14 理性を失うことは結構楽しい


 寝たり起きたりを繰り返しながら、日の出を迎えた。時間は早いけど、さすがに睡眠時間は十分だったのでホテルを後にする。今日の目的はつくばにやってきた女子二人がやりそうなことをやることだ。検討の結果、筑波山に登ることになった。標高は八八〇メートルほどらしい。思春期の猛き情動を女子高生がぶつけそうな山としては丁度いい高さではないだろうか。

 バスの時間まで、駅の近くで時間を潰して、一番早いバスに乗った。

 揺られることおよそ四十分。バスには私たち以外の乗客はいなかった。あんまり人気のない山なのだろうか。

 麓の神社の前で下ろされた。ロッカーがあったので大きな荷物を預けて、せっかくだから鳥居をくぐってみる。

「ねえ、あなたって神様にお願いごとをするタイプ?」

 私は黙って首を横に振った。

「こういう場でお願いして決意を固める、みたいな気持ちなら分からなくもないけど……」

「神様を信じない?」

「もしかしたらいるかもしれないけど、私たちのお願いを聞いてくれるほど人間に興味がないと思う」

「確かにそれとこれとは半独立よね」

「お願いしたことある?」

「小さいころにね、テレビを見ていたの。夕方に再放送をやってた教育的アニメ番組。登場人物がみんな綺麗な心をしていて、お互いを信じられないくらい信頼し合っているの。街を歩いている人たちは人間への悪意なんて一片も持っていなさそうで、要するに不純物のない綺麗な世界ね。それで私はテレビの前で思ったの。この画面の中の世界はきっと完璧で、生きている人々も本当に素晴らしくて、だから唯一このアニメに汚点があるとしたら、それは視聴者、つまりは私の心が汚れているところだってね。それでしばらく落ち込んで、どうすれば私に穢されることなくこのアニメの世界を守れるだろうかって当時の幼い私は考えたのよ。結果どうしたと思う? テレビ画面をね、ガムテープでぐるぐる巻きにしたの。一ミリの隙もなくぎっしりと、ガムテープを二本も使ってね。この教訓は何だと思う?」

「コンセントを抜けば早かった、とか?」

「それはちょっと違うのよ。コンセントを抜いたアニメ番組は、決して私の前には表れないじゃない。世界存在自体が画面の中に降りてこないんですもの。ただの真っ黒なディスプレイ。それは望むところじゃなかったのよ。画面の中でアニメが放送されているにもかかわらず、それが常に私の精神から守られているということが重要だったのよ。だからね、教訓は神様だって似たようなことを考えているかもしれないということ。仮にこの世界を全能足る神が創造したのだとしたら、私たちの世界にはあまりにくだらないことが多すぎるじゃない? つまり神様は私たちを見ていないと思うのよ。世界をガムテープでぐるぐる巻きにして、自分からは一切見えないようにして、素晴らしいものが出来たわって一人で満足しているんじゃないかしら」

「それっていないのと同じなんじゃない?」

「まあそれはそうなのだけど、でも何かを願うという行為自体には意味があると思うのよね。ガムテープの強度がどれくらいか分からないけど、何十億人が何万日も願いを神に向けて飛ばしていたら、そこには綻びが出来るかもしれないじゃない? そしたら神様だって急に人間を放置して悦に浸っていたことを反省して、なにか願い事を叶えてくれるようになるかもしれない。要するにね、祈りってそういうことだと思うの。こういう場でするお願い事というのは世界の外箱を壊すための一本の矢なのよ。というわけであなたも何か願い事をした方がいいわ」

 お賽銭箱に二人分十円を投げ入れて、手を合わせる。普段お願いしない身分だから、こんな時になにを思えばいいか難しい。

 神様に願う以上、やはり実現が極めて困難なお願いをしておくのが戦略的に正しいだろう。簡単なお願いだったら、自分でもすぐに達せられてしまうから、そこに超常的な力の補佐があったのかどうかを確かめられない。私は色々と考えてこれに決めた。

――私たちが永遠でありますように。


 神社を出てちょっと進むと、山道の入り口があった。案内によるとロープウェイやケーブルカーもあるらしいが、私たちは山に登るためにわざわざ茨城までやってきた女子高生という設定なのだ。やはり徒歩で登るべきだろう。

「二キロってすぐに着いちゃいそうだけど」

 登山道の案内を見ながら口にする。私たちが行こうとしているコースは二キロで、標高差が六一〇メートルあるらしい。

 私は頭の中で三角形を描いてみた。斜辺の長さが2キロで高さが〇・六キロということは、傾斜は十五度よりちょっと大きいくらいのはずだ。これは登山というよりも単に坂道を登っているだけに近いのではないだろうか。

 ……という私の浅慮は二十分ほどで打ち砕かれた。

 五月の陽気と山の涼しさが相まって、気温的には過ごしやすい。虫も思ったよりも少ないし、人とも全然すれ違わないから快適だ。

 足元も最初は遊歩道みたいにしっかりと歩く道があって、たまに段差があって登っている感があった。だけど次第に道が怪しくなって、いつの間にか片側が急な斜面になって足を踏み外せば無限に転がり落ちそうになっているし、ロッククライミングみたいに岩を登らないといけない個所もあった。地面の傾きも急になっていて、普通に歩いているだけでアキレス腱を伸ばす準備運動ぐらいにはなりそうだ。彼女の手前、弱音は吐かなかったけど、それはたぶん彼女の方も同じで、私たちはいつの間にか黙々とひたすら足を動かすだけの装置となっていた。

 三分の一ほど登ったところで(これでまだ三分の一?)座れる岩があったので、休憩をすることにした。二人でぜえぜえ言いながらお茶を飲む。

「私たちの疲労と位置エネルギーの増加が明らかに釣り合っていないわよね。山なんて考えたのどこのどいつよ」

 彼女が胸元をパタパタと手で仰いで空気の入れ替えを図る。スカートが脚に張り付いていて色っぽい。

「えっ、いや無理よ。そんな体力ないから」

 私の目線に気付いて、彼女がバツを出した。私も体力を温存しておきたいから別にしないけど、思考を読まれたのは恥ずかしい。

「おそらくこれは罠なのよね。標高が千メートル以上ある山だったら、大人しくロープウェイを使うじゃない? だけど八七七メートルしかないって言われたら初心者でも簡単に登れそうな気になっちゃうもの。年間失踪者の三割は初心者の山登り中に発生しているんじゃないかしら」

 二人で岩の奥の斜面を覗き込む。きっとこの下には転がり落ちていった人間の骨がたくさん埋まっているに違いない。

「こういう場所で死ぬと、過去の行いに関わらず地獄に行きそうな気がするのはなぜかしら。地獄が下にあるというイメージに引っ張られているのかしらね」

「私はあんまりそんな気はしないけど」

「そうなの? じゃあこれは私由来の価値観ね」

 それから二十分頑張って歩いて、十分休んで、また二十分歩いた。

 入り口の看板には所要時間九十分と書いてあったけど、あれは休憩を含めない時間なのだろうか。だとしたら今計一時間くらい歩いたから、あと三十分くらいだ。……あと三十分ってまだ三分の一残ってるの?

 半ば自棄になりながら二人で無言で登った。よく山頂に達したときの達成感がすごいなんて話を聞くけれど、あれは嘘じゃないかと思う。そりゃ確かに達成感はあると思うけど、これだけぜえぜえなっている現在と等しい以上の価値があるかと問われると、やはり釣り合わないように思われる。疲れた過去を正当化するために、脳が達成感を誤認しているのではないか。あるいは過去の出来事は「過去」の出来事だから、山頂到達時には過去を劣化させるための係数が掛かって、それで達成感の方が上回る仕組みなのではないか。

 私は決して騙されないぞ、と自分に言い聞かせる。これだけ頑張って特に目的もなく山を登っているのだ。その苦労と体力を達成感ごときにうやむやにされてなるものか。私の労力に見合うのは、私が労力を払っているというそのこと自体にあり得ないのだ。

「あなた、どんどん思考が跳んでるけど大丈夫?」

 無言で登るのも飽きてきて、私たちは思いついたことを考えなしに口から垂れ流すパートに入っていた。

「まあでもその話は面白いわね。あなたの場合は未来の『達成感』に対して1未満の係数が掛かっているのね。過去と未来、どちらを過小評価するかというのはきっと思想が出るでしょうね」

 私の支離滅裂な話を的確に分析してくれる分、彼女の方が余力があるのかもしれない。

「キミはどう? 過去と未来どっちが重い?」

「さあ、どうかしらね。きっとどちらも重くないわ。等価値。等しく無価値。未来の私にとって未来は今だし、過去の私にとって過去は今なのよ。私は過去からも未来からも切り離された孤独で哀れな女。いつだって点でしかあり得ない。だから山頂に辿りついたならば、山頂に辿りついたという結果の方が重いし、山道を歩いているならば山道を歩いている結果の方が重いのよ。人は過去を過程と結び付けがちなのよね。未来が結果的だからかしら。だけど過去だってその時には常に今だし、それはいつだってもっと前の過去からの結果なのよ。ただ結果の連なりだけが無数に存在していて、目の悪い私たちにはそれが線に見えてしまうというだけの話」

「過去の私にとって、って前提ができちゃうのと、今が今だって言うのは矛盾しない? 大丈夫?」

「あなたと私の関係のようなものよ。私はあなたではあり得ないにも関わらず、私は『私があなただったら』と言うことが可能でしょう? 断絶であることと交換可能であるように振舞えることは矛盾しないんだわ」

「なるほど」

 なにがなるほどか全く分かってなかったし、さらに言うなら私も(おそらくは)彼女も自分たちが何について喋っているかなんて半分も分かっていなかった。これがクライマーズ・ハイというやつかと思い知る。カレーにワインを入れて酔っぱらった時と一緒だ。理性を失うことは結構楽しい。

「あなたって結構失礼よね。人が真面目に喋っているというのに」

 と言いながらも彼女も楽しそうだった。

 二人ともぜえぜえ息が上がっている。楽しい登山だ。

 しばらくすると開けた場所が見えて、ついに頂上かと思ったらただの開けた場所だった。

 フェンス越しに、横を線路が走っている。こんなところに電車? と思いながらフェンス沿いに登っていたら、本当に電車が走ってきた。真っ赤な一両編成で、運転手以外誰も乗っていない。私たちが苦労して登っているのに易々と、という気持ちと、乗客のいない乗り物の運転手って虚しくないのかな、という気持ちが半分半分だった。

「同じ給料をもらえるのだから、乗客はいないに越したことはないんじゃない?」

 と彼女が言った。電車との対比で無力な私たちを実感したので、ちょっと休憩をすることにした。

「いやでも虚無を運んでるんだよ。虚無を運ぶ人には虚無であってほしい」

「なんでそんなに生き生きなのよ」

「虚無だったらいいなと思って」

「分かるけれど。でももう少しマクロな視点で考えると、あの運転手は車両を運んでいたとも思わない?」

「逆に電車が運転手を運んでいたというのは?」

「なにが、『というのは?』なのか全然分からないけど。因みにあれはケーブルカーね」

「電車とケーブルカーって何が違うの?」

「電車は電で動いていて、ケーブルカーはケーブルで動いているんじゃないの? ほら、線路の間にケーブルがあるでしょう? たぶんあれに車両が引っ張られているのよ」

「ケーブルは電で引っ張ってないの?」

「……引っ張っているでしょうね。じゃあきっと領域があるんだわ。この範囲の中に電があればそれは車両の所有物となる、というようなね。ケーブルを引っ張る電はきっと山頂にあるでしょう? だから領分の外なのよ。テレポーターが洋服ごと瞬間移動するようなものね」

 今の例えは前にも聞いた気がするな。しかしなるほど、つまりは「ここまでは私!」というような自己認識の範囲があって、それよりも外にある機能については私に含まれないのだ。

 私は手を伸ばして木漏れ日に手をかざしてみる。

 私の手。私ではない木漏れ日。

 木漏れ日は私の手を照らすけど、それは私に含まれる機能ではない。

「私の爪は私の爪だよね?」

「そうね」

「私が爪を剥がしても、それは私の爪?」

「あなたがそれを自分の爪だと認識する限りはそうなんじゃない? 爪を指に置き換えると分かりやすいわね。あなたが小指を切り落としたとして、その指をどこかで見かけたら『自分の指だ』と思うんじゃない?」

「思いそう」

 私は思いそうだ。

「まあたぶん序列があるのよね。生まれた瞬間から爪を剥がされて育てられた人は、その爪を自分のものだと認識しないかもしれないし。要するに近さね。物理的ではない近さ」

「ケーブルと電気は精神的に近くないのかな?」

「アイデンティティの問題じゃない? 私たちは依存する動力が増えれば増えるほど、その輪郭が曖昧になってしまうんだわ」

 単にケーブルカーが走っていたというだけの話を、ちょっといい感じ風にまとめる彼女が素敵だった。彼女は話し相手に私がいなくとも、そこら辺の小鳥や鹿なんかを集めて、同じ話を延々動物たちに聞かせていそうな超然とした雰囲気がある。いうなれば電気にもケーブルにも頼らずに山道を駆け上がる車両のようなものだ。

 一方で、私はきっと彼女がいなければ今この山を登ってない。そういう彼女との『遠さ』が私は好きだった。

「さすがに鹿相手には話しかけないわよ」と彼女が言った。

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