第5話 月を背負って

 どしゃぶりの雨の中、一人の男が毛布にくるまれた「荷物」を抱え、息を切らして走っている。時刻は深夜。最も闇が深い頃。最も人を拒む時間である。

 それなのにどうして、男はこんなにも必死になって走っているのか。軀を打つ雨を気にかけることもなく。

 どれほどの角を曲がったのだろうか。ようやく男は辿り着いた。街において最も人が立ち寄らぬ、悪夢の館に。蠢く蜘蛛たちが主を務める魔の館に。亡霊だの鬼火だの血も凍る逸話に飾られた暗闇の館に。

 しかし、男は安堵の表情を浮かべる。―仕事を終えた盗賊の浮かべるそれと、男の笑みはよく似ていた。男は扉を荒々しく蹴破り、館の中に入っていった。そして毛布の中身を床にぶちまけた。驚くべきことに、男の荷物とは屍体だった。年端もいかぬ少女の屍体である。開ききった瞳孔が、月の光を浴びて怪しく光輝いている。人のものではない。屍者のみが放つことの出来る、不気味な光だ。

 しかし男は目もくれぬ。男はますます安堵した。風船から気が漏れるように、男の体から強張りが抜けていった。仕事を果たした歓喜、館の闇が与える恐怖、その二つが混ざり合い、互いに互いを昂らせる。結果はなにか。大破顔である。底の抜けた大破顔をもって、彼は自身を取り巻く異様な状況に応えた。館の静寂は、完全にこの高笑いによってかき消された。永い永い笑い。永遠に続くかと思われるほど。

 ―そのときである。

 「何をしている。」

 しわがれた、低い声が、男に投げかけられた。その声色は怒りに震えていた。男に対する明白な殺意が、はっきりと感じとれる。

 男は瞬く間に色を失った。男は地獄へ転がり落ちたかのような感覚を味わった。

いつの間に接近していたのか。足音すら立てずに、その怪物は現れた。

 異様に背の高い白髪の老人。声の主の正体である。老人の目は熱した鉄のように、爛々と赤く輝いていた。

 男は全てを理解した。彼は死に物狂いで足をばたつかせた。尊厳も何も無い、不格好な逃走を行ったのである。

 「はっ。」

 その様子を見ていた怪老人は、呆れ返って溜息を漏らした。彼の顔に、怒りと冷笑が同時に刻まれた。

 「……。」

 男の排除を果たした老人は、次は男の置き土産に目を留めてみた。

 「随分と…幼いではないか。」

 老人はまず、少女の幼さに驚いた。まだ8、9歳くらいか。少女の顔をまじまじと見つめていた老人は、少女の顔に、あの男の面影が感じられることに気づいた。おそらく二人は親子関係だったのだろう。

 「なぜ父が娘の屍をかついで我が館に?」

 老人は低い声で呟いた。そして自答した。

 「まあ予想はつくがな!」

 老人は少女の頬に手を触れた。まだ微かに、温もりが残っている。

 常人では感ぜられぬ何かを、老人は感じ取ったようだ。老人はゆっくりと口角を上げて、この世のものとは思えぬ怖気の走る笑みを、満面に浮かべた。

 「まだ湯気が立っているナア。面白いことになってきたぞお…。ゴイル!!」 

 老人の呼びかけに応じ、部屋の隅から音も立てずに、一匹の黒猫が現れた。

 「にゃんだい博士?」

 場の雰囲気にそぐわぬ、明るい声で黒猫―ゴイルは老人に尋ねた。

 「あの男を追え。始末してこい。既成事実を作っておかんとな。」

 「相変わらず残忍なヒト。」

 黒猫は真っ直ぐに体を跳ねた。そして闇に溶け込み、消え去っていった。

 ゴイルが行ったのを確認した後、老人は少女を抱きかかえた。

 「地獄か天国か?悪魔か天使か?まあ今はどうでもいいさ。全ては未来において断定される。

 老人は自嘲気味に呟く。

 「そうさ。人間だってよくやるじゃないか。未来には、何を期待したって構わねえんだ。ククク…そうだろお嬢ちゃん?」

 吐き捨てた後、老人と少女は闇の中に消えていった。


 屋敷の「裏」の扉が、ギイイと軋みながら開く。耳ではなく魂に響く音だ。扉の隙間からゴイルが姿を見せた。

 「ただいまー。帰って来たよ。蜘蛛博士。」

 蜘蛛博士、老人の通称だ。

 「おかえり。随分と遅かったな。道草食っていたのか?猫のくせに。」

 老人はどんな時でも、言葉に棘を含ませるのを忘れない。他人の気持ちなど何も考えていないのだろう。

 「だって早く帰ってきても、どうせお仕事中でしょ。邪魔しちゃ悪いにゃあと思ったのさ。」

 「…好きにしろ。」

 「ああ、まただ。冷たい返事。…でどうだったの?上手くいったの?」

 「……俺を誰だと思っている?」

 「蜘蛛博士、……傲慢で冷酷な怪老人。死についての自称スペシャリスト、だっけ。その口振りはうまくいったようだね。」

 「当然だ。」

 博士は真顔で答えた。

 「そこに“患者”がいるぜ。成功だよ。ちゃんと動く。」

 「ふうん。」

 ゴイルは部屋の中心に置かれた手術台に飛び乗った。台の上には、布で覆われた少女が横たわっていた。

 「ハハハ。哀れな娘。父親に殴り殺された挙句、死後の安息も得られないなんて!」

 少女の顔の布をめくりながら、ゴイルがのたまった。

 少女の顔からは生気が感じられない。スヤスヤと眠っているようにも見えるのだが。

 「皮肉を言うなよ畜生め。そうか、やはり子殺しか。大当たりだぜ。ククク…。

 「あんたも笑うなよ。殺す前に尋ねたんだ。小便まき散らして答えてくれたよ。」

 「想像したくないな。」

 「ばっちいよねホント。まあゲテモノなりに美味しかったよ。」

 「なんでも腐りかけが美味いんだ。魂すらもな。」

 「その通りだね。…おっ、博士、この娘…。」

 「覚醒か。」

 二人は好奇に満ちた視線を少女に向けた。


 少女はゆっくりと起き上がった。そして周りをキョロキョロと見渡した。

 少女は傍らの二人に気付いたようだ。

 「………。」

 少女は何か言おうとしたようだ。しかし上手く声を出せていない。

 (ねえ、博士、どういうことコレ?)

  ゴイルが視線で疑問を呈すると、博士は少しばかし眉を顰めた。

 (ああ、不具合か。)

 ゴイルもそれとなく察したようだ。

 (流石に困惑してるな。まあ無理もないか。)

 博士はしばし考えを巡らせた後、少女の額に触れた。

 死者たちの世界において非常に重要なルール―精神が肉体を介さない―を利用するようだ。死者たちは精神と精神とを直接触れ合わせる。肉体を介す生者のやり方

と比べると、一長一短の手法ではあるが、少なくとも意思疎通という一点のみならば、生者のそれより便利なものである。

 (私の名は蜘蛛博士……。今お前の心に直接語りかけている……。)

 (傍らの黒猫はゴイル……。こいつも私と同じ、死者の世界の人間だ……。)

 (お前の疑問に答えてやろう……。お前は父親に殺された後、街外れのこの館に遺棄された……。そして館の住人である私が、お前を死者の世界に誘った……。)

 (お前が声を失ったのは私のミスだ……。まあこの程度の不具合は当然だがな……。)

 (何故私を死者の世界に?…だって?まあ…強いて言うなら気紛れだ……。)

 「以上だ。他に質問は?)

 「……。」

 少女はひとまず首を横に振った。

 「……。」

 少女は少し逡巡した後、ゴイルにそっと触れた。

 「…なんだい?」

 ゴイルの心の中に、少女からのメッセージが伝わった。

 (ああ、初めましてのあいさつね。こちらこそよろしく。)

 「博士ー、この子、アガサっていうんだって。今教えてくれた。いやあ、真っ先に挨拶ができるなんていい子だよ本当。あっ、僕見た通り喋ったりできるよ。それに魔法とかも少しばかし使える。助けが要るならいつでも言ってねアガサちゃん。」

 そう言ってゴイルは自分の頬をアガサの頬にすりつけた。

 「……何というか、予想よりも早く順応したな。もっとギャアギャアわめくかと思ったぞ。」

 「あの親父の元にいたら順応力高くなるでしょ。」

 「……。」

 (ああ、君の親父なら死んだよ。君を殺したのがバレて、絞首刑になっちゃった。)

 もちろん真っ赤な嘘である。主犯はゴイル自身だ。この猫は、見た目よりずっと質が悪い。後にアガサも、その厄介さをいやというほど思い知ることになるのだが…。

 「ああそうだ。挨拶代わりの贈呈品がある。少し傷んでいるが気にするな。お古だから仕方ない。」

 博士の贈り物とは、ツギハギだらけの、灰色のローブだった。

 「…。」

 アガサは顔をほころばせた。

 「礼などいらん。それより……少しブカブカになってしまったな。」

 「まっ、肌着一枚よりマシだよ。それに、よく似合ってるじゃないか。」

 灰色の髪と灰色の瞳と、灰色のローブである。はっきり言って、そこまで似合ってはいない。少女のお洒落として最悪の部類である。まあ、死者が外見にこだわるのも、妙な話ではあるが…。

 「さて、アガサ。お前も死者の世界の住人になったんだ。作法もそれに従ってもらいたい。…しかし、まだ死者の世界がどういったものか、実感が湧かまい。というわけでゴイル、ちょっとばかしこの辺りを案内してこい。」

 「ええー、面倒臭いよー。…まあでもアガサちゃんのためなら仕方ないね。」

 (相変わらず、息を吸って吐くように嘘をつくな。)

 博士は気づかれぬよう、小声で、心の中で毒づいた。

 「という訳で、行こうかアガサちゃん!僕が快適な死者ライフの送り方を教授してあげるよ!」

 屈託のない笑みを浮かべてゴイルが言った。

 その笑みの裏には、アガサに対する皮肉めいた嘲りが潜んでいるのだが。

 そして、無邪気で幼いアガサはそのことに気付けていたのだろうか。この段階で。

 (未来には何を期待してもいいんだってさ。アガサちゃん。)

 実はゴイルは密かに、アガサへの羨望を抱いていたのだ。彼も結局は、重い鎖を引きずっているのだろう。


 館の外に出てまず最初に気付いたことは、時の流れ方の違いだった。アガサは不思議そうに空を見上げた。黒い霧のようなものが、一面に広がっている死の空を。

 子どもなりに敏感に感じ取ったのであろう。そして浸ったのであろう。独特の感慨に。

 「……賢い子だな。」

 アガサの驚きと、それに勝る感慨に気付いたゴイルが呟いた。

 「……。」

 アガサは再び歩き始めた。生きていたころの感覚との決別を、それは意味していたのだが…。子どもはしばしば短絡的になれる。彼女は素直に、あっさりと、死者の感覚を受け入れた。太陽を背にして歩くのか、月を背にして歩くのか、多くの場合、選択権は与えられていない。それはアガサも同じことのはずだったのだ。しかし運命は、彼女を奇妙な迷い道に導いた。そして、今後の結末を見れば、彼女は「上手に翻弄された」と言えるだろう。

 という訳で、アガサとゴイルはまた歩き始めた。

 死者の世界、その景色はとても殺風景だ。どこまでも荒れ地が広がっている。たまにポツポツと樹木なども生えているが、例外なく樹皮の色はどす黒い。アガサはその光景を物珍しそうに見つめている。最初は何だって新鮮なものだ。樹木の中にはたまに実がなっているものもある。

 「食べてみるかい。」

 アガサは木の実を一つ採ってみた。ドロドロと赤い色をした実だ。

 「僕はいらない。丸かじりしてみなよ。」

 結論から言うと、かなり美味である。癖のない、味わい深い甘さだ。

 「意外だけど、毒もないし、味もいいんだよねコレ。」

 あっという間に一つ食べきってしまったアガサは、恥ずかしそうに指を一本立てた。

 「もひとつ食いたいなら好きにどうぞ。…案外食い意地のはった子だね。」

 存命中は腹いっぱい食ったことなかったのだ。仕方あるまい。

 しばらく歩いていると、歩行する骸骨とすれちがった。

 アガサは完全に目を点にしている。

 (あまり気にするな。あいつ、かなり傷んでる。傷を癒すため逃げているのさ。)

 アガサがコクコクとうなずいた。二人は骸骨を刺激しないようにそっと歩いた。

 「あれは妖怪の一種だな。とかく短絡的な奴らだ。」

 (しかし傷を負っていたということは…妖怪どうしの争いか?いや、それとも…。)

 ゴイルは歩みを止めて、しばし考えを巡らせた。その様子を、アガサが立ち止まって不安げに見つめている。

 「……!」

 アガサはゴイルの肩をポンと叩いた。道の向こうから、一人の男がやってきたのだ。

 「チッ、『外れ』の方かよ。」

 さっきと似たような骸骨なら「当たり」だ。妖怪ならいくらでも対処法がある。しかし、現れたのは黒い衣を纏った神父である。十字架を首からぶら下げた、いかめしい顔つきの神父である。

 「……沈鬱な神父か。」

 神父はゴイルの方をジッと見つめた。

 「やめろ、あんたの邪魔をする気はない。」

 その声を聞くと、神父はアガサの方へ視線を移した。

 アガサも流石にひるんでしまい、一歩後ずさりした。それでもなんとか道を譲る動作をして、敵意がないことを示した。

 それで神父は満足したのか、再び歩き始めた。

 二人は安堵の溜息をつきかけた、そのときである。強力な拳の一撃が、ゴイルに向かって、繰り出された。

 「なっ!」

 ゴイルは大慌てで飛び跳ね、最初の一発を空振りさせた。

 ―が、

 「ドカッ。」

 連続で繰り出された腕のぶん回しは捌ききれなかった。

 「……!」

 ゴイルは地に伏した。

 「……。」

 アガサは戸惑い、怯えている。完全に色を失っていた。

 ゴイルを倒した神父が一切の表情を変えることなく、アガサの元に近づいてきた。それにつれ、アガサの心臓の鼓動も段々、早く、強くなっていく。いまやそれは、早鐘のように鳴り響いている。

 「……!!」

 アガサは声にならない叫びを上げた。アガサは強力に何かを訴えようとしていた。

 死者たちの精神は直接触れ合う―アガサの叫びは神父の心に一つの波紋を残した。

 「……ついてこい。」

 一言だけ投げかけ、神父は踵を返した。

 アガサは傍らで伏せるゴイルに、一瞬目配せして、歩み始めた。

 安心して―、彼女はゴイルにそう伝えたのである。彼女は既に覚悟を決めていた。

 残されたゴイルは、二つの靴の音の残響を、痛みに呻きながら聞くことしかできなかった。

 そしてその残響は、徐々にか細いものとなり、最後は大気に溶け、消えていった。

 

 二人が中々帰ってこないので、不穏に思った蜘蛛博士は、外に出ての捜索を開始していた。

 「ゴイルがいるのだから、余程の事がない限り大丈夫だろう。」

 博士は楽観的な観測をしていたのである。

 しかししばらく歩いていると、傷だらけになった骸骨とすれちがった。

 「……。」

 そしてもうしばらくして、遂にボロボロのゴイルに出くわしたのである。

 「オイオイ、なにがあったんだ。」

 博士は鞄から緊急の治療セットを取り出した。

 「……マズいことになったよ。アガサが『神父』にさらわれた。」

 「なんだと!?」

 博士はうろたえた。神父が外出しているというのも珍しい。その上、アガサを誘拐するなど、完全に想定外である。

 「……。」

 博士はゴイルを手早く治療した後、早口で言った。その顔には焦りが表れている。

 「ゴイル!お前は館に帰って、安静をとれ。私は神父の元へと向かう!!」

 「わ、分かったよ。でも、奴の居場所が分かるの?」

 「安心しろ、大体見当はつく。」

 そう言うと博士は、全速力で無人の荒野を駆けていった。


 その頃、神父は遂にアガサと共に目的地へと辿り着いていた。

 その目的地とは荒廃しきった教会であった。壁一面にツタが絡みつき、高々と掲げられた十字架もところどころ欠けている。外壁はボロボロに痛み、塗装が剥がれているし、鉄の門にはビッチリと赤サビが付いており、少し触れたら崩れてしまいそうだ。 

 「……中に入れ。」

 分厚い教会の門が、音もなく開いた。

 アガサは既に覚悟を決めている。アガサはこみ上げる恐怖を必死に抑え、教会の内部に入った。

 「明かりはないぞ。足元に気をつけろ、せいぜいな。」

 窓から差し込むわずかな光を頼りに、アガサは神父の後を追った。極端にものの少ない、埃っぽい教会の中で、二人の足音だけが不気味に響く。

 神父がふと立ち止まった。その際、わずかではあるが、彼の体が強張りを見せた。そして、あの赤く輝く双眸をアガサに向けた。狂気と殺気の全てが、その光には宿っている。射すくめられたアガサは思わず後ずさりした。

 「……あれを見ろ。」

 神父が恐ろしく低い声で命令を下す。アガサの視線は部屋の隅の暖炉に向けられた。

 煌々と火が燃え盛っているわけでも、灰が幾重にも降り積もっているわけでもない。暖炉の中には何もなかった。空っぽだった。

 「あの中に何がつまっているか分かるか?『無』だ。」

 急に雨が降り始めた。車軸を転がしたような大豪雨である。

 「『原初の泥』が、あの暖炉には渦巻いている。」

 降り注ぐ雨が激しい音を立てている。土砂降りである。しかし、神父の怒りと憎悪の炎は勢いを増していく。彼の鬼気迫る負の気の一切は、アガサただ一人に向けられていた。彼にとって、アガサは間違いなく排除すべき存在のようだ。アガサは直感的に理解した。

―彼は、私を、あの暖炉の中に放り込む気なのだと―

 目まぐるしい状況変化に対する困惑、あまりに強力な敵意に対する恐怖、背中を伝う脂汗への不快感―それら全てが混ざり合った結果、彼女は一つの叫び声を上げた。それは大気の振動をもたらさずとも、何か霊的なもの、魂魄に激しく訴えかける力をもっていた。彼女の内包する諸感情が全て、救済の切望へと転換された。その裏には己の人生に対する、想像を絶する深い悲しみがあったのだろう。

 肉体を介在しない、剥き出しの魂が、少しずつ変質していく。叫びに揺さぶられ、溶け出し、そしてまた一つの形に収斂していく。零れ落ちた魂の雫が成形されたことにより、彼女は一対の、翼のようなものを、その双肩に背負った。


 先程翼のようなものと述べたが、彼女のそれは、鳥だの天使だのがもつ翼と、いくつかの点で明白に異なっていた。

 まず第一に、彼女の翼は、明るい褐色をしていた。純白とは異なる澱んだ色だ。

 そして第二に、それは翼というにはあまりにも硬かった。甲殻類の持つ殻と鳥類のしなやかで軽い羽毛、彼女の翼は双方を併せ持っていた。無骨な印象を与える硬質の翼だった。

 「何だそれは!?」

 さしもの神父も怪訝な表情を浮かべ、驚嘆を表した。その眼尻は完全につり上がっている。それなりに長く生きてきた神父ですら初めて目の当たりにする光景だったのだ。

 「……。」

 激情の放出により、冷静さを取り戻したのか、アガサは毅然として、神父と対峙していた。アガサの瞳に、一切の怯えや不安はない。あらゆる迷いが、そこから取り除かれている。彼女は、むしろ、超然としていた。単純な力量関係ではなく、魂の気高さとでも言うべき部分で、彼女は神父を、凌駕していたのである。

 酷く耳障りな雨音が、神父の焦燥を煽り立てたる。神父は自身の血管が膨張していることに気付いた。彼は微かな痛みを感じた。身体の表皮が、僅かに抉り取られたような、不快で鋭利な痛みだった。同時に、視界が少し揺らいだ。ぼやけてきた。

 虚脱感が彼の一切を支配し始めた。神経の昂りが嘘のように、静まり返っていく。

 それでも、神父は、体勢を崩すことはない。全身の、ありとあらゆる元気を集めて踏ん張った。彼を支えていたものは、今にも倒れそうな彼を支えていたものとは―崇高なる使命感であった。己の全てを捧げてきた高潔な何かが、彼の血を熱く滾らせていたのだ。

 両者は完全に拮抗していた。二人とも、一歩も動かず、石のように息を潜めていた。凄まじい緊張状態が生まれ、異様な気が周囲に張り詰めた。しかし、優勢だったのはアガサである。真正面から緊張を受け止め、少しずつ気を削がれつつある神父に対し、アガサは水のような平常心を保ちつつ、ただただ超然としていたのである。彼女は全てを受け流しているかのようだった。最早神父の敗北は時間の問題であった。

 が、運命と言うべきか、何か崇高な存在に引きずられたかのように、その男は現れた。両者と対等で、その拮抗を崩せる存在―蜘蛛博士である。無造作に扉を開ける音と共に、息も絶え絶えの痩身の老人が姿を見せた。老人の白髪は汗でべっとりと湿っており、その青白い顔も興奮で上気していた。

 「アウネラ!?」

 既に屈服寸前だった神父が真っ先に口を開いた。口調から察するに、博士と神父は既知の間柄のようである。

 「久しぶりだなアーテル。何十年ぶりだ?」

 アウネラ、蜘蛛博士の本名である。アーテル、これもまた、神父の本名である。また、この二人の本名を知るものは特に少ない。

 「36年と4カ月だ。…どうしてお前がここに?」

 「そうだよ蜘蛛博士、どうして来たの?それにこの感じ、二人は知り合いなの?」

 「ん?ああ……。知り合いだよ。ちょっとばかし因縁という奴があってだな。」

 博士は何となく違和感を覚えた。あの辻褄が合わないという、モヤッとした感覚。

 博士が違和感の正体に気付くまでそこまで時間はかからなかった。

 「私が来たのはアガサ、お前を助けるためだ。……そしてアガサ、今気づいたんだが。」 

 「…ああ、そうだね。」

 「お前喋れるようになったのか!?」

 「……うん。」

 アガサはコクンと頷いた。

 「……。」

 事情を知らぬ神父はただただ不思議そうに首をかしげている。

 「……あと、その翼みたいなものはなんだ?」

 「さっき生えてきたの。あの、神父って人に投げ込まれそうになったときに……。」

 博士は怪訝そうな表情を浮かべて神父の方を見た。

 「あれだよ。」

 神父はぶっきらぼうに、部屋の隅を指差した。

 「…暖炉か。“Nothing”が詰まってやがる。」

 「…“Nothing”?」

 「そう”Nothing"、俗に『原初の泥』って呼ばれることもある。我々死者にとっての『死』、それはしばしば魂の消滅を意味する。その要因は様々だが、最も容易なのは、『原初の泥』に魂を還す事さ。」

 博士は両目を一層つり上げて叫んだ。

 「要するにお前は、この神父に『殺される』ところだったんだ!!」

 「…『殺す』か。」

 神父はボソリと呟いた。

 「……死者にも『死』があるんだ。でも、人を殺すのには動機がいるよね。」

 「……動機か。確かにそうだな。お前の動機はなんだアーテル!?」

 「……別に、大したことではない。」

 冷たい沈黙が、場を支配した。博士は無意識のうちに息を呑む自分に気付いた。

 アガサはただ隙間風に羽をそよがせている。

 神父はゆっくりと口を開いた。

 「私は、ゴミの廃棄を行おうとしただけだ。」

 痛みにも似た驚愕を覚えた博士に目もくれず、神父は続けた。

 「生者でも死者でもない中途半端な存在は、とてもとても不浄だろう。あの方の『教え』では、純粋な存在のみが貴ばれる。」

 「おい、アーテル、お前……。」

 「アウネラ、貴様の行為も一つの罪悪だ。その小娘を何故起こした。眠らせておくべきだ。もしくは、肉体を破壊すべきだ。」

 ……死者の世界で活動するには純粋な魂が、生者の世界で生きるには魂と肉体がいる。現在のアガサは中途半端な魂と、壊れかけの肉体をもっている。とても歪で、不確かな存在、それが今のアガサだ。

 「おいアーテル、お前は不浄という言葉を使ったな。」

 「……そうだ。それがどうかしたか。」

 「蜘蛛が清潔を好むと思うか。」

 「……フン。」

 神父は腹立たし気に鼻を鳴らした。最早会話の余地はない、そう判断したのであろう。彼は懐から銀のナイフを取り出した。

 「止めろ、ろくでもないことになるぞ。」

 「だまれ虫ケラが。」

 渾身の力で繰り出された一撃。しかし、その切っ先は届かない。

 「ポキン。」

 硬質の翼で、アガサが博士をかばったのだ。ナイフは根元で折れてしまった。

 「小娘が……!!」

 神父は焦りと苛立ちを同時に覚えている。瞬く間に顔が紅潮し、グロテスクな血管が皺くちゃの皮膚に浮かんだ。

 「無意味だよ。」

 アガサはしなやかに手をかざした。この動作が表すものは阻止だ。それを意識した刹那、神父の体は石のように動かなくなってしまった。

 ―死者の精神は、直接作用し合う。

 「帰ろう博士。」

 神父の敗北と共に、アガサは振り返り、博士に目をくれた。

 灰色の瞳はガラス細工のような透明感を感じさせるものだった。何かを超越した存在に、アガサはなってしまったのだろうか。しかし、博士には、どうしてもその力の依拠する根源が脆弱に思われたのだ。一度気を抜けば手からすり抜け落ちてしまう、美しい水晶玉を、博士はどこか連想していた。

 「……そうだな。」

 博士は頭をもたげる諸感情を抑えて歩み始めた。いまだに衝撃の余韻の残る身体を動かすのはどうにも億劫だ。しかし行かねばならぬ。

 「もう、雨も、止んでしまっている。」

 あれほど激しく降っていた雨も、すっかり上がっていた。

 そして、二人は教会を後にした。抜け殻のように立ち尽くして動かない神父を残して。


 帰途に就いた二人は、奇妙な感慨にとらわれながら会話をしていた。

 「ねえ、博士、ゴイルは無事?」

 「ハハハ無事だよ。大した怪我じゃない。」

 「ああ、良かった…。」

 ほっと胸をなでおろすアガサを見て、博士は安心感を覚えた。アガサの年相応な反応を見られたからである。

 「しかし、アガサよ。どうやってお前は、あの翼を手に入れたのだ。」

 翼は教会を出て以降、少しずつ希薄化していた。今ではもうかなり薄く、色も透明に近い。

 「……なんかよく分からないけど、なにもかもが嫌になったのかな、何か強い感情が溢れたの。そしたらこれが生えてきて…。」

 「そうか、奇妙なこともあるもんだ。」

 「……もしかして、私が不浄なことに関係があるのかな。」

 「……お前、不浄の意味は分かっているのか。」

 「翼が生えてから、前よりも魂がよく見えるようになったの。他の人は色の濃い、ちょっと不気味な白色、でも私の魂はどこか濁って黒ずんでいる。……これが不浄ということでしょ。」

 「…まあ、大体正解だ。死者の世界で活動するには魂がいる。生者の世界で生きるには、肉体と、肉体によく馴染んだ魂がいる。死者の魂は白一色。生者の魂は色鮮やかだ。その二つの中間に、お前の魂を固定したのが私だ。お前はどちらの世界にも行ける。肉体も、生者の世界の教会で保管しているしな。」

 「そうだったんだ…。でもなんで私を博士はどっちつかずの存在にしたの。」

 「……やはりそう来るか。」

 博士は分かっていたのに、逡巡してしまった。答えが一つしかないことも分かっているのに。

 「お前は二匹目なんだ。」

 「…二匹目?」

 屈託のない笑みを浮かべて、博士は続けた。

 「一匹目が死んだから、二匹目を作ったのさ。

 「…よく分からないや。」

 「何だうつむいてしまって。今の状況に不満があるのか。」

 「…不満というか、何というか。本当に分からないことがたくさんだな私。」

 「フフ、人生そんなものさ。安心しろ、私も随分と長く生きてきたが、肝心なことは何一つ分からん。」

 「…そういうものなのかな。」

 「そういうものさ。」

 暗い道を二人は歩き続けた。

 「ねえ博士、博士がどうして私をこんな風にしたのか理由はよく分からないけど、ありがとう。私を生き返らせてくれて。」

 博士は歩みを止めた。アガサの博士を見上げる顔に、希望が宿っていることを、彼は見て取った。

 「生き返らすか……。」

 「……何となく言っておきたかったの。不思議だよね。生きていたころよりも、今、この殺風景な世界にいる方が、ずっと生きてるって感じがする。」

 アガサの言葉の節々には、強い力が籠っている。その力に影響されてか、博士は久しぶりに、らしくない微笑を浮かべた。純粋に、嬉しかったのだ。

 「面白いことを言うようになったなアガサ。」

 二人は真っ暗な道を、一歩ずつはっきりと踏みしめていった。 

 

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