6 アメリカでは一年の間に203人がバーベキューで死ぬ

 翌朝は朝日で無理やり目が覚めた。

 やっぱりカーテンは必要なんじゃないかと思う。昨日はしぼんでいた窓際の飛行船の形をした風船が日差しを浴びて宙にプカプカと浮かんでいた。

 彼女はいつの間にかソファーから自室のベッドに移っていた。

 起こすのも悪かったので、一人で朝の解体作業に勤しむことにした。職人の朝は早い。骨はいい感じに乾いていて、昨日よりも軽く感じられた。せっかくなので骨を理科室の人体模型みたいに人の形に並べて写真を撮った。

 昨日の写真と見比べてみる。

 たった一日で人間の痕跡がほとんど消えてしまった。

 あれだけ肉がついて中身の詰まっていた人間が、今や骨と歯と爪と、昨日処理できずに冷凍庫にジップロックで保存したわずかな肉だけになってしまった。

 これは夏のセミで街中のカラスだ。

 この国では年に百万人以上の人間が死んでいる。だけど私は死んだ人間を年に一人も見ることがない(今年は二人見たけど)。大半は病院で死ぬのだろうが、こんな風に夏のセミみたいに唐突に存在が消失している人間も結構いるのではないかと思われた。軍隊アリの群れにさーっと襲われて後には骨だけが残されるイメージ。でもちょっと気持ち悪いから、大きな怪物に一飲みにされて、もぐもぐされたあとペッと骨だけ吐き出される方がいいかな。たぶんアリの方は一匹ではなくて個の集合体だから気持ちが悪いのだ。地球上に人間が十人くらいしかいなかったら、私は結構人間を好きになるかもしれない。

 骨はひたすらやすりで粉にしていく作戦だった。

 他にもいろいろ方法は考えたけど、やっぱり粉末にしてトイレに流してしまうのが最強だという結論だった。圧倒的に時間のかかる作業だったけど、幸い冬休みが明けるまであと二週間ある。二人で頑張れば案外何とかなるのではないかと思われた。

 彼女が起きてきたので、食パンにジャムを塗って食べた。せっかく眺めのいいベランダがあったので、寒さに凍えながら外で食べた。彼女はこの景色に慣れているはずだからただ寒いだけだっただろうけど、私に付き合って一緒にベランダで食べてくれた。インスタントの無味のコーヒーがとても温かかった。

 浴室から骨を避難させて、シャワーを浴びてから削る作業に戻った。

 作業は黙々と行われた。たぶん蟹を食べるときに無言になるのと同じシステムだ。ひたすらやすりをかけ続けているとどんどん無になっていって、気が付くと尺骨の半分以上が消失していたりした。これまで考えたこともなかったけど、人間の骨って案外握りやすい部分が多い。夜までに肋骨六本と右腕の骨を三本倒した。このペースで行けばなんとかなりそうだ。

 夜は彼女が近くのスーパーまで買い物に行ってくれた。私は家を出ちゃうとまた無限の階段を登らないといけないから、基本的には部屋から出られなかった。お城のてっぺんに監禁されたお姫様ってこんな感じかもしれない。

 二人でカレーを作った。彼女は意外と料理が上手で、さくさくと玉ねぎを薄切りにして目分量で正確と思われる水を鍋に貯めていた。私の方はジャガイモの皮をむくときに指先を切ってしまう体たらく。彼女にメスで切られるのと違って、料理中の不意の怪我は何の実りもなくただ痛いだけだから結構腹が立つ。私は痛いのが好きなんじゃなくて、ドキドキするのが好きなだけなのだ。ジャガイモのことが少し嫌いになった。

 カレーの方は大変おいしかった。

「知ってる? アメリカでは一年の間に203人がバーベキューで死ぬんですって」

 彼女が大きすぎるジャガイモをスプーンで割りながら言った。

「バーベキューで死ぬってどういう状況?」

「知らない。統計には人数しか書かれてなかったから」

「火事になったとか、肉がのどに詰まったとかかな」

「本当に正しい数かどうかも分からないけどね。だけど仮にアメリカで毎年203人がバーベキュー死しているとしたら、日本にもカレー死があると思うのよね。食べる回数の問題として」

「カレーライスのライスがのどに詰まって死んだら、それはご飯死じゃなくてカレー死?」

「カレーライス死なんじゃない?」

「なるほど。これはどういう話?」

「私にもよく分からないわ。ただ結論としては、バーベキューをやろうがやるまいが人間っていずれ死ぬってことね。たぶんそういう話をしたかったのよ、私は」

 私は彼女のこういう雰囲気だけでさっぱりなところが大好きだった。

「そういえばさっきスーパーでレジの人がサンタ帽をかぶっていたの。今日ってクリスマス・イブなんだって。知ってる? クリスマス・イブ」

「知らない」

 面白そうだったので彼女に乗ってみる。

「クリスマス・イブはクリスマスの前日のことなのよ。前日っていうのは前の日という意味」

「なるほど」

「それで、クリスマス・イブになると唐突に街にサンタさんの恰好をした人が現れるでしょう? 昨日まで普通の恰好をしてティッシュを配っていたり、レジを打ったりしていた人たちが急にサンタさんになるの。つまりね、サンタさんという概念は人を指すものじゃなくて役割を指すものだと思うの。パンを焼いて売っていたらパン屋さん、花を入荷して売っていたら花屋さん。じゃあパン屋の恰好をして花屋で働いてる人は?」

「ただの人?」

「そうだけど、私たちはその人が本当にパンに関係がない人かどうかを知りようがないでしょう? だからそれは『パン屋さんでありうる人』なのよ。サンタさんも同じでね、もしかしたらレジ打ちは仮の姿で、本当はご家庭にプレゼントを配り歩いている人かもしれないでしょう? 重要なのはサンタ帽子をかぶっていることで、傍目にも分かりやすくその役割が想起されるところにあるんだわ」

「なるほど」

 本当は何がなるほどなのか全く分かっていなかった。正しいことを言っている気もするし、めちゃくちゃなことを言っている気もするのだが、判断ができない。つまるところ私たちはカレーにドバドバ混ぜた隠し味のワインのせいでぐでんぐでんに酔っぱらってしまっていた。

「例えばね、フィンランドには職業的なサンタクロースがいるでしょう? いや、いるらしいのよ。政府公認、みたいな人が。でもだからってサンタクロースを信じてる? という問いに、その政府公認のサンタさんを根拠に肯定するのはちょっと違うでしょう? ここで問いを立てられているサンタさんは、そういう地に足のついた人のことじゃなくて、トナカイのソリで空を飛びまわって、一晩のうちに世界中にプレゼントを配る能力のある、赤い服の白髭おじいさんのことを指しているわけだから」

「なら『信じる』って訊き方が意地悪なんじゃない? いないのを前提にした存在がいると思うかを訊くのってなんか変な気がする」

「たぶんそこがサンタさんのスペシャルなところなのよね。あなたはいつごろまでサンタさんを信じてた?」

「うちはサンタが来たことなかったから、信じるも信じないもなかったかな。単にクリスマスを表す記号みたいなものだと思ってた」

「それは素敵ね。記号的であることはいいことだわ」

 もう最後の方は全然覚えてなくて、起きたらベッドの上で布団の下は下着だけだった。

 ちゃんと寝るときに下着を穿いて寝る私たちは結構えらいと思う。 

隣で寝息を立てる彼女の肩には噛み痕がついていて、ということは消去法で私が噛んだものなのだろう。私はキスマークを付けるのが下手くそで、付けようとするといつも噛み痕になってしまうのだ。

全然思い出せない。手足を赤いリボンで縛られてプレゼントになりきったあたりまでは覚えているけど、そこから先の記憶が消えている。

 テーブルの上には食べ終わった皿が出しっぱなしで、ルーがこびりついてしまっていた。

 飲みかけのグラスと空になったワインボトルも放置されていた。

 洗面台に立つと、私の鎖骨の当たりにも噛み痕とキスマークの中間くらいの跡が残っていた。きっと七面鳥を食べるみたいにお互い噛み合ったのだろう。覚えていないのがもったいない。

 私はその噛み痕を指でなぞり、メリークリスマス、と思った。

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