3 小さな三角形の独立国で

 十一月になると私たちの踊り場も寒くなってきた。正確に言うと制服を脱ぐには寒くなってきた。もう少し正確に言うと、制服を脱いで色々やった後が大変寒かった。

 別に私たちも盛りの付いた女子学生というわけでもないし、ああいうイベントはだいたいなし崩し的に、退廃的に発生していただけだったので、別に寒いなら寒いでわざわざそういうことをする必要もなかった。彼女が電源を付けておくだけでホットプレートのように発熱する壊れたタブレットPCを持っていたので、それで暖を取りながらぼーっとテントの骨組みを見上げたりした。

「こうしているとプラネタリウムみたいね」

 私の両腿を枕にして、彼女がテントの染みを眺めていた。

 私は時折タブレットに手を乗せて、奪った熱を彼女の頬に与えたりする。

「ねえ、知ってる? 東京ドームの天井は三五九個に分かれているの。当時の私の観測が正しければだけど」

「自分で数えたの? クイズで見たとかじゃなくて」

「小学校にも上がる前ね。なにかの用事で東京に連れて行かれて、ご機嫌取りの体で野球に連れて行かれたの。サッカーとかもそうだけど、スポーツのルールを最初に考えるような人ってよっぽど人望が厚かったんでしょうね。『ボールを運ぶのに手を使ってはいけません』なんて言われて普通それに従う気になる?」

「うーん、じゃあ試合中に手を使った人の腕を順に切り落としていったとか。そしたらみんな足を使うようになるんじゃない?」

「そんな目にあってよくその競技を続けようと思ったわね」

「続けなかったら今度は脚を切るぞーって脅したり」

「なるほど。それで頭だけになった人間が後のボールになったというオチなのね」

いや、そこまでは考えてなかったけど。

「私たち、なんの話をしていたかしら」

「東京ドーム?」

「ああそう、それね。思えばあれが目覚めだったような気がするわ」

「野球好きなの?」

 そういう話はしたことがなかったからちょっと意外だ。

「いや、そうじゃないの。いえ、そうかしら。とにかく私ね、テレビで野球を見るのが少し好きなの。見たことある?」

「テレビでなら何回か」

「テレビの野球ってファールボールが客席に飛んで行ってもカメラは追わないじゃない? 私ね、あれが大好き。だって野球のボールってすっごく硬いのよ。それが天井の高さから降ってくるの。絶対頭に直撃したり、眼球が潰れてる人がいると思うのよね。そういう想像をするのが好き。一家団らんの楽しい野球観戦が、血塗られた一ページに変わるところを想像するとドキドキしちゃう。胸が苦しくなって、お腹が熱くなるの」

 ほら、と彼女が私の手を下腹部に導いた。もちろん冬服の上からだからその熱は伝わってこない。だけど私の手の平の下に彼女の子宮があるのだと思うと、指先の感触に集中せざるを得なかった。

「一度球場に行くといいわ。やっぱり硬いボールが座席にぶつかる音を聞いたり、けたたましい笛の音を聞くとリアリティが違ってくるから」

「うーん、考えとく」

「それは行かない人間の定型句ね」

 左手一本で彼女のブレザーのボタンを外すのに悪戦苦闘していたせいで気のない返事になってしまったけど、全然知らないスポーツをやっている人の多い会場に、わざわざお金を払ってまでボールが椅子にぶつかる音を聞きに行きたいかといわれると、これは確かに否であった。特に人が多そうなところがきつい。

「あなたってお祭りとか行ったことあるの? リンゴ飴って分かる?」

「分かるけど、食べたことはないと思う」

「私も。あれって不思議なアイテムよね。お祭り以外で見たことないもの。それってつまり存在が記号的なのよ。浴衣を着た女の子単体だと、花火を観に来ただけかもしれないけど、その子が手にリンゴ飴を持っていたなら、それだけでそこがお祭りの会場だって分かるのよ。そういうのって尊いと思わない?」

「記号的な部分が尊いの?」

「たぶんそうね。だから私、制服も結構好きなのよ。制服の女の子が朝歩いていたら、きっとこの子は今から学校に行くんだって思うでしょう? そういう連想が好き。良いと思わない?」

「うーん、あんまり」

 私の場合、あまり学校が好きでないから、単になんとも思わないだけかもしれないけど。

「学校好きなの?」

 ちょっと意外だったので訊いてみる。

「結構好きよ。あなたはどこら辺が嫌いなのかしら?」

「人がいるところとか」

「私がいるところは?」

「それは結構……好き」

 いつの間にかこの返答をさせられるための会話に誘導されていたんじゃないかと気が付いて、ちょっと面白かった。ここで「私のこと好き?」と逆に質問する案も思い浮かんだけど、たぶんこともなげに「結構好きよ」と答えられてしまうと思ったので棄却された。

 彼女はそういうことを考える私を見て、ふふんと微笑む。

「いつか一緒にすごく固いリンゴ飴が天井から落ちてくるところを観に行きましょうね」

 と彼女が言った。

 この『いつか』は私の「考えとく」と同様の、未来のない『いつか』だった。

 私は三か月たった今でも彼女のクラスを知らない。メールアドレスや電話番号も知らない。サンドイッチを持っていかれた初日の教室をのぞいて、私たちはこの秘密のテントで、かつ昼休み限定でしか会話を交えたことがない。名前も知らなかった。私たちのこの限られた世界には、私と彼女の二人しか存在していなくて、だからわざわざ名前という輪郭で彼女という個を識別する必要はなかったのだ。

 もし名前を尋ねたら、彼女は普通に教えてくれたかもしれない。だけど出来るだけ彼女のパーソナルなことは知りたくなかった。彼女は神聖で特別だったのに、それを世間的な接地の仕方で世界に迎合させてしまうのが嫌だったのだと思う。

 テントの中の私たちには、あなた/キミという曖昧な境界しか存在しなくて、そこはピンポイントな永遠だった。相対的な尺度が何もないから、当然過去も未来もなく、だからこの『いつか』は常に今であり、それと同じくらいの強度を持った永遠にやってこない『いつか』なのだった。


 十二月になったので、修学旅行があった。

 私は特に仲の良い人がいない人同士を集めた班に入り、黙々と三日間を過ごした。

 中学の時は京都と奈良だったからちょくちょく事務的なコミュニケーションが求められたけど、今回の修学旅行は北海道で淡々とスキーを習うだけだったのでほとんど会話をせずに済ませることが出来た。ホテルで自由時間になると、他の班員はみんな別のクラスの部屋に遊びに行ったので、ほとんどが一人の時間だった。班員のみんなは今年のクラス替えで偶然友達と別のクラスになってしまっただけであって、クラスの縛りさえなければどこかに友達がいるようだった(純粋に誰とも仲良くない子というのもクラスに一人はいるだろうが、残念なことに私のクラスのその枠は既に私で埋まってしまっていた)。

 当然、私は部屋で彼女のことを考えた。

 もしかしたら廊下ですれ違うかも、なんて行く前は想像したこともあったけど、結局一度も姿を見かけなかった。スキーが終わってニット帽を脱いだあとなんかは前髪がいい感じにペタンとなっていて、今なら会ってもいいかもなんて思ったりもしたが、やっぱりこういう場では彼女に会いたくもないような気もした。ジャージ姿の彼女は想像できなかったし、彼女が私以外の人間と話しているところもあまり見たくないような気がした。彼女にはやはり小さな三角形の独立国で、中身があるのかないのか分からないようなフワフワした話だけを永遠にし続けていてほしい。


 修学旅行の翌日は終業式で、次の日から冬休みだった。

 三限で学校が終わったので、昼休みという概念はなかったけど、このまま新学期まで彼女に会えないのも嫌だったので、昼休み限定ルールを時間限定ルールと都合よく解釈しなおして、昼休みの時間帯になるまで待ってテントに行ってみた。

 果たして、彼女はいた。

 冷え切った体育マットの上で、コートを着たまま寝っ転がって音楽を聴いていた。

 私を認めると、彼女は目線だけを上げて私を見た。

「なんだか久しぶりね」

「久しぶり」

 私も隣に並んで寝ころんでみる。

「聞いてみる?」

 私の視線を察して、彼女がイヤフォンの片方をくれた。

「……何も聞こえないよ?」

「何も聞いてなかったのよ。ただイヤフォンを耳に入れてぼーっとしてただけ。記号的要素」

 彼女が何にも繋がっていないイヤフォンジャックを指先でくるくると弄んでいた。

 しばらく無音の間があってから彼女が尋ねた。

「修学旅行があったでしょう? 行った?」

「行ったけど……え、いなかったの?」

「だって常識的に考えて制服でスキーはやらないでしょう? そう思うと、なんだかあんまりね」

「なにそれ」

 彼女が常識的に考えたりするというのが少し面白かった。

 また空白の時間に戻って、私たちは分け合ったイヤフォンで無を聞き続けた。

「あのね」

 しばらくして彼女が口を開いた。

「もしあなたが今日ここに来なかったらそれでもいいと思っていたの。だけどあなたは来てしまったから言うことにする」

 珍しく彼女が饒舌ではなかったので、私は首ごと彼女を見た。

 彼女もイヤフォンを外して私を見る。それから、

「人間を一人消失させたいの」

 と澄み切った声で言った。

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