16 途方もない隔たりを抱えているのだから


 ゴールデンウィークが終わり、学校が始まった。

 連休明けの週は模試が詰め込まれていたので、連日昼休みの概念が曖昧で踊り場に行くタイミングが難しかった。一度二十分休みに様子を見に行ってみたけれど、彼女の姿はなかった。

 文系クラスと理系クラスでは模試の時間割が違ったようだから、そこら辺の関係かもしれない。ただ私の中にはそういう社会的なしょうもないカテゴライズを彼女に適用したくないみたいな気持ちがまだ強かったので、下手にタイミングが合って彼女が文理どちらのクラスに属しているか暗に悟ってしまうよりは、いっそのこと会えないままの方が心地よかった。やっぱり彼女の魅力はよく分からなくてふわふわしているところにあると思うのだ。あと前回、駅でセンチメンタルな別れ方をしたので、どんな顔をしていけばいいか分からないみたいな気持ちもあったと思う。とにかく、会えないけど逆にオッケー、くらいの雑な一週間だった。

 日曜を挟んで翌週。学校は平常授業に戻った。

 と思ったら今度は体育祭と文化祭の準備である。うちの学校は体育祭に関して一切やる気がなくて、当日に各人が適当な種目をやってはいおしまい、といった扱いなので、文化祭の一日目に体育祭が含まれている。その代わりにグラウンドに出店を出せたりして、他人が汗水たらして運動している様を焼きそばやかき氷を食べながら優雅に観戦出来るというシステムになっていた。私は義務的な体育祭の部分にしか参加したことがないから文化祭の側面には触れたことがなかったけれど、この古代ローマみたいな制度に関しては悪くないと思わないこともない。

 というわけで、昼休みの頭の二十分くらいを連日種目決めやその他連絡事項で潰されてしまうせいで、なかなか踊り場に行くタイミングがなかった。学校行事にやる気がないのだからこんなクラス会なんてとっとと抜け出してしまえばいいのではとも思うのだけど、それが出来ないのが私の小心者たる所以である。なんといったって私は誰に言われるでもなく毎日学校に通うような生真面目な人間なのだ。彼女に言わせればそういうところが『尊い』らしいのだけど、自分ではこんなにどうでもよさそうな場面でさえ社会に歩調を合わせて凪のように生きていこうとしてしまう自分に嫌気が差すばかりである。彼女ならどうするんだろうな。


 そんなこんなで私が踊り場に行けたのは木曜日の昼休みだった。

 彼女はマットの上で眠っていた。いつの間にか扇風機が導入されていて、彼女のスカートの裾をパタパタと小さくはためかせている。

 中間服の期間が終わって夏服のポロシャツになってしまったので、残念ながら下着が透けて見えるようなことはなかった。なにが残念ながらなのかは自分でも分からないけれど。

 起こすのも悪い気がしたので、私は扇風機の前に座って風を浴びながら時間を潰した。

 扇風機に指を差し込んだら……というのはありがちな妄想の一つだけど、昔やってみたら爪の先で弾かれてただむやみやたらに痛いだけだった。羽の回転が速いからなんとなく鋭利な刃物を想像するけど、実際は鈍器に近いのだ。パッと見では尖って見えるけど実は全然そうではない、というのは私の在り方を連想しないでもない。思いのほか安全側に配慮された設計なのだ。

 彼女の横顔を眺める。

 私のフェイクっぽさに比べて、彼女は本物だと思う。

 家で母親の死体を見つけて解体しようと思えるし、私が襲われていたら相手の頭を拳銃で撃ち抜いてくれる。話がふわふわしていてよく分からないし、学校の階段に謎の秘密基地も持っている。あとたぶん、顔が好き。

 私の彼女に対する気持ちは憧れだろうか。

 彼女みたいになりたいと思う気持ち?

 ニュアンスだけど、「なりたいと思う気持ち」と「なりたい」はちょっと違う気がする。

 仮に私が彼女みたいな人間になったと想像してみる。そのとき、私の中の彼女は私の何倍も先をいっていて、やっぱり私は彼女に憧れると思うのだ。死にたいと思う人間が常に生きているのと同じだ。実際に死んでしまったら無だから、「死にたい」とは思えない。「その状態」になれないところに魅力がある? 英語で相手に丁寧にお願いするときは、Could you や Would you と過去形にするらしい。過去形として現在と離れた時制を用いることで相手との距離感を表現している、と英語Ⅲの先生が言っていた。この「遠さ」の感覚はすごくよく腑に落ちた。

 尊敬すべき相手は常に遠くにいて欲しい。遠さを噛み締めて、「遠いなぁ」と思いたい。

 私はきっと彼女のこの遠さが好きなのだ。

 彼女がのそっと上体を起こした。

 寝ぼけ眼で私を見つける。

 のそのそとマットの上を這って私の隣までやってくると、彼女は私の膝を枕にして二度寝を始めた。

 おかげで私は動けなくなってしまった。

 上半身は涼しいのに、腿の上だけが妙に熱を持っている。ネコを飼っていたらこんな感じなんだろうか。髪を触ったら起こしちゃうかな。まつ毛長いな。

 彼女が息をするたびに胸の上下が伝わってくる。息をしているということは、たぶん生きているということだ。生きていて息をしていないことはあるかもしれないけど、息をしているのに生きていないということはないだろう。いや、脳死とかがあるのかな。脳死という言葉があるということは、きっと脳生の状態もあるのだろう。こんなことを考えている私の脳は生きている?「死んでいる」という状態の簡潔さに比べて「生きている」という状態は複雑で分かりにくいような気がする。

 アスファルトの上でひっくり返ったセミは死んでいる。車に轢かれて平べったくなったカラスは死んでいる。ロープから落ちて頭の潰れた人間は死んでいる。

 私が死んだものを見るのが好きなのは、死んでいるものの方が分かりやすいからかもしれない。分かりやすいものには感情移入しやすい。私は無に感情移入して無の気持ちになるのが好きなんじゃないだろうか。

 磁石を近づけた電子機器が駄目になってしまうように、彼女が膝に乗っているから私も彼女みたいなことばかり考えている気がする。特に意味なんてない。彼女が起きるまでのただの暇つぶし。

 予鈴が鳴った。

 起きるかな、と思ったけど、彼女は白雪姫のように眠っていた。

 トイレに行っておけば良かった、と授業開始のチャイムを聞きながら思った。


 彼女が起きたのは五時間目が終わるチャイムの音で、私はとにかくダッシュでトイレに駆け込んだ。

 先生に見つからないように用心深く戻ってくると、彼女がまだ寝ぼけた様子で天を見上げていた。

 私も隣に横になる。

 こうしていると二人で星空を眺めているみたいな趣だが、実際には比較的近い位置にテントの骨組みが一本見えるだけだった。

「あれがベガで、そっちのがアルタイルよ」

 彼女がテントの染みを指し示す。

「デネブはどれ?」

 視認できるレベルのテントの染みは二つしかないから、小犬座以外の星座を作ろうとすると難易度が高い。

「じゃああなたがデネブをやりなさい」

 彼女の指が染みと私とで三角形を作った。

 天幕の平面から急に私まで座軸が伸びてきたので、歪な三角形になってしまった。

「尺度の問題よ。お星さまだって、本当は途方もない隔たりを抱えているのだから。私たちがそれを遠くから見ているから同じ平面上に見えてしまうだけなのよ」

 六時間目の授業開始のチャイムが聞こえた。

 明日怒られるだろうか。いやでも彼女だってここにいるわけだから、意外とサボっても怒られないのかもしれない。

「知っている? 北極星って天の北極に最も近い輝星のことをいうんですって。だから何億年か後には今の北極星は北極星じゃなくなっているのよ。私たちが女子高生でなくなるのと同じように」

「じゃあ星を一つ以外全部消滅させたら、その天の北極から離れた星でも北極星って呼ばれるのかな」

「そうね。あなたが北極星と呼ばれる日が来るかもしれないわね」

 真っ暗で何もなくなった宇宙の中で、自分が北極星と呼ばれるところを想像してみる。たぶんちょくちょく動くから私を基準に航海する人は大変だろう。

「私たちは女子高生じゃなくなるのかな」

「さあね。私たちは時間に対して相性が悪いからね。女子高生でなくなる可能性の方がオッズとしては低いでしょうね」

 彼女は手をパーの形にして上空をひらひらとさせた。

「こんな神話を知ってる? ある英雄が左手に〈私〉という名前のついた剣を、右手に〈永遠〉という盾を持って〈時間〉という怪物と戦うの。まあ私が今考えた話なのだけど」

「永遠の盾を持ってるなら、時間に勝てるんじゃない?」

「理屈ではそうね。だから物語の山場は英雄が永遠の盾を手に入れるまでのところね、きっと」

「永遠の盾はどうやって手に入れるの?」

「預言者に会いに行くとね、『お前は一週間後に死ぬ』と言われるの。だから英雄はその預言を聞いた瞬間に剣で自分の首を切り落としたの。すると空白の一週間が生まれるでしょう? それが永遠の盾」

「その話、今喋りながら考えてるの?」

「ええそうよ。この一秒間の間に私は七回永遠に行って、どうしたらそれっぽいお話になるかしらと一生懸命考えて戻ってきたの」

「ふふっ、バカみたい」

「そう。私は馬鹿なのよ」

 彼女の手は冷たくて気持ちがよかった。永遠に行くと、体温が下がるのかもしれない。

 彼女が小さくあくびをした。

「永遠に行くと眠くなるの?」

「そうね。きっとそうかもしれないわ」

 彼女がごろんとこちらを見て、私のポロシャツのボタンを弄ぶ。

「最近家のベッドよりこっちの方が安眠できるのよね」

「ここに住む?」

「シャワーがないのがいただけないわ」

「確かに」

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