21 私たちにはきっと「特別になりたい」という願望がある

 いつもの踊り場は、いつも通りではなかった。

 殺風景。

 いつも潜らないと進めなかった棒倒しの棒も、間を縫うように進まなければいけなかった大玉も、乗り越えなければならなかった入場ゲートも、そこにはなにもなかった。

 もちろん、私たちのテントもない。

 なにもない、きっとあるべき姿として正しい踊り場。

「そう。片付けられてしまったのね」

 気付けば彼女が立っていた。

「私たちの……」

「まあ、いうなればこれは象徴ね。思春期の終わり。ジュブナイル的終着点。少女から大人への転換期。時間は決して止まることなく、常に右向きに流れているのよ」

 彼女が階段に腰かけていった。

「そんなにあっさりでいいの?」

 私の声には、少し落胆が含まれていたかもしれない。私たちの秘密基地がなくなったことに対してではなく、彼女が少しも惜しんでいないように見えたことについてだ。

「ねえ。じゃんけんをしましょうか。じゃんけん、ポン」

 私はグーで、彼女はパー。

「ぱ、い、な、つ、ぷ、る」と言いながら彼女が私の高さまで上ってきた。

「ねえ。存在じゃんけんを覚えてる? 私と存在と時間の三竦み。私たちはね、時間には抗えないように出来ているのよ」

 私は彼女の話を頭半分にしか聞いていなかった。聞いてしまったらきっと丸め込まれてしまう。そしたら今この瞬間の「時間が憎い」という感情が行き場を失ってしまいそうだった。

 代わりに彼女の後頭部をじっと眺める。あ、白髪だ。

「白髪だ」

 思わず口にも出してしまった。彼女が「嘘っ」と自身の毛先を一本一本チェックする。

「ほら、ここ」

「抜いてくれる?」

「白髪って抜いていいんだっけ?」

「知らないわ。私が抜いてほしいのよ」

 私は指に一巻きした彼女の白髪をピンと抜いた。

 光に翳してみると、白と透明の中間みたいな色をしていた。白馬の尻尾みたいだ。これはたぶん小学校の国語の教科書に載っていた馬頭琴の話からの連想。

 私は彼女の白髪を自分の小指に巻きつけた。ちょっぴり指輪みたい。

「私たち、もうここにはこれないのかな」

「そうね。きっと破れたテントは戻ってこないでしょうね」

「そしたらどこで会えばいい?」

 彼女がちょっと考えた素振りを見せてからくるりと振り返った。

「あなたに私だけの秘密を教えてあげる」

 彼女は屋上の扉の前まで歩いて行った。彼女がなにか優雅な物腰でドアノブを示す。

「鍵持ってるの?」

「いいえ。持っていないわ」

 私はノブをガチャガチャ回してみたが、ドアはびくともしなかった。

「私これは開けられないよ?」

「違うのよ。言うなればね、これは心理の密室なの」

「心理の?」

「そう。今あなた、なんだ期待させておいてやっぱり鍵がかかっているじゃないかって思ったでしょう?」

 彼女が目つきだけで悪戯に笑う。

「まあ」

「そう。それが心の密室。扉に鍵を掛けるのはいつだって私たち自身なのよ」

 彼女が私の隣に並んだ。

「いい? せーので押すわよ。せーのっ」

 扉から軋むような音がする。バリバリとサビが剥がれ落ちるような感触。ゆっくりと、扉が後方に動く。

 もっと押す。隙間から光が射してくる。セミの鳴き声が大きくなる。

ギギギギギ。

肩に力を込めて踏ん張る。

「せーのっ」

 錆びていた箇所を通り抜けたのか、扉が最後まで開いた。

「開いた……」

「ここの扉ね。横から見ればすぐに分かるのだけど、最初から鍵なんてかかっていなかったの。ただ金具のところが錆びてしまっていて動かなくなっていたのね。だけどみんな、屋上の鍵は締まっているものだという先入観があるから、二三回ノブを回して開かなかったら諦めてしまうのよ」

 初めて屋上に出た。

 コンクリートの床。金網のフェンス。貯水槽。緑の盛りを迎えた木々と、眼下に広がる街並み。

 強い風。

 とても青い空。

「私ね、いつかここに来てみたかったの。だけど私一人の力では全然動かないんですもの。もう困っちゃうじゃない? 良かったわ。あなたがいてくれて」

「言ってくれればいつでも開けるの手伝ったのに」

「でも一方で恐ろしくもあったのよ。テントから屋上になる。それってつまり変化じゃない。変化するということは時間が進んでいるということ。私はね、この踊り場が行き止まりであってほしかった。それはこれ以上先がないということ。永遠なるものだから」

 私は初めて無理やりテントに連れて行かれたあの日の「死んでいくものを見るのが好き」という彼女の言葉を思い出した。

「でも屋上が使えるなら、またここで会えるね」

 昼休みは日差しがきつそうだけど、貯水槽の日陰に入ればそんなに気にはならないだろう。それに誰も来ない屋上ならば、ビーチチェアやパラソルなんかをこっそり持ち込めるかもしれない。クラスメイトが授業を受けている同じ学び舎で、私たちは縁にパイナップルの刺さったココナッツジュースを、ぐねぐね曲がったオシャレなストローでごくごく飲んで、優雅に夏を味わうのだ。

「あなたはまた随分楽しそうなことを考えているのね」

「帰りにドンキでビニールプールとか買う?」

「それもいいわね」

 彼女が日陰に腰を下ろしたので、私も並んで座った。

「あなた、最近新聞を見た?」

「ううん」

「三面にね、載っていたの。茨城のホームレスが拳銃で射殺されたって。一度だけで、続報はないようだったけれど」

「ならあんまりちゃんと捜査してないんじゃないかな。優先順位が低そうだし」

「それもそうね」

「あっ、私一応スマートフォンの中の写真全部消したよ」

「そう。偉いわね」

「……なんか元気ない?」

「そうね。元気がないかと問われたら、私は元気がないわね」

 ここでいつもみたいな元気についての雰囲気トークが続かなかったので、彼女は本当に元気がないのかもしれない。

「訊かない方がいい?」

「いいえ。聞いて欲しいわ」

「じゃあ訊く。どうしたの?」

 彼女は一度空を見上げて虚空に手を伸ばした。私たちは日陰にいるわけだから、もちろんその手の先に太陽はない。

「夢に見るのよ」

「何の夢?」

「私はね、気が付くと人通りの少ない街にいるの。でも別にその街が過疎なわけじゃないのよ。ただ昼間だから出歩く人間が少ないだけ。昼間は暑いから当然ね。私は右手に革製の四角いカバンを持っているの。中身を確かめたことはないけど、私は中に爆弾が入っていることを知っている。まあここら辺は夢だからね。どうとでもなるのよ」

「続きがある?」

「もちろんあるわ。私はショッピングモールに行ってそのカバンを目立たないように置いてくる。私の役割はそれでおしまい。帰りにモールに行こうとしている親子とすれ違って、ああ、この小さな女の子は爆発に巻き込まれるなと思う。思うだけ。それからしばらくして遠くから大きな爆発と、遅れて悲鳴が聞こえてくるの。ああ、みんな死んだなと私は思うんだわ」

「夢の中のキミはなんで爆弾を仕掛けようと思ったの?」

「さあね。そういう夢だもの。強いていうのなら、ショッピングモールに爆弾を仕掛けてみたかったんじゃないかしら」

「その夢のせいで元気がないの?」

「一回だけならね、たぶん私は気にしなかったのよ。夢なんてすぐに忘れてしまうものだから。だけど同じ夢を毎日毎日、毎日毎日見るのよ。ある日から、自分が夢で殺した人数を数えるようになったわ。夢だから見えていなくても何人殺したかが把握できるのよね。だから起きてすぐにベッドボードにカッターで正の字を書くの。殺した人間の数だけね。寝て起きて正を書いて、寝て起きて正を書いて……の繰り返し。今朝までに四三二人を殺したわ」

 言われてみると、彼女の目元には三日月のような隈が浮かんでいた。

「夢で人を殺すから元気がないの?」

「ちょっと違うわね。人を殺した程度のことで一人だと眠ることすらままなくなったありきたりな自分に幻滅しているのよ」

 彼女は思い出したようにスカートのポケットからパックのリンゴジュースを取り出した。

 一つを私にくれる。当然ながら、ジュースはぬるくなっていた。

「あの日、私は人を殺したじゃない? それ自体はなんとも思っていないの。本当よ。例えタイムスリップしてもう一度あの瞬間に遭遇したとしても、私は躊躇いなく引き金を引く。百回過去に戻ったって、百回同じ行動をとるわ」

 彼女はリンゴジュースを少し吸い上げては、口をストローから放しまたパックに戻して……という作業を繰り返している。ちっとも中身が減っていなさそうだ。

「事後処理も、あの状況からのスタートだと考えたら、まあまあ上手くやれたと思うわ。私たちがあそこに行った合理的な理由も再現できたしね。拳銃を捨てなかったのも正しかったと思う。私たちに足が付くとしたら、拳銃が発見されて、拳銃のルートが割れて、拳銃の売主が事情を話して、図書館の監視カメラを調べられて、それと駅のカメラを照合された場合でしょうからね。要するに最適な行動をしたはずなのよ」

 私はリンゴジュースを飲み終わってしまった。空になったジュースをさらに吸って、パックをへこませようとする。

「でもね、マンションのエレベーターを昇るたびに考えてしまうのよ。警官が待ち構えていたらどうしよう。母親の不在を問われたらどうしよう。浴室をルミノールで観られたらどうしよう。街中を歩いていてもね、交番の前を通るたびに自分に平静を言い聞かせるし、夜にパトカーのサイレンが聞こえたらすぐに目が覚めてしまうの。馬鹿みたいな話だけど、救急車や消防車のサイレンでも起きてしまうのよ」

「でもキミが私を助けてくれなかったら、私はきっとすごく嫌だった。感謝してる。それに拳銃は正当防衛だし、お風呂場のヤツは私だって百パーセント共犯だよ」

「ありがとう。でもね、そういうことじゃないのよ。私が私に幻滅しているのは、ただ社会が適当にそれらしい道徳の下で決めたなさけない規範を私が恐れてしまっているということそれ自体なのよ。これまでの私は社会のことなんて一切興味がなかった。それなのに今は新聞を端から端まで精読して、まるでスノッブの受容体よ。私はね、スペシャルになりたかった。本物になりたかった。馬鹿みたいな人間が作った社会規範なんか全部無視して、自由気ままでありたかった。道徳にも、法律にも、集団にも、社会にも抑圧されることなく、私は常に私で、私だけの価値観を信じて生きていたかった。それがなによ。今の私は社会の目を気にして、ボロが出ないようにと腰を下げて、周囲の目ばかり気にして生きている。そのことが最低で最悪で、反吐が出そうなほどに気持ちが悪い。気持ち悪いのにそれでもやっぱり人を殺す夢を見るし、サイレンで目を覚ましてしまうのよ。そんな小物な自分が嫌。私は翼を持って生きていたかった。あなたをうちに呼びたくて母を殺した時はね、そんなこと全然平気だったの。もちろん完璧に準備を整えていたというのもあるけれど、少なくとも捕まったらどうしようなんてことは思いつきもしなかった。ああ、私はいつからこんなにつまらない女になってしまったのかしら」

 驚きの新情報もあったけど、彼女の気持ちはなんとなく分かるような気がした。

 私たちにはきっと「特別になりたい」という願望がある。あるいは「特別でありたい」ということ。世間の人間と違う考え方をして、違うものの見方をして、私たちだけが見つけられる面白いものを一人で面白がって、そうして下らない社会と一線を画しながら生きていきたいという気持ち。

 人によってはこの気持ちを「ただの思春期」と笑うかもしれない。だけどそういうことを言う大人は既に下らない社会の一員なので気にする必要はないはずだ。大切なのは、〈私〉が〈今〉、〈特別〉であることなのだ。そこに対して外部の評価は必要ない。私たちの世界は踊り場のテントで、タワーマンションの一部屋で、無人の屋上で、ただそこだけで完結している美しく閉じた世界なのだから。

「知っている? 一度磁力の抜けた磁石は、もう二度と磁石には戻らないんですって。私はきっとこれからどんどんつまらない女になっていくのよ。私の球体は、坂道を転がり始めてしまった。気持ちが悪い。つまらない女になりたくない。そう、つまらない女になりたくないのよ。今が今のままで、今だけの永遠が欲しかった。起承転結なんていらなかった。舞台上の拳銃を撃ちたくなかった。私はただ、どこかの惑星の周りを永遠に回り続けるだけの静かな衛星でよかったのに」

 私は彼女の言葉を聞きながら別のことを考えていた。今日テントがなくなってしまった理由はなんだろう。私たちが今屋上にいる理由はなんだろう。空がこんなにも青い理由はなんだろう。

 もしかして、と思った。

 彼女は私の言葉を待っているのではないだろうか。

 きっと今の彼女は「それ」を自分から言い出せないのだ。だからこんな話を私にしてくれて、こんなに青い空を私に見せた。

「ねえ、なんで桜は散り際が美しいかを知ってる? どうせ来年も同じ花が咲くのだと、私たちが無邪気に信じ込んでいるからなのよ。もしそれが一生に一度しか咲かない、世界に一本しかない花だと知っていれば、私たちは必死で散るのを阻止しようとするはずよ」

 彼女がフェンスの向こうに手を伸ばした。

「永遠、欲しいよね」

 そう、全ての破綻は物事が永遠でないがために生じるのだ。世界が永遠でありさえするのなら、私たちは何も考えなくていい。先の繋がっていないイヤフォンを二人で分け合って、何の面白味もない天井をじっと眺める。そうしているうちに八千兆年が経つ。もちろん、永遠の中において八千兆年という尺度はなんの意味もない。一瞬の出来事。一瞬ですらない。ただの意味不明な文字の羅列に過ぎない。

 ふっと無を聞くのに飽きたら、彼女のマンションに泊まり込んでカレーを作ってもいい。原宿にクレープを食べに行ったり、渋谷で幻想のネコを追いかけたり、高級ホテルで味のよく分からないキャビアを食べたりする。プライベートプールでいちゃついたり、深夜のドンキホーテに行ったり、ピアノを弾いてもらったり、図書館や廃墟を探検したり、ただただそんな毎日が無限に続いているだけで良かった。

 だけどどこかで歪のようなもの引き当ててしまって、今この屋上に私たちがいる。

「そんな都合の良い永遠なんて最初からどこにもなかったのではないか?」と言われるかもしれない。そしたら私はこう答えるしかない。「だけど、永遠が欲しいという気持ちは確かにあった」と。

 永遠。

 私たちは最も安直に永遠を生み出す方法を知っている。

 永遠であるとは、なにものにも流されないこと。流されるものが存在しないこと。無であること。彼女が私に言わせたがっていたこと。これまでに交わされた他愛のない会話、交えた思想の全てが今この瞬間のためだったかのように思われる。

たくさんのドキドキをくれた彼女に対して私がしてあげられること。

「一緒に死んじゃおうか」

 膝を抱えて丸くなっているので、彼女の表情は見えない。だけど。

「あなたって優しいのね」

 それが返事だった。

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