13 どこかで爛れた関係を望んでいた

 次に私が自分の意識を認識したのは、お風呂場だった。彼女が私にシャワーを浴びせてくれている。

 状況が全然分からない。彼女の首筋。鎖骨。胸。肋骨。くびれ。お臍。絹のように白い肌。

「ねえ……」

「あら、気付いたわね。この指が何本に見える」

「ゼロ本」

「正解よ」

「こういうのって普通は一本くらい指立てない?」

「正しくて理知的な反応だわ。大丈夫ね」

「ここはどこ?」

「どこかの寂れたホテル。大丈夫よ。無人の受付だったし、カメラにも気を遣ったわ」

「ふふっ、私たち、ラブホテルのプロだね」

「そうね」

 彼女からシャワーを受け取って前を自分で流した。

「私って気絶してた?」

「いいえ。自分で歩いていたし、足取りはしっかりしていたわよ。ただ茫然自失という感じではあったわね」

 言われて、私は自分が茫然自失になったであろう理由を思い出した。思わず身体が強張ってしまう。

「大丈夫よ。あのなんだかよく分からなかった人間は死んだわ。あなたの前に現れることは二度とない。いい? 二度とよ。二度とないの」

 彼女が包み込むように背中から抱きついてくれた。こんな時になんだけど、まだ流せていない石鹸と胸の弾力が相まって、すごくえっちな触感だ。

「その、助けてくれてありがとう」

「ごめんなさいね。一発しかなかった銃弾を私が勝手に撃ってしまったわ」

「いいよ。嬉しかった」

「そう。なら良かった。今の言葉をちゃんと覚えてなさいよ。あとでやっぱり私も撃ちたかったなんて言っても遅いからね」

「うん。嬉しかった。ありがとう。大好き」

 お風呂から上がると、本当に安っぽいホテルだった。脱衣所がなくて、お風呂を開けたらそのままベッドルームだし、部屋にもベッド以外は何もない。なんというか一周回って、セックスに対して真摯に向き合っている部屋という感じまでした。

 バスタオルも薄くてゴワゴワだったし、シャンプーのせいで髪がぎちぎちいっている。辛うじて薄い浴衣みたいな部屋着が二着用意されていたので、それを羽織ってベッドの上で向かい合った。

「今がどんな感じか訊いてもいい?」

「ええ、もちろん。ここはあの大学から二十分くらいのところにあるホテルよ。あなたのカバンはそこね。客観的な状態としては、私は人間を一人殺したわ。足跡や遺留物に関しては少しは雨が煙幕になってくれると思うけど、最近の警察が立ち入り禁止区画に住んでいる浮浪者に対してどこまで真面目に捜査をやるのかはよく分からないわ。一応死体は見つかりにくそうなところに隠したし、あなたの洋服についていたボタンは全部回収できたと思う。その他の繊維や髪の毛や指紋に関してはもうなるようになれとしか言いようがないわね」

 彼女は惚れ惚れするくらい冷静だった。じゃなきゃあの状況で私のボタンを回収するなんて普通は気が回らない。

「こういうのってなんだかんだ慣れの問題よね。去年真摯に死体と向き合っておいてよかったわ。一応聞いておくけど、過去に指紋やDNAを取られたことはある?」

「ない、はず」

「ならいいわ。あとはいつ死体が発見されるかに依るわね。あなたはどうしてあそこまで行ったの?」

「……ネコを追いかけてた」

「それは私でも追いかけるわ」

 呆れられるかとも思ったけど、彼女は小さく笑って受け入れてくれた。

「でも警察が死体を見つけても正当防衛で通らないかな。あの人の爪にはきっと私の皮膚が付着してるし、指には唾液もついてるはず。襲った証拠にはなると思う」

「問題点が二つね。一つは私が誰でも持っているようなナイフではなく、拳銃であの男を即死させたこと。どうして拳銃を持っているのかという話になるじゃない?」

「それはまあ、正直に昨日のことを話せば」

「まあそっちの方は最たる問題ではないのよね。問題はもう一点の方。私たちが自首をすれば、当然私たちの名義上の保護者に連絡が行くじゃない。だけど私の保護者は、今は下水の塵芥なのよ。浴室には科学的な血の痕跡も残っているわ。死体損壊がバレると、今度は本当に正当防衛だったのか、あるいは拳銃は本当に偶然入手したものか、というところまで疑われるはずよ。そしたらもう滅茶苦茶ね。正当防衛だったことにするルートは諦めるべきだわ」

「となると、完全犯罪?」

「消去法として私たちはそちら側を目指していくことになるでしょうね」

 彼女が探偵みたいにベッド回りを歩きながら、熟慮にふける。

「私たちが最後にカメラに写ったのはつくば駅の改札を出た時のはずよ。でもそれは大して問題にならないはず。駅の利用者なんて何千人もいるでしょうし、そもそも犯人が電車で来たとも絞れないでしょうからね。だから問題はこれからの私たちの動きよ。仮に今私たちがとんぼ返りで東京に戻ったら、それこそ怪しいわ。私たちは何かをやるためにわざわざ高い電車賃を払ってここまで来たのよ。何か不自然じゃない案はある?」

「逃避行、とか?」

「素敵な言葉ね。採用。私たちは学校社会に疲れて東京まで逃げてきた思春期気味の女子高生。だけど、その東京でも人間に疲れて密度の低そうな茨城まで来たというわけね。改札を出た私たちは、公園で黄昏たりしながら、カメラには映っていないけれど、ふらふらと町を彷徨った。思春期特有の不安定さでね。もちろん立ち入り禁止エリアには入らなかったわ。だってルールには従う女子高生ですもの。そうこうしているうちに急に雨が降ってきて、私たちはきっとここに雨宿りをしにきたのね。あるいはそんなのは単なる名目で、私たちはどこかで爛れた関係を望んでいたのかもしれない。そこまでは良い?」

「爛れた関係……」

「そう。爛れた関係」

 彼女の浴衣がばっさりと落ちて一糸纏わぬ姿になる。

 ベッドに乗ってきて、私の浴衣に手を差し込む。右手で胸をいじりながら、左手を腰に回してきゅうっと私を引き寄せる。そのまま口づけを――。

「だめっ」

 私は首をひねって彼女の唇を躱した。

 私の拒絶に彼女が身を引いた。

「どうして?」

「あのね。あのとき口に指が入ったの。だからその、汚いっていうか、穢れを移したくない」

「あなたって変な人ね。汚染池の水だって平気で舐めていたじゃない」

「あれは……だってあれは科学的な汚さで、穢れとは違うから……」

「じゃあうがいをして歯を磨いてくる?」

 私は無言で頷いて、お泊り歯ブラシセットを持って洗面所にこもった。

 尋常ではない量の歯磨き粉で、主に頬肉のあたりを尋常じゃなく擦った。だけど口をゆすいでもまだ汚いままだ。もう一度磨くことにする。もう一度。もう一度。もう一度……。

 何度洗ってもあのざらざらした土と指の感触が取れなかった。磨けば磨く分だけ、私の体内に刷り込まれていってしまう感覚がある。私は穢れてしまった。あの人間はきっとゾンビだったのだ。ゾンビに襲われた人間は、やがて自身もゾンビに変容してしまう。

 消沈して戻ってくると、

「あなた、そこに座りなさい」

 と有無を言わさずベッドに転がされた。

「あなたが私に穢れた菌を移したくないという気持ちは嬉しいわ。ありがとう。だけど、一方で私はあなたから穢れた菌を移されたいと思っている。ということはお互いの意思は相殺ね。今はフラットな状態にあるはずよ。だから、あとは力の強かった方の勝ち」

 彼女が馬乗りになった。

 馬乗りってさっきもされたなと思い出す。だけどあれは人間で、今は彼女。全く別の種類の馬乗りだ。彼女の体重ならば、私はその気になればすぐに抜け出すことが出来るはずだ。

 彼女はそのまま細い両腕で私の首を絞めた。

 私は抵抗しない。首を絞められるのだって初めてじゃない。

 息が上手にできなくて、自分の顔が赤くなっていくような気がする。彼女が一瞬手を緩めてくれた隙に息を吸う。また首が締まる。それを何度か繰り返して意識がもうろうとしてきたころ、唐突に彼女が口づけをしてきた。

 抵抗は間に合わない。何かが私の口に流れてくる。熱い。唾液じゃない。喉が焼けてしまう。硫酸?

思わず咳き込んで中身を吐き出した。

「ハァ、ハァ……ッ。いまノッ……ナに?」

「スピリタスよ。そこの棚に入ってたの」

「スピリタス?」

「馬鹿みたいに度数の高いアルコール。もはやエタノールみたいなものね」

 言われると、今にも燃え上がりそうな喉とは対照的に、溢した胸元の当たりがスース―する気がする。

「まあそれで精神の洗浄になったとも思えないけど、私はあなたにキスをするという目的は果たしたわ。あら、どうしましょうね。私の口は穢れてしまったのかしら」

「そんなことない」

「そう。なら証明してみせて。もしあなたが唇を合わせてくれなかったら、私はきっと自分が穢れてしまったのだと思い込んで、自分の爪を剥がす等の錯乱状態に陥ってしまうかもしれないからね」

 彼女が私に並んで横になる。喉が熱い。喉だけじゃない。胸の内がカーッとする。頭も少しポカポカしている。勝てないなと思いながらキスをした。

 一度唇を外して、口いっぱいにスピリタスを含む。そのまま彼女の口内に流し込んだ。

 彼女が盛大に咳き込んで、枕に頭を埋めて足をバタバタさせている。

 私は彼女の白い背中に背骨に沿ってポタポタとスピリタスを垂らしていき、それをゆっくりと舐めとった。舌先が彼女に触れるたびにピリピリする。美味しい。手を絡ませる。二の腕をはむっと噛む。美味しい。彼女をひっくり返して鎖骨の窪みにスピリタスを貯めた。それをネコみたいにチロチロと舐めてみる。彼女が艶やかな声を漏らす。脚の先がピンと伸びている。久しぶりの主導権だ。思う存分楽しんだ。


 二人でぜえぜえ天井を見ながら無言で休んで、それからシャワーを浴びた。安易にも一緒に浴びてしまったので、もう一回戦が発生した。シャワーをあがった頃には二人とも体力を消費し尽くしていた。そのまま下着だけでベッドに倒れて、しばらく眠った。

 起きたとき、もうすっかり夜になっていた。彼女の方はまだ眠っている。田舎だけあって、窓越しにカエルの鳴き声が聞こえていた。

 セミやカラスと同じように、やっぱりカエルの死体もあまり見たことがないような気がするな。これまでスマートフォンに収めてきた生き物の死体の写真を見返してみた。人間の写真も二つある。だけどこれらの写真は万が一私が捕まった時に、少なくとも有利な証拠としては働かないはずだ。私はセミや動物、人間の一匹一匹に心の中でお別れを言って、スマートフォン内のデータ全てを削除した。

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