第8話 蛭巻氏2 

 その日の晩、蛭巻氏はブドウを食べていた。

 古びたテーブルの上に、木目の皿。そして皿の上に、大粒のブドウをおいて、ゆっくりと食べていた。

 彼は無言で食べていた。面倒臭そうにシワくちゃの指先で、不器用にカワを剥くと、薄緑色の実をポイと、口の中に放り込む。そしてまた、面倒臭そうにタネを吐き出す。

 時折失敗して、ガリッという音が口内に響く。するとバツの悪そうな顔をして、そのままゴクリと実ごと呑み込む。

 とかく氏は、無心でブドウを食べていた。好物なのである。

 

 そんな彼だが、もうブドウの粒も2、3になったところで、こんなことを呟いた。

 「……女を抱きたい」

 今にも消え入りそうな声色だったが、確かに氏はこう言った。一瞬、訳が分からず沈黙するが、すぐにかぶりを振る。そして、その言葉を頭の中から追い出そうとする。

 しかし、その試みは中々上手くいかなかった。もう既に、彼が先刻「女」を求めたという事実は、楔のように、彼の心へ突き刺さっていた。

 「どうして……」

 蛭巻氏は、茫然とした表情で虚空を見つめた。無意識のうちに、ブドウの粒を口の中に放り込みながら。

 ガリ、ガリと噛むと、タネとカワとの苦味渋味が、口いっぱいに広がっていった。


 蛭巻氏という人間を一言で表現するなら、それは“怯懦”である。そして、もう一言付けたしてもよいなら、それは“羞恥心”である。

 ネガティブな要素を、多分に含むこの二語だが、氏の人生において、この二つの性質は非常に重要なものであった。というのも彼は怯懦と羞恥の導きにより、これまでの人生で、道を外すことなく生きてこれたのだから。退屈だが比較的安全な、凡人としての人生を。

 しかし、そんな蛭巻氏でも、厄介な決断を強いられる機会というものは、やはり存在するのである。そして過去に訪れたそのような機会で、下したある決断のせいで、彼は未だに童貞なのであった。

 それは、まだ彼が二十代のころまで遡る――




 当時の彼は、大学の研究室で働いていた。大学の研究室などと言うと、如何にもクリエイティヴィティの求められそうな環境ではあるが、どうしてそのような場所で彼がやっていけたのか。その理由は単純である。一つは成り行き。そしてもう一つは、別に追い出す必要がなかったからである。彼だって、雑用としては完全無欠な素質を持っているのだ。無能な、働き者としての。

 とかく、彼は大学で働いていた。そして彼は、生徒からも同僚からも教授からも見くびられていた、案の定。しかし、別に反発する気や、見返してやろうなんて野心は、湧いてこなかった。人間二十にもなれば、身の程くらい分かるものである。(大天才と大々盆暗を除いては)

 しかし、こういう波風を立てない人間というのは、害こそないものの、とかくつまらない。そしてつまらない人間だからこそ、周りの人間からしてみれば、イジめたくなってくる。面白くしてやりたく、なってくる。

 生憎蛭巻氏の仕えていた教授は、遊び心盛んな人間であった。そしてついでに、下卑た自分が大好きな人種だった。彼は複数人の腹心と共に、痛快な計画を考えだした。それは、蛭巻氏に女を抱かせてみようというものであった。

 彼らがこういった発想に至った理由、それは簡単である。彼らは氏に恐怖を覚えていたのである。前述の通り、蛭巻氏は怯懦と羞恥の天才である。故に蛭巻氏は、凡百の人間と違い、性的欲求というものを、完全に隠し通すという偉業を成し遂げていた。

 いくら酒を飲ませ、グワングワンに酔わせても、なんなら蓮っ葉な性格の同輩(女子)が、ちょっと手を握ったりしてみても無反応。まるで冷灰のごとくである。そしてこのことは彼の周りの、世の凡百の人間、性欲を隠し切れぬ人々に、ある種の畏怖を抱かさせていた。勿論それは表面に上って来ない、水面下のものであった。しかし、遊びだの悪戯だのを行う時、こういう無意識が表面化する。要するに教授らは、氏というものに獣欲のあること、自分らと同じ人種であることを、確かめたかったのである。


 ここで、先に答えを言っておこう。当然のことながら、彼とて人並みの性欲はある。秋の夜長の寂しさに負け、不意に「女を抱きたい」とごちるくらいには、ある。ただ、隠せるだけなのである。常人ならば、隠そうとしても隠し切れぬものを、隠せてしまうだけなのである。

 (――ある古の随筆家は、「賢い女ほどつまらないものはない」と言ったが、氏のケースはどうもこの類例のようである)


 しかし、そんなこと教授たちは分からない。ということで、ある時開かれた宴会において、蛭巻氏はベロンベロンになるまで呑まされた。氏は怯懦の天才であるから、毅然とした態度で断るなどという、超人的な所業は行えないのである。

 そして十分に酒が回り、夜の闇も深まってきたところで、女子どもは家に帰しての、一大享楽の始まりである。一行は戦に勝利し凱旋する軍団のように、意気揚々とした調子で、歓楽街を行軍した。

 しかし、流石は天才である。引きずられるようにして、千鳥足で街を歩いていた蛭巻氏は、いち早くその魔力から脱しようとしていた。ネオンサインの毒々しい輝きによって、彼の怯懦は十分に刺激された。彼は酩酊から目覚めつつあった。

 「き、教授……ここはどこですかあ?」

 まだ朦朧としていたが、これくらい尋ねることは出来た。

 「バカ、風俗街だよ!これから突撃するぞ!!」

 鷹揚とした調子で、教授は答えた。もう五十路に近い御仁なのであるが……。

 「え、ええ!?風俗街!!」

 「なんだ!怖気づいたか!!」

 「い、いや…怖気づいたわけではないのですが……」

 本当は怖気づいていたが、それを悟られるのはイヤだった。恥ずかしかった。次の句に困った氏は、しばらく口をもごもごさせていた。

 「いいか蛭巻!前々から思っていたが、お前には勇気が足らん!もっと勇気をもつんだ!!ここの商売女どもは、その点いい噛ませ犬だ」

 「は、はあ……」

 分かったような、分からないような……。そんな気分ではあったが、取りあえず蛭巻氏は、人形のように首を振ってみた。

 「女ってのはな、男の自信に惹かれるんだ!実証主義的研究においても、文学なんかの見地からしても、これは確定事項なんだ!!いいか、だから抱け!金は俺が出してやる。だから、抱いてこい!!そうすれば、お前は輝く。もっと女からもてるようになるし、仕事の方も今よりゃマシになるだろうさ。だから――抱け!!!」

 「え、ええ……」

 勿論、教授の言っていることは勢い任せの出まかせである。別に蛭巻氏のことなんて、なあんにも慮っていない。ただの悪ふざけである。しかし悲しいかな。蛭巻氏は、偉い人がこんな勢いで進めてくるというだけで、もう断れなかった。天才故の代償である。怯懦の天才は、畢竟押しに弱かった。

 しかし――

 「……イヤです」

 ポツリと、蛭巻氏は呟いた。

 そして、一瞬場は水を打ったように、しんと静まり返った。

 「いや、いや!だってお前、童貞だろどうせ!こんな機会、中々ねえぞ!!」

 失った勢いを取り戻そうとするかの如く、教授が声を張り上げる。

 「で、でも……嫌なものは嫌なんですよ」

 しかし、蛭巻氏は今にも泣き出しそうな様子でそう答えた。

 (こ、コイツ)

 読者は覚えているだろうか。そもそも教授らの企みは、サディズムに近いものから生まれたのである。そして、こういう人間特有の、「メンツ」という思考。いくら蛭巻氏が、大の大人が泣き出しそうだからと言って、事を止めるわけにはいかなかった。彼らはより一層の勢いで、蛭巻氏を引きずっていった。しかも、「遊び」の代わりに「意地」という、男特有の面倒臭い呪いまで、そこには加わっていた。彼らは強情を張る蛭巻氏を、額に汗を浮かべながら、引きずっていった。

 結局この争いは、教授らの勝利で終わった。多勢に無勢ということを考えても、当然ではあるのだが。

 (う、うう…………)

 心の中では、もうとっくに氏は泣き出していた。しかし彼らはそれに構うことなく、彼をけばけばしい下品な店内に押し込んだ。そして店側も、取り敢えず彼を待合室に連れてきた。上客である教授の頼みである。多少蛭巻氏の様子がおかしいからといって、断るわけにもいかなかった。



 待合室の内装は、如何にも俗気にまみれていた。ショッキングピンク一色で塗りつくされた内装に、仄暗く輝く、豪奢を騙るがために、一層安っぽいルームライト。湧き立つ臭気。欲望の具現。九の臭気の中に一混ざる、甘ったるさ。微かに鼻孔をつく、精液の匂い。

 生々しかった。毒っぽかった。あまりにも露だった。

 ――ここから先は、極めて個人的な話となる。故に、共感はしづらいかもしれぬ。ただ、共感できぬというならば、人種も世にいることを、覚えておいてほしいのである。


 氏には子どものころから、誰にも言えぬ秘密があった。それは、彼が花だとか、蝶だとか、陽光だとか、そういう詩美を感ぜさせるものを、愛しているということである。

 彼が先程見せた抵抗も、結局はそのためである。一体なんであろう。彼を彼たらしめるたった一つの矜持。それを汚されることを、彼は心の底から嫌がったのだ。

 しかし、染みついた習性はそう簡単には消えぬ。こびりついた錆の代償を、彼はこれから払わせられるのだ。彼は、逃げることは出来なかった。時運に、全てを放棄してしまった。

 堅い椅子に身を沈め、うつむき、足をブルブルと小刻みに震わせ、そんな中彼の考えていたのは、どうにか出てくる商売女が、存在でありますように、ということだった。要するに彼は、ことが終わったのち、「ああ、やっぱりこんなものか」そう自分の嘆息していることを、心の底から望んでいた。それは数少ない、逃げ道であった。いや、ことによると…唯一の……。


 ――そして、その時は訪れた。彼は娼婦の元へと、案内された。

 ここで、一つ留意すべき点を挙げよう。それは、娼婦という存在が、神に近い存在であるということだ。キリストと愛し合った、マグダラのマリア、犬儒学派の哲学者、ディオゲネスに体を許したフリュイ、好例はいくらでもある。これは、時代を貫く真実である。娼婦は、貞潔な貴婦人などよりも、よほど神に通ずるのだ。

 

 幸か不幸か?この時の、蛭巻氏の場合はと言うと――


 仄暗い部屋の中で、媚態を晒すその娘を一目見て、彼は絶句した。

 「どうも、よろしくお願いします」

 あどけなさの残る、幼い顔立ち。いかにも純っぽい瞳。艶やかな黒髪。真っ白な柔肌。

 その娼婦、いや、少女は―残念ながら─神に通ずる方だった。「少女」という神性を、宿す者だった。愚かなくらい、無垢な娘であった。

 「では、奉仕させていただきます」

 うやうやしく女は、裸のまま礼をした。そして如何にも慣れない感じで、しなを作りながら、氏を抱きしめようとした。

 蛭巻氏は、一歩も動けなかった。そのまま、少女に唇を許した。

 (なんていうことだ!)

 蛭巻氏は、少女に、母でいてほしかった。姉でいてほしかった。妹でいてほしかった。恋人でいてほしかった。娘でいてほしかった。しかし少女は、氏の奴隷であった。金で買われた、肉の人形であった。

 あんな風に、口を吸われたくなかった。固く抱きしめ合い、見つめ合う。ただそれだけでよかった。彼が本当に手に入れたかったのは、官能をなぞる快楽ではない。心を暖めてくれる、詩美であった。

 「あれ、お気に召しませんでしたか?」

 可愛らしい猫撫声で、少女が上目遣いをして、尋ねてくる。何とも蠱惑的な仕草であった。しかも、少女はその行為が、男の官能をどれだけ揺さぶるか分かっていなかった。少女は、天然の淫乱だった。

 (…………)

 蛭巻氏は、もう堕ちてしまいたい気分になった。大体、女一人抱くくらい何なのだ。皆んな、やっているではないか。そんな気分にすらなってきた。

 「ねえ、しようよ。私、下手だけどさ、それでもお金出るし、頑張るつもりだよ」

 少女は無垢過ぎた。だから氏も行為を汚らわしいと、感じなくなってくる。だが――

 「いや、抱かぬ」

 氏は生まれて初めて、強情というものを発揮した。

 「えっ、何で?」

 「理由などない。抱かぬと言えば抱かぬ」

 「……変なの。じゃあ、あとの時間、どうするの?」

 「そうだな……。じゃあ、少しの間だけでいいから」

 「いいから?」

 「世間話でもしよう」

 「はあ。やっぱり変なの。初めて見たよ、あなたみたいな人」

 少女はしきりに、首を傾げていたが、まあ客が望むならと世間話を始めた。

 「へえ、お兄さん。大学で働いてるんだ。頭いいんだねー」

 対する彼女は、なんと中卒であった。

 「お金もなくて困ってたところ、ここの店長にスカウトされてさ。もう感謝してもしきれないよ。だから、精一杯働いて、恩返しするんだ」

 少女は無邪気な調子で、どこまでも天真爛漫に色々な話をしてくれた。

 「そうか、そうか」

 この時蛭巻氏は、揺り籠の中で眠るような、平和を享受していた。人生の中でも指折りの、素晴らしい時間であった。しかし、そんな安穏も、まもなく終わりが来る。

 「あっ、もうそろそろ時間だ」

 時計を見上げて、少女が呟いた。

 「何だって?もうかい?」

 「うん。でも、ありがとね。お兄さん、いい人だね。私よくさあ、話しててつまらないって言われるんだあ。オチがないとか言われてさ」

 「いや、いや。僕の方こそ、楽しかったよ。まあたまには、こういうのもいいもんだ」

 「そう、まあ喜んでいただけたら何よりだよ。良かったら、また来てね」

 「ああ、そうするよ」

 


 こうして蛭巻氏は、自分というものを崩すことなく、帰還に成功した。彼を待ち構えていた教授らは、氏が少女に何もしなかったことを聞き、一様に驚愕していた。

 「いやいや、一番若くて、綺麗な子をあてがってもらったんだぞ」

 「いや、えへへ、何か、未成年っぽかったんで……」

 氏はしきりにこう繰り返し、その場をごまかした。こうして教授の目論見は失敗に終わった。蛭巻氏の人生、数少ない、格上相手の勝利であった。

 ――しかし、あの少女と蛭巻氏が、再び出会うことはなかった。何でもある日突然、蒸発してしまったのだという。

 (まあ、あの子らしいと言えば、あの子らしいかも)

 あのまま年を取り、汚れていくよりは、美しい純白のまま、露のように消えてもらいたい。蛭巻氏は、そう思っていたのだ。





 そして、今に戻る。

 「そう言えば、あんなこともあったもんだ」

 氏はしみじみとした気分で呟いた。

 「あの時抱いていれば、どうなってたのかなあ?」

 今と何も、変わらないような気もする。しかし、「もしも」という言葉の持つ魔力は――

 「いや、やはり何も変わるまい」

 やはり氏は、怯懦の天才である。無意識の恐怖で、巧く抑えつけてしまった。そうである。考えても仕方ないし、あともう一つ。本質に触れることの恐ろしさを、彼はよく自覚していた。臆病者らしい、処世術という奴である。 

 そして、何はともあれ、明日はいつでもやってくる。蛭巻氏の頭の中では、過去の栄光のことはもう随分と小さくなっていた。代わりに、雑事で満たされた明日のことが……。

「さて、歯でも磨いて眠るとするか。虫歯になったら大変だ」

 こうして彼は、いつまでもどこまでも、「人間」として生きていくのである。無論、死ぬまでね。

 

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