唯物論の魔女

 唯物論の魔女は、存在しうるだろうか?

 いや、それは戯れ言に違いない。しかし、不可思議な波紋を、人々の心に残しえまいか?唯物論とは――一つの陥穽のはずだ。神のもたらす調和と秩序を解き明かす、その偉大なる知の営みの果てに、人は世界の神秘を暴き尽くし、そしてまた一歩、虚無の淵へと近づく。そしてそのことに気づくたび、人は環状の歴史を感じはしまいか。円環の上を走ることを、進歩と盲信し、そして無為に生涯を捧ぐ恐怖に、絶望を覚えはしまいか。

 自分を紡ぐ何か――それがこの知的営為という、人を野性から離すもの、人を神へと近づけるもの、すなわち、死へと追い詰めるものと乖離していれば、おそらく、彼らは虚無も克服できよう。ほとんど作為的な誤謬も、もはや仕方がない。一点の翳り、気後れ、そんなものは生活の実存と比べれば、無視してしまっていいほど小さい。だが、中には欠陥品がいる。それは、生活よりも、思考に生きてしまう人間。自分を紡ぐあらゆる要素が、思考と癒着してしまった、愚者である。愚者は、死なない。ただ、狂気に溺れるのみ。その姿は哀れというより、不断に、無限に滑稽で、人はしばしば嘲笑を彼らに投げかける。そして孤独なアウトサイダーたちは、よりいっそう傷つき、自分の悲劇を嘆き、過去を思い返し、絶望と苦悩の底で後悔に悶え苦しむのだ。

 それは悲しい現象か?いや、結局はそれも、生活の実存と虚無に、あっさりと呑み込まれてしまうだろう。彼らの願いなど、歴史という長大な文脈の中においては、やはり無視していいほど小さい。一時の感情は、悲劇。だがその感情を最小単位として構成される、一枚の多色の織布。これは、最早喜劇。すべては、無限のらせんの中で進行していく。だから、せいぜい、手持ちのみでやりくりする。それが、最後に辿り着いてしまう答え、レシグナチオン。

 

 そしてこの、唯物論の魔女もまた、同様の陥穽に陥っていた。この唯物論の魔女は、感情の絶対と、それの持つ第二種の質量に着目し、ある種の特殊な人間、すなわち――魔を宿す者たちの存在を発見した。彼らの感情には特異な質量があり、それはしばしば時間と空間、現実を構成する様々な秩序を乱す。これは科学という一元論に対する反抗であった。科学と魔術の二元論を提唱するものであった。しかし科学は、この世を遍く覆い尽くしているのに対し、魔術は部分的、局地的な特異点に過ぎない。結局のところ王道は科学であり、巻き起こした巨大な進歩に、魔術はたった一つの爪痕すらつけることが出来ず、最後は敗残の思考として、科学の無欠を汚す邪道として、排斥されるようになっていった。

 異端者と認定された魔女は激しい迫害を受けた。不可思議なことに、魔術に目覚める人間は、もとよりの異端者。囚人、娼婦、孤児、そういった、「どうしようもない」存在が多かったのも、迫害を加速させたものの一つである。魔女は、迫害から逃げ続け、あらゆる機械を憎みながら、人気のない山中へとたどり着いた。ここは森林の中心にあり、険阻な山々に周囲を覆われている、狭隘な土地であった。通常ならばこんなところに人は住めないが、魔女は、彼女の、「唯物論的思索」によって得た、魔術の論理を持っており、それを使えば多少生活は楽になるのだ。魔女はこの地で、ひっそりと息を潜めながらも、決してその生まれついての激しい復讐心を忘れることなく過ごした。しかし、機会はまるで訪れる気配を見せず、ただただ無為に、時間ばかりが浪費されていった。

 魔女の悲劇は、科学の劣化である魔術に、可能性を見出したことである。科学はあらゆる人々に恩恵をもたらす可能性を秘める。しかし魔術は、個人に目覚めるものであり、しかも、別に超越的なものへと通ずるわけではない。死人を蘇らすことは出来ず、荒れ地に雨をもたらすことは出来ず、神との通信だに行えない。せいぜい、かすり傷を癒したり、燃料もないのに炎を出したり、しかしそんなことはいくらでも科学で代用が効いてしまう。その上魔術をいくら発展させたところで、それを使える者は限られている。これこそ魔術が機械に劣る点であった。魔女は自分の生涯を心の底から後悔していた。彼女は魔術のため感情について調べ尽くした結果、やはりそれすらも現象に過ぎないことを理解していた。当然主観に依ればいくらでも感情という現象に特別な意味づけをすることは出来る。しかし魔女は生まれついての学者であり、客観的な視座、冷静沈着な観察から決して離れることは出来なかった。それは彼女のレーゾンデートルと密接に癒着しており、主観に走り、自分の理知によって発見した「真実」を汚すことは、彼女にとって四肢をバラバラにされるも同然だった。

 勿論、こういった頑迷とも言える決意を持ち続けるためには、鋼鉄の理性が必要となるし、魔女は実際にそれを内在していた。屈強な理性の作用は、しばしば彼女の精神と、外界で発生する数々の現象、そしてそれに伴う神経への刺激を分化させ、極めて冷静かつ理知的に個々の事象を捉えることを可能としていた。だが、そんな彼女ですらもやはり、時という絶対の存在がもたらす風化作用には、屈せざるを得なかった。連綿とした孤独な時間の腐敗の波は、少しずつ彼女の精神を色褪せたものへとしていった。次第に人間的な豊かな感情のはたらきは薄れ、怒り、悲嘆、功名心、こういった一部の情動ばかりが、彼女の中でくっきりとその影を濃くしていったのである……。



彼女は、耐え難き矛盾を内包した存在── すなわち、唯物論の魔女。


先述の通り、かつては美貌で知られた才媛であった彼女も、老いの前には無力であり、頬は悲惨なほどにこそげ、顔には醜い皺が至る所に刻まれ、その目は白く混濁し、代わりに鼻ばかりが高く、大きく突き出されていった。正視に堪えない、醜い姿であった。

これは仕方のないことである。彼女はもう三十年年以上も、けものと人の中間のような生活を、この人里離れた森の奥地で営んでいたのだ。しかし厳しい自給自足の生活は彼女の体をもすっかり蝕んでしまった。腰は弓なりに曲がり、四肢はとりがらのように痩せ細り、歯も、その大半を失っていた。それでも彼女は、必死で生きようとしていた。

実のところ、もう生きる意味などどこにもないのだ。返り咲きなど、不可能なのだ。彼女は年をとり過ぎた。とっくの昔に、タイムリミットは過ぎていたのである。もしも今後、彼女が世間からの賞賛を受けるに足る、魔術上の大発見を成し遂げたとしよう。しかし今の彼女には、この森林を超え、人間の住む土地に行くことすら困難なのである。そして、万が一、町や村に辿り着き、魔術を披露したとしよう。だが、今更そんなことをして、何になるというのだ。既に趨勢は決まっている。膨大な数の聡明な知者たちが、昼夜を問わず研究に取り組み、多くの結果を今もなお上げ続けているのだ。そんな状況の中で、彼女一人に何が出来よう。答えなど決まっている。── 何も、出来ないだ。機会は、全て腐り落ちた。

しかし、もう彼女には、そんなことを理解する知能もないのだろうか。今の彼女は、ほとんど動物に近い存在と化していた。本能と、それの紡ぐ習性によって自走する、一匹の機械へと成り果てていた。


ある日の早朝。まだ空は白んできたばかりであり、あたりは薄暗かったが、彼女は確かに、人間の足音を聞いた。誰かが、この森の中に迷い込んでいることを、彼女は察したのである。

彼女はすぐさま、ボロ布を敷き詰めて作ったベットから飛び起き、すがりつくように杖を持って歩きながら、外へと出た。

魔女は長年の研究の成果として、足音を消す魔法を会得していた。とはいうものの、これもまた科学で変えて替えの利くものであったが……。

 とかく彼女は音もなく獣道を踏み分け、風上へと登った。そこは少し地面が隆起しており、ある程度見晴らしが効くのである。そしてその眺めから魔女は、風下に人間の一団がいることを目敏く捉えた。長年に渡る自給自足の生活は、彼女の聴覚や視覚を極めて鋭敏に研ぎ澄ましていたのである。

 彼らは、盗賊団の一団のようだった。明らかに負傷しているものが何人かおり、その衣はいずれも汗に濡れ、垢と埃に塗れていた。おそらく官憲にでも追われ、この森に逃げおおせてきたのだろう。

「クケケ……」

酩酊の老婆の口の端から、気づけば面妖な声が漏れていた。強いていうなら、哄笑を表している声だ。しかしそれはもう、種々な感情の残滓がこびりついており、嗤い声と断定するのに、一抹の不安を感じるほど、曖昧なものになっていた。

魔女は嗤いと共に、ボロ同然のローブに縫い付けられた、袋に近いポケットから、香を一つ取り出し焚き始めた。すると、薄紫色をした、美香を放つ煙が立ち昇り、生温かい風に吹かれ風下へと下っていた。

「なんだ?」

盗賊たちは、不意に下ってきた煙に、訝しげな表情を作ったが、それはすぐさま、酩酊へと変わっていった。催眠作用のある煙は、疲労困憊の盗賊たちを瞬く間に、微睡みの底へと落としてしまったのだ。

老婆は、彼らが眠りこけているのを遠目から確認すると、また、あの判然としない嗤い声を漏らしながら、ヨタヨタと丘を下っていった。

寄ってみると、やはり盗賊たちは一様に地に臥し、呑気に鼾すら立てていた。いっそう大きな声で、腹を抱えながら、魔女は嘲りの嗤い声を響かせた。妙に、耳障りな、狂女特有の、かすれた声色だった。魔女は注射器のようなものを取り出すと、めいめい、盗賊たちに打ち込んでいった。中に入っているのは、即効性の毒薬である。

その作業の途中で魔女は、盗賊たちの中に一人、彫りの深い顔立ちの、美青年が混じっていることに気づいた。魔女は、期待に目を輝かせ、彼の肉体を覆う粗末な服を剥ぐと、よく日焼けした浅黒い肉体が、白日の下に晒された。その筋骨隆々とした肢体は、逞しいマッスを感じさせるものであり、またうっすらと汗に覆われており、燦燦と降り注ぐ日の光を浴びて、真っ白に輝いていた。魔女はいよいよ猛り、彼の腰巻を皺くちゃの指先で剥いだ。黒々と、生い茂る陰毛の中に、勃起はしていないものの、確かに包皮の剥けた、陰茎が隠されていた。魔女は、それをじっと眺めながら、彼の素肌を舐めずり、股間に手をやって、白昼の下あさましい行為に耽った。

しかしその途中、驚くべきことが、魔女の身に起きた。

「あう?」

後背で響いた奇妙な声に、魔女はほとんど素っ頓狂な悲鳴を上げて振り向いた。そこには一人の少女が首を傾げながら立っており、猫のように大きな、好奇心の強そうな瞳で、魔女を見つめていたのである。

魔女は驚き、少女の姿をじろじろと眺め、その様子をつぶさに観察した。彼女の髪はほとんど色が抜け、褪せた白色に染まっており、着ている衣服は汗染みだらけの粗末なもので、あちこち穴が空いており、少し動けば陰部すら露わになりそうだった。そして、その表情には一欠片の知性も感じられなかった。透き通るように無邪気な、動物的表情のみがあった。

── 白痴だ。魔女はそう感じた。おそらく盗賊たちに捕まり、肉人形として飼育されていたのだろう。事実、彼女の首には長い縄が巻きついており、その縄尻は地に垂れている。首輪、ということだろう。

魔女は、この娘を排除しようかとも思った。しかし、この時魔女の意識は珍しく明瞭としていた。衝撃、である。自身の痴態を見られた驚きと、それのもたらした心理的ショックは、魔女の錆びついた交感神経を強烈に刺激し、アドレナリンの分泌を促し、彼女の意識を混濁から掬い上げたのであった。そして、故に魔女はほとんど幼児じみたレベルではあったが、多少の論理的な思考が可能であった。即ち、分析と、それに基づく推論である。この白痴の少女は、ほとんど動物と変わらぬ存在である。おそらく自身が主人として、躾を施せば、いうことを聞くようになるだろう。魔女は老いのため、体の節々の自由が効かなくなっていた。この白痴の娘は、そんな自分の身を、少しは助けてくれるだろう。魔女はそう考えていた。

結論を出した魔女は、すぐさま魔法を用いた。途端に、地に落ちていた縄が宙に浮き、魔女の掌へとやってくる。

「あう!?」

突然の事態に少女は間の抜けた声を上げたが、抵抗するにはもう遅かった。魔女は縄を、近くにあった木に固く結びつけた。そして盗賊たちの衣服を剥いだり、生活に使えそうな荷を機敏な動作で拾い集めると、それらを全て手押し車に乗せた。作業が終わった魔女は、縄を木の幹からほどき、今度は自分の腰に結びつけると、少女を連れて、車を押し、上機嫌で自分の住むあばら屋へと戻っていった。

しかし一つ問題があった。それはこの時が、魔女の全生涯において最後の、正気を保っていた瞬間だったということである。彼女は以降、永遠に、迷妄の中で生きてゆくこととなる……。



── もう、何もかも、肉でできた機械。それでも日々は廻っていく……



あばら屋へと着く頃には、魔女はもう、すっかり正気を失い、元の痴呆に戻ってしまっていた。魔女は、自分の腰に巻かれた縄と、それが引っ張られるのに従い、よろよろと歩く少女に気づき、憤然とした。誰が、こんな、重荷を私に結びつけやがった。彼女の中に生まれた感情は、そんなものだったのだろう。彼女は手押し車を離し、積まれた荷の中から杖を取り出すと、それで少女を殴ろうとした。しかし、それは無理である。彼女はもう、腰がやられているのだ。彼女は杖を振り上げると、体勢を崩してよろめき、地べたに膝をついた。ますます憤然とした魔女は、よろよろと起き上がると、今度は近くの木の枝を掴み、体勢を整え、そしてもう一度杖を振り上げた。が、もう魔女の腕は痩せ細っており、大した力は込められない。もうただ、木の棒を使い、コン、コンと、少女の肩を叩くばかりである。その衝撃は、疲労困憊の少女にとって、むしろ心地よくすら感じられた。断続的に繰り返される、一定のリズムでの殴打に、少女は少しずつ睡魔を覚え、最後は地面に寝そべり、鼾をかき始めた。ここにおいて、魔女の怒りは最高潮となり、少女の首を絞めてやろうと飛びかかるも、ほとんど野生に近い生活を送ってきた少女の感覚は鋭敏であり、すぐに目覚めると、逆に魔女を押しのけ、突き飛ばしてしまった。尻餅をついた魔女は、流石に何か、馬鹿馬鹿しく感じられたらしく、少女の縄を引っ張り、家まで連れていた。おそらく、すでに盗賊たちによって「訓練」されていたのだろう。首の縄を引っ張られると、先程とは打って変わって、少女は拾ってきた猫のように、どこか怯えて大人しくなるのである。

あばら屋の中に入った魔女は、注意深く扉を閉め、鍵をかけた。長年の習慣のたまものであった。そして、少女の首の縄を離した。少女は、不慣れな環境に戸惑っているらしく、隅に隠れて縮こまりながら、あう、あうとあの変な鳴き声を上げていた。なんとなく、憐憫を誘うか弱げな声であった。ゆえに、ほんのちょっぴり残っていた、魔女の同情心を呼び起こした。魔女は、テーブルの上の籠に入っていた木の実を、2、3粒彼女にやった。すると少女はそれに飛びつき、あっという間に腹の中へ収めてしまった。空腹、これに勝てないのは、人間も、動物も、人間モドキも、一緒のようである……。

多少腹も膨れた少女は、安心したのか、部屋の隅に積んであった藁の上で、スヤスヤと寝息を立て始めた。先程、眠れなかった分でもある。煩わしいのが、やっと静かになってくれたので、魔女もまた、ほっと一息ついた。そして魔女はすぐに、日常の習慣を辿り、一つの作業を始めた。それは、「火」についての実験であった。

 あばら家の隅には一つの台があり、そこには上だけ丸い穴の開いた水晶玉が置かれている。魔女が、それに向かって魔法をかけると、たちまちのうちに水晶玉の中で小さな火が燃え始めた。これもまた魔女の術によるものである。魔女は、赤と橙の混じった火をじっと見つめると、またあの、クケケという、嗤い声を浮かべた。台にはいくつかの引き出しがついており、中には種々の粉末が入った袋がいくつも並んでいる。魔女はその中の一つを取りだすと、中身の粉を炎にまぶした。そしてじっと、水晶玉の中でおぼろげに燃える、炎を見つめた。三分、四分、五分、瞬きすらせずに眺めていたが、何も変化が起きないことを知ると、魔女は再び、次の粉末をまぶしはじめた。

 魔女が行おうとしているのは、炎の色を変える実験である。そしてそれは、魔女の原体験に根差す者である。元々、魔女が、魔術の道を目指した理由も、実はそこにある。彼女が幼いころ、町にやってきた流浪の奇術師。彼が広場で、町民たちの前で披露した、不思議な「魔法」。炎の色を変幻自在に変えてしまう、美しいパフォーマンス。この時、変わりゆく炎の色に、魔女は強い感動を覚えたのである。そして魔術を学び始めて以降も、憧れの念は消えることなく、零落した現在ですら、彼女は毎日のように、炎の色を変える実験を行なっているのである。

 無論、奇術師の披露したそれは、魔法などではない。ただの、炎色反応を利用した、「科学」である。リチウムなら赤、カルシウムなら緑、カリウムなら紫――寸分も、魔術の原理など介在していない。しかし魔女は盲目になってしまった。思えばこの時からすでに彼女には、狂女としての素質があったのかもしれない……。

 結局、あの時見たほどに美しく、炎は変色しなかった。どれだけ必死に、魔術を用いて薬品を作ってみても、ダメなのだ。魔女は次第に、この徒労への疲れと、鬱憤が溜まってきた。ダラダラと汗を流し、炎の放つ光を浴び過ぎたせいか、目も疲労し視界もぼやけはじめた。それでも、魔女は、また次の薬品を取りだそうとする。

 「あう、あう」

 魔女は、気づいた。いつの間にか、白痴の娘が起きている。起きて、水晶玉をじっと見つめてめいる。心なしか、どこかうっとりとした表情で。

 「……ケェ?」

 しゃがれた声を洩らし、魔女は口を半開きに開けた。煌々と燃える炎を映した少女の瞳は、淡い橙に染まっていた。魔女は、気づけば奇妙な溜息をついていた。

 「バカ……」

 うわごとのように呟くと、魔女は今度は自分が藁の上で寝そべった。そして、まどろみの底に落ちていった。

 残された少女は、燃える炎をじっと見つめていたが、後に火が絶えてしまうと、眠たげに魔女の傍らへ行き、体をぴったりくっつけ、眠りについた。


 

 野生の世界においても教育は存在する。教育とは本来極めてプリミティブな行為である。猫や鳥の世界において、親が子に餌の獲り方を教育するというのは、極めてありふれた営為である。しかしながら、この森の外の文明世界では、あらゆる事柄が理知的かつ実証的に規定されていく中、教育、この重大事に限って、未だに古い論理を引きずっている。教育とは極めて人間的な営為であり、侵すべからざる神聖なもの、という古色蒼然とした論理である。教育とは、聖職。こんな実のない建前を、まだ額縁の中に入れ、丁重に崇め奉っているのだ。これでは、教育の上手く行くはずもない。そのせいで外の世界においても、教育――この一点においては、無限に問題が存在する。形骸化された論理が跳梁跋扈し、真実は絶えず歪められ、極めて滑稽かつ醜悪な様相が、展開されているのである。

 その点、魔女と少女の間で行われた教育は、自然の理に従い行われているという点で、一歩勝っていた。存外にも少女は覚えが良かった。たったの2,3日で、魔女の首の縄を引く微妙な力加減に応じ、今自分は何をすべきか、理解するようになってきたのである。

 「ホイ!」

 小刻みに、二回引かれたならば、大抵は水だ。水を汲めという命令である。鋭く一回、掛け声つきなら、棚の上のものを取ること、それよりほんの少し弱ければ、エサをもらえる時である。魔女の表情や、その都度の掛け声も、重要である。少女は様々な情報を自分の中で器用に処理し、巧く魔女の命令に対応していた。そのこともあり、生活における魔女の負担は、少しずつ減っていき、代わりに活力が増していった。

 「クケケケケ」

 あの判然としない嗤い声も、高らかなものへと変わっていき、頻度自体も増えた。そして活力が増せば増すほど、根が単純なのだろうか、呼応して、白痴の少女もよく働くようになった。

 あの時の思惑通り、好転、しつつあった。しかし、この本能を潤滑油とする、機械的構造を持った魔女の精神空間においては、一つの作用が(実際の精巧機器のように)複層的な効用を発揮する。この時、魔女の心の深層にて休眠状態にあったはずの、埋め火が、再び激しく燃え上がらんとしていた。それは、野心、後悔、嗜虐、破壊――魔女を魔女をたらしむる様々な精神的要素が複雑に混合した、強烈千万な衝動であった。そしてこれは、曲がりなりにも保たれていた魔女の生活の秩序を、多少かき乱すこととなる……。

 まず、活力の復活により、純粋に行動可能な範囲が広がった。そして、白痴の少女のおかげで、一度に運搬できる荷の量が増えた。そして先述の、衝動。その帰結は、追い剝ぎ行為の頻繁化という形で表れた。結局この森に流れ着いてくるのは、消えてしまっても、誰も困らないようなアウトサイダーばかりである。それに、なまじ活力を取り戻したばかりに、魔女の生来の貪欲も、復活しつつあったのだ。魔女と少女は、人間の気配を覚えるとすぐに二人で風上へと移動し、あの香を焚き、そして犠牲者たちが眠りこけると、皆殺しにして金品や食料を奪いつくした。

 こうして、魔女たちの生活はますます余裕あるものへとなっていった。しかし、そんなことで魔女の欲望は満ち足りることはなかった。むしろ、益々猛っていった。そして肥大化した欲望は、更に魔女を、動物的存在へと貶めていった。わずかに残っていた理性の残滓も、みるみるうちに消え失せていく。意味は忘れたとしても、かろうじて発音だけ覚え、時に口に出すこともあったいくつかの語彙も、それにつれ忘却の彼方へと消えていった。こうして、魔女が本能機構に堕ちていったこと、それを如実に示すものが一つある。食人行為カニバリズムである。

 今まで、人ひとりの体を持ち帰るのは大変な労力だったし、また、食人というのはリスクの高い行為だった。が、今はもう状況が違う。少女がいれば、人ひとりの体くらいは持ち帰ることができる。また今の魔女には、試行回数とリスクの増大とを結びつけて考える知能もない。そして最も重大な理由は、人肉がことのほか美味に感じられたことである。それだけ魔女の日々の食生活が逼迫していたということでもあるが、人肉の味はやはり、魔女にとって忘れがたい珍味であり、しかも、精力を与えてくれるものとも思えた。実際、人肉を食べた次の日の朝などはとても目覚めがよく、体に活力がみなぎり、日々の作業にも精が出た。魔女は人肉の味を好みだし、今までとは違い人が森へ入ってくると、一切の危険を考慮せず襲うようになった。時たま、屈強な護衛たちに守られた、如何にも高貴そうな人物が森を通過することもあったのである。そういった時魔女は今までそれとなく危険を覚え、狩りを控えていた。彼らを探しに、兵隊などがやってきたら、極めて面倒なことになるからである。しかし、もうそんなこと、魔女にとってはどうでもよかった。大事なのは、肉の味ばかりであった。

 動物化は、ただ愚昧に堕ちていくばかりではなかった。一部の点においては効率化がなされた。捕えてきた人間の屠殺と解体、そして調理。これらの行動を繰り返すうちに、魔女は幼少期の頃の記憶を、少しずつ思い出してきていた。それは勿論、家畜の扱いに関することである。魔女は、自分の家で、自分の両親が、いったいどのように家畜を太らせ、調理し、食していたか、それを鮮明に思い出しつつあった。そしてその記憶は、魔女を、「実践」へと駆り立てた。これもまた、当然のことである。魔女の生きがいは、もう、肉を食らうことくらいしかなかったのである。そしてその為には、彼女は必死になる。工夫と想像を、凝らす。

 そんな状況の中で、また一人、森に迷い人がやってきた。一人の、高潔そうな顔つきをした、令嬢であった。

 彼女はある高家の一人娘であったが、罪を犯し、住んでいた都を追放され、この森まで流れ着いたのである。そしてそこを、魔女に襲撃された。

 魔女はいつも通り、風上にて香を焚き、彼女を昏睡せしめんとした。しかし、体質の問題なのだろうか、世の中には、この薬の効き目の悪い人間もいるのである。そしてこの令嬢も、その一人であった。彼女は襲い掛かってきた激しい睡魔をこらえ、異変を感じその場を逃げようとした。焦ったのは魔女である。久々の獲物なのだ。魔女は大急ぎで、白痴の少女と共に彼女のいたところまで下り、追撃を仕掛けようとした。

 「あなたたちは、何者なの!?」

 意識が朦朧としていたが、令嬢はキッと魔女を睨み付け、護身用のナイフを握りしめた。その眼差しには、精神の屈強さがよく表れている。

 「キィ……」

 魔女も思わずたじろいだ。直感で分かるのである。相手が厄介な存在であることを。

 「あうあう」

 その上、ここでアクシデントが起きた。白痴の少女は、令嬢の放つ、ほとんど殺気に近い闘志に怯えきってしまい、パニックになりかけていた。あう、あうと、如何にも不安げに鳴いており、魔女がすぐそばにいなければ、今頃逃げ出していただろう。

 「エエィ!!」

 しかし、魔女は苛立ったのだろうか。少女の脇腹を、持っていた杖で思いっきり叩いた。近頃の魔女は四肢にも肉がついてきており、以前より膂力も上がっていたため、少女もただでは済まない。キャンと悲鳴を上げ、その場にうずくまってしまった。

 「なんてことを!」

 令嬢はその姿を見て、怒りに燃えた。何も知らない彼女の目からすると、白痴の少女は憐憫の対象であった。粗末な着物に首の縄、ガリガリに痩せた肢体。令嬢は、少女を、哀れな魔女の奴隷くらいに思っていたのである。(勿論それは半分当たっているが、だからといって少女が「不幸」とは限らない)また、令嬢はことの他気の強い方であり、町を追放されたものも、その義侠心の暴走からヤクザな役人を殴り飛ばしたのが原因であった。そしてそんな彼女は、この時も正義の心に燃えた。香が判断力を奪っていたのもあるだろう。おそらく走れば逃げ切れたのだ。だが、理性の衰えた彼女は、生来の気の強さに身を任せ、魔女へと襲い掛かった。

 「ウワ……」

 思わず魔女は慌てふためいたが、ここで、誰も想像しなかったことが起きた。あれほど怯えきっていた少女が、令嬢を突き飛ばしたのである。

 「えっ……」

 突然のことに令嬢は驚いた。少女が危険を冒し魔女を庇うとは、夢にも思っていなかったのだ。

 「あう!」

 これは、魔女との生活のうちに芽生えた、少女の仲間意識のためである。白痴、すなわち動物当然の少女も、仲間意識くらいは、宿しているのである。そしてそれは、仲間意識というものが、類人猿を始めとした、社会性を持つ動物に生来備わった機能だからである。群れを成す動物においては、たとえ人間でなくとも、個の放棄と集団の献身という現象が、しばしば発生する。また、一部の知能の高い類人猿においては、「感謝」の概念すら持ち合わせいると言う。そしてこの時の少女の行動も、こういった「動物的」なものであった。彼女は、素晴らしい群れの一員であり、故に危険を顧みることなく、仲間を守った。群れ全体への奉仕を行ったのである。

 事実、少女の行動は決定打となった。少女の突き飛ばされた令嬢は尻餅をつき、しかも弾みでナイフを落としてしまった。その隙を、狡猾な魔女は決して見逃さなかった。彼女はすぐさま令嬢へと飛び掛かり、今度は鼻のすぐそばで薬を嗅がせ、令嬢を昏倒せしめた。そして縄で厳重に手足を縛り、荷台に乗せ、あばら家まで連れて行った。

 数日前、魔女はあばら家のすぐ脇に、かろうじて人ひとりが入れる大きさの、小屋を作っていた。そこには一つ、杭が深々と刺さっており、令嬢は鎖でその杭へと繋がれた。これは、脱走を封じ、なおかつ保育を円滑に行うためである。魔女は、幼少期の記憶より、家畜というものは、太らせた後食うのがよいとよく知っていた。そしてこの考えに基づき、魔女は令嬢への餌付けを行った。薬を混ぜた、残飯、これが令嬢には給仕されたのである。高潔なる令嬢はこれを当初拒んだが、飢餓の苦しみとはもとより人間、いや、ありとあらゆる動物にとって耐え難いものである。鋭い痛みは、時にすっと人間の神経を尖鋭なものとすることがある。しかし、飢餓のもたらす苦痛は、鋭痛などとはもとより種類の違うものであり、激しい欠乏の苦しみを、満身に味合わせるものである。空っぽの胃袋の上げる悲鳴は、際限なく令嬢の理性を揺さぶり続けた。そして、令嬢は残飯を獣のように口にした。こういったことが何度も起き、その度に、令嬢の理性は衰微していった。残飯の中に混ぜられた、薬品の効用である。これは阿片などと同様、摂取したものの脳を破壊する効用があり、また強い中毒性があった。一月も経たぬうちに、すっかり令嬢は、薬品の奴隷となっていた。彼女は今豚のように、貪欲に与えられた餌を貪り、その度に知能も衰え、今ではほとんど赤子と変わらないほどにまで堕ちていた。そして体の方も、丸々と肥え太り、かつての肢体の美しいしなやかさは、もうどこにも感じられなかった。

 ここまでは、魔女の思う通りであった。しかし、令嬢が知性を失っていくのに呼応し、魔女の予期していなかったことが起きた。白痴の少女が、令嬢に興味を抱き始めたことである。

 魔女にはもう、考えるということは出来ない。が、考えることが出来れば、容易に推測できたろう。白痴の少女にとって、知性ある人間とは自分を軽蔑し、迫害し、しばしば体すら犯してきた存在である。すなわち、恐怖の象徴であった。

 対して、今の令嬢は、自分とほとんど知性が同じで、また出会った時のように、いきなり武器をもって襲い掛かってくるということもない。ただ、ニヤニヤと、恍惚とした表情で笑っているばかりなのである。また、首についた鎖や、年齢、性別も、ほとんど二人は一致していた。結果令嬢は、白痴の少女のよい遊び相手となった。少女はしばしば、森の中を流れる河原から形のよい石を拾ってきて、それを令嬢の前で積んで見せた。少女が真剣な表情をして石を積むのを、令嬢もまたじっと見つめる。しかし、ふとした瞬間少女の油断の為、積まれた石が崩れてしまうと、ハッとして驚き、その後、少女と共に二人で笑い声を上げるのである。一見奇妙ではあるが、相応の注意を払って積み上げたものの崩れる緊張と、それのもたらすスリル、そしてすべて崩れてしまったあとの一瞬の喪失感と、その後に訪れる、緊張がほぐれたことにより自然と湧き出る笑い。こう考えれば、一連の流れの説明はつくだろう。

 また、少女はしばしば令嬢の前で、独楽遊びをすることがよくあった。この独楽は、どうしてか魔女のあばら家に最初から置いてあったものである。(実は、魔女が彼女の死んだ祖母からもらった形見であり、思い出の品であるため捨てずに持ってきただけなのだが、もう誰もそんなことは知らない)とかく、経緯などは、関係なく、少女たちは、その独楽で随分と楽しんだ、重要なのはこればかりである。存外、少女は独楽を廻すのが得意だった。そして上手く回せると、令嬢もまた大笑いし、それを喜んでくれるのである。つられて、少女も笑う。

 地獄、このあばら家を中心として旋回する光景は、地獄だろうか?人が人を食うさまは、白痴たちが下らない子どもの遊びに喜ぶさまは、地獄だろうか?

 ――しかし、「すべて」が、こうなる素質がある。全ては自然の中で起きている。そもそも我々が共食いという行為に得体の知れぬ嫌悪感を催すのも、進化論の立場から言えば、あっさりと説明がつくのである。共食いとは、種の繁栄の危機においてのみ、起こりうる行為である。それは間引きの為でなしに、深刻な食糧の不足の為に起きる。故に我々は共食いという行為に、種の滅びの兆しを覚え、本能という種の繁栄を至上命題とした総合意志の命令の為に、律儀なまでに鮮烈な恐怖を満身に覚えるのである。

 そう、あばら家の光景は、「冷静に」考えてみれば、ちっとも忌むべきものではない。



(だが、だとしても、やはり……)



 或る日、少女が朝目覚めると、あばら家の中には肉の焼ける、香ばしい香りが充満していた。

 「あう?」

 少女は首を傾げながら起き上がった。どうやらもう調理は済んでいるようで、テカテカと脂で光る肉の塊が、真っ黒な皿に盛りつけられていた。

 「ケッ」

 入口のドアが開き、魔女が姿を見せた。手には、もう一つ皿が持たれていた。勿論その上には、コンガリと焼けた肉の塊が置かれている。

 「ケッ」

 魔女は皿を、少女の前に置いた。お前の、分ということだろう。しかし少女は体質柄、あまり脂の多いものを好まなかった。それよりも少女は、あの、令嬢と、遊びたい気分だった。普段は、寝起きの意識のはっきりしない彼女だが、この時ばかりは、どうしてかよく目が醒めていた。彼女は、扉を開き、燦燦と輝く日の光が降り注ぐ、外へと出た。

 夏も近づいていることもあるのだろうが、この日の朝はとりわけ暑かった。うだるようだった。しかし、少女はまるでそれを、全く感じていないかのように、いつも通りの足取りで、小屋へと向かった。

 友達の姿はもうどこにもなかった。

 少女は狼狽えた。小屋の中に入り、狭い室内を探ってみたが、やはり令嬢はいない。ただ、木製の杭が、地に一本影を投げかけているばかりだ。

 少女は得体の知れない焦燥に駆られ、小屋を飛び出し、あばら家の周辺を回った。そして、あばら家のちょうど裏に来た時、少女は、見た。

 ――豚のように肥え太った令嬢は、細い鉄の棒に貫かれ、丸焼きにされていたのである。

 少女は、当初驚きの意を示した。しかし、それが令嬢とは気づかなかった。令嬢の丸焼きは、あちこち肉が切り取られ、骨の覗く部分も多々あった。しかも、物言わぬ、表情無き肉塊である。推論の出来ない少女にとって、それを令嬢の変わり果てた姿と見抜くのは、困難なことであった。

 その後も、少女はあちこち歩き回り、令嬢の姿を探した。しかし、全て徒労であった

 

 その頃、残された魔女は一人で、肉を味わっていた。脂の甘み、肉質の柔らかさ、どれをとっても格別だった。今まで食べてきたどんな肉よりも、美味に感じられた。魔女は、すっかり至上の幸福に、感じ入ってしまっていた。しかし、その時である。白痴の少女が、戻ってきた。

 「あう、あう、あう」

 少女は、部屋に入ってくるなり、何かを訴えかけるかのように鳴いた。顔は真っ赤に染まっており、全身から汗が噴き出していた。必死なのである。かすれるような声色だった。ひどく、切なげに響いた。

 「ゲッ!」

 しかし、そんな少女の気持ちは伝わらなかった。魔女は、腹立たしげに唸り声を上げた。彼女にとっては、目の前の食事の愉悦の方が、ずっと大事なことだった。

 だが、唸り声を上げ脅してみても、少女は一切怯える様子はない。むしろ、よりいっそう声を大きくして、訴えかけてきた。そしてそのことが、魔女の感情を逆撫でした。魔女は苛立ちに任せ、掌を少女にかざした。魔法の火花でも、浴びせかけてやろうと思った。痛い目を見れば、少しは大人しくなるだろうと考えたのだろう。

 ――炎は、変色した。

 それは全くもって不思議なことだった。宝石のように炎は輝き、そして色とりどりに変色していく。紅、黄、青、緑、紫。それは、炎色反応より、遥かに美しい現象だった。花の開花の秘める、美の一片、それを集め、凝縮させたかのような神秘を、感じさせるものだった。

 炎の変色は、魔女の憤懣を霧散させてしまった。彼女は神妙な表情して、掌の上で美しく燃える火を眺めていた。少女もまた同様である。目の前で巻き起こる神秘が、彼女の心を水のように澄んだ、透明なものとした。二人は、しばらくの間ずっと、炎の変色を見つめ続けていた。

 ――そこに、救いはあったか……?




 これより、魔女がどんな運命を辿ったのか、それを知る者は誰もいない。人肉食を続けたことにより、脳髄が犯され病苦の中死んだのか。欲望を制御できぬあまり、危険を省みず狩りを行い、返り討ちにされたのか。それとも少女に看取られながら、ひっそりと病死していったのか。全ては、闇の中である。

 では、少女の方はどうなったのであろう。これもやはり、長生きは出来まい。もう魔女の余命が短いのである。魔術の心得もない、完全な白痴の彼女だけでは、魔女亡きあとの生活は厳しいものとなるだろう。もしかしたら、急速な発展と拡大を続けている文明世界が、森を開拓し、彼女を発見するかもしれない。だが、文明世界に彼女の居場所などあるだろうか。大嫌いな、知的存在たちにより、勝手に哀れまれ、救貧院か精神病院に入れられ、一生涯を無為に費やすのが関の山だろう。それならば、森での生活と、大して変わりはない。何もかもが同様に、無意義だ。

 無為、この一言にあらゆる出来事が収斂されていく。人の見出してきた価値や意味は、結局何もかもが、虚仮であり徒労なのか。いや、こんな疑念すらも、荒漠な徒労の海に、今現在も呑み込まれつつあるのか。

 おそらく、そうである。厳密になってしまえば、全てが滅んでいく。

 しかし、例えば少女。のちに火は燃え尽き、一瞬の静寂が訪れる。そして少女が思い出したのは、自身のすきっ腹である。故に彼女は、テーブルの上の、冷めてはしまったが、脂したたる肉を、喰らい始めた。おそらく令嬢のことも忘れていくだろう、生活の営みの中で。社会性のある生物とはいえ、本来どのような個体も、仲間の死を乗り越える機能が備わっていなくてはならない。種の繁栄という巨大な目標の為に。そしてそれは、やはり少女についても同様なのだ。彼女が薄情者というわけではない。当たり前の、ことなのだ。

 だが、全てが当たり前のことであり、神秘などどこにもない、そんなことを少女は気にかけているだろうか。今一心不乱に肉へとかぶりつく少女の表情に、絶望はあるか。

 厳密とは、死へと続く道。ならば、曖昧に走るしかないではないか。そしてなお都合のいいことに、私たちは元来、曖昧な存在ではないか。もう何もかも、曖昧な尺度の中で、語ってしまおう。それが、いい。唯物論の世界の中で、一つの聖域を作る。救いようのない愚者たちが知らず知らずのうちにやっているように、やってしまおう。無の中にあるものを、さらさらと探して掬い取って、そしてまた眠ろう。起きれば、また、無味乾燥な朝がやってくるから、そこでまた、描き出そう。

私たちの背景には、常に荒漠な虚無のスクリーンが展開されている。そこから逃れる為に必要なものは、パラドシキルですらあるが、やはり人間の智慧だろう。智も所詮は手段であり、用途によりその性質を変化させる。あらゆるものを無為と化す、最大の暴力として用いることも出来れば、あらゆる有機性に理解を示し、そしてその中に心を溶かしていく為の、「人間智」として用いることも出来る。動物という無機、虚無という無機、それらを併せ持ち、それでもなお波打つ大海へ救済を求める、人間という不可思議な、矛盾を内包する曖昧な存在。今我々は、我々とは何か、もう一度新しいレベルで規定し直す必要がある──



 

 

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