのを感じた。
目覚めると、私は自室のベッドの上に横たわっていた。枕元に設置した目覚まし時計が、けたたましい音を立てている。私はすぐに時計を止めた。
目覚まし時計の長針は、六時を差していた。外を見てみると、その光は淡い。朝のものなのである。この時ようやく私は、先程までの体験が夢の中の出来事だったことに気づいた。
「あれは……夢だったのか?」
私は疑問に思った。夢にしてはどうにも、真に迫り過ぎていた。極めて白昼夢的だった。思い返してみると私は、あの世界で視覚や聴覚だけでなく、味覚や嗅覚などもちゃんと働いていたような気がするのだ。私は昼食を会社の食堂で食べたが、あの時啜った味噌汁は、確かにいつもより塩気が強かった。そう思ったことを、私はちゃんと覚えていた。夢だったならば、これほどにも正確に味覚が機能するだろうか?
そもそもこんなにもはっきりと夢の中の光景を思い出せること自体、異常じゃないかとも思った。通常の場合、夢の世界で把握したものは、目覚めた途端に掌をすり抜け忘却の彼方へと消えてしまう。左脳の皺に留まってくれるのは、ごく一部、小さな切れ端だけなのである。しかし今回は違う。実際にあった出来事のようによく思い出せる。確かにあの夢には、現実と寸分たがわぬ細部の精巧さがあった。脳の記憶の整理の途中でこぼれた、残滓を見せつけられているわけではなかったように思えるのだ。
もやもやとした感情の欠片は、布地に固着した黒いしみのようになって、容易に私の脳裏から消えてくれない。しかし、私はあまりダラダラと、あの白昼夢についての思考を続けるわけにもいかなった。理由は単純で、退屈なものである。今日も私は職場に行かなくてはならなかった。
いつにも増して、その日の出社の準備は気だるかった。もうすでに、夢の中で働いてきたのだ。あの退屈で変わり映えのしない業務を、まるで機械のように無機的に処理し、休息への期待を抱いて帰途に就く途中だったのだ。全くイヤな夢である。通常の夢ならば、夢の世界で覚える情動は虚妄であり実体はない。夢の中でどれだけヒドイ目に遭おうが、目覚めれば残るのは安堵だけ。しかし今回のパターンは、どうにも尾を引く。あまりにもあの夢は現実味があり過ぎた。こう考えるとどうにも夢の美質とは、根無し草であることらしい。毒にも薬にもならない、現実と比べ内容空疎な虚構であるからこそ、私たちは普段夢に怯えたりしない。だというのに、あんなものを見せられては、いや、見るというより体験させられては、いやらしいったらない。現実そっくりの夢など、現実に苦役を多々抱える者にとっては悪夢に過ぎないのである。
それでも、社会の歯車であるサラリーマンの自由というものは、事実上大きく制限されている。例えば時間や予定、仕事に縛られている。私はコーヒーを淹れつつ、トーストを二枚焼き、それを朝食とした。簡易的なものだが、時間がないのだから仕方がない。八時半には会社に着いていないといけない。家から会社までは約40分ほどかかる。時間を空費しているゆとりはないのである。
私はトーストを齧りながら、ふと思い出しテレビを点けた。朝だから面白い番組など少ないが、音と光がないとわびしくてつらいのだ。心の中のモノトーンの閑散が、一層度合いを増していくような心持がする。私はテーブルの上に無造作に置かれたリモコンを掴み、無造作に電源ボタンを押した。四角い画面に、ニュース番組が映し出された。
番組は今日封切りになるという、大衆映画についての宣伝を行っていた。内容は、近頃にしては珍しくSFものらしかった。私はSFは嫌いではない。その上監督も、私がその実力を買っている人物だった。
映画を見に行くのもいいかもしれない。今は繫忙期でもない。おそらく残業はないだろう。仕事が終わったら、きっとこの映画を見に行こう。私はそう予定を立てた。のちのち思い返してみると、これは出社の気だるさを少しでも軽減するための、適応機制のはたらきによるものだったのだろう。自分で自分の鼻の先に、娯楽の人参をぶら下げたというわけだ。
本当にイヤだったが、私は出社した。業務も真面目にこなした。責任というものは何と優れた錨なのだろうと、思わないこともない。賃金だけではない、職場の人間関係や、心身に染みついた習慣、様々なしがらみが幾重にも巻き付いている。実際私は、今日だけで二度も職場に引きずり出された。あんなにも億劫だったというのに。
私の職場はいつも音響に欠けていた。平坦な時計の音と、キーボードを叩く音が途切れることなく反復されるばかりである。静寂と何ら変わりはない。いや、もしかすると静寂よりも退屈なのかもしれない。あのモノトーナスなリズムはどうにも無機的すぎる。だからだろうか、私は職場で誰か他の人物が会話をしていると、自然と聞き耳を立ててしまう習慣があった。今日もそうだった。狭い事務室の片隅で先輩の社員が、小休止も兼ね二人で世間話をしていた。
「そう言えばさ、聞いたかい。隣の部署でまた、自殺者が出たんだってさ」
「またかい。いったいまたどうして?都市の孤独ってヤツのせいかね」
「詳しくは分からないが、それもあるんだろうね。しかしここ最近は、例年と比べても多いらしいぜ。どいつもこいつも、何が気にくわないんだろうねえ」
「そりゃあ、気にくわないことなんでいくらでもあるだろう」
「まあそうだろうけど、最近はちょっと異常だね」
「ふむ、そうだな。案外天候とかのせいかもしれないぜ」
「天候?」
「オレが雪国生まれなのは知ってるだろ。雪国では、冬の自殺者が増えるんだ。日照時間の少なさのせいなんだってね。確かにあの陰鬱な雰囲気はどうしようもない。それにここ最近、この街も似たようなものだろ」
「そうだな、言われてみればもう一か月くらいずっと、小雨日和だ。いつも曇り空で、空は薄暗い。晴れることは全然なかったな」
私は彼らの会話を興味深く感じていたのだが、そのあたりで会話は途切れてしまった。彼らの片方が、室長からの呼び出しを受けたのである。
それにしてもどこか引っかかるところのある会話だった。自殺、この一言がやけに気になるのである。理由は推測がつく。昨日見たあの夢が、自殺のシーンで幕を閉じたからだろう。
自殺と天気の相関。言われてみれば今日の朝も雨だった。駅を歩いている際、目の前を歩いていた太っちょの女性が、雨に濡れた床に滑りしりもちをついていた。あの光景はただ滑稽なだけで自殺とは何もつながりがないだろう。対して、あの時の夢の中の天気はどうだったろうか。確か、晴れていた気がする。雲一つないピーカンだったはずだ。歩いている途中に、陽光を反射し真っ白に輝いている噴水の水を私は見かけていた。曇天ではああはならない。噴水の水は湿っぽい曇天の灰色に染まってしまうはずである。
晴れ空と曇天、その対比に何か意味は込められているのだろうか。単に晴れ間が見たいという私の隠れた願望が、夢に反映されただけなのかもしれない。しかしあの現実と酷似した夢で、天候だけ違うというのも、何か意味ありげな気がしてならない。天候以外でも、夢と現実との違いはあった。ポスターの有無である。今朝出社する途中駅を利用した際は、夢とは違い、痴漢、テロ、過労死、自殺、全てのポスターがちゃんと掲示されていた。念入りに目を凝らし確認したのだ。間違いはない。
天候とポスター、この二つの共通点について、私はしばし考えてみた。一つ言えるとするならば、それは「自殺」である。一応どちらも自殺に関わる符号だ。だが、だからどうしたというのか。一貫した結論はとても導き出せそうにない。一旦どんな因果関係があるのか、さっぱり分からないままだ。
大体、夢の中の出来事と現実の中の出来事を、同じ土台に置いて考えるのもおかしいじゃないか。私はふとそのことを思い出した。夢の中が晴れていたからって何だというのか。夢に季節のサイクルなどないはずである。現実では雨が降り続いていて、夢では晴れていた。だから何だというのか。あの夢があまりにも現実味を帯び過ぎていたせいで、こんな常識的な感覚すら失いかけていたのだ。我に返ってみると、全くもってナンセンスだ。
疲れているのかもしれない。夢占いを信じるようなタチではない。深層心理の表れであるという発想くらいなら、理解を示してやらないこともない。ただやはりあんまりにも現実と夢をくっつけて考えるのは、流石に誤謬のタネだと思う。朝にも同じことを考えたが、夢というのは曖昧で実体のないものであり、だからこそ価値があるのだ。夢が現実と同じ土俵に並ぶことなど、あってはならないのである。
しかしここまで思考が進んだところで、私はある疑問を覚えた。それはかの有名な、「胡蝶の夢」のエピソードに関連するものだった。古代中国の道家の一人である荘子は、ある時自分が蝶になって、自在に飛び回る夢を見たというのである。その後目覚めた際彼は、もしかしたら私は本当は蝶であり、今人間として生きているこの世界の方が、夢なのかもしれないと。
心理学や脳科学の発達した現在において、これはナンセンスな発想と見なされるだろう。夢のメカニズムはある程度解明されている。夢は脳の見せる幻に過ぎないのだ。現実を超えることなど本来ならありえない。けれども、今回の「夢」は普段の夢とは決定的に違う。目覚めた今でも本当にあったことのように、寸分の狂いなく夢の中での出来事を思い出せる。それにあの夢の中の光景は色もついていたし、匂いや味も付属したのである。アメリカ産のネットゲームに「セカンドライフ」というものがあるらしい。インターネット上の仮想世界で、プレイヤーはその名の通り第二の人生を送れるのである。そのゲームの現実の再現度はすさまじいもので、一個の社会的な秩序が形成されている他、疑似的な殺人やセックスも出来るという。その緻密な世界観にすっかり溺れてしまい、中毒的な症状を示す者も中にはいるようである。
話を戻そう。あの晩私が見た夢は、ゲームの世界などとは比べ物にならないほど、精巧に現実を再現している。セカンドライフがいくら凄いといっても、まるで比べ物になるまい。となると、あの夢は現実の代替として十分成立するのではないか。その気になれば私はあの世界で、現実と寸分変わらぬ快楽を、享受したりすることも出来るのではないか。あの夢は、新しい現実を私に提示してくれるものではなかったのか。そう思うと、得体の知れない悪寒が背筋を伝った。禁忌に触れている感覚があった。理屈を超えた、本能的な恐怖を私は覚えていた。
「おい、大丈夫か。手が止まってるぞ」
その時、突然後ろから声がして、私はハッとした。振り返ってみるとそこには私の上司がいた。
「あまりボーっとしてるなよ。一応給料出てるんだからな」
上司の口調には怒りは込められてなかった。むしろ私をからかうような気配があった。私は苦笑いして、すみませんと答えた。そうして再び、目の前の画面に集中し始めた。けれども、やはり煩悶は解消されることなく、いつまで私の胸に留まり続けた。
無限に広がる回廊を当てもなく彷徨うような気分のまま、キーボードに文字を打ち続けていると、いつの間にか終業時刻になっていた。ブラインド越しに差し込んでくる外からの光も、気づけばすっかり弱まっている。合間から外をのぞいてみると、すっかり日は傾き切っている。私はとっととタイムカードを切って会社を出た。
私は帰り道の途中で、予定通り映画を見に行くかどうか散々悩んだ。興味がそそられない訳ではなかったが、今はどうも気分ではない。四角い画面の中に映し出される虚構など、あまり見たくはなかった。特にあの監督は、現実と仮構が自在に交錯する作品の名手である。写実性のある描写と奇想天外な描写、そのふたつを繰り返し見せることで、一種の浮遊感を観客に与えるのである。今の私はただでさえ、現実と仮構についての面倒な煩悶を抱えているのだ。映画の内容によっては本当にロクでもないことになりかねない気がした。バカバカしい、気にしすぎだ。そう思う私もいれば、現実を見失う恐怖に怯える私もいた。結局私は映画館に行かないことにした。葛藤しているうちに、興味が完全に失せてしまったのだ。
代わりに家でのんびりと過ごそうと思った。どうせまた明日も仕事があるのだ。それに、今日は夢など見る余地がないくらい、深い眠りに就きたかった。またあんな白昼夢を見るのは心底ごめんだった。私はすっかり怯えていた。それに、一日で二日分働いたのである。精神の疲労は相当のものだった。酒でも飲んでとっとと寝よう。私はそう計画を立てた。
昨晩の夢同様、駅には大勢の人がいた。彼らの表情は相変わらず無機的だった。昔読んだある本で、「無表情とは強張りの一種」という指摘をしているものがあったが、当たっていると思う。この日本社会に空気のように染みついている集団主義の影響もあるのだろう。驚くべきほどに群衆は、被った仮面を取り外そうとしない。もっとも私もまたその一人なのだが。
しかしその中に一人だけ、仮面をすっかり放棄してしまっているものがいた。私がプラットフォームに出来た列の後方に並んでいる時、後ろから声がしたのだ。ひどく甲高い声だった。思わず後ろを振り向くと、そこには狂人がいた。統合失調症か何かを患っているのだろう、目は血走っているし、叫んでいる言葉の内容もワケが分からないものだ。ただ何度も虚空に向かって「何もいない、何もいない」と繰り返し叫び続けているだけなのだ。
これだけならよくあることである。自殺者が多発しているくらいなのだ。精神疾患を抱えた者くらい相応に現れる。しかし、その狂人の顔を見た途端、私は全身が総毛だった。間違いない。あの狂人は昨晩の夢の中に現れ、電車に向かって飛び込んだあの青年だった。
夢の中とは違って、彼は黒ではなく赤一色の服装をしていた。赤い野球帽に赤いダウンジャケット、赤い長ズボン。そこには面妖な統一があった。私はいよいよ混乱した。彼は死んではいなかったし、それどころか、この変わりようは一体なんなのだろう。夢の中の彼はとにかく地味で、もの静かで、没個性的に見えた。服装は変哲の無い黒一色だったし、列に並んでいる際も懐手をしたままじっと押し黙っていた。電車に飛び込んだことを除けば、彼は至極埋没的な存在だった。それが今では、群衆の蔑視を全く気にすることなく、狂気と熱狂とを罵声に変えて虚空にぶつけているのだ。何かに追い立てられているかのように、彼は狂乱し叫び続ける。その姿には強烈な熱量が感じられた。
彼が持つ二つの対照的な相の中に潜む、因果関係とは何か。私はそれが全く分からずいよいよ混乱してきた。灰色の煙が、脳内に堆積しているかのようである。思考が曖昧にぼやけ焦点が定まらない。そうしているうちに、突如としてアナウンスが流れた。
「二番線にまもなく列車が参ります。危ないので白線の内側におさがり下さい」
聞きなれた文句だが、この時は特別な意味を持っていた。昨晩の夢で、彼は列車に飛び込み自殺した。あれと同じことがもう一度繰り返される?私はハッとした。可能性は0ではない。誰かが止めないと、彼は死んでしまうかもしれない。
その可能性に気づいても、すぐには体は動いてくれない。統合失調症の患者にわざわざ近寄るなんて自殺行為だ。間違いなく面倒なことになる。しかしここで動かねば人が死ぬかもしれない。冷や汗が首筋を伝い、心臓の鼓動が早まる。背を焼くような激しい焦燥が頭をもたげ私を苛む。行くか退くか、どうすることも出来ない。そこで私はとっさに中間策を思いついた。今彼は電車のやってくる二番線とは逆の方を向いている。逆方向を向いている間は、彼は飛び込んでこまい。だが、もし振り向いてきたならば、電車に飛び込んでしまう可能性がある。だからその時は、流石に身銭を切ろう。彼のそばに近寄って、その動きを制御しよう。私はそう心に決めた。
まもなく線路の向こうから、電車の走行音が風に混じって聞こえてきた。私はじっと後ろを振り向き気づかれぬよう彼を観察していたが、今のところ走り出す気配はない。大丈夫かもしれない。と、思っていた矢先のことだった。あの、狂人の彼ではなく、私の前に並んでいた一人の女子高生が、突然前方に向かって走り出した。
異変に気付き振り向いた時にはもう遅かった。風の音の中に混じって、肉と骨が速度に轢き潰される鈍い音が、鼓膜を打った気がした。
私はしばらくの間何が起きたか分からず、呆然とその場に立ち尽くしていた。私が意識を取り戻したのは、異変を告げる駅員の笛の音が鳴り響いた時のことだ。私は自分が視線を向けている方向に、轢死体があることに気づき慌てて振り向き、駅員の誘導に従いホームを離れた。
もうあの狂人は、どこにもいなくなっていた。
外に出た私は、傘も差さずに路地を歩いた。うつむきがちに歩きながら、昼間先輩の一人が言っていた言葉を、頭の中で反芻していた。
――例年と比べ自殺が急増している
自殺者が増えているのは何故なのか。昨晩の夢と無関係ではないのではないか。そうは思いたくない。しかし考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなってくる。いくら何でも偶然の一言で済ますことは出来ない。夢でも現実でも、人が死体に変わっているのだ。
私はもう今の時点から、眠るのが怖くなってきた。禁忌に近づく恐怖、人の死を目撃することへの恐怖、夢と現実の境が曖昧になることへの恐怖、様々な恐れがない交ぜになって、私の心に一遍に押し寄せてきた。けれども人は眠ることなしに生きていくことが出来ない。いずれは必ず眠らなくてはいけない。夢を見ないで済む方法、それは――死ぬことだけである。
人身事故により交通機関が麻痺したので、タクシーで家に帰った。その途中薬局によって、市販の睡眠薬を購入した。夢など見る余地もない、深い眠りに就きたかった。本当の安息というものを、享受したかった。
酒と睡眠薬をチャンポンしたせいだろう。割れるように頭が痛かった。本当に馬鹿げたことをしたものである。恐怖のせいで過剰な反応をしてしまったのだ。ただ収獲がなかったわけではない。私は昨晩確かに夢を見なかった。かろうじて昨晩のことを覚えていた。私は冷蔵庫に保管されているビールの缶を三本も開け、したたかに酔った。酔いが巡り睡魔が襲ってきたのに気づいた私は、テーブルの上に置きっぱなしになっていた睡眠薬の箱から、錠剤を二粒取りだし飲んだ。その後箱を見てみたら、一回の服用につき一粒との注意書きがあったので、私は自分の行動を悔いたが、しばらくすると強烈な睡魔がとめどなく押し寄せてきて、後悔どころではなくなった。意識は、波のさらわれた砂の城のように、たちまち形を失ってしまった。私はかろうじて布団に潜り込む、しばらくして完全に意識は途絶え、私は深い眠りに就いた。
僥倖である。これで当分の間は夢に怯える必要はない。寝る前と、現在の起床、二つの点を結ぶ記憶は何一つないのだ。私は、あの白昼夢を克服したのだ。
晴れやかな気分で、私は出社の準備を始めた。頭痛はシャワーを浴びると、多少マシになった。昨日同様トーストを二枚齧り、真っ白なワイシャツに袖を通し、私は意気揚々と外に出た。
けれどもこの明朗な気分は、長続きしてくれなかった。私はマンションの廊下を歩いている途中、三つ離れた部屋のドアの前に、立ち入り禁止のテープが張られていることに気づいた。しかもドアの前には、見張り番なのだろう。刑事が一人立っていた。
「えっ?」
私は思わずくぐもった声を洩らした。すると、相手方も私の存在に気づいたのだろう。「ちょっとお時間よろしいですか」と私に呼びかけてきた。私はただ黙って、首を縦に振った。
まもなく下の階から、見張り番とは違う刑事がやってきた。彼は私に、あの部屋で何が起きたのか教えてくれた。何でも、殺人事件が起きていたというのである。あの部屋にはOLが一人暮らしをしていた。今日彼女は有休を取っており、早朝から彼氏と旅行に向かう予定だった。だが、彼女を迎えに彼氏が部屋を訪れると、奇妙なことに鍵が閉まっている。仕方ないから彼は合鍵を使い中に入った。すると血まみれで床に臥す、彼女の姿を発見したとのことである。
事件の経緯を聞き、私は言葉を失った。本当に信じられないような気分だった。
「それで、申し訳ないのですが、昨晩の午前0時頃から2時頃の間に渡って、不審な物音を聞いたりはしませんでしたが」
「いえ、申し訳ないのですが、睡眠薬を使いぐっすり眠っていて、何も……」
「そうでしたか。どうも捜査へのご協力ありがとうございます。また何かどんな些細なことでも、お気づきになられたことがございましたらご連絡ください」
聞き込みはあっさりと終わり、私は解放された。腕時計を見ると、もう時間が逼迫していた。後ろ髪を引かれるような気分を覚えつつも、私は駅に向かって小走りで歩いた。けれども、どうにも信号の目が悪い。わずかな時間のゆとりは更に失われていき、結局私は走ることになった。階段を駆け下り改札を抜け、そうして、かろうじて電車に間に合った。
ギュウギュウ詰めの車内で圧迫を受けつつも、私は先程の出来事について思考を巡らせた。刑事ドラマの光景が、そのまま四角い画面から飛び出してきたかのようだった。あんまりにも突然のことで、全く実感が湧かない。そもそも、現実とは安っぽい月9のドラマなどとは違い、もっと緻密で猥雑で、緊張感の張り詰めたものではなかったのか。人の死はもっと重篤な現象ではなかったのか。それが一体、どうしたことなのだ。余りにも身近で露骨な死の数々、畏怖の念はまるで浮かんでこない。
電車の空気が悪いせいだろうか、私は吐き気を催した。胃の底から酸っぱい液体が湧き上がってきて、ツンと鼻孔を刺した。その度に私は生唾を呑み込み、必死で吐き気を押し戻そうとした。この苦しい格闘は、電車に乗ってる間中ずっと続いた。解放されたのは、電車を降り吹き抜ける風にさらされてからのことだった。
地上への階段をうつろに歩き外に出ると、ギラギラと激しい日射しが私に向かって降り注いだ。昨日とはうってかわって、何という暑さだろう。……暑さ?何か心のもので引っかかるものがあったが、詳細が浮かんでこない。記憶に霞みがかかっていて、輪郭しか探ることが出来ないのだ。
あんまりにも暑くて脳が茹だってしまいそうだったから、私は近くのコンビニに寄った。そこで私は驚くべき光景を見かけた。
本当に、訳の分からない光景だった。レジの前の台の上で、二人の醜い中年の男女が、性交していたのだった。
女の方は豚のようにでっぷりと太っていた。腹の辺りなど、脂肪が段々と層になっている。頬にもたっぷり肉がつき、潰れた鼻が埋もれてしまいそうだった。肌も肌理が粗く、髪は脂ぎっており、唇は血のように紅かった。そんな彼女はつがいの男の責めに、人目も気にせず明け透けな嬌声を辺りに振りまいている。酸鼻な匂いが漂ってくるようだった。男の方も同様に醜悪で、頭髪はすっかり禿げているし、目は落ち窪みぎょろぎょろとして、幽鬼のように見えた。その上ただでさえ醜い顔面いっぱいに、畜獣じみた下卑た笑みを浮かべている……。
人間の交接という気はしなかった。ゲテモノのアダルトビデオを見せられているかのようだ。一周回って滑稽ですらある。欲に溺れた醜い人間は、コメディドラマの格好の標的である。彼らも同じなのだろう。しかも彼らの場合、状況が状況である。その倒錯的なナンセンスさが、いっそう私の笑いにつながった。決して愉快だから笑っているわけではない。こみ上げてくるものを抑えきれず、その帰結としての絞り出すような笑いなのだ。こんな笑い方をしたのは随分と久し振りだった気がする。やけっぱちな笑いだ。目の前で展開される異常に、自分を見失っての、含み笑いである。もうどうしようもない。私は喉の渇きなどすっかり忘れてしまい、そのままコンビニを出た。
去り際、警察に通報すべきかどうか、ふと迷いが生まれた。あれも立派な猥褻物陳列罪だろう。けれどももう何もかもが億劫なのだ。警察に通報などしたら、また面倒なしがらみがいくつも生まれるし、仕事のこともある。時間の猶予はほとんどない。それにどうしても通報しなくてはいけないような犯罪でもない。私は理知的に状況を判断し、通報を取りやめた。
そんな風に、真面目に筋道立てて物事を考える自分を、誰かが空の上からつぶさに観察し、嘲笑しているような気がした。
その日の仕事はまるで捗らなかった。普段なら、もっと淀みなく進んでくれるのだ。しかし今日はてんでダメである。書いては直し書いては直し、ことごとく徒労だった。もっと集中しなくてはと何度も自分に言い聞かせるが、どうしても身が入らない。何か透明な薄い膜壁が脳の中に張られていて、私の集中を阻害しているかのようだった。
そんな風にして無為に時間を空費していると、気づけば昼休みが来ていた。
「もう、か」
時間の感覚もてんでバラバラだった。ついさっき始業だったような気もすれば、すでに一日分の時間を使ってしまったような気もする。あの、ゲテモノ共の交接が悪いのだ、言いようのない煩悶を抱えながら、私は心中でそうつぶやいた。
外に出ると雨に降っていた。灰色の厚い雲が空に蓋をしてしまって、晴れ間を閉ざしている。そこから銀色の滴が一本の線となって、絶え間なく灰色の街に降り注ぐ。私は立ち込める水の匂いを嗅ぎ、何か思い出さなくてはならないことがあったような、そんな感覚に囚われた。旋回する錐で脳に細かい穴を開けられるような、鈍い頭痛が脳裏に反芻し始めた。私は思わず呻き声を漏らし、頭を抱えてうずくまった。雨、晴れ、天候。それらは確かに、ある意義を持っていたはずなのだ。しかしそれがどうしても思い出せない。記憶の引き出しに鍵がかけられているかのようである。頭がバラバラに砕けてしまいそうだった。むしろ、その方が楽になれるんじゃないか、そんな余念が脳裏をよぎるほどだった。
突然、眼前の地面に、赤い斑点が散らばった。
「えっ」
何が起きたのか、まるで事態を読み込むことが出来ない。意識が霞む。ただ何となく、どこか遠いところから悲鳴が聞こえているような気がした。
首筋を生温かいものが伝っていることに気づいた。そっと手を触れてみると、それが付着する。血液だった。私は首筋から、おびただしい量の血液を流していた。
「あれ?」
足が崩れてしまって、ひっくり返ってその場に横たわる。体の内側で、早鐘のように何かが間断なく跳ねていた。自分の、心臓だ。息苦しさを感じ、深々と深呼吸してみる。酸素は肺まで届いてこない。すべて途中で、首に穿たれた穴から漏れていってしまう。
金属的な鋭い痛みと、耐え難い息苦しさが延々と続く。いったい私を刺したのは誰なのか。見渡そうにも、起き上がれない。頭を持ち上げることすら出来ない。その上意識も弱ってきた。もうすぐだ。もうすぐ終わりが来る。私は、ここで死んでしまう。
そこで、夢が途切れ私は覚醒した。周囲を見渡すと、すっかり朝だった。目覚まし時計の長針は、六時を差している。思わず首筋に手を当てるが、傷はどこにもなく血も流れていない。
「夢……だったのか?」
信じられないような気分だった。結局睡眠薬は何の役にも立ってくれなかったのだ。白昼夢は相変わらず、悠々と、私の現実を侵食してきた。
雨天のせいか空気が寒々と湿っている気がした。とにかく何かが空恐ろしく、私は息苦しかった。死の体験すらあった、それなのに私は生きている。絶対の不可逆的事象に遭遇しつつも、そこから生還してきたことにまつわる禁忌の感覚が、私の心をじわじわと蝕んでいく。殺される夢を見たことのある人自体は、そこまで少なくもないらしい。しかし私のように、細部まで緻密に再現された現実そのものと寸分たがわぬ現実度を持った、白昼夢の中で殺された者がいるだろうか。血液の生温かな感覚、尖鋭な劇痛、それらの付随する、なまものの死を味わった者がいたか。答えは否だろう。私は一度死んだ。それなのに生き返った。死は大した意味をなさなったかと形容した方が、まだ適切に思われる。生き死にという最大の実存が絶対のものでなくなったということは、現実そのものの相対化を意味する。今や私のとって現実は単一のものでない、二つに枝分かれしてしまったのだ。――睡眠という、生存には決して欠かすことの出来ない生理現象を境として。
私は物狂いめいた感情に囚われ駅まで行き、ポスターを確認した。その中にはちゃんと痴漢やスリへの注意を喚起するものがあった。一応、現実なのである。裏側である夢ではないのだ。それを知った私は少し安心した。今自分がどちらの世界にいるかくらいは見極めておきたかった。
しかし現実の方にいるとは言えど、出社する気にはなれなかった。もうそういう気分ではないのだ。私は仮病の電話を入れ、カーテンを閉め切り部屋に籠り続けた。
布団の中に潜り、スマートフォンの四角い画面の中にじっと閉じこもり、ただ時間が経つことだけを待ち続けた。まだ私の胸に去来した、水分をたっぷり吸った重たい雨雲のような虚無感は去ってくれなかった。
生暖かい毛布にくるまれて、スマホの四角い画面の中に映し出される様々な虚構に溺れ続けた。嘘のように素早く、夥しい時間が空費されていき、朝も昼も矢のように過ぎ去り、夜が向こうやってくる。
朝から何も食べていないのに、空腹は全く感じていない。一日中至近距離から画面を注視していたのに、目は一切充血していない。いつまででもこうしていられそうだった。
時間がいやらしい笑みを浮かべて、私を後ろから見つめているようだった。
*
今の私にとって睡眠とは最早、ビックリ箱を開けるような行為になっていた。寝れば、何が起きるか分からない。しかし動物として生まれてきたからには、絶対に睡眠を摂らずにはいられない。いくらもがいたところで、睡魔に打ち勝てる人間などこの世に存在しえないのである。昔、いつまで人は寝ずにいられるかという実験が行われたことがあった。その被験者は11日間もの間、覚醒しっ放しだったという。どれだけ条件を揃えても、その程度が限界なのである。たった11日、何だかんだ言ってそれなりの幅を持つ人生の総時間と比較してみたら、塵芥のように短い時間である。要するに、どうあがいても眠りからは逃れられぬのだ。
実際、私は「死」を体験したあの一晩の、翌日の夜の時点で、眠気に耐え切れず寝てしまったのである。無論眠ることへの、夢を見ることへの恐怖は絶え間なく津波にように押し寄せてきた。けれども張り詰めた神経は、いつしか私に疲労感を与え、それに伴い意識は霞んでいった。人間の体とはあまのじゃくなもので、寝よう、寝ようと思っていると、焦りのためか神経がピンと強張り、眠気が訪れることは中々ない。そのクセ寝たくない、起きなくてはと意識していると、そろりそろりと睡魔はあっちから這い寄ってくるのである。こうなってくると意識という砂上の楼閣は容易く輪郭を失ってしまう。気づけばストンと私は眠りに落ち、そしてまた第二の現実が眼前に展開されるのである。
こういったことが何度も反復したその帰結として、私は次第に表裏の区別を失っていった。どちらが夢でどちらが現実か、自分で判断することが難しくなってきたのである。天気も駅のポスターも、すっかり意味を為さなくなってしまった。それは観測する側である、私の方が瓦解していったからである。
意識の分化があまりにも進行し過ぎたのだ。自分を見つめる意識と、実際に現世で行動する自身との乖離はますます甚だしいものとなっていった。言うなれば、テレビゲームのような関係性である。私は形而下の世界における私の行為を、テレビゲーム上の、四角い画面の中にいるプレイヤーの行為のように認識し始めていた。私自身を見つめる私の意識は、画面の外側にいて、三人称視点の俯瞰視点で私を見つめているのだ。こうなってくると、世界の何かもがぼやけてくる。まるで画素の集積が描き出す、モザイク式の世界観である。細部についての認識がすっかり霞んでしまって、何もかもが曖昧である。
それはある種の、究極の自由ともいえるのかもしれない。私はもう時間からも空間からも、質量からも情動からも自由になった。私は縮尺が滅茶苦茶になり、時間の体感の幅もすっかり狂った世界の中を、好き勝手に浮遊できるようになっていた。会社に行くのもすっかりバカバカしくなってしまった。賃金などいらないのである。最早死ですら些事である。金銭の欠乏や生活の破綻など、全く意味を持たないのだ。それに労働の重大な効用の一つである、作業への没入の幸福、あれもすっかり得られなくなった。人間は無為に弱い。無為の苦痛に耐えきれない。昔シベリアの流刑地では、半日かけて穴を掘っては、半日かけて穴を埋め元通りにするという拷問が囚人に課せられていた。ギリシャ神話においても、神が大罪を犯した人間へと与える究極の罰は無限刑である。似たようなものだ。作業とは、意義や目的があって初めて作業となる。何一つ目的のない作業など、人の精神(こころ)を閉ざすだけだ。そこに充足は訪れない。
こうなってくると如何にかつての私たちが、無数の鎖で縛られていたかよく分かるようになってくる。産まれた途端に、夥しい数の前提が私たちには与えられる。それには可視・不可視多様なものがあるが、それらの前提により私たちの生涯は方向づけられる。成長、習得、学習、恋愛、巣立ち、労働、生殖。社会が、本能が、あらかじめレールを敷いてくれているのだ。沿うにしろ逸れるにしろ、このレールが大前提となり、私たちの人生を多様なレベルで規定している。鎖はもっと根源的なレベルでも課せられている。例えば時間だ。私たちの人生はどれだけ長くても100年ちょっとである。この時間の制限は、私たちの人生の可能性を常に狭め続けるが、同時に苦痛の限界も規定してくれている。もう一つ、空間も重大な要素だろう。産まれる場所によって、容易く環境は変化する。微細な環境の変化は、生涯に渡り当人の資質や人格に隠然たる影響を与え続ける。無数の前提が、因果関係が複雑に絡み合い、それが私たちの人生の大部分を規定している。私は今全てを喪失したことで、その前提がよく見えるようになってきた。また、逆に、その前提を全て失った人間がどうなるか、それも肌身に染みてよく分かるようになった。答えは明確である。裸で、無重力空間に投げ出されるようなものだ。無音の闇の中を、フラフラと永遠に彷徨い続ける。現実感の喪失の行き着く先である。本当はすぐそばに現実というものがあるのだろう。けれども今となっては距離が遠すぎて、残光しか見えないのだ。
鎖の無い私の胸に、激しい情動は何一つ去来しない。ただ心には、ぽっかりと大きなうろがあいた。うろは不断に私に対し、ぼんやりとした不安を与え続けた。それは決して癒えることのない喉の渇きにも似ていた。水を飲もうとしても、口に入れた途端砂になってしまう。砂漠のように乾いた喉は永遠に潤うことがない。このもどかしい苦しみは、絶えず降り積もり心の底に堆積し続ける。重くはない。軽い。けれども、重たい方がまだ良かった気がする。こんなに軽くては、私は永遠に地へと繋ぎ止められることはない。
刺激が欲しかった。脳髄を刺し貫き豊かな情動を私に与えてくれるような、鮮烈な刺激が。刺激のためなら、罪を犯すことさえ私は厭わなかった。何度も殺したし殺された。表の現実か裏の現実かはほとんど意識せずにである。これが表の世界だったら、死は不可逆的なものかもしれない。本当に殺してしまうし、殺されてしまうかもしれない。そんなことを心の片隅で考えつつも、私は不安に耐えきれなかった。最初に殺したのは、とても背が低く、あどけない仕草で、飛び跳ねるようにして歩いていた女児である。倫理という代物が、まだ機能していた頃なら躊躇ったろう。けれどもその時は、ロールプレイングゲームで、敵モンスターを殺す時くらいの感覚しか持っていなかった。実際殺した後も、余韻はほとんどない。70億も量産されている人形を、たかが一つ壊したところで情動などこみ上げてくることはないのである。むしろ人間というものは、表情を失い死体になると、ますますその「構造物」としての性質が、はっきりと見てとれるようになってくる。全身の傷跡からのぞく、皮、肉、骨の層は、私にそういった印象を与えた。視界がぼやけきって細部の生々しさを感得出来なかったのもその理由だろう。とにかく、殺すことはもうあまり意味がなかった。殺されることも。私は彼女を殺してから、三日ほど経ったある日のこと、町中を泣きじゃくりながら走り回っている彼女を見かけたことがあった。
殺人でもダメなら、他にいったいどんな方法があるのか。私は考えたことがある。その思考の最中にふと、いつぞやか目撃した、コンビニでの交接のことを私は思い出した。これが案外使えるかもしれないと、私は気づいた。殺人は、ある種のリセットである。被害者は何も感じられない虚ろな人形に変化してしまう。尾を引くのは行為者のみである。けれども性交には双方向性があり、行為の後も両者尾を引くものがある。それに人肌の温もりというものを感じ続けることとなる。私は性交をすることに決めた。より強い刺激が欲しかったから、合意なしの、強姦をすることにした。私が標的に選んだのは、弟の妻だった。この妻はまだ若いせいかしばしば義兄である私の前で、恥ずかしそうにはにかむことがあった。その含羞の表情の持つ初々しさを、私はひそかに愛していた。が、そんなことはもうどうでもよかった。植物が愚直に、陽光を欲すように、私もまた単純な、目が覚めるような強烈な刺激が欲しかったのだ。他のものにはもう何一つ価値を見出すことが出来なかった。
私はフラフラと世界を漂泊し続け、ある時ようやく彼女を見つけた。実際の彼女を目の前にしても、ためらいの心は全く起きなかった。私は渇きを満たすべく、彼女を犯した。けれどもやはり情動は湧き上がってこない。苦痛と恐怖と羞恥に歪む彼女の表情を凝視してみるが、やはりどこか空虚だ。背徳的行為に付きまとう、畏怖と、その倒錯としての痺れるような悦楽は一切訪れなかった。生々しさも感じられない。豆腐に指を突っ込んで、抜き差ししているような気分だった。
本来なら弟の妻を寝取ること以上に、倒錯的で背徳的で、獣的な悦びに塗れた行為など滅多にあるまい。だがそれでも、何も感じられないのだとしたら、私の心はすでにもう根腐れしてしまっていたのだろう。一度枯れた梢に、再び葉が生い茂ることはない。枯れ木は永遠に枯れ木のままだ。動的な全てが冷たく失われていって、いつしか私は布団の中に潜り続け、そこから出ることはなくなっていた。あらゆることから意味は失われた。現実は遥か遠くのものになってしまった。布団の温もりと安楽だけが、今の私の真実だった。
しかしそれすらも、失われていくものだとしたら。自分ではまるで認識できていないが、私はしばしば寝ているのだ。その度に表と裏を行ったり来たりしているのだ。少しずつ少しずつ、布団の感触すらも無色透明に変化していった。そのことに気づいた時は、流石に怖気が走った。本当の恐怖がやってきつつある気がした。布団という隠れ蓑すら失ったら、もう寄る辺とできるものは何一つない。いつまで続くかも分からない。永劫の時間を彷徨し続けるだけである。虚無の泥の中に、すっかり閉じ込められてしまって、喜びも刺激も一切なく、ただ心の虚が絶え間なく再生産し続ける、不安の沼に溺れるだけ。無限刑以外のなにものでもない。いや、もっと恐ろしい拷問だ。拷問とは通常残酷である。しかしこれは残酷ですらない。残酷でないからゆえに、あらゆる刑罰よりも遥かに残酷なのである。
自分の末路を突き付けられた時、私の胸に去来したのはある後悔だった。どうしてもっと真面目に生きようとしなかったのだろう。もっと仕事だとか恋愛だとか出世だとか、目の前に広がる現実に、真剣に取り組んでくれば良かったのだ。あまり苦痛の伴うことのない、楽と言われている部署で、安穏な暮らしを送っていたその末路がこれである。もっと必死で生きておけばよかった。味わえるうちに生の充実感をもっと味わっておけばよかった。そうしておけばこの虚無感も、少しはマシになったかもしれないのに。
降り積もる心の澱は、飽和点を超えようとしていた。途端に、宇宙の始まりのようなまばゆい光が、至る所から私を刺し貫いたのも、驚く間もなく信じられないほどの激痛が全身に走り、私は呻きもがいた。本当に辛く苦しい痛みだった。痛みのあまり私は嘔吐した。嘔吐?いったい私は何を嘔吐しているのだ。体外へ排出出来るような中身がまだ残っていたわけがないのだ。困惑の中苦しみもがいていると、突然世界が大きく揺れてひび割れた。その裂け目に私を含めてあらゆるものが呑み込まれていった。
そうして、目が醒めた。
起き上がると、部屋の環境を構成する様々な事物が、無数の光の線となって、痛いくらいに鋭く私の視界に飛び込んできた。茶色の毛布に、褪せたクリーム色の掛布団。薄緑色のカーテンと、その端から漏れ出づる清新な朝の陽射し。懸賞で当てたキャラものの目覚まし時計。染みの多い木目のフローリング。脱ぎ捨てられ皺だらけになったワイシャツ、机の上に乱雑に並べられた書類の山。
生々しい生活感の全てが、私に一つの事実を示していた。私は帰ってきたのである、この煩雑極まる現実世界に。息が詰まるような喜びと、凄絶なほどの安堵の情が一遍にやってきて、私の胸に激しく吹き荒んだ。気づけば熱い雫が、両の目から零れ落ちていた。
けれども、あまり感慨に耽っている場合ではなかった。スマートフォンで日時を確認すると、平日であった。私は出社しなくてはいけない。こんな気分の時なのだから、仮病を使って休んでもいいのではないか、そう思いもしたが、やはり働きに行くことにした。もっともっと、むせかえるような生活の臭いで、胸を満たしたかったのだ。私は電子ポットで湯を沸かしコーヒーを淹れ、オーブントースターでトーストを二枚焼き、それを朝食とした。その後はシャワーを浴び、スクラブ入りの洗顔フォームを使って、顔に薄い膜を作っていた汗と脂を洗い流した。毛先の曲がった歯ブラシで歯を磨き、スーツに袖を通しネクタイを絞めれば、出社の準備は完了である。私は妙に軽い足取りで、跳ねるようにして外へと出た。三つ隣の部屋で殺人事件は起こっていない。ポスターは元通り、痴漢やスリへの警戒を訴えている。コンビニでセックスしている男女もいない。元の世界が完全に戻ってきた。世界は様々な問題を抱えつつも、絶えず回り続けている。そのことを思うと、豊かで色鮮やかな情動が絶え間なく押し寄せてきて、熱く胸を満たした。
それ以降私が、あの白昼夢を見ることは二度となかった。
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