ゆび
青い壁で囲まれた、小さな部屋の中で、彼はピアノを弾いていた。白くしなやかなゆびが、鍵盤の上で軽やかに踊る。彼の表情もまた、屈託のないものであり、穏やかな陶酔に浸っているのがよく分かった。
まもなくして、演奏は終了した。美しい旋律は少しずつ萎んでいき、最後は青い部屋に溶け消えていった。
「素晴らしい……」
部屋の隅、丸椅子に座って演奏を聞いていた初老の紳士は、思わず立ち上がり、両の手を興奮に任せ力一杯叩いた。その表情には明らかに、驚嘆が現れている。
「どうも」
穏やかな笑みを崩さぬままに、彼は老紳士に会釈した。軽やかな所作であった。
「いったい君は、どこでこんな技術を……?」
「……いえ、これは僕の技術ではありません」
怪訝な表情を浮かべる老紳士をよそに、彼は、うっとりと自分の指を見つめながら、こう続けた。
「僕のゆびの技術なのです」
彼の声色は、愛に満ち満ちていた。
彼と言う人間の特異性は、ただ「ゆび」という一点に集約される。彼は、自分のゆびを他人と思っていた。いや、それだけではない。自分の指に、性愛の感情を抱いていた。
昔、ある彼の友人が、こう尋ねたことがある。
「君は、恋人がいないのだね。意外なことだ。これほどにも才に溢れ、上背もあり、美男子なんだ。女の一人や二人、自然に生きていれば出来るだろうに」
彼はこの問いに返し、笑ってこう返した。
「僕には想い人がいるからね」
そう言いながら、彼はそのしなやかな指を、かざすようにして友人に見せた。
「だが、その想い人とやらはね、交接のできる存在なのか?」
彼は、顔を恥ずかしそうに赤らめながら、黙ってコクリとうなづいた。
実際、彼の言ったことは事実だった。彼は毎晩のように、ゆびと交わっていた。まずはその白く、しなやかなゆびを口中に含む。そしてしばらくの間、その滑らかな表皮、うっすらとついた肉、芯にある骨の硬さを、ゆっくりと味わう。それが終われば、媚液にぬらついたゆびを、無毛の陰部にあてがって……。
彼は、こんなことを毎晩のように繰り返していた。
彼の演奏を聴いた老人は、彼のパトロンとなり、その芸術活動の一切の後援を担った。老人の湯水のような財と、芸術評論家としての優れた名声、その二つを後ろ盾に、彼は天真爛漫なほど悠々と、美学の世界を席巻した。
彼の演奏の屈託の無い軽やかさは、しばしば聴くものの心に奔放なる解き放たれた愛情を覚えさせた。彼の描く暖色を核とした油彩画の数々もまた同様だった。彼の絵画は、瑕疵なき愛の充足の美香を放っていた。
「いったい、あなたは何を自分の核として、創作活動を行っているのです?」
ある展覧会で記者から尋ねられた時、彼は包み隠すことなく、己の真実を揚々と語った。
「── 愛、です」
凡俗の人々にとって、自分に向けられる愛は恥じるべきものである。そして他人へと向ける愛は、絶えることなく離別の危機に脅かされている。しかし、彼はこの世界で、唯一の例外だった。彼は自分の愛するゆびと、肉体的にも精神的にも密接に繋がっている。仮初めの、勢い任せの言葉では無い。本当に、いつもすぐそばにいる。これは、素晴らしいことだった。彼は、自己の中に、愛する人を抱いている。それが、その事実こそが、彼のあらゆる芸術的営為の源泉だった。あらゆる営みも、彼にとっては── 愛の共同作業だったのだ。
「彼の表現するあらゆるものには、真実の愛が宿っている!!」
老人は彼を絶賞した。彼は、自身の精神的畸形によって生み出された、芸術史上の大傑物だった。
しかし、栄華は── いつも儚い。
「どうして殺した?」
灰色の、殺風景な部屋の中だった。石像のような、厳しい顔つきをした男が、鉛色の手錠をかけられた彼に、刃のように鋭く尋ねた。
「愛、の為です」
彼はまるで顔を失ったかのように俯いていた。
「歩いていると、一人の若い青年から、いきなり唾を吐きかけられました。そして罵られました。『オマエはインチキだ!指への愛情など、カリソメ、バカを騙すための、口実に過ぎない!!オマエの作品には技巧のカケラもない!!』こういった心無い言葉を、僕はかけられたのです」
「だからといって、殺すのか?」
「愛のためです」
彼は、色味の無い声色で続けた。声は、ひどく不気味に、灰色の壁で閉ざされた狭い取調室の中に、響き渡った。
「僕は、自分の愛するゆびを、否定されることに耐えきれなかった」
彼は、機械のように抑揚のない口調のまま続けた。その眼差しは、焦点が合っていない。
「彼のひとことひとことが、僕の胸を痛めた。肺が、小さく萎むような心地すらした。そして、ゆびが僕に問いかけてきた。妙にざわつくような声で、囁いた。『心中しませう』。僕はポケットの中にあった、ペーパーナイフを握りしめました。そして、足も、心も、ゆびに、貸してあげることにしたんだんです。
――視界が暗転しました。そして、軽やかに飛び散る朱い飛沫に、我を取り戻しました」
「……」
証言を聞いた担当の刑事は、何ともいえない沈鬱そうな表情を作った。彼は、どこかやりきれなさそうだった。
「まあ、いい。お前に罪があることは間違いない。留置所まで連れていけ」
刑事は、傍らにいた部下にそう告げた。彼は縄に繋がれ、連行されていった。一人残った警部は、連れていかれる彼の後ろ姿を見て溜息をついた。警部は彼から、その心の奥底にある、夢色の淀みだまりを感じていた。そしてそれは彼にとって、嫌気が差すようなものだったのだ。
しかしそれでも、まだ仕事は無限にあった。重い腰を上げ、部屋を出ると、参考人として呼ばれていた老人が、青い顔で警部に話しかけた。
「彼はどうなってしまうのですか?」
明らかに、天才の喪失を、心から恐れる表情だった。
「どうもこうもありません。当分ブタ箱か、精神病棟行きですよ」
吐き捨てるように、刑事は答えた。
「なんという……」
言葉を失う老人を見て、警部はもう一度嘆息した。そして、こう返した。
「老人、あなたは勘違いしている。奴の愛情は、翳りなきものなどではない。人を、盲目にしてしまう、厄介なものなのですよ。そう、病に近いものです」
刑事の言葉を聞いた老人は、顔を真っ赤にして、唾をまき散らしながら叫んだ。
「病!?違う。それこそが純粋な愛というものだろう!!これだからお前たちのような下衆は……」
「違います違います。私だって女房がいる。芸術については知らずとも、恋だの愛だのは多少知っていますよ。その上で言うのは、恋というのが、底すらない奈落ということです。あれは、まるで深海のように未知に溢れている。それなのに、生まれた時から、あらゆる人間が背負っていかなくてはならない。中にはこの、わけのわからぬ感情のはたらきについて、何もかもを知ったような顔する輩もいるが……」
眉間に小さい皺を作りながら、刑事は続けた。
「それは虚栄だ。誰も、恋について何一つ知っていない。まったくもって、人生というものは面倒くさいものだ」
「面倒くさい……か…………」
老人は、落ち着きを取り戻していた。いや、それ以上に、鬱屈していた。
刑事はそんな彼の姿を見下ろしながら、もう一度溜息をして、こう告げた。
「さあ、今度はあなたから話を聞く番だ。どうか、中にお入りください」
刑事は、自分の言ってることはあながち間違いでないと思っていた。実際に、面倒くさいことになった。そしてそれはこれからも起こることだ。この世界の至るところで――
その頃青年は、額縁のような鉄格子の底で、恍惚としながら、自分の指を舐め味わっていた。
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