4 花が咲いたら死ぬことにする

 翌日、私は初めて学校以外で彼女と会うことになった。

 私の家の最寄駅から電車で六つ移動して、それからわざわざバスで二駅分戻った。

 ポケットには昨日貰った彼女の家の合鍵が入っていて、背中のリュックには包丁が四本入っている。

 包丁は昨日の帰りに買ったものだった。四本とも別のスーパーで買った。毎回カモフラージュのためにお玉やトングをセットで買ったから、家に帰りつくころにはカバンがパンパンだった。終業式の日だったからよかったけど、教科書のある普通の日だったらカバンに入りきらなくなっていたかもしれない。

「私たちが他人である利点を生かしましょう」

 と昨日の彼女は言った。

 私たちに関係があることはたぶん世界中で誰も知らない。だから万が一、後々彼女の行動の形跡が警察に調べられることになっても、本腰を入れて調べない限り、私の過去の行動までは確認されないだろう。だから私は彼女のマンションにある防犯カメラに映ることなく彼女の部屋まで行く必要があった。

 交差点を三つ進んで、橋を渡って右に曲がった。川沿いを進んで少し行ったところにある不自然なタワーマンション。そこが彼女の家だった。

 ここら辺は元々再開発地区として高層マンションが乱立する予定だったらしい。だけど一本目の建設中に地盤に問題が見つかって、そのまま開発計画は流れてしまったという話だった。一本目のマンションはほとんど工事が終わってしまっていたからそのまま建てたけど、何千万円もする高層マンションを、すぐに価値が下がると分かっていながらわざわざ購入する人間なんてほとんどいない。

 長らくゴーストマンション状態が続き、しばらくして値が下がったところをまとめて海外資本に買い叩かれた。今は「部屋の所有者はいるけど人は住んでいない」状態になっているようで、夜に明かりのついている部屋を外から探しても、両手で数えられる程度しか認められないとのことだった。

 防犯カメラの付いていない駐輪場からマンションの地下に入って、貰った鍵で重たい非常階段の扉を開けた。

 正面のオートロックから入る正規のルートだと、マンション内に入るときと、エスカレーターでロビー階に上がるとき、さらには階層ごとに分かれたエレベーターに乗るための自動ドアを開錠するとき、最後にエレベーターの中で防犯カメラに映ってしまうらしい。人は住んでいないけど、一応は高級マンションだから警備は厳しいようだ。もっとも、何か事件が起こらない限りこれらの防犯カメラが見返されることはないだろうけど、少なくとも私が映るべきでないことは確かだった。

 そこで裏ルートである。私は暗くかび臭い階段で彼女の部屋まで上がっていく必要があった。

 非常階段は防犯上の観点から、駐輪場階の扉と自分の部屋がある階の扉しか鍵で開けることは出来なかった。私は四十八階分を無心で登る必要があった。途中で暑くなってコートを脱いだ。二十階と三十二階で五分ずつ休憩した。

 低層階には人が住んでいないのでわざわざこの階段を使う人間はどこにもおらず、故に誰かと遭遇する危険はないと言われていたが、私はそのことを身をもって知っているわけではないし、背中には四本も包丁を担いでいる身なので最初の方は結構ドキドキした。

 だけど十五階も登るころにはそんなのどうでもよくなって、ただひたすら無心で足を上げていくだけだった。

 階段を上がることよりも、定期的に折り返していることにきつくなりながらもなんとか四十八階までたどり着いた。48と書かれた防火扉を開けるとき、これで鍵が合わなかったらどうしようかとドキドキしたが、重い扉は無事に開いた。

 4816と書かれた扉の前へ行き、インターフォンを押すと最初の一音が鳴り終わる前に扉が開いた。

 急に扉が開いたのと、学校以外で彼女に会うのが初めてだったのとで、どんな表情をしていいか分からなくなった。数秒目が合って、

「どちら様かしら?」と彼女がふざけて尋ねた。

 私は一体どちら様だろう、と考えながら、

「よく分かりません」と答える。

「私も私のことがよく分からないわ」と小さく笑いながら、彼女は私を招き入れてくれた。


 彼女の家の第一印象は「眺めが良い」で、第二印象は「カーテンがない」だった。

 自分が普通のマンションに住んでいるからそんなこと考えたこともなかったけど、周りに同じ高さの建物がない場合、カーテンという概念が不要らしかった。普通に眩しいんじゃないかとも思ったけど、窓が東向きで、ベッドのある部屋には窓がないからやっぱり必要性はないとのことである。

 ベランダに出てみると駅前のバス停から私が辿ってきた道が全部見えた。彼女は上から私のことを見ていたのかな、なんて想像してみる。

「いいでしょう? ここから飛び降りたら確実に死ねるわよ」と彼女が手すりから身を乗り出しながら言った。「いつでも確実に死ねる場所が身近にあるっていうのは結構大切なことね。そういう安心感が、日々を生きていく糧になるんだわ」

 それから彼女に色々な『死ねるグッズ』を見せてもらった。

 例のメスから、ドアノブにかけられるように長さを調節されたロープ、長い釘をプシュッと発射する銃みたいな工具(よくゾンビを倒すのに使われるアレだ)に、冷蔵庫の醤油まであった。最後のは絶対冗談だったけど、身近にある死ねる方法というテーマで考えると、醤油一気飲みが優勝のような気もする。本当に醤油一気飲みで死ねるかは知らないけど。

「これは面白いわよ」

 と彼女は、ベランダの植木鉢を見せてくれた。鉢の中には土は入っていたけど、なにも生えてはいなかった。

「これにはね、長くて素敵な物語があるの」

 外が寒かったので部屋に戻ってから続きを聞く。

「ソクラテスっているでしょう? 無知の知の人。どうやって死んだか覚えてる?」

「確か死刑になって、毒杯を飲んだ、みたいな」

「偉いわ。その毒というのがね、ドクニンジンを煎じたものだったんだって」

「もしかしてそれが植えられてる?」

「そうであり、そうでないわね。まあとにかくソクラテスと同じ死に方をするってちょっと素敵だと思わない? 私は思ったからドクニンジンのことを調べたの。日本には売ってないみたいだったけど、イギリスのネットショップに種が売っていて、それを取り寄せたわ。英名はポイズン・ヘムロックっていうんだって。これもこれで良いわよね」

 私は乾燥した土の表面をなぞって彼女の話を聞いていた。

「でね、ほら、そのちょっと洒落た植木鉢と良い土をわざわざ買ってきて、生育方法を調べて種を植えたの。この種から芽が吹いて、いつか花を咲かせたら、私はそれらを煎じて飲んで死んでしまおうと思ってね。それ植えてから何日目だと思う?」

 まだ芽が出ていないということは、そんなに前の話じゃないのではないか。

「三日目くらい?」

「残念。三年目でした」

「それって種が死んでたんじゃないの?」

「私もね、二週間芽が出てこなかった時点で薄々察したわ。だけどやっぱり花が咲いたら死ぬことにするってちょっと洒落てるじゃない。だから私は待ち続けているの。この花が芽吹き、葉を茂らせ、花を咲かせるときをね」

「オシャレだね。あの葉っぱの話みたい」

「あなたに分かってもらえて嬉しいわ。この花は、きっと今日のために咲いてこなかったのかもしれないわね」

 部屋はいわゆる3LDKと呼ばれる作りだった。

 カウンターキッチンの先にダイニングとリビングが接続されていて、それとは別に二部屋があった。片方が彼女の部屋で、もう片方が彼女の母親の部屋だったらしい。

 一通りおしゃべりをして、テンションも落ち着いてきたのでいよいよ見せてもらうことにした。

 お風呂場だった。浴室の扉を開けると、花の蜜のような甘ったるい芳香剤の匂いが鼻を突いた。

 彼女が一度私を見てから、浴槽のふたを開ける。白い冷気が立ち込める。

 そこには氷の棺に埋められた彼女の母親の死体があった。

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