17 きっとあなたが考えたのよ
最初は冗談のつもりだったけど、よくよく考えたら運動部の部室にシャワーがあるはずだったので、本気で住んでみることにした。たぶんすぐに不便になるので、二泊三日を目標にした。
真面目に検討すると結構いけそうな気がする。学校関係者がここまで来ないことは経験上明らかだし、あとはおそらく巡回の警備員の目さえ誤魔化せればなんとかなりそうだった。それにこれが一番重要なことだけど、深夜の学校にこっそり泊まるのは絶対にドキドキする。ドキドキすることはきっと楽しい。
私たちは雑な計画を考えた。
とにかく学校から人がいなくなるまでこのテントに潜伏する。あとは野となれ山となれだ。
十八時の下校時刻まではテントの中で普通に過ごして、二十時になるまでは息を潜めて過ごした。
念のために扇風機も消したので、テントの中は二人の体温で少しずつ上昇していった。
うっすらと浮かんだ汗が、やがて玉となって頬を伝う。
彼女の指先が私の汗を掬いとる。
そのまま舐められてめちゃくちゃ恥ずかしかった。
私も逆襲したかったけど、彼女の方は汗一つかかずに綺麗なお人形さんのような肌だった。陶器のように滑らかで、月のように白く淡い。
お腹の上で指を組んで目を瞑っていると、まるで棺の中にいるみたいだった。
その冷たさにドキドキする。
制服がポロシャツなのがもったいない。セーラー服だったらもっと死に近い雰囲気になっただろう。
やがて校舎の電気が一斉に消えた。
たぶん最後まで残っていた先生が明かりを消したのだ。
ということは警備員の最初の巡回があるはずである。
私たちは二人で死んだように横たわった。
目を開けていても世界が暗い。目を瞑るともっと暗い。
天幕のアルタイルもベガも見えない。
均等に体重が分散されたマットの上で、肘に触れる彼女の肘の感触だけが感覚だった。
真っ暗で狭い三角形の宇宙。膨張もしていなければ、どこかで超新星爆発が起こっていることもない。不変不滅の小宇宙。その空間は永遠で、明らかに私たちだけの世界だった。
ゆさゆさと身を揺すられて目が覚めた。
どうやら私は眠っていたらしい。
彼女が細い懐中電灯の明かりで私を照らしていた。
「どれくらい寝てた?」
声を潜めて尋ねる。
「今が九時過ぎよ」
「警備員は?」
「分からないわ。正直に言うと私もさっき起きたところだから」
「また寝てたの?」
「また寝てたのよ。でも今私たちがここにいるということは、警備員には見つからなかったようね」
「なんかドキドキし損ねた」
「たぶんもう一回くらい来るんじゃない? 知らないけど」
「ドキドキチャンスだ」
「私はお腹がすいたのよ」
言われると私もお腹がすいているような気がする。よく考えるとお昼ご飯を食べていなかった。
「当面の目標は食料の調達とシャワー室の確認ね。着替えなんかもあるといいけれど」
「私は体操服があるよ」
「なら私にはあなたの体操服があるわね」
このパターンは東京で見たな……。
とにかく校舎を探検しつつ財布を取りに行くことにした。
懐中電灯は危険だと思われたので、明かりはなしで歩く。目が慣れてくると、窓から差し込む月明かりだけで十メートル先も見えた。
万が一に備えて足音を殺して進む。
途中にある教室をガチャガチャしてみたけど、特別教室や先生が使う部屋にだけ鍵が掛かっていた。
自分の教室にやってくる。
「ふうん、あなたはこんなところで授業を受けているのね」
私が自分のカバンを漁っている間に、彼女は教卓に立っていた。
「せっかくだし授業をしましょうか。座って」
面白そうだったので、言われるがまま席に着いた。
彼女はチョークを選んで黒板の前を行き来する。
不思議な光景だ。
二人だけの月明かりの教室。
私が生徒で彼女が先生。
毎日あれだけ退屈な教室が、今だけは世界で一番素晴らしい場所のように思われる。
「正直に言っても良い? 何の話をすればいいか全然思いつかないわ」
ここぞという場面でビシッと決まらないのも彼女らしい。
「あなた、今日の五時間目は何の授業だったの?」
「物理」
「物理。……知っている? コペンハーゲンでは赤ん坊の減少とコウノトリの数の減少が比例しているんですって。人は関係のない二項にあたかも疑似的な相関を見出してしまうことがある、というのがこの話の教訓ね。このエピソードで一番大切ところは何か分かる?」
なんだろう。それぞれが独立しているはずなのに、手癖で関係があるように見えてしまうこと。一番に想起するのは、人間同士の関係だ。私が嫌な気持ちになるのと、誰かが私に私が嫌な気持ちになることをすることの間に関連はないはずなのに、「自分がされて嫌なことを他人にするのはやめましょう」という道徳が流布している。
あるいは私と彼女の関係性?
私たちは互いに独立でありながら、こうして二人だけの教室で先生と生徒の関係を演じている。
教卓を挟んで机六つ分。私と彼女の「遠さ」。私たちはどちらかが赤ん坊で、どちらかがコウノトリなのだろうか。彼女の方が超越的な分、どちらかというとコウノトリに近い気もする。
「正解はね、この疑似相関を最初に見出した人間は心底性格が悪いということよ。だってそうでしょう? 性格が捻じ曲がっていなかったら普通こんなこと考えないわよ。絶対に自己陶酔型だわ」
彼女が黒板に書いたグラフに大きくバツを付けた。
私は思わず笑ってしまう。
言われてみれば確かにその通りだ。一体誰がそんなことを調べようと思ったのだろう。
私は挙手をして、当ててもらえるのを待った。
「何かしら?」
「先生はどうしてそのことを知ったんですか?」
「決まっているでしょう。私の性格が捻じ曲がっていて自己陶酔的だからよ」
先生は教え子の質問に正しく答えてくれた。
財布を手に入れたので、食料を手に入れることにした。
食堂は完全にシャッターを下ろされてしまっていたので、学外に食べに行くしかなかった。夜の校庭を横切って、焼却場の裏からフェンスをよじ登った。
近くにはあまり食べるところがない。
ちょっといけばコンビニやファミレスがあるけれど、今日の私たちのコンセプトは学校に隠れ住んでいる人なのだ。あんまり学校から離れたくなかった。
というわけでラーメン屋一択だった。
私たちは制服だし、ラーメン屋ってたぶん人生で一度も入ったことがないから、ラブホテルに入った時よりドキドキした。ドキドキするのは楽しい。
入り口の食券機の前で散々悩んで、結局二人とも普通のラーメンにした。豚骨ラーメン六八〇円。店内は全体的に油ギッシュで、広さの割には客がほとんどいなかった。
「ねえ。あそこの水は自分たちで注ぐものだと思う?」
食券を回収された後で、彼女が囁くように尋ねた。
「たぶん……」
他の客を観察して学びを得たいけど、私たち以外のテーブルの上にはすでに水のコップが乗っている。
「この高菜は今食べるの? ラーメンと一緒?」
「分からない……」
何もかもが分からない。分かることと言えば全席喫煙可能っぽいことだけだ。
「あなた、水を注いできてよ」
「えー、私が?」
テーブルの下でじゃんけんをして、私が注ぎに行くことになった。
両手に安っぽいコップを持ってテーブルに戻ってくるまで何も咎められなかったから、たぶん正解だったのだろう。私たちはちょくちょく法律を犯している気がするけど、お水を一杯持ってくるだけでこんなにドキドキするのだから、なんだか変な話だ。
思ったよりも早くラーメンが出てきて、私たちは黙々と食べた。
テーブルに設置されていたペースト状の赤いやつをラーメンに入れてみたらめちゃくちゃ辛くなったので失敗したと思った。彼女がスープに加えた高菜はとても美味しそうで、私もそっちにすればよかったと後悔した。まあこういうのは何事も経験だろう。
店を出て学校に戻った。戻るときは校門をよじ登った。校門から入った方がやっぱり「学校に侵入している」感が出て楽しい。コンクリートの上に着地すると、踝がじーんと痺れてしばらく悶絶した。
私の失敗から教訓を得た彼女は、私に向かって着地をした。
私は後ろに倒れそうになりながらも彼女の軽い体を受け止めた。彼女の質量を全身で感じられたのがすごく良くて、これはウィンウィンの関係だったと思う。
シャワー室の鍵をゲットするために、私たちは職員室に侵入する必要があった。
職員室にはもちろん鍵がかかっていたけど、簡素なつくりだったので近くの教室からゲットしたクリップ二つでなんとか開けられた。私には小学生の頃にピッキングに憧れて毎日三時間一人で南京錠を開ける練習をしていた過去があるのだ。
私たちみたいなタイプってみんなこういうのを練習したことがあるんじゃないかと思っていたけど、彼女は意外と出来ないらしい。私はちょっと得意になって、マンションにあるダイヤル式の郵便受けを雰囲気だけで全部開けられることを自慢してしまった。これはちょっぴり自己嫌悪。
職員室の鍵保管場所はいうなれば総体としてのマスターキーだった。一本の鍵ですべての扉が開くわけではないけど、ここにあるどれかの鍵を使えば任意の扉が開くことが出来るのだ。全知全能になったような気分でワクワクする。
というわけで運動部棟のシャワーが使えるようになった。
「ねえ、あなたが鍵を開けられるのなら直接向こうを開けても良かったんじゃない?」
「外の建物は鍵が普通のしっかりしたやつだからやり方が分からない」
「何事にも順序があるということね」
という会話をしながら演劇部の部室に向かった。私は言われるまでその可能性に気付いてなかったけど、鍵を見た限りクリップで開くようなものでもなかったからセーフ。
演劇部の部室では、段ボールの奥にしまわれた何年も使われていなさそうな昔の衣装から、私たちのパジャマを拝借した。私的には下着だけで学校の一夜を過ごすのもドキドキしていいんじゃないかと思ったけど、夜は冷えるからという至極まっとうな理由で却下をくらった。
パジャマもゲットしたので、運動部棟に行った。こんな場所自分には一生縁がないところだと思っていたのだが、人生何がどうなるか分からないものだ。
シャワー室は仕切り板を隔てて三つ並んでいたので、一緒に浴びることも可能だったが、さすがにそれは危ないかもしれなかったので一人が浴びている間、もう一人が警備員の見張りをすることにした。
私が先にシャワーを浴びる。ボイラーを使うと音でバレてしまうかもしれなかったから、水のままで浴びた。どこかの部活が「共用」と書かれたソープ類一式を置いておいてくれたので、ありがたく使わせてもらった。水は慣れるとそこまで冷たくなくて、ささっと拭いてしまえば問題なく……タオルがない。
髪だけ絞ってロッカールームに行った。
タオル的なものを探したが、明らかに泥まみれの雑巾みたいなやつと、誰かの洗ってなさそうなユニフォームしかない。彼女に頼んで持ってきてもらおう。
そっと開けた扉から顔だけ出して、彼女を探した。彼女は少し離れた位置にある朝礼台に座って星空を眺めている。手を振ってみるが、こちらに気付く気配はない。
普通に呼べればいいのだが、静かな夜の校庭で声を上げるのはリスクが高いような気がした。
仕方がないので出来るだけ自然乾燥を待ってから軽く雑巾で身体を拭いて、なるべく濡れないようにしてパジャマを着る。
「あら、おかえり」
「あのね、タオルがなかった」
「ああ、それで髪がそんななのね。ちょっと待ってなさい」と言って彼女が保健室からタオルを調達してきてくれた。
交代でシャワーを浴びた彼女が、パジャマになって戻ってきた。
私たちは二人とも羊飼いの恰好だった。同じ段ボールに羊のぬいぐるみが入っていたからおそらくは羊飼いだ。胸元に三日月形の刺繍が入っているけど、遠目から見ればただの白いワンピースのように見える。これでシャワーもクリア。
演劇部と運動部棟の鍵を元あった場所に返して、職員室内の洗面台に置いてあったマウスウォッシュで口をゆすいだ。
明日の目標は歯ブラシを手に入れることだな。
テントに戻って、ゆったりとした時間を過ごした。私たちは羊飼いなのだ。
私は羊飼いの人たちが普段どんな生活をしているか知らないけど、なんとなく牧歌的な生活をしているような気がする。もうちょっと拡大して解釈するならば、私たちもまったりゆっくり過ごしていきたい。
深夜一時くらいまでテントの中でお喋りして、普通に眠った。
起きたのは六時前だった。誰かが廊下の鍵を開けて回っていた。おそらく担当の先生か警備員かのどちらかだろう。彼女はまだ眠っている。私は静かにそれをやり過ごした。
六時半ごろになると人の出入りが感じられるようになった。一晩無音の校舎で過ごしたせいか、人の気配が鋭く分かった。部活の朝練とかだと思うけど、この時間でこんなに人が来ていたなんて驚きだ。私がいないところでも世界は動いているのだな、という謎の感慨があった。
彼女も起きたので、テントの中でもぞもぞと制服に着替えて、朝ご飯代わりにポッキーを食べた。
彼女が私の髪をとかしてくれて、私も彼女の髪をとかした。
「髪を触られると眠くなるわ」
と言って彼女は二度寝の体勢に入ってしまった。
「あなたのミッションは歯ブラシと私の昼ご飯、それと飲み物ね」
彼女が横になったままもごもごと言う。
どうやら学校が終わるまでテントを出る気はないようだった。
「私はどうしよう」
「あなたは授業に出なさい。せっかく学校に泊まっているのだから。通学時間ゼロ分よ。この恩恵を最大限享受するべきよ」
「キミは享受しないの?」
「ライオンだってメスが狩りをしている間はオスが群れを守っているのよ」
「なるほど」
彼女が言いそうなことを彼女が言ったのでなるほどと納得してしまった。とにかく、彼女は授業には出ないつもりらしい。
私は八時半過ぎに愛しのマイホームを出て、二分でクラスの自分の席に着いた。
朝のホームルームを聞きながら、昨日はあそこに彼女が立っていたんだよな、ということを思い出す。なんだっけ、コウノトリと赤ん坊の話だ。全然物理と関係がなかったのは、単に物理っぽい話題が思いつかなかっただけなんだろうな。そういう雑なところが彼女らしくて良い。
数学、現文と終わって二十分休みに購買で色々買って、世界史を終えた後、昼休みになった。幸い今日は学園祭のためのつまらない集会がなかったのですぐに踊り場に行けた。
彼女は眠っていた。
扇風機が動いているし、身体の上下も逆になっているから一回は起きたのだろうけど、きっとまた寝てしまったのだろう。私が突いて起こすと、彼女は俯せになったまま伸びをした。
「ご飯買ってきたよ」
「あら、ありがとう」
彼女がサンドイッチとレモンティーを選んだので、私はおにぎりとミルクティーになった。
「それで、どうだった? 通学ゼロ分の感想は」
「ちょっぴり優越感」
私は食むようにしてレタスサンドを齧る彼女を見て答える。
こんなに物理的近距離にありながら、学校の人たちは彼女がここにいることを誰も知らない。私だけが彼女の居場所を知っていて、彼女は私の持ってきたサンドイッチを食べている。これは結構な優越感だ。
「キミはずっと寝てたの?」
「寝てはいないわ。目を瞑っていただけよ」
「昨日から寝すぎじゃない?」
「人はいつだって夢の中にいるようなものなのよ」
「群れを守るんじゃなかったの?」
「無の群れを守っていたわ」
彼女がレモンティーの紙パックについていた抽選シールをカリカリと剥がした。どうやら外れだったらしい。私も自分の紙パックのシールを剥がしてみたけど外れだった。
ご飯を食べたら眠くなってきたので、彼女に膝枕をしてもらった。
首筋に当たる彼女の太腿が冷たくて気持ちいい。午後の授業はさぼってもいいんじゃないだろうか。
「まあ好きにしたらいいんじゃない?」
「あれ。行きなさいよって言われるかと思った」
「私はね、自己陶酔型の天邪鬼なの」
もういいやと思って午後の授業はサボった。
下校時刻が過ぎて、一斉消灯が行われ、警備員の巡回もクリアした。
私たちは学校を抜け出して、昨日のラーメン屋に食べに行く。
昨日が初めてのラーメン屋だったのだから、二日連続でラーメン屋に行くのももちろん初めての体験だ。
「基本的に私たちの人生は初めてで満たされているはずよ。コンビニに行くのだって、三五八三六回目のコンビニは人生で一度しかないはずなのよ。だけど私たちはそんなこと考えないでしょう? そういうのってとてももったいないと思うわ。川底を流れる岩と同じ。日々の輝きを失えば私たちはどんどん丸くなって、ありふれた石ころになってしまうの」
二人で高菜入りラーメンを啜っていなければ結構いい話だったと思うのだけど、周りからどんどん煙草の煙が流れてくるし、二人のうち喋っていない方はずるずると麺を啜っているから、あんまりいい話に聞こえない。
だけどこうして二回目のラーメン屋でいい話っぽくないいい話をするのは、私たちの初めてだ。そういう意味では今がとても愛おしい。
学校に戻ってから、私たちは洗濯に挑むことにした。
二日連続で同じポロシャツと下着を着ているし、煙たいラーメン屋にも入ったから結構臭いが心配だった。自分の臭いは自分じゃ分からないし、彼女の匂いは全部好きだから論理的には気にしなくてもいいはずなのだけど、万が一自分が臭かったら嫌だな、というバランス感覚である。
どうせ濡らすのだからと思い切って制服を着たままシャワーを浴びた。
濡れた衣服が身体にぴったりと密着して、なぜだか背徳的な気分になる。
一通り満足したら、全部脱いでじゃぶじゃぶ水洗いをした。
彼女も洗い終わって、二人とも羊飼いの恰好で校舎に戻った。羊飼いの服は丈が膝上だったし、下着を履いていないから、風を感じるたびにスースーして変な気分だった。洗濯物は踊り場にロープを張ってその上にかけた。この温度なら多分明日の朝には乾くだろう。
羊飼いの姿で自分の教室に行く、という提案が魅力的に感じられたので、昨日に引き続き先生と生徒ごっこをやった。今日の彼女は数学の先生で、高校を卒業したら一生使わなさそうなバームクーヘン法を(おそらく名前がキャッチーだという理由のみで)教えてくれた。
私とおそろいの羊飼いの恰好をしているけど、彼女がスーツを着て眼鏡を嵌めて教壇に立ったらとてもカッコいいだろうな……ということばかり考えていたので、バームクーヘン法は名前しか覚えられなかった。
そのとき、鍵束の揺れる音がした。次に足音。
きっと警備員だ。
扉を開け閉めする音が聞こえる。きっと一部屋ずつ異常がないか見て回っているのだ。
音がどんどん迫ってくる。
私たちは顔を見合わせて、教卓の下に隠れた。
二人だから無理やりの体勢。まるで抱き合っているみたいな。私の足が彼女の足に絡まる。胸が密着していて、彼女のつむじの先端が見えた。私たちは息を殺して待ち構える。
やがて扉ががらりと開いて、懐中電灯の光が窓と四隅を照らして、またがらりと扉の締まる音がした。
それからしばらく息を殺し続け、鍵束のジャラジャラ音が聞こえなくなったのを確かめてから、私たちは声を潜めて笑いあった。
よっこらせと彼女が教卓の下から這い出る。私も続けて脱出した。
しばらく密着していたから少し汗をかいている。彼女の生足の感覚。
光にかざせば透けそうなワンピース。履いていない下着。
教卓の下では二人の吐息が混ざり合っていた。これで興奮するなという方が無理である。
私たちは私が普段授業で使っている机の上で交わった。びっくりするくらい盛り上がった。みんなが真面目に勉学に励んでいるこの教室で、私は体液を流して淫らな声を上げている。
これが昼間だったらどうだろう。英語の授業の前に黙々と予習するクラスメイト達。その後ろで私と彼女が秘密の果実を齧り合っている。とにかくやばい。興奮する。
一回だけだったのに、私はしばらく机の上から動けなくなってしまった。これはシャワーの順序を間違えたな。
一応警備員を警戒しながら踊り場に戻った。
いつの間にか厚い雲が月を覆っていて、校舎が今までで一番暗かった。
真っ暗な世界に非常口の緑色と、非常ベルの赤色だけが妖怪みたいに浮かんでいる。こうやってまじまじと見ると、非常ベルの赤い光には僅かに黒色が混ざっていて、なんだか血の色に似ている。指先を針で突いたときに、時間差でぷっくりと膨らんでくるてんとう虫みたいな赤黒さだ。
いつからか外は雨が降っているようだった。踊り場にいると窓がないから直接は見えないけど、なんとなく匂いや気配で雨が降っていることが分かった。雨音が聞こえるほどではないけれど、遠くの音が響かなくなって、梱包材に包まれたみたいに私たちの声が空気に吸い込まれている。それは不思議な感覚で、世界が数メートル先で終わっているのではないかというような気にさせられた。
私たちは職員室を漁って、給湯室でティーセットを見つけた。電気ポットでお湯を沸かして、それぞれが選んだティーパックをカップに放り込んだ。
職員室では風情がないので、カップを持って開いている近くの教室に移動した。二年生の教室だった。
小学校の給食みたいに窓際に机を二つ合わせて、向かい合って紅茶を飲んだ。私は名前だけでダージリンのティーパックを選んだけど、そういう味の違いが分かるほどきちんと紅茶を飲んだことはなかった。だいたい私が飲む紅茶といったら購買で売っている紙パックのレモンティーかミルクティーの二択だ。よく考えると紙パックの紅茶にだって紅茶の種類があるはずなのに、レモンやミルクが混ざった途端、些細な差異は忘れられて雑な括りに収められてしまうのだ。名もなき戦士たちの墓。
私たちは会話もせずに静かに紅茶を楽しんだ。
細い雨が音もなく窓ガラスを打っている。
世界には私と彼女しか存在しなくて、雨は校舎を世界から切り離す役割をしてくれていた。なんとなく静かにこの世界を楽しむことが、この静謐さに対する礼儀のように思われた。
彼女はカップに浮かぶティーパックをぐるぐると弄んでいる。ティーパックを置く用のお皿を持ってこなかったせいで、私たちの紅茶は一秒ごとに濃度を増している。濃度無限の紅茶に一切れのレモンを入れても、それはレモンティーと呼ばれるだろうか。呼ばれなさそうな気がする。ということはきっと「レモン」という名に染められることなく自分を保つことが出来る濃度というものが存在するのだ。
「それはあなたが紅茶サイドからしか物を見ていないのよ」
と私の発見を伝えたくて自ら破った静寂に彼女が答えた。
「レモンの身になってみなさいな。レモンの果汁に無理やり紅茶を混入させられたとするでしょう。それはレモンの意志に因らずティーと呼ばれてしまうのよ」
「……なるほど」
「絵具みたいなものね。青に黄色を混ぜると緑になる。黄色の量が少なかったら青のままかもしれないけれど、それはやっぱり『黄色の混ざった青』なのよ。元々の純粋な青とは似て非なる別物。それが青という規範に対する敬意というものよ」
私は自分のティーカップを見た。紅茶を飲み終わってしまって、中にはずっしりと重いティーパックだけが淵から柄を垂らして鎮座している。このティーカップは、今や「紅茶の入っていたティーカップ」なのだ。
しかしよく考えてみると、そのティーカップだって、「職員室にあったティーカップ」だし、その前には「別の誰かが飲んだティーカップ」だったはずだ。もっと遡ると、出来立てほやほや状態の新品のティーカップだって「窯から出されたティーカップ」かもしれない。となると修飾詞の付かない純粋なティーカップは世界のどこにも存在しないのではないだろうか。一体誰がティーカップを考えたのだろう。
「それはきっとあなたが考えたのよ」と彼女が言った。
きちんとカップを「洗われたティーカップ」の状態にして元あった場所に戻してからテントに戻った。
なんていうか変な話だけど、夜の学校って実際に泊まってみると意外とやることがない。
考えてみると、冬に彼女の家に泊まった時は骨を削るという大仕事があったし、東京旅行は「東京に来たぞ」というハイテンションがあったから、何をするにも新鮮だったけど、夜の学校はよく考えるとただの学校なのだ。もちろん「夜の」という非日常要素はあるけれど、昼の学校だって彼女と二人で踊り場のテントにいるときは非日常みたいなものだから、よくよく考えると普段と変わらないのである。強いて利点を挙げるなら、人間が誰もいないことだけど、これも正確には警備員がいるので、むしろその分神経を尖らせないといけないから相殺みたいなものだ。これなら普通に彼女のマンションに遊びに行っても良かったんじゃないかと密かに思った。そもそもなんで学校に泊まろうみたいな話になったんだっけ。確か家よりもテントの中の方がよく眠れるからとかそういう話だったような気がする。
「ねえ。テントの中だと眠れるの?」
「あら。あなたは眠れない?」
「普通」と答えたけど、どっちかっていうと眠っている彼女を眺めているから、家にいる時よりも睡眠時間は減っている気がする。
「そう。私は眠れるわ。たぶん家のマットレスが柔らかすぎるのよね。身体が沈み込んで呑み込まれそうになるんだもの。身を委ねる相手というのは、きっとある程度排他的な方が安心できるのね。あなたやこの体育用のマットみたいに」
私は彼女の手を取って、その甲にキスをした。
「これは排他的?」
「全く排他的でないわね。だってドキドキして眠れなくなってしまうもの」
バランスを崩して彼女をそのまま押し倒した。
彼女の下唇を甘く噛む。
彼女の胸に体重を預ける。
彼女はマットと私に上下を挟まれた形になる。
私と彼女の家のマットレス、どちらが排他的ではないだろう。
マットレスに勝ちたいな、と思った。
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