22 永遠ではない世界の構造に

 放課後の屋上から見えるグラウンドには誰もいない。下校時刻を過ぎても空はまだまだ明るくて、セミも鳴き止むタイミングを掴みかねているようだった。

 私たちは二人で協力して高いフェンスを乗り越えた。

 一歩踏み出せばそこは奈落。落ちる場所は水飲み場の近く。

 なんとなくここのアスファルトが一番硬そうに見えたからだ。

 壁を伝って登ってきた風が、スカートをはためかせる。

「ねえ、こういうのって靴を脱いで揃えた方が良いのかしら」

「外国の人もこういうとき靴脱ぐのかな」

「外国の幽霊にも足はないわよね。ということは家で靴を脱ぐ習慣と、幽霊に足がないこととの間にはきっと関係性がないんだわ」

「靴を脱ぐことで足側を軽くして、きちんと頭から落ちられるように可能性を高めてるってのはどう?」

「人間の頭ってボーリング球と同じくらいの重さだそうよ。むしろ足を軽くしたことで縦回転のリスクが高まるんじゃないかしら。一回転半して足から落ちたせいで身体が麻痺してしまって二度と自死できなくなった、という話をどこかで読んだことがあるもの」

「それはやだね。死んでも成功したい」

「二人で手を繋ぐというのはどうかしら。サイドに意識が寄るから縦回転が起こり難くなるんじゃない?」

 馬鹿みたいになって二人で笑い合った。

 元々私たちは手を繋いで飛び降りるつもりだった。だけどそれってなんだかありきたりでとても恥ずかしいから、雰囲気だけのしょうもない話をして、行動に対する何かしらの理由を与えたかったのだ。

 もう一度、二人で顔を見合わせる。

 ぎゅっと指を絡ませる。私の右手の彼女の左手。靴は脱がないことにした。

「ねえ、知ってる? 四十メートルの高さから落ちると、地面にぶつかるまでに二・九秒くらいかかるんだって」

「ということはここからだときっと一・五秒くらいね。私たちはその一・五秒の間になにを考えるのかしら」

「私は特に何も考えない気がする」

「あなたって一周回ってロマンチストよね」

「キミは最期に何か言いたいことはある?」

 彼女は少し考えてからこう言った。

「私はね、やっぱり勝ちたかったわ」

 それは彼女の、異様なほどに美しく、どうしようもないくらい澄んだ敗北宣言だった。

 彼女の言葉は私の胸をかき乱した。

 そう。そうなのだ。結局のところ何がしたかったのかと問われると、私たちは勝ちたかったのだ。

何に勝ちたかったのかはよく分からない。

社会に、ルールに、規範に、法律に、世界に、私たちの関係を蔑む人々に、存在する者すべてに、永遠ではない世界の構造に。たぶん全部に勝ちたかった。抗って抗って、抗う素振りすら見せずに、迎合せずに、抑圧されずに、染まることなく、対岸の火事みたいな表情で、ただ悠然と私たちだけのゲームをプレイしていたかった。それが〈特別〉であるということ。

 だけど今、私たちはこうしてフェンスを背にして屋上の淵に立っている。これは私たちの敗北宣言。これ以上ゲームを続けて更なる大敗をしないためのサレンダー。

 私が負けてしまう分には別にいい。だけどやっぱり彼女には勝たせてあげたかったな、としみじみ思った。

「さて、思い残すところはもうないかしら?」

「うん」

 頷いて、彼女の手をぎゅうっと握りしめる。

「それじゃあせーので飛びましょう。両足一緒にね。いい?」

 最後に彼女の横顔を見る。綺麗な顔。私はこの人のことが好きだったな。

「うふふ、ドキドキするわね。それじゃあ行くわよ。練習はなしだからね」

「「せーのっ」」

 二人の声が重なった。

 彼女が落ちていく。

 落ちていく彼女を見る。

 彼女も私を見る。

 瞳と瞳が交わる。

 その瞳は複雑すぎて、私にはどんな感情が込められているか判断できなかった。

 およそ一・五秒。

 どさりとアスファルトにぶつかる音。

 彼女は側頭部から地面に落ちて、周囲に赤い液体が弾け飛んだ。



           ◇


           ◇


           ◇



 私はフェンスを乗り越えて屋上に戻り、開きっぱなしだったドアを潜って、水飲み場まで階段で降りていった。真っ赤に染まるアスファルト。彼女の顔の左半分は綺麗だった。散っている脳味噌さえなければ、柔らかいマットレスに沈み込みながら眠っているように見えなくもない。

 しかし、よく見ると足があり得ない方向に曲がっていた。爪も剥がれている。口と鼻からも血が垂れて、少し離れたところに右の眼球だと思われるものが転がっていた。

 体液がじわじわとアスファルトの侵食を広げ、排水溝までたどり着いていた。

 どこかで人の声がする。

 私は彼女の写真をスマートフォンに収めてから、静かにその場を後にした。




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