2 愛液の味に似ていると思った


 私たちが教室で会うことはなかった。全校集会や教室移動で見かけても、私たちは一度も言葉を交えることなく、目も合わせなかった。会うのは決まって昼休みだけで、屋上階段の秘密基地限定だった。別に教室で彼女と話しているところを誰かに見られたとしても、困ることなど一切ないはずであったが、単に「秘密」を持つことが楽しかったのだと思う。

 昼休みが長く使えるように、パンは事前に購買で買っておくようになった。コーヒー牛乳は温くなると美味しくなくなるから、代わりに自販機で缶ジュースを買っていくようになった。逢瀬が終わってごみを捨てるとき、私はプルタブを外して家に持って帰った。ジャムの空き瓶に貯まったプルタブを眺めると、日々が蓄積されていくような高揚を覚えられた。生き物の死体の写真を撮るのもそうだけど、私は歳月を感じられるものを収集するのが好きなのかもしれない。


「ねえ、見て」

 私がパンとジュースを持って踊り場へ行くと、彼女がペンケースから取り出したメスを見せてくれた。外科医が患者を切るときに使うあのメスだ。ドラマ以外でメスを見たのは初めてだったけど、パッと見でそれがメスだと認識できてしまうから人間とは不思議なものだ。

「どうしたの、それ」

「通販で買ったの。深夜にテレビでやってるやつ」

「そんなの売ってるの?」

「最近のはなんでも売っているのよ」

「ふうん」

 思っていたより軽くて、刃は薄くてチャチな感じだった。こういうのってもっと板前が使う包丁みたいに、重くて高級感があるのかと思っていた。

「医学生が実習で使うものなんですって。替えの刃は十枚で七百円」

「ジュースより安い」

 柄には「FETHER」と刻印があった。会社の名前かこのメスの名前のどっちかだろう。「羽のように軽い」みたいなニュアンスかもしれない。

 私からメスを回収すると、彼女は私を押し倒した。

「舌出して」

 言われてベーっと舌を出す。

 彼女は私の舌にメスの刃先を当てた。

「こういうのってドキドキするわ」

 彼女の目が嬉しそうに笑っている。

 私は舌を動かせないのでなにも喋れない。

 その好き嫌いは別として、彼女に私を傷つけるつもりがないのは分かっていた。初めて会った日は首を絞められたけれど、あれはいわば「私はこういうのが好きだけどよろしくね」という自己紹介のようなものだった。あの日以降、痛い目に合わされたことは一度もない(破瓜のときは痛かったけど、あれは彼女の方が痛がっていたからノーカンだ)。

 だから彼女が私の舌を切りつけないことに対してはある種の信頼感があった。だけど、もし彼女がふとそうしてみたくなって、あるいは今日の晩御飯のことでも考えながら無意識にスーッとメスを動かしたなら、私の舌は当然縦に割けるだろう。血が出るし、とても痛いだろう。治るまでに何日も飲食が苦痛になるかもしれないし、一生治らないかもしれない。

 そんなことを考えると、無性にドキドキした。いま私の舌の所有権は彼女にあり、彼女の思い付き一つでズダズダに切り裂いてしまうことが出来るのだ。

 彼女の方もそんな私を見てうっとりと目を細めていた。彼女の考えていることもよく分かる。「私がうっかり手を滑らせただけで、この子の舌は一生使い物にならなくなる」。生殺与奪権を握られるドキドキと、生殺与奪権を握るドキドキ。二つのドキドキが重なり合って、太ももの内側にキュッと力が入るのが分かった。

「ねえ、『親しい』の定義を考えたことはある?」

 私の舌からメスを外して彼女が尋ねた。

 メスの側面が優しく私の頬を撫でる。そのまま耳の後ろから首筋をなぞり、制服の上から鎖骨に触れた。

「あなた、親しい人はいる? あるいはお友達という言い方でもいいけれど」

 私は小さく首を横に振った。その是非に関わらず、この場合の問答に彼女の存在は含まれないような気がした。

「思わない? お友達が百人いるような人がいたとして、それは単に親しいの深度が浅いだけなんじゃないかって。スーパーで売ってるパックに底上げされたお刺身のようなものなのよ」

 よく分からない例えだったけど、よく分かった。要するに、友達が多い人って単に友達認定が安易で雑なだけで、実は友達というほど親しくないのではないかと思ったりするやつだ。

「私とあなたは親しいと思う?」

 今度は難しかった。現状、彼女は私にとっては最も親しい存在であるが、だからといって安易に「親しい」と答えてしまうと、それは刺身のように軽薄な人々と同類になってしまうような気もした。私のそんな気の迷いを読み取って、彼女がいたずらに微笑む。

「だからね、当時幼かった私は明確な基準を考えたの。友達の定義。シタシイのモノサシ」

 何だか分かる? という目で彼女が小さく首を傾げた。

 なんだろう。このタイミングで話題に上がることなのだから、メスが関係ある? メスから連想されるものってなんだろう。手術、病気、出産、死……。

「この人になら殺されてもいいと思えるかどうか、とか?」

「あら、意外といい線いくのね。でも惜しいわ。『思っている』と口に出すだけだったら誰にでも言える。どうとでも偽れる。もう少し実践的にしてみましょう?」

「……実際に殺されてみる、とか」

「ふふ、好きよ。あなたのそういうところ」

 彼女は自身の指先にメスを当てて小さく刃を横に引いた。少しの時間差があって、傷口からぷっくりと丸まった血が浮かび上がってくる。

「舐めて」

 彼女が私の口の前に指の腹を差し出した。

 私はチロリと舌でその血を舐めてみる。あまり味は分からなかった。彼女の指先からねっとりと粘性の糸が引く。

「私ね、思うの。嫌いな人間の血って舐めたくないでしょう? 知らない人間の血も穢くて嫌。知ってても嫌だけど」

 彼女は今度は左の手首にメスを添えて、すっと横に引いた。遅れて刃先をなぞるように、綺麗な一本線となって血が溢れてくる。血は彼女の手の平を伝ってボタボタの私の口に落ちた。

「どんな味?」

「……あんまり味しない」

 唇についた血を舐めてみると、かすかに鉄の味がした。

「本当?」

 彼女が自分でも血をすくって舐めてみる。

「本当ね。昔ね、自分で自分の血を舐めてみたことがあったの。私は私と親しいからね。そのときはしょっぱくて飲めたものじゃなかったわ。それで食生活を改めようと思ったのね」

 言われてみると仄かに海の味がするような気がする。口には出さなかったけど、彼女の愛液の味に似ていると思った。どちらも同じ身体から滲み出る液体なのだから、当然と言えば当然なのかもしれないけれど。

「あなたの血も飲ませて」

 彼女が私の首筋にメスを当てた。

「いい?」

 こくんと頷く。薄皮一枚だったので痛くはなかった。どちらかというと笹の葉で指先を切ったようなむず痒い感触。

 首筋に彼女の唇が触れる。

「んっ」と恥ずかしい声が漏れたけど、彼女は聞かなかったことにしてくれる。

チロチロとした舌先の感触。血液って部位によって味が違ったりするのだろうか。心臓に近いところの方がなんとなく濃そうな気がする。三年になったら生物を選択しよう。

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