10 幻想のネコを探しに行きましょう
東京に着いてやりたいことリストはたくさんあったけど、まずは泊まる場所を考える必要があった。こういうのって絶対に新幹線の中で決めておくべきだったんだけど、通路を挟んでいたし、二人であれこれ悩みながら現地で宿を決めるのも楽しそうに思われたのだ。
しかしいざホームに降り立ってみると、明らかに私のカバンが邪魔だった。とりあえずコインロッカーに入れる手もあったが、お金がもったいないし、どうせ晩にはホテルに泊まるのだから、今のうちに決めてしまった方がいいだろう。
「キミはどうしてそんなに荷物が少ないの?」
ホームのベンチに座って彼女に尋ねた。
どたばたしていて来るときは気付かなかったけど、二泊三日分の洋服(私の持ってる春用私服のすべてだ)とその他細々としたものの入ったボストンバッグを肩から下げている私と違って、彼女は手ぶらだった。財布はポケットに入れていたけどそれだけで、あとは車内で買ったお茶のペットボトルを右手に持っているくらい。
「私はね、持たざるものなの」
彼女はお茶を飲み切って、唯一の手荷物をゴミ箱に放り込んだ。
「映画とかでテレポート系の能力者が服を着たままテレポートをするでしょう? あれってどこまでが『私』なんでしょうね」
その適当そうな話し方に、私は彼女と話しているんだと思って少し二ヤついてしまう。
「着替えないの?」
「洋服なんて通りを十メートルも歩けば売ってるじゃない」
「確かに」
確かにといえば確かにだ。
「でも携帯電話を置いてきたのはやりすぎだったかもね。どうせあなたに通じないのだから必要ないかと思ったけど、ホテルを調べられないのは不便だわ」
ちなみに私のスマートフォンは親のおさがりで、画面が割れている上にSIMカードも入っていないから、写真を撮るくらいにしか使えない。
「今日の目標はどこかで昼と夜を食べて、ホテルを見つけて、私の明日の服を買うことね。順不同」
「昼ご飯は夜ご飯より先に食べた方がいいんじゃない?」
「それは時間に支配された人間の考え方よ」
私は自分がある日の昼間にタイムマシンを使って三日前の夜に遡ったところを想像した。この場合、辿り着いた過去で私が最初に食べるご飯は何ご飯だろうか。外が夜でも〈私〉時間でその時が昼なら、昼ご飯のような気もするな。こういう本当にどうでもよさそうなことを考えさせられると、彼女と一緒にいるのだという実感が湧いてくる。
「あなたはどこか行きたい場所がある?」
「……渋谷と新宿と原宿?」
私は今思いついたふりをして、事前にガイドブックで読んでいた候補を挙げた。
「新宿とかたぶん何もないわよ」
「歌舞伎町に行ってみたい」
「なんとなくコンセプトが分かったわ」
渋谷や新宿は夜行った方が面白そうだったので、とりあえず原宿に行ってみることにした。荷物がちょっと邪魔だけど、言うほどは邪魔じゃなかったし大丈夫だろう。新幹線の乗車券があれば区内ならどこでも無料で行けるらしくちょっぴりお得感があった。
山手線で原宿まで行くと、とにかく人が多かった。
ホームから改札まで人がぎっしり詰まっていて、牛歩戦術みたいにちょっとずつしか前に進まない。東京駅に着いた時の私の元気を百とすると、この時点でもう三くらいまで落ちてしまった。はぐれてしまわないように彼女の服の裾をつまんでいると、彼女が手を引っ張ってくれた。元気が七十くらいまで回復した。
なんとか改札を出ると、横断歩道の先に竹下ストリートと書かれたアーチがあった。多分よくテレビで見るやつだ。またちょっと元気が回復した。
とりあえず「原宿に来る」という目標は達成したので、あとは適当に通りを歩いてみることにする。やっぱり人は多かったけど、自分の速度で歩けるから駅よりは随分ましだった。日差しが少し強いものの、風が吹いているので体感としては気持ちがいい。ちょくちょくお菓子屋さんがあって、甘い匂いが漂っていた。
どうしても匂いがおいしそうで、クレープを買ってしまった。
散々ディスプレイの前で悩んだ挙句いちごクレープにした。最後まで百円高いいちごバナナチョコクリームと悩んだのだけど、土壇場でひよって安い方にしてしまった。
クレープを食べるのは初めてだったけど、想像通りの味だった。ふわもちっっとしていて、のっぺりと甘い。甘いお菓子にありがちなことに、最初の五口くらいは天才的に美味しくて、しかしやがて飽きがきて、最後の方は結構きつくなった。こうなるとバナナでアクセントを加えていくべきだったな。
「一口交換しましょう」
元気のなくなっている私を見て、彼女がツナチーズクレープを分けてくれた。こういう場で総菜系の具材を頼める人間には投資できそうな気がする。そういう話をしたら、「破滅に向かうと分かっていながらそれを注文できる人間が尊いのよ」と笑われた。私はそこに破滅が待っていることを知らなかっただけだから、きっと尊さの対象外だ。
もぐもぐクレープを食べながら歩いていたら、いつの間にか竹下通りを抜けて大きな通りに出た。意外とあっけなく原宿パートが終わってしまったけど、まあ竹下通りを歩きながらクレープを食べたのだから、実質原宿は征したようなものだろう。
そこから渋谷まで歩いて行った。
ハチ公を見て、スクランブル交差点を渡った。
交差点は人がぐちゃっと入り乱れていて、上から見たらきっと顕微鏡で観察する微生物みたいに見えるだろうなと思った。アクセル全開で車ごと突っ込めば、楽に百人くらい殺せそうな気がする。
「いつも不思議なんだけど」と交差点から離れて比較的人口密度の低そうな方に流れながら口にする。「例えば私がここで百人殺すとするよね。それで捕まったらきっと死刑になるよね」
「十八歳未満なのだから、死刑にはならないんじゃないかしら? 知らないけど」
「えっとじゃあ私じゃなくてもいいや。誰かが人を百人殺したとして」
「前提は分かったわ。それで」
「でね、百人殺したって犯人は死刑になるだけでしょ。それって変っていうか、バランスが取れてないと思わない?」
「百人殺した事実が一人の死でチャラにされるから?」
「そう。だから私が犯人だったら、出来るだけたくさんの人を殺した方がアドバンテージを取れるだろうなって思う気がする」
109と書かれた建物を通り過ぎた。テレビでよく見るやつだから入ってみたい気もしたけど、入り口のところに人だかりができていて近づく気になれなかったので素通りだ。
入らなくていいの? と彼女の目が訊いてくれたので、うんと小さく頷いた。
「あなたが百人殺して死刑になったとするでしょう? そしたらあなたは死ぬわけよね。死んだあなたはどうなると思う?」
彼女が少し歩く速度を緩めた。
「どうもならないんじゃない? 死んだら終わりなんだし。虚無……みたいな」
「まあきっと無よね。ならその時、あなたの周りにいる人間はどうなる? 例えば私とか」
「別にどうにもならないんじゃない?」
「まあそれは一理あるわね。じゃあ例えば、あなたが目を瞑ったとするでしょう? 目を瞑っている間、私は存在する?」
私は邪魔にならない歩道の端によって目を瞑ってみた。直感的には、彼女はここに存在しているように思われる。でもなんとなく言わんとしているところは理解できた。
「私が死んだら、世界は消失する?」
「賢いわ。まあ正確さを求めるなら、あなたが死んだらあなたの世界が消失するということね。私はあなたの世界に含まれる?」
「含まれる、と思う」
「そう。つまりあなたが死刑になることによって、あなたの世界の私も消滅してしまうのよ。あなたの世界の私というのはつまりあなたから見て今、ここに存在している私に等しいのだけど」
「あっ、分かった。じゃあ私が死刑になったら、一対百のトレードじゃなくて、二対百のトレードになっちゃうんだ」
「そうね。……まああなたなら二対百でまだ殺した方がアドバンテージが取れちゃうんでしょうけど、一般的には他にもいくらかの価値のある存在が脳内にあって、その分だけディスアドバンテージになるんじゃないかしら」
「なるほど。あれっ、でも私が百人殺したら、その百人の頭の中の人も死んじゃうから一万人殺したことにならない?」
「ならないわよ。だってその百人は〈あなた〉じゃないでしょう?」
心の底からなるほどと思った。「生命はみな平等です」と教えられた時から喉に引っかかっていた小骨が取れた気分だ。要するに〈私〉以外は等しく無価値なので、たとえ何人無価値な人間を殺そうとも、「私」が死刑になってしまったらそれはディスアドバンテージなのだ。
「面白いことをやってみましょうか。あなたはスマートフォンを持ってきていたわよね。貸して」
バッグの下の方に放り込まれたスマートフォンを手探りで見つけて、彼女に渡した。
彼女はカメラを起動すると、茂みの前にしゃがみこんでカメラを構えた。
「何してるの?」
私だけでなく、背後の通行人たちも「なんだ?」という様子で少しだけ視線をこちらに向けて通過していく。
「ほら、あなたも」
私も横に並んだ。
「で、そこら辺を見る」
言われた場所を凝視する。なんてことのない茂みだ。別に中にネコが隠れていたりするわけでもない。
「今ね、私たちの後ろを通る人たちは私たちを見て何を考えていると思う?」
「なんだろう。分からない」
「正解は『ネコがいるんだな』よ」
「おお」
「人はね、見たものに対して経験的な事実から整合性をとろうとするの。虚無の茂みに向かってカメラを構える人間はいないでしょう? いや、まあ現実ここにいるのだけど、頻度の問題としてね。ならわざわざ道端にしゃがみこんでカメラを向けるに値する何かがいるのだなと考える。もしかしたら鳥かもしれないけど、女子高生二人がこんなに一生懸命見つめているのだから、きっとネコなのよ」
「私も一瞬ネコがいるのかなって考えた」
「ありがとう。で、問題はそのあとなのよ。みんなチラッとこちらを見るけど、わざわざ足を止めたりはしないでしょう? ふうん、ネコがいるんだなぁ……くらいに思ってそのまま通り過ぎていくわよね。つまり通行人の記憶の中では、ここにネコがいたという事態が真なるものと処理されて今日という日を終えるわけ。これってすごいことだと思わない? 幻想のネコ。私たちには見えないネコだけど、私たちは人々にネコを見せているのよ」
彼女がスマートフォンを返してくれた。えっとつまり、ネコとか通行人とか私たちとかが、さっきの死刑の話の比喩になっているんだろうか。これは結構難しい。考えても全然分からない。
「なにもそんなに難しく考えることはないわ」眉間にしわを寄せている私を見て彼女が言った。「無価値な人間たちと幻想のネコ、どちらが価値があると思う?」
「ネコ?」
「そうね。だから私たちは幻想のネコを探しに行きましょう」
「おー」
もはやほとんど意味が取れなかったし、多分そもそもが最初から私たちの会話に意味なんてないのだけど、とにかく白昼の渋谷で幻想のネコを探すという響きは悪くないように思われた。私たちは存在しえないなにかに輪郭を与えるのだ。それはきっとこの街でやるどんなことよりも魅力的だ。
私たちは大通りから外れて、分岐路があれば細い方の道を選んで歩いて行った。
もちろん自分たちが何を探しているかなんて自分でも分かっていない。だけど意味の分からない目的のために、彼女と二人で路地へ入って坂を上ったり、行き止まりで引き返したりするだけで楽しかった。日差しがキラキラ輝いて、日陰では古びた建物が映画のワンシーンみたいに趣を出している。
「あのね」と彼女が立ち止まっていった。「初めに言っておくけど、私はあなたを連れてくるためにネコを探していたわけではないからね」
言葉の端々から可笑しさが零れている。
実は私も、さっきから薄々感じてはいた。
「私も! 私もだから」
二人で顔を見合わせる。あまりにしょうもない幻想のネコの発生に、逆に口角が上がってしまう。
いうなれば、私たちはホテル街に迷い込んでいた。
坂を上ってもホテル、坂を下ってもホテル、一本先の道を曲がってもホテルである。
休憩がいくら、宿泊がいくらという看板がパッと見える範囲だけで六つも見えた。ホテルの入り口は、意志のある者しか通さないぞと主張するように、どのホテルも柱の後ろでぴったりと閉ざされている。私たちは示し合わせたかのようにゆっくりと歩みを進め、自動販売機の前で立ち止まった。
「ドアに貼ってあった紙見た? 休憩とショートタイムとサービスタイムってなにが違うのかしら」
「情報量が多かったね」
私はカバンをあさって財布を探しているフリをしながら答えた。チラッとあたりを確認したけれど、路上にはカメラはないと思う。私の苦労をよそに、彼女はいかにも連れがジュースを買うのを待っていますといった顔で向かいのホテルに貼られた案内を眺めていた。
「休憩は二時間で、ショートタイムは三時間なんですって」
彼女が視察を終えて戻ってきた。私は間を繋ぐためにスポーツドリンクを買った。
斜め向かいのホテルからカップルが出てきて、慌てて体の向きを変えた。
「飲む?」
そもそも喉が渇いていなかったので、彼女に缶を差し出す。彼女は少し考えてから、それを受け取った。
「これね、うちの近くの自販機に『九十パーセントの医師が周囲に勧めたいと回答しました』ってポスターが貼ってあるの。こういうのって残りの十パーセントが勧めなかった理由を知りたいわよね」
言いながらも、彼女はごくごくと喉を鳴らしてポカリを飲んだ。
缶が私に返ってくる。残りが三分の一くらいになっていた。
「あのね」私は一口飲んでから、おずおずと声をかける。
「なに?」
「休憩、してみたい」
「あなたってたまに勇猛果敢だわ」
「うう」
別に『そういうこと』をやりたいわけではないけれど、せっかくこんな場所に来たのだ。一緒に『そういう場所』に行ったという特別なドキドキが思い出に欲しい。
「私たちってこういうところ入れるのかしら」
「分からない」
映画なんかで高校生がこういう場所に入っていくシーンは見るけど、あれはどれくらいフィクションなのだろうか。今の私は十八に見えるかな。
「どこにする? 綺麗なところがいいけど、いかにもなボロでもそれはそれで趣があるわよね」
「記号的?」
「分かってるじゃない。悩むわね」
おんぼろな方が安いのだろうけど、やっぱりせっかくなら綺麗なところでという気持ちもなくはない。
「おんぼろで綺麗なところってないかな」
「その二つは両立するはずだけど、直感的には両立していなさそうよね。なにかしらこのバランス感覚」
またカップルが出てきたので、一瞬私たちは沈黙した。
カップルが十分に通り過ぎてしまってから、なんだか可笑しくて二人で声に出さないように笑いあう。
「じゃあ次のカップルが出てきたところに入るのはどう?」
「いいよ」
ホテルはすぐに決まった。そこまでボロくなく、華美でもないいうなれば何の特徴もない普通のホテルだった。休日休憩二時間6890円と書いてある。これまでに見てきたデータと照らし合わせても、中くらいの値段だ。
やる気は満々だったけど、入るときはやっぱりドキドキした。色つきの自動ドアはその先が見えないようになっていて、中がどうなっているか全然分からない。こういう時に度胸があるのはやっぱり彼女で、彼女はそのまま自動ドアをくぐっていった。
「なんかこういうの見たことある!」というのが第一印象だった。仄暗いエントランスに、部屋の写真パネルがたくさん貼られている。赤いボタンが点灯している部屋としていない部屋があって、点いている部屋が空き部屋なのだろう。三十二部屋中、選択肢は四部屋だった。
「受け付けはないのね。これボタンを押したら勝手に部屋に行っていいのかしら」
「消去法でそうだよね。たぶん」
「鍵はもらわなくていいの?」
「うーん、分からない」
「ね、どれにする?」
ボタンの横には値段が書いてある。だいたいの部屋は休憩6890円だけど、中には高い部屋もあるらしい。一番高価な部屋は二時間で12800円だった。赤いランプがついている。
「ここがいい」
念のために頭の中で計算してみる。交通費が二万五千円で、今日明日明後日のホテルが一万円ずつだとして、私はあと一万五千円使えるはずだ。ここで6400円使っても大丈夫なはず。
「あなたが良いのなら、じゃあここにしましょ。押して」
赤いボタンを押すと、ランプが点滅してから消えた。
同時にエレベーターが開いた。ちょっとドキッとしたけど、中は無人。
どうやらここでボタンを押すと、その階に行けるらしい。五階のボタンがすでに押された状態になっていた。
ごーんと鈍い音を立てながら、エレベーターがこの上なくゆっくりと上がっていく。三面が鏡張りになっていて、『そういうところ』に来たんだ感が増してくる。四隅を見たけど、監視カメラはなさそうだった。なんとなく手持無沙汰になって、今更髪の毛を整えたりした。
エレベーターが止まり、ドアがぎぎぎとガタつきながら開いた。
五階。一番奥にランプの点滅している部屋がある。ドアは半開きになっていて、閉めると自動で鍵がかかった。
「十五時四十分入室しました」
と機械音声が聞こえた。休憩は二時間だから、十七時四十分までいられることになる。冷静に考えると二時間で12800円ってやばいな。絶対に元を取りたい。
「わっ」
短い廊下からメインルームに入ると、思わず頬が綻んだ。
真っ赤な絨毯。天蓋付きの大きなベッド。座らずともふかふかであることが確信できる大きなソファー。ガラスのテーブルは脚がネコみたいにオシャレに丸くなっていたし、天井にはシャンデリアがぶら下がっていた。
そして極めつけは大きなガラス越しに設置されているプールだ。四メートル×四メートルくらいとプールとしては大きくないが、まず部屋にプールがあるというのが興奮ポイントなので、この際大きさはあまり関係ない。水底を除くと、モザイクタイルのイルカが並んで泳いでいた。
私はとりあえずソファーにダイブした。ぼわんっと漫画みたいな弾力があって、身体がゆっくりと沼みたいに沈んでいく。生地がざらざらしていないから、きっと高級なソファーなのだろう。
「これ二時間だと消化できないね」
私は足をバタバタさせながら部屋を見回した。ソファーの柔らかさを堪能したいし、ベッドに寝っ転がって天蓋も眺めたいし、もちろんプールにも入りたい。
「サウナがあるわよ」
とプールの奥から彼女の声が聞こえた。
サウナも入りたい。ああでも水着を持ってないから、サウナの後にプールに入ったらそれはプールじゃなくて単なる水風呂になってしまいそうだ。
ソファーに転がったままぐっと手を伸ばして、インフォメーションと書かれた冊子を開いてみた。冷蔵庫のドリンクは全部無料で飲んでいいらしい。朝までいる人はモーニングセットも無料で食べられるみたいだ。なんかすごいテンションが上がってきた。
「見て、水着も売ってる」
ほら、と彼女に冊子を見せる。コスプレ販売とかかれた項にスクール水着とビキニも載っていた。
「そんな時間ある? 別にプールに入ってはい終わりというのならそれでもいいけれど」
「あのね。今日ここに泊まらない? 宿泊だと34800円で十時までいられるんだって」
それならソファーもプールもサウナもベッドも堪能できる。ちょっと計算してみたけど、二時間でここを出て新しく泊まるホテルを探すのと大差はないような気がした。
彼女は少し考えてから、
「まあ、あなたがそれでいいのなら私はいいけれど」と頷いた。
そこから四時間はパラダイスだった。フロントに電話して水着を買って、ついでにお菓子も注文した。シャワーを浴びてからサウナに入って、プールに浸かりながら冷蔵庫のドリンクを混ぜ合わせて作った怪しいカクテルを飲んだりした。洗面室に籠いっぱいの花びらが置いてあって、それをプールに浮かべるとちょっとした南国のようだった。一時間くらいでプールを出て、バスタオルで互いの身体を拭きあって、なんとなく水着を脱がしてベッドに行って、何回かやってからプールに戻った。ベッドの上では裸なのに、プールに戻るとお互い律儀に水着を着るのが少し可笑しい。
彼女がプールサイドに座って足を組んでいると、南国風のパレオがちらりとめくれてV字に見える白い太腿が蠱惑的だった。
一方じゃんけんで負けた私はスクール水着だった。いわゆる旧型というやつらしくてお腹のところに手を差し込めるようなポケットがついている。昔はこの型が学校全般で使われていたらしいという知識はあったけど、実際に自分が着てみるとセックス以外の用途でのこのポケットの使い道が分からなかった。……セックスには使われた。
良い感じに指先もふやけてきて、二人で理性的にソファーに座ったころには二十時を過ぎていた。カーテンで分からなかったけど、すりガラス越しの外はもう真っ暗だった。二人とも結構へとへとで、水着の上にバスローブを羽織ったままぐったりとなっていた。
しばらくして彼女の方が先に復活した。
「夕ご飯どうする?」
彼女がフードメニューを眺めながら尋ねた。
「どんなのがあるの?」
ごろんと横になって彼女の膝の上に頭を乗せる。太もものちょっと硬くてひんやりとした感触が気持ちいい。だけどさすがにもうそういう気にはならない。
「普通のファミレス並にはあるみたいよ。こういうのってホテルの人が作るのかしら」
「あんまり美味しくなさそう」
「そうよねえ……」
なんて言いながら頼んだパスタ二種と海老ピラフとオムライスは全部美味しかった。
お腹いっぱいに食べちゃったので、ちょっと恥ずかしくなって久しぶりにきちんと服を着た。
「そういえばキミの服買ってないね」
「そうなのよね。まあ明日はあなたの服を借りてもいいけれど」
「えっ、なんかやだ」
自分で着る分には全然いいけれど、私のよれよれの服を彼女に着せるのは心苦しい。
「今から買いに行く?」
「この時間に開いている店なんてあるかしら」
時刻は二十二時を回っていた。
「渋谷だし、ありそう」
「というか私たちってこの部屋のカギを持っていないじゃない? 出たら戻ってこれないんじゃないの?」
「宿泊の人は二時間以内の外出ならオッケーなんだって。書いてあった」
「あらそう。じゃあお散歩がてら行ってみましょうか」
フロントに電話してからホテルを出た。夜のホテル街は昼とは全く違う顔をしていた。ネオンの看板が怪しく光り、人々は誘蛾灯に導かれるみたいに静かに入り口に吸い込まれていく。昼間ジュースを買った自販機がじーっと空間をぼかして、ホテルとホテルの狭間で小さく自己を主張している。香水をこぼした床のように、むわっと人々の欲望がネオンと夜の狭間を渦巻いている。まるで無限に続く鳥居の中を歩いているような、そういう神秘さと不気味さが混在していた。
大通りに出たけど、洋服系のお店はどこも当たり前のように閉まっていた。
通りを渡ったり路地に入ってみたりを何度か繰り返して、結局ドンキホーテしか見つけられなかった。渋谷まで来てドンキホーテもなあという感じもするけれど、考えようによっては渋谷まで来てドンキホーテに行くのも逆に風流なような気もする。
彼女は下着とシャツと薄手のパーカーを買った。ついでにお菓子コーナーも見に行ってポッキーとキャンディを何種か買った。お菓子なんてなんでも良かったのだけど、ポッキーは言わずと知れたあれが出来るし、キャンディも口移しが出来るから、要するに半分くらいは邪な動機が入っていた。
棒付きのキャンディを舐めながらホテルに戻る。渋谷って二十四時間人々が騒いでいて、街中がギラついているイメージだったけど、夜は普通に静かだった。もちろん交通量は多いし、街全体の光量としてもうちの近所の何十倍もあるのだけど、それとは別に、やっぱり夜は「夜」なのだ。夜の空気、夜の雰囲気。薄いレースのような夜のとばりは人口に因らず平等に世界を覆い隠すのだ。
「例えば北欧の方だと白夜があるでしょう? 時計を持っていない人にとってはいつが夜なのかしら」
彼女が棒付きキャンディをくるくると回しながら言った。私たちは散歩がてら遠回りをしてホテルに向かっている。
「空が明るくても夜は太陽が出てないんじゃない?」
「ということは夜とは太陽に対する相対的なもの?」
自分が白夜を体験したことがないからよく分からないけど、太陽が出ているのとただ空が明るいだけなのは結構違うような気がする。
「じゃあ白夜の逆はどう? 極夜っていうのかしら。一日中太陽が昇らない日」
「それってずっと真っ暗なの?」
「さあ。ちょっとは明るいんじゃない? 地平線から出なくともそこに太陽はあるわけだから」
「うーん、じゃあ今太陽が近づいてきたなーってタイミングが昼で、もう太陽を感じられないなってなったら夜?」
「要するに度合いがあって、それがゼロになってしまえば夜なのね」
「夕焼けとかと同じ原理な気がする。……この話はどこにいくの?」
「さあ。あなたが夜の平等性を説いてきたから乗っただけよ。まあまとめるのなら、夜はどこにでもあるけどそれは昼が存在するから、ということになるのかしらね。あなたは昼と夜ならどちらが好き?」
「夜、な気がする」
「昼と比べて?」
「昼と比べて」
お互いしょうもない話をしているなーと小さく笑いあった。
「昔金環日食ってあったでしょう? 覚えてる?」
私はうんと頷いた。何十年に一度とかで話題になっていたけど、結局曇っていて見られなかったやつだ。
「あの時日食メガネってのがあってね。太陽をそのまま見ると目を傷めるからフィルター越しに見ましょう、というやつね」
「小学校で配られた気がする」
「あなた、ちゃんと小学校に行く子だったのね。偉いわ」
「行ってなかったの?」
「知らない。生まれてこの方、学校なんて行ったことないもの。でね、私はあのバカみたいな日食メガネの理念が結構好きだったのよ。太陽なんて毎日何時間も出ているわけじゃない? なのにわざわざそれが隠れる日を選んで空を見上げるのよ。しかもフィルター越しに。尊いと思わない? いつも存在するものが隠れる瞬間にだけ見る価値のあるものになるの。しかも色々準備までして、それが見えなくなるのを今か今かと待って見ようとするの。私ってきっと馬鹿みたいなことをやってる人間を見るのが好きなのね」
それはきっと、彼女自身のことであって、私たち自身のことでもあるんだろうなと思った。
今、この瞬間の逃避行みたいな東京旅行。ろくに観光もせずに昼間から退廃的にホテルに引きこもって、夜になって街に降りてくる。私もこの関係が心地よくて、この瞬間が永遠に続いて欲しいなと思う。
私は彼女の手を取って、信号が青に変わるのを待った。
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