第17話 少年、夏の浜辺を逃げ回る
海風が顔を撫でるように吹きつける。
足元の砂浜は夏の日差しを受けて、火照るように熱くなっている。
あれから半日後の昼下がり。
僕がいるのは首都圏のとある海水浴場だ。もっともまだ海開きになって間もないので泳いでいる人間は少ない。海辺の防波堤の陰に身を隠しながら僕はそっと辺りの様子を伺っていた。
しかし既にこの場所に来て一時間が経過していた。何も起きないではないか、と僕がしびれを切らし始めたその時、携帯電話に着信が入った。表示されている相手は花咲である。
僕はため息をついて通話ボタンをオンにする。
『どうだい? 何か起こったかな?』
「いいや。今のところ何も。……やっぱり罠だと思われているんじゃないか?」
『確かに疑ってはいるだろうが、仮にそうでも宿木の立場としては放置しておくわけにはいかないはずだ。私を探し出すためにどんなわずかな手掛かりでも欲しがっているはずだからな』
「そんなものかな」
僕が注視している先にあるのは人気の少ない浜辺の隅に建てられた小屋である。本格的なシーズンになれば店舗として営業するのだろうが、今はまだただの空き家も同然だ。そしてその小屋の入り口に目立たないように花咲の使用していた量子通信グラスが置かれていた。
さらに現在、その電源はオンになっている状態なのである。
花咲の考えた作戦はこうだった。
宿木はつい先日、花咲の量子通信グラスのGPS情報を元に彼女を捕まえようとした。そこで今度は敢えてその位置情報をわかるような状況にして、相手が近づいてくるのを待つことにする。
勿論、一度オフにした量子通信グラスをわざわざオンにしたのだから、相手も怪しんで近づくのをためらうかもしれない。
だが、直接的にせよ間接的にせよ何らかの動きを見せるはずなので、そこを突いて相手の動向を探るというのが彼女の目論見だった。
しかし、彼女が使用していた量子通信グラスからなんらかの手掛かりを探られてこちらの情報を与えるわけにはいかない。
そういうわけで、僕は量子通信グラスを置いた場所に近づいてくる人間を探ると同時に、それを相手に渡さないようにすぐに回収できる位置に身をひそめて待ち伏せをすることになったのだ。
しかし今のところ特に変化はない。
見込み違いだったのでは、と疑い始めていたちょうどその時、一台の車が海岸沿いの道路を走ってきて慌ただしく停車した。車種はいわゆるバンタイプで、こういっては何だが「人間を連れ去って運ぶ」のにも使えそうな設計だ。
ドアを開けて姿を現したのは三人の男だった。
一人は神経質そうな細身の学者肌。
もう一人は大柄で巨大な丸太を連想させるような、目つきの悪いレスラー体型。
最後に髪を派手な茶色に染めてチェーンネックレスをしてカーゴパンツを穿いたストリートギャング風。
明らかに地元の人間ではないし、かといって遊びに来た観光客というには不自然な風情である。彼らは何やら言葉を交わしながら、何かを探し回るようなそぶりで浜辺を徘徊し始めた。
これはもしや、と僕は彼らを観察すると三人とも同じデザインの眼鏡をかけているのが見て取れた。あの宿木が量産していた量子通信グラスである。
彼らはやがて小屋に向かって歩き始めた。
「花咲。……どうやら現れたみたいだ。花咲の量子通信グラスを置いた場所に近づいてくる奴がいる」
『何だって? 何人くらいだ?』
「三人だ」
『わかった。そのまま例のアプリを起動してくれ』
僕の携帯には事前に花咲が自作した通信アプリがインストールされていた。花咲との通話を保持したまま、アプリを起動させるとノイズ交じりに音声が聞こえてくる。
『……あの辺りか。GPSの反応があったのは』
『誰もいないじゃねえか。どうなってんだよ? ああ?』
『落ち着いてくださいよ、檜原さん。宿木さんも言っていたでしょう。ただの囮で、我々の目を引き付ける目的の可能性もあるから空振りに終わるかもしれないと』
花咲の量子通信グラスには動画撮影機能も付いていて、音声も拾えるようになっているのだ。そして僕の携帯電話と同期させることで近づいてくるものの様子を探ろうとしていたわけである。
どうやら、あの大柄で粗暴そうな男は「檜原」というらしい。そして学者風の男は「宿木」という名前を口にした。どうやら間違いないようだ。
「花咲、どうする? 近づいてきたけれど」
「ああ。顔と名前はカメラから確認できた。情報としてはもう十分だ。あとは打ち合わせどおりに頼むよ」
「わかった」
三人の男たちは小屋にある量子通信グラスに気が付いたらしい。
『おい? あそこにグラスがあるみたいだが』
『とりあえず回収しましょう。分析すれば何かしらの痕跡は出てくるかもしれません』
男たちはやり取りをしながら小屋の一角に歩み寄る。
もう少し、もう少し近づいてくれ。
胸中で呟きながら僕はタイミングを計る。やがて三人の男たちは量子通信グラスが置かれたベンチを囲むような位置で動きを止めた。
今しかない。僕は花咲に事前に渡されていたリモコンスイッチを入れる。
その瞬間。シューッと音を立てて小屋の天井に設置されたスプレーから液体が霧状に散布された。
「わあ! な、何だ?」
「目に! 目に何かかかった!」
スプレーは狙い通りに三人の男たちの頭上から散布された。彼らは顔を抑えて苦しそうに動きを止めた。
僕はその隙に防波堤から飛び出すと量子通信グラスを掴んで小屋の裏に回り、そのまま道路の方へ走り出す。
「おい! あそこに誰か走っていったぞ」
あのストリートファッションの男が僕の方を指さした。どうやらあの男にだけは少量しか薬液がかからなかったらしい。しかも悪いことにたまたま向こうからは僕の逃げ出した方向が見えるような角度だったようだ。
「本当か? ふざけた真似しやがって。とっ捕まえてやる!」
花咲が仕掛けたスプレーで動きが止まった隙に量子通信グラスを回収したまでは良かったが、簡単にはいかないようだ。
僕は焦りながら急いでその場を離れるべく、全速力で走りだす。
通りに来る前に身を隠さなくては、と考えたのだが相手の体力は予想以上だった。
「あいつだ! 逃がすな!」
彼らは国道に続く浜辺の階段を駆け上がり僕が目視できるところにまで来ていた。
「花咲! やばい! 捕まりそうだ」
『安心しろ。そろそろスプレーが効果を発揮するはずだ』
携帯電話の向こうから余裕しゃくしゃくと言った様子の花咲の声が返ってくる。
効果? 僕はてっきり催涙スプレーのたぐいだと思っていたのだが。そういうものは普通、即効性のはずだ。これから何の効果が出てくるというのか。
僕は海沿いの国道を疾走して、息を切らしそうになりながらも背後を振り返り見る。
後方からは三人の男たちが僕を捕まえようと迫りつつあった。
学者肌の男が僕を指さす。
「あいつだ。捕まえて宿木さんのところに……。うわああああ! な、何だ?」
「榎田! 一体どうし……。なにっ!?」
僕のところまでもう数メートルかそこらというところまで追いついていた彼らが唐突に悲鳴あげ始めたのだ。
走りながら振り返り見れば、彼らの周りに黒い霧のようなものがまとわりついている。しかもそれは低周波のような「ブウウウウウウン」という不快な音を立てていた。
あれは…………虫?
どうやらヤブカやアブといった羽虫が群れを成して彼らに襲いかかっているようだ。
犯罪の片棒を担ぐような不良集団も流石にこれにはひるんだらしい。僕はその間に距離を取ろうと足の筋肉に鞭打って前へ進み続けた。
「花咲。……あれはなんだ?」
電話の向こうから「ふふん」と得意げに鼻を鳴らす彼女の声が聞こえた。
『薬物の生成についてあれこれ試していた時に、害虫を引き付けて一か所にまとめた後で駆除するための薬を作ったことがあってね』
「じゃあ、つまりあれは……虫よけスプレーならぬ虫よせスプレーということか」
『ご明察! それも周囲数百メートルの虫を引き付ける超強力な奴だ。都心部ならともかく、郊外の山林近くで使ったら凄いだろうねえ』
「助かった、と言いたいところなんだけどさ」
さっき僕が散布したスプレーは「檜原」という巨漢、「榎田」と呼ばれていた学者肌の男にはたっぷり付着したものの、最後の一人。あのストリートファッションの男にはあまりかかっていない状況なのである。
「役立たずどもが! 俺が行く!」
「た、頼みます。茨木さん」
茨木と呼ばれたその男は三人の中では最も俊敏だったようだ。
アスリートのような勢いで僕に追いついてくる。
「…………一人、効果が薄いのがいるみたいなんだけど、どうしよう」
どうにか、彼らの姿は撮影できたし名前も何人かわかった。ここからどの程度の情報が引き出せるのかはわからないが、調査すれば宿木たちの居場所を掴むのに役立つかもしれない。
だからこそ、ここで捕まるわけにはいかないではないか。
『安心したまえ。こんなこともあろうかと、ちゃんと逃げ出す方法も確保してある』
「本当か?」
『そのままもう少し進むと左手に建物が見えるだろう』
「ああ、あるね」
『あの建物に逃げ込んで、君に持たせたリュックサックの中の変装用の服に着替えて誤魔化すんだ』
「いやいやいや。待ってくれ! あれって多分海水浴場の更衣室だよね? しかも女性用って書いてあるんだけど」
『そうだが?』
何か問題があるのか、といった調子の返事である。
「勘弁してくれ! 僕が入ったら通報されかねないよ!」
痴漢として警察に逮捕なんてされようものなら一発アウトではないか。違う意味で人生を一発変えてしまう。
『は? つい昨日、世界一可愛くて賢い美空ちゃんのためなら何でもするといったあれは何だったんだ?』
「言っとらんわ! 『できることなら何でもする』といったんだ!」
勝手に台詞の前半が改ざんされている。
『うん? できるだろ?』
「できないよ!」
物理的に可能かという話と心理的に可能かという話を一緒にしないでほしい。
『まあ、落ち着きたまえ。今の我々の敵は監視社会なんだ。おそらくこの周辺の公共交通機関の監視カメラや警察の防犯カメラのたぐいは宿木も不正アクセスしてチェックしていると思った方が良い。量子コンピュータを使えば顔認証で後を追うことなどたやすいんだ。……だが例外的に現代においても監視カメラを仕掛けられない場所が存在する。そう、トイレと更衣室だ』
「そりゃあ、そんなところには仕掛けられないわな」
『ああ。唯一、奴の目をかいくぐって監視を振り切って逃げきる隙があるとするならそこに他ならない』
「理屈はわかるけどさ」
『安心しろ。今日の君の格好はユニセックスな感じだからぱっと見には男か女かわからない』
「無茶言うなよ」
確かに今日の僕はジーパンに緩めのカッターシャツという女性でもしそうな格好だし、顔も男にしては細面かもしれないが、髪は短いし流石に女性には見えないと思う。
しかしこうして会話をしているうちにも追手が迫っているのだ。迷ってもいられない。
僕は女子更衣室に飛び込んだ。中はシャワールームにカーテン付きの個室とコインロッカーがあるだけの簡素なつくりだ。
中が無人だったのは幸いだった。
僕は素早く着替えようとカーテン付き個室に入るとリュックサックのジッパーを開く。
中に入っていたのは女性の夏物のワンピースだった。……これって花咲のだよな。
ええ!? 女の子の服を着るのか? しかもカツラまである。
つまり僕に女装してカモフラージュすることでこの場を脱しろということか。つくづく無茶を言ってくれる。
「でさ。ナツミったら誘われて、OKしたんだって!」
「うっそー。超意外!」
シャッターカーテンの外から黄色い声が聞こえてくる。どうやら女子大生かなにかのグループが入ってきてしまったらしい。このままでは出るに出られないではないか。
もし、今見つかってしまったら絶体絶命だ。
だがそんな僕の不安とは裏腹に事態は思いがけない方向に展開する。
「畜生! この中だろ! いるのはわかってんだ!」
「い、茨木さん。まずいですって!」
しびれを切らしたらしい追手の男たちが虫を振り払って飛び込んできたようだ。
当然その後の展開は言うまでもない。
「きゃああああ!」
「変態!」
カーテンの向こうの女子大生たちは悲鳴を上げながら手元のカバンやら椅子やらを男たちに投げつけたようである。
「ち、違うんだ。俺たちは……アイタッ!」
何か言い訳をしようとした茨木の顔面を、服を脱ぎかけた女子大生の放り投げた金属製の水筒が直撃した。
三人の男たちはなすすべもなく退散していった。
そして女子大生たちが彼らに気を取られているうちに僕は着替えを済ませてこっそりと裏口から逃げ出すことができたのだった。
そのまま、国道から少し離れたバス停まで徒歩で移動したところで僕はようやく一息つく。
しかし好きな女の子を助けるために頑張った結果が、女子更衣室に飛び込んで女装して逃げ出すってどういうことなんだろう。
僕は心の中で嘆息したのだった。
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