15 積み木の家を壊すのが好きだった

 とうとう辿り着いた山頂は、廃れた遊園地のような趣があった。あるいは西部劇に出てくる閑散とした街並み。あのコロコロ転がる丸い草みたいなやつが今にも視界を横切ってきそうな光景だ。

 十ちょっとのお店が色褪せて並んでいる。

 お土産屋の幟や、外で食事ができるようなテーブルとチェアが食堂の前に設置されていたりもするが、全体的に活気がなく、雰囲気としてセピア色を醸し出している。

 私も彼女も喜び勇んで廃墟となった地方の大学を見にいくくらいだから、内心かなりテンションが上がった。びゅうと風が吹いて砂埃が舞うたびに、人寂しさが強調されて楽しくなってくる。

 展望台で景色を見るか、お土産を見るか、ご飯を食べる以外の選択肢が存在しなかったので、適当にお土産屋を覗いてみた。

 店員はおらず、レジの前にベルだけが置いてある。普通に店番をしていたら人件費を回収できないのではないかと推測してみる。お土産は漬物やおかき、木製の変な置物など、お土産屋といえばコレといったラインナップで、謎の安心感があった。お漬物を味見しようと思ったけど、近くをハエが跳んでいたのでやっぱりやめた。こういうところも安心感がある。

「お土産というシステムって誰が考えたのかしら。明らかにあげる側の熱意と、貰う側の嬉しさが等しくないわよね。そういう感情の差分をビジネスにしてしまえるのって悪魔的だと思わない?」

「お土産ってもらっても嬉しくないの?」

「あら、あなた嬉しい?」

「貰ったことないから分からない」

「そう。人にあげたことはある?」

「自分は人に含まれる?」

「他人にあげたことはある? ここでは他人を自分以外の人間だと定義します」

 私は首を振った。自分の人生に一度も発生してこなかったようなイベントが商売として大きく成立しているのだから社会は不思議だ。

「因みに今の言い方だと自分にはお土産を買ったことがあるの?」

「コンビニでお菓子を買うのはお土産?」

「ああなるほど。お土産の定義の話になるのね。そうねえ、たぶんお土産には非日常的なエピソードとの関連が必要なのよ。記憶の欠片ね。どこかへ旅行へ行ったことをそれを見ると思い出す、とか」

「でもお菓子や漬物だと食べたら消滅しない?」

「それは持続時間の問題よ。木彫りの熊だって一万年もすれば土に還るわ」

「人にあげちゃうのは?」

「それはおそらく別にコミュニケーション軸が発生するわね。記憶語りとしてのツールね。あるいはこの場合は『人にお土産をあげた』という記憶自体が本人の記憶の依り代となるのかもしれないけれど。私も人にあげたことはないから分からないわ」

 彼女がお土産をあげたことがない、という話は少し嬉しかった。彼女には孤高で、誰にも依らずに生きていてほしい、みたいな願望が私の中にはあるような気がする。

 他にやることもなかったので、ご飯を食べることにした。

 私は親子丼で、彼女は蕎麦を食べた。

 外で食べてもよかったけど、ご飯に砂が混じったら嫌なので店内で食べた。店内は色褪せたサイン色紙や、謎の招き猫、魚拓やら将棋盤やらが並んでいて、閑散と雑然が見事に両立されていた。店内には私たちのほかに一組だけお客さんがいて、粛々と蕎麦を啜っていた。

「私たち、なにか目立たなくていいのかな。アリバイみたいな」

「そうよねえ。いくら私たちが山に登るために茨城に行ったと言い張っても、誰も私たちを覚えていなければそれは無よね」

 店内をぐるんと見渡すが、もちろん監視カメラなんてなかった。

「虚無と無の違いってなんだと思う?」

 私は少し考えてから首を傾げた。

「虚無にはね、容れ物があるの。例えばそこの空間」

 と彼女が何もない空間を指さす。

「そこはね、無。なぜなら仕切りがないからね。でも例えばそこに水槽を持ってきたとしましょう。中身はもちろん空ね。そうすると虚無になるの。枠の規定が虚ろを生み出すのよ」

「じゃあ私の心は虚無?」

「そうね。その場合、『私の心』という容器が提示されているから虚無に近いわね。でも例えば、あなたが世界からリアリティを失って、自分が風景と同化したように感じられてしまうことがあれば、その時はきっと無ね。あなたという容器はもはや輪郭を失っているわけだから」

「今の私たちは無?」

「私たち自身は無ではないけど、世界の視点から見れば輪郭のない脆弱な存在、すなわち無ということになるかしら。いやだけど、世界を容れ物だと考えれば、私たちは虚無になる? でも直感的には無に近い気がするわよね。ということは別の軸として存在密度のようなものがあるのね。あまりに矮小な虚無はもはや無に等しいのかもしれないわ」

 私はどうすれば店員の記憶に残れるだろうかと考えた。私たちがいきなり痴話げんかを始めて、彼女がコップの水を私の顔にぶちまければ面白いんじゃないかと想像した。彼女が怒って席を立って、残された私が店員から雑巾を借りて髪の毛の水を絞る。無言で淡々とテーブルを片づけて、店員にお詫びを言いつつ会計をする。もちろん二人分の食事代だ。これは結構いけるのではないか。

「何がいけるのではないか、よ。いけないからね。だいたいこんなに狭い山頂で喧嘩したフリなんてしたら、降りるまでその演技を続けないといけなくなるじゃない。そういうのって大変よ?」

「確かに」

 言われるとその通りだ。

「だからね、こういう時はこうするの」

 彼女はちらりと窓ガラスに反射した店員を見た。

「ところであなた。頬にご飯粒が付いているわよ」

「え、どこ」

「そっちじゃないわ。貸して取ってあげるから」

 と私に顔を出すように促す。

 彼女はそのまま身を乗り出すと、テーブル越しに私にキスをした。

 びっくりして頭を引こうとするのを、強引に抑えられる。舌が唇を割ってくる。歯を舐められる。親子丼を食べたばかりなので恥ずかしい。彼女はほんのりと麺つゆの香り。上唇を噛まれる。気持ちいい。けどやっぱり恥ずかしい。彼女の目が、おそらくは私の向こうの窓ガラスを見つめている。私からは店員がもろに見えている。若い女の店員さん。目の端でちらちら見られているのが分かる。舌と舌。ちょっとわさびの風味。私はわさびが苦手だから、スーパーで半額のざるそばを買うたびに冷蔵庫のサイドポケットにわさびのパックが溜まっていく。どうせ食べないんだから捨てればいいんだけど、もしかしたらいつかわさびが好きになるかもしれないと思って取っておいてしまうのだ。たぶんだけど、今この瞬間に私はわさびを食べられるようになった気がする。帰ったら麺つゆに溶かして舐めてみようと思った。

 店員さんと目を合わせないようにお会計を済ませて店を出た。

 しばらく歩いてから、彼女が優雅に振り返る。

「ね。こうやるのよ」

「なるほど」

 なるほど。


 その後、申し訳程度の展望台に上って、アイスクリームを食べて、頂上の山頂に行ってみた。つまりはこの山で最も空に近いところだ。

 ここが標高八七一メートルらしいから、私の目線は八七二メートルちょっとのところにあるということになる。全然そんな気はしないけど、よく考えたら一昨日見た東京タワーや、どこからでも見えたスカイツリーよりも私は今、空に近い場所にいるわけだ。なんだか不思議な感じがする。

 一番高いところには小さな神社の本体みたいなやつが祀ってあった。たぶんここにこの山の神様がいるのだろう。

 もしこの神様がいなくなってしまったら、山という容れ物は虚無になってしまうのだろうか、みたいなことを考えた。「在る」という状態から「無い」という状態へ変化することが「虚無」であり、無と比べて虚無は運動を含んでいるのではないか、という仮説を思いついたけど、彼女は柵も何もない岩の下から下界を覗き込んで楽しんでいたので、まあなんでもいいかと思った。

「ねえ、あなたもちょっとこれを見なさいよ」

 言われて岩に登って四つん這いの姿勢で顔だけ岩から出してみる。

 ほぼ垂直の岩肌が見えた。ところどころごつごつと岩が突きだして、ここから落ちたらピンボールみたいに色々なところに跳ね返りそうだ。ぐしゃぐしゃとちょっとずつ四肢の骨が砕けながら、八七一メートルを落ちていく。八七一メートルを落下するのに必要な時間はどれくらいだろう。考えただけでドキドキした。

「私ね、今少し悩んでいるの。ここから拳銃を捨てたら、誰か見つけるかしら」

 もう少し身を乗り出して下を観察したけど、崖は綺麗に垂直というわけじゃないから、下の方がどうなっているかはよく分からない。よく分からないところに決定的な証拠を捨ててしまうのは、少しリスキーなような気がする。

「それもそうね。おそらくこの拳銃さえ隠し通せれば、私たちが犯人だと疑われる確率は格段に減るはずよ。冷静に、少しでも確実な方法を取るべきね」

 私は彼女の背中を見た。

 私が死んでしまうのと同様に、彼女もここから落ちたら死んでしまうだろう。たぶん今背中をポンと押してやるだけで、それは実現する。ぞくぞくする。怖い。私が『うっかり』彼女の背中を押してしまったら。何億円もする絵画を破いてしまうのと同じだ。台無しになる。取り返しのつかないことになる。後悔して一生ご飯が喉を通らなくなる。私もあとを追って死ぬかもしれない。ドキドキ。ドキドキ。

 それは性的な興奮に近かった。脳がぴりぴりする。内ももにきゅうっと力が入る。積み木の家を壊すのが好きだった。ドミノを途中で倒すのが好きだった。トランプタワーが完成しそうになると深呼吸をしたくなった。下着を履かずに登校したこともあった。

 自覚をしてしまうと、思い当たる節が無限にある。私は積み上げてきたものを台無しにするのが好きで、私はきっと、私が死ぬところを見るのが好きなのだ。

「あなた、顔がにやけているわよ」

 彼女の声で現実の世界に引き戻された。

「なにかいいことでもあった?」

「ううん、ただドキドキするなと思って」

「そうね。私たちはきっとそういうのが好きなのよね」

 彼女が風で飛ばぬよう、帽子を押さえながら言った。


 あれだけケーブルカーの話をしておきながら、帰りはロープウェイで下山した。

 電車が電で、ケーブルカーがケーブルで動いているという事実から、私たちはロープウェイがロープで動いているのではないかと推測することが出来る。もしかしたら人間は間で動いているんじゃないか、とかそういうしょうもない話をしていたらいつの間にか下まで着いていて、景色を見損ねてしまった。まあ散々頂上で眺めておいたから問題ないだろう。

 丁度いいタイミングでバスが着て、駅まで行って、電車で東京まで戻った。

 電車の乗り換えが秋葉原駅だったので、ついでにちょっと寄ってみることにした。駅前の広場で大きなリュックを背負った人が職務質問をされて中身を開けさせられていた。これはリスクが高いと思って、すぐに駅構内に踵を返し、京浜東北線で東京まで戻った。さようなら、秋葉原。

 お金はまだ何万円か残っていたので、帰りはグリーン車になった。

 パッと見では、この座席に五千円の価値があるのかと疑問に思えたけど、しばらく座っていると明らかに来た時よりも楽だったので、やはりいいシートなのだろう。あるいは往路と違って隣が彼女だからリラックス出来ているだけかもしれないけれど。

「またいつか東京に来ようね」なんて話をしていたら、段々と眠くなってきて、私は駅で彼女に起こされるまで眠ってしまった。

 改札を出たところで彼女と別れる。

「あっ、そうだ。あなたに」と彼女が思い出したように何かをくれた。

「なにこれ」

 小さな木彫りのフクロウのストラップだった。

「あなたが寝ている間に買ったの」

 私はよく分からなくて首を傾げる。フクロウには何か記号的な意味があるのだろうか。

「なんでフクロウなのかは私にも分からないから車内販売の人に聞いてちょうだい」

 ますます意味が分からない。

「記憶の欠片よ」

 それだけ言って、彼女はふいと再び踵を返してしまった。

「また踊り場で会いましょう」とだけ言い残して去っていく。

 私はしばらく手の平のフクロウを見つめ、それからぎゅっと手の中で握りしめた。

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