第12話 死体
やけに明るい夜の部屋の片隅には一つの死体があった。死体はもう随分と酸化してしまった赤黒い血で塗れていた。
そして、なおのこと驚いたのは部屋の持ち主である。
彼は新卒の会社員だった。ブルブルと心を小刻みに揺らしながら今日初出社し、あれこれ式に出たり研修を受けたり、そうした後帰ってきたのだ。
それは短いのか長いのかよく分からない一日だった。あの式は取りあえず長かった。名前も顔も知らない、とかく偉ぶった人たちが沢山出てきてあれこれと実のあるのか無いのか分からぬ話をする。あの時間は非常に長かった。しかし帰りの時間、夕映えを浴びて輝く汽車を見て一日を振り返ると、ああ、束の間の一日だったなと勝手に笑みが漏れ出てきたのだ。楽天的な学生時代の間久しく忘れていた、妙にくたびれた笑いが。
そしてもう一つ、彼はもう自分が随分と疲れていることに気づいた。
車窓から沈みゆく夕日を見ながら、彼は帰宅後のことについて思いを馳せていた。真っ先に脳裏へと浮かんできたのは布団のことだった。ガタンゴトンと揺られていると、あの温かみがやけに恋しくなるのだ。睡魔に襲われ覚束ぬ意識の中、彼はただその感触ばかりを夢想していた。
しかし、家に帰れば待っていたのは死体だった。
しかも野暮な死体だった。ムダ毛がぼうぼうと生えている、武骨な中年の死体だった。なんと、腐敗臭の代わりに、加齢臭が臭ってくるのである。
彼は大学時代のある講義を思い出した。室町時代の歌人が、親の葬儀でも屁が出るもんだと歌を詠み、それを江戸時代の歌人が、儒教道徳の立場から徹底批判するというエピソードを、以前講義で紹介されたのだ。ちぐはぐさと奇天烈さが印象的で、今になっても覚えていたのだ。
また、彼がわざわざこんなエピソードを思い出したのは、死体を見て、通勤のため列車に乗った時こんな匂いを嗅いだぞと、イヤな顔する自分に気づいたからである。
命がどれだけ尊いものか、彼は幼少の頃から教え込まれてきた。勿論彼だけに限らず、現代人はほぼ全員そう教育されている。人ひとりの命は地球より重いという、よくよく考えてみるとちゃんちゃらおかしい発言も、道徳の授業で聞かされた。しかし今の彼は、呆れかえるくらいそういったウエットな気分と無縁だった。
疲労のせいか、眠気のせいか?それとも、社会人になったせいか?よく分からなかったが、彼はほとんど酩酊しているかのような気分で死体を幾重にも袋で包み、ゴミ捨て場に放り投げた。
後日死体遺棄の容疑で逮捕された時、彼はこう答えたという。
「いや、僕だって朝起きた時、あれもしかして、僕はとてもマズイことをしてしまったんじゃないかと思ったんです。けれども、ゴミ捨て場に向かってみたら、もう回収されてしまっていて。じゃあ、もういいかって。多分あれは、疲労が見せた悪い夢だたんだろうと、自分に言い聞かせることにしたんです。えっ、そもそも何で、死体をゴミ捨て場に捨てたかって? それは……どうしてでしょう。ただ、一つ言えるのは……あの時の僕はとても疲れていたということです」
ちなみに、死体の主は空き巣だった。どうにも、彼の部屋に侵入し、ものを漁っている途中で、たまたま心臓麻痺を起こしそのまま死んでしまったようである。不幸――そう言うほかにない。
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