11 私たちはさしずめ月の裏側に辿りついた人類だった


 翌日、私たちはホテルの無料モーニングを食べて、十時にチェックアウトをした。全身の筋肉がバキバキに固くなっていて動きたくなかったけど、さすがに再度『休憩』時間に突入するにはお金が心許なかった。ふくらはぎや二の腕の内側、内ももまでもが全部だるかった。多分プールで変な体勢をとったせいだと思う。

 一応昨夜のうちに今日やることは決めていた。

 初手は六本木にある美術館だった。なんとかかんとか展という外国の美術館所蔵の有名作品を持ってきましたよ、みたいなやつだ。なんとかかんとかの部分はボスニア・ヘルツェゴビナみたいな名前だったけど、私に美術を解する精神がないせいで最後まできちんと発音できなかった。

「いい? 別に絵の良し悪しなんて分からなくたっていいの。肝心なのはこれが金銭的に価値のある絵であるとされているということ」

「高い絵がいい絵なの?」

「いい絵である必要もないのよ。エクスペンシブならね。考えるのよ。例えばこの絵が5億で競り落とされたものだったとしましょう。そんな絵が今、なんの保護もなくあなたの目の前に掛かっている。あなたは絵を見に来たただの高校生。なんの悪意もない普通の女子高生。そんなあなたがうっかりこの絵の前で転んでしまったとするでしょう。あなたは咄嗟に手を出して受け身を取ろうとする。だけど目の前にあるのは五億円の絵。あなたの爪がキャンパスにまっすぐに刺さって、そのままこの絵を縦に切り裂いてしまう。五億円の絵をなんの悪気もなくね」

 私は想像してみた。背筋がぞくっとする思いになる。

おそらく「なんの悪気もなく」というのがポイントなのだ。悪気もないのに、「つい」「うっかり」で五億円の絵をめちゃくちゃにしてしまう。制度は分からないけど、きっと私は訴えられて損害賠償を請求されるのではないか。ただの女子高生に唐突に降りかかる五億円の負債。私は自由を奪われ、持っているすべての時間を労働に費やし、内臓を売られたり、あるいはどこかに買われて一生奴隷のような生活を強いられるかもしれない。

「ね。ゾクゾクするでしょう? 特に良いこともないけれど格別悪いこともないあなたの人生は、今この瞬間、ただうっかり躓いただけで一瞬にして破滅してしまうの。周りの絵を見て。八十八点あるってさっき書いてあったわ。ここにはね、あなたの破滅への可能性が一メートル間隔で八十八個も並んでいるの」

「すごい」

 そう思って見回すと、きゅうっと太ももの内側が締まるような気がした。この八十八個のうち、どこか一か所でも私が転んでしまったら、それで私の人生は終わってしまう。彼女のマンションでよくやった臨死ゲームと同じだ。想像するだけで脳みそがぐちゃぐちゃに掻き回されたみたいに気持ちよくなってしまう。

 結局、私は全然興味のなかった美術展を一時間半も使って満喫した。


 美術館を出ると、今度は大学の図書館に行った。大学図書館ってなんかかっこよさそうとかそういう単純な理由である。きっと今日は文系の日なのだ。

 貸出機能が使えない以外は、私たちでも普通にパスなしで入れるようだった。大学生になりきって潜入するつもりでいたから、ちょっと楽しみを奪われたような気分だ。

 だけど図書館はすごかった。

 図書館なんて学校の狭いやつか、市民図書館の子供がわいわいしているイメージしかなかったから、こういうしんと静まり返った学術的な図書館は初めてだった。まず建物が古くて風格がある。それに内部は迷路のように入り組んでいて、本館と別館が地下でつながっていたり、一階と二階の間に無理やり作った中二階のようなスペースもあって、まるで本の壁でできた3D迷路みたいだ。

 図書館自体が広いから、変な隙間フロアなんかに行くと、そこにある本を独り占めできた。別に独り占めできたからといって読むわけでもないのだが、やっぱりここにある本が今現在は私に読まれるためだけに存在しているのだと考えると気分が良かった。地下三階の最奥に見つけた書庫なんかはもはやここ数ヶ月誰も来ていないのではないかというくらいに空気が停滞していて、私たちはさしずめ月の裏側に辿りついた人類だった。

「きっと世界には読まれずに朽ちていく本がたくさんあるんでしょうね」

 人差し指で本の背をなぞってみると、指先が真っ黒になった。

「でも私が本だったら、誰にも読まれたくないって思う気がする」

「そうね。あるいは誰にも読めない架空の言語で書かれていたいわよね」

「それ誰が書いたの?」

「私かしら。私は貝みたいに硬くページを閉ざして、その間にページが文字で埋められていくの。炙り出しのイメージね。誰にも見られていないところでじわじわと文字が浮かび上がってくる」

「それってわざわざページに出力する意味はあるのかな。どうせ誰にも読めないんだから、白紙のままページを閉ざしていても同じじゃない?」

「本としての矜持かしらね。白紙だったらただの手帳と間違われてしまうかもしれないわ」

 元々の前提がめちゃくちゃだから、会話の中身もめちゃくちゃでちょっと楽しい。

「あっ、これ見て」

 人差し指を黒く染めながら、鍵盤で遊ぶように背表紙をなぞっていたら、一冊だけ埃をかぶっていない本を見つけた。

「読まれる本もあるんだ」

 広辞苑くらい分厚いハードカバーの本だった。掠れて背表紙は読めないけど、なにか外国の本だった。彼女がぎちぎちに詰まった本棚から頑張ってそれを引き抜いた。月の裏側で読まれている唯一の本とはいったいどんなことが書いてあるのだろう。

 わくわくしながら二人で重い表紙を捲る。

「あら」

「おおっ」

 感嘆の声が重なる。

 時の停まった地下室において唯一読まれた形跡のある本は、まさしく読まれないための本であった。

 それはダミーだった。表紙の下にページはなく、本の中身は縁を残して直方体に切り抜かれていた。中には小さな拳銃が入っていた。

「これ本物だと思う?」

「まさかこんなところに偽物を隠す?」

 拳銃はどこかで見たことがある形だった。もしかしたら細部が違うかもしれないけど、警官がくるくるのストラップ付きで腰に差しているやつに似ている。

「どうする?」

 拳銃を手に持ってみた。ずっしりという印象だ。たぶんそんなに重量はないはずだけど、見た目が小さいからその分重く感じられる。

「きっとここって拳銃の取引に使われているんだわ」

 言いながら、彼女の目が本棚の上を滑るように素早く動いている。きっと他に似たようなダミー本がないか探しているのだ。

「あれっ」

 私が先に見つけた。彼女が梯子をスライドさせてきて登る。上から私に手渡してくれた。

「おおっ」

 彼女が下りてくるのを待って一緒に開くと、やはりダミー本だった。中には輪ゴムで丸められた一万円札の束。たぶん数十枚はある。

 完全に埋蔵金を掘り当てた気分だった。脳内麻薬がドバドバ出ているのが分かる。興奮してちょっと声が上ずってしまう。

「ど、どうする?」

「とりあえずここを離れましょう」

 洋服の裾で触った部分をごしごし擦って、たぶん指紋を消した。

 本は二冊とも元の場所に戻して、拳銃とお金は私のカバンに押し込んだ。

「行くわよ」

 早歩きで、でも走らないようにしつつ階段を上り、努めて普通に歩いて図書館を出た。大通りに向かって怪しまれないような速度で歩き、角を曲がったところあたりから段々早足になって、最後は二人で走りまくった。

 目的地もなく、とにかく図書館から離れる方向へ走った。走っていたらだんだん楽しくなってきて、もっと走った。息が上がりながら赤じゃない方の横断歩道を渡り、脇腹が痛くなりながらどこかの橋を渡って、さすがにもう走れなくなって足を止めた。河原に降りて、育ち盛りの芝生の上に座り込んで、はあはあ息を整えて、二人で顔を見合わせて可笑しくなって、笑いながら芝生に寝っころがった。

 ひとしきり笑ってからようやく落ち着いた。

「私たち、すごいことしちゃったよね」

 息はまだ荒く、胸は上下に揺れている。

「そうね。すごいことをしたわね。明らかに誰かの怒りを買うわね」

「お金と拳銃の取引だったのかな」

「あるいはお金と拳銃は所有者が同じでそれをなにかと交換するつもりだったとか」

 拳銃を触ったりお金を数えたりしてみたかったけど、さすがにこの場では自重した。

「こんなこと、あるんだね」

 よく映画でCIAの工作員なんかが公園のベンチの下に貼りつけた武器やチップを受け取ったりしているけど、どう考えても全然関係ない人がベンチの下を偶然覗く可能性があるし、あんな雑な受け渡しは映画の中だけのことかと思っていた。しかしまさか私たちがその『全然関係ない人』になろうとは。

「きっと私たちが思っているほど竹輪の穴を覗こうとする人間なんて多くはないのよ」

「今日の予定、なくなっちゃったね」

 本当は適当にホテルを決めて荷物を置いて夕方から野球を観にいくつもりだった。

 だけど、今のこのドキドキが、頭上からボールが降ってくるかもしれないだけのドキドキに勝てるとは思わない。たぶん今行っても退屈するだけだった。

 とにかく拳銃を撫でまわしたかったのでホテルに行くことにした。今の私たちは値段を気にせずにホテルを決めることが出来る。

 高級ホテルのことは全然分からなかったので、彼女の背中について行った。ドアマンのいる扉を素知らぬ顔で通り抜け、エレベーターで四十五階に上がると広々としたラウンジとフロントがあった。私が「よく分かんないんですけど連れてこられました……」みたいな顔をしてふわふわロビーを彷徨っている間に、彼女が部屋を取ってお金も払ってカードキーを二枚貰って戻ってきた。フロントを挟んで反対側にある、乗ってきたのとは別のエレベーターに乗って、五十二階に上がった。エレベーターの中は鏡張りになっていて、その点だけは昨日のホテルと変わらなかったので面白かった。

 部屋は初めて泊まる広さだった。一枚ガラスの窓が抜けるように広がっていて、高級そうなソファーや、物書きをするためのデスクが無駄に間隔をあけて並べられている。そしてなにより私のテンションを上げたのはどーんと鎮座するグランドピアノだった。

「高級ホテルってピアノがあるのが普通なの?」

「まさか。ピアノがある部屋だからピアノがあるだけよ。ここしか空いてなかったんだって。本当かどうかは知らないけど」

 私は鍵盤を押してみる。ポーンという高いが響く。ここで調律されてる……みたいなことを言えればカッコいいのだけど、残念なことに語るだけの知識を何一つ持っていなかった。

「大丈夫?」

 ベッドでぐったりなっていた彼女に声をかける。

「ええ。座ったら急に疲れただけ。馬鹿みたいに走ったからね。昨日も思ったけどあなたって体力あるわよね」

「私は普通くらいだと思うけど」

「まああなたにとってあなたは普通でしょうね。はい、これお金。残り十二万になったから、もともとは八十九万あった計算ね」

「おお」

 ということはこの部屋は一泊七十万円以上するのか。私の晩ご飯七年分の部屋だ。リアリティがないので逆に凄さが分かりにくい。

「帰りはグリーン車で帰れるわね。ねっ、あれを見ましょうよ」

 言われて思い出した。私はカバンを持ってきて慎重に拳銃を取り出す。図書館で持った時よりも体感では軽く感じられた。缶ジュースよりもちょっと重いくらいな気がする。

 五発式のリボルバー拳銃で、元々なにか文字が刻まれてあったと思われる個所は全部やすりで削り取られていた。銃の左側にカチッってスライドする仕組みがあって、そこを動かすと弾を込めるところが開いた。弾は一発だけ入っていた。

「これってカレーライスと福神漬けの関係よね。街中で急に福神漬けを食べたくなったら、やっぱりカレー屋に入るしかないじゃない? 銃弾だけが欲しくなっても結局は拳銃屋に相談しないといけないと思うの。きっと売り手の強い市場よね」

 上のカチッてなるところを下げると、シリンダーがくるっと七十二度回転した。拳銃の部位の名称なんてほとんど知らないから、だいたい全部がカチッてなるところだ。

「これ、本物だよね? なんで私は本物を見たことないのにこれを本物だって思うんだろ」

「らしさ、の問題ね。『拳銃』のらしさと『本物の拳銃』のらしさが違うのかしら。本物って何? という話になるけれど。あなたはどこでどう本物だって感じている?」

「引き金を引いたら、人を殺せる弾が出て、それが人に当たったら死にそうなところ、とか……」

 私はちょっと考えてから答える。

「ああ、それは面白いはね。殺傷能力の十全さが本物らしさだということね。まあこの場合の私たちはまだ試射をしていないから、今度は『人が殺せる』と『人が殺せそうな弾が出そう』の違いになるけれど」

「うーん、私はどうして人が殺せそうな銃を見て人が殺せそうだと思うのかな」

「あるいは別に銃で撃たなくったって百年も放置しておけば人は死ぬけどね。撃たれてから百年後に死ぬ銃は本物?」

「それは銃が関係なくても死ぬというか、逆に百年も死なないなら本物の銃としての機能を持っていないから、本物の銃じゃない気がする」

「つまりは効果の即時性も本物らしさに寄与するのね」

「なるほど。……えっ、じゃあなんで私は見ただけで、これは効果の即時性がありそうだって思うの?」

「それは……謎ね」

 二人そろって首を傾げた。私は拳銃そっちのけでよく分からない話に入り込む自分たちのことが好きだった。一泊七十万円のホテルも、持っているだけで逮捕されそうな拳銃も、私たちが二人してよく分からない雰囲気だけの会話をして、よく分からないまま首を傾げ合うための小道具に過ぎないのだ。そう思うと、私と彼女が特別な関係の中にいるような気持ちになれて心地よい。

 意外と拳銃の存在にもすぐ飽きて、ルームサービスで夕食を取った。せっかくいい部屋にいるのだから、わざわざ部屋から出て食事をするのはもったいない。普通のハンバーグとライスが五千円以上したけど、いちいち値段を気にしていても仕方がない。大切なのは、ハンバーグに添えられた甘いニンジンやブロッコリーを齧りながら、彼女のよく分からない話を聞けるということだ。部屋の電気を全部落として、キャンドルの明かりと夜景だけで食べるディナーは全く機能性を欠いていて最高だった。オレンジ色にライトアップされた東京タワーが、昼とは比べ物にならないくらいに綺麗だ。そういえば昨日も部屋でご飯を食べたな。私はホテルの部屋でご飯を食べるのが好きなのかもしれない。


 ご飯も食べ終わって一段落してから、五十三階にあるクラブラウンジというところに行ってみた。軽い飲食のできる無料の喫茶店のようなところで、高級な部屋に泊まった客だけが入場する権利を得られるらしい。会員制クラブのみたいでちょっぴり嬉しい。

 実際は五十二階と五十三階だから大して眺めも変わらなかったし、そんなに高級感もなくて、想像したほど「おお~」という感じでは全然なかったけど、チーズやサラダがバイキング形式で食べ放題だった上に、ドリンクも飲み放題だった。どうにも私は「し放題」という言葉に弱いらしい。お腹は満腹だったけど、頑張って一通りは食べた。スモークサーモンの上に黒い粒みたいなやつが乗っていて、たぶん人生で初めてキャビアを食べた。少量だったので味は全然分からなかった。キャビア大したことないな、と思った。

 私たちは、彼女が二十歳、私が十八歳という設定だったので、私はちょっとだけ大人ぶるように心掛ける必要があった。といっても嬉々としてバイキングしてる時点でこれは微妙なところだけど、まあ世間には子供っぽい十八歳もいるだろう。一方で彼女は自然体だった。彼女の場合、元々顔立ちは整っているし、髪もきれいだし、すらっとしていて雰囲気があるから、変なテンションでよく分からないことを言いださない限りはぱっと見で二十歳に見えても全然おかしくなかった。私がお皿いっぱいに多様なチーズを盛って、テーブルに戻りながらふっと目に入った彼女は、真っ暗な東京の夜景に溶けてしまいそうに儚かった。遠くの街明かりがぼやけて彼女にピントが戻ると、彼女が「どうしたの?」という表情でこちらを見ていた。

別に特にどうもしていない。ただこんなに綺麗な彼女が自分といてくれているという事実を認識してちょっぴり嬉しくなっただけだ。

私はそのまま席に戻り、特に食べたくもないのに持ってきた山盛りのチーズを頑張って食べた。

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