1 私だけが彼女の墜落を期待していた

 見上げると靄がかかっていた。

 朝の空気はもうすっかり張りつめていて、首筋から侵入してくる冷たい風に、いつの間にかとっくに夏が終わっていたことを実感する。

 人の往来はほとんどなく、交差点の車も、赤信号の前に三台もたまらないうちにすぐに走り去ってしまう。静かな早秋の始まりだった。

 少し前まであれだけ騒がしかった朝のセミたちはどこに消えてしまったのだろう。

 たまにひっくり返ったセミの死骸が落ちていることはあるけれど、一夏の間鳴いていた圧倒的なセミたちの数に比べたら、私の目に留まった死骸なんて全体の一万分の一にも満たないのではないかと思える。

 夏の間、私はそのことが気になって路上でセミの死骸を見つけるたびにスマートフォンで死骸の写真を撮ることにしていた。しかし三ヶ月の間にフォルダに増えたセミの死骸画像はわずかに二十四枚であった。

 真面目に考察をするのなら、野良猫やカラスが食べているのだとは思う。しかしそうすると、今度はそんなにたくさんの猫やカラスは普段この街のどこに潜んでいるのかという話になってしまうし、やっぱり猫の死体やカラスの死体(死骸と死体の違いは何だろう)もそんなに見かけることがない。この一年で増えた猫とカラスの死体の写真は、合わせて三枚だけだった。

 時刻は午前六時。

 五車線の道路を挟んで、十五階建てくらいのビルが向かい合って建っていた。

 ビルの屋上からは一本の線が伸びて、反対側のビルまで続いている。線は極めて細く、予めその存在を知っている人間でないと下から見上げても一切認識できないだろう。その線は幅五センチ程度のワイヤーらしい。その極細のワイヤーの上を、いま一人の女性がゆっくりと歩いていた。

 彼女はいわゆる綱渡りをする人で、私にとってはいわゆる近所のお姉さん的存在だった。

 うちは両親が共働きだったので、週に何度かは同じマンションに住んでいた彼女の家庭で晩御飯を食べさせてもらっていた。小学校での私は、通知表に「もう少し元気にお友達と遊んでみてもいいかもしれません」と書かれるような『物静かで大人しい子』だったので、登校時からクラスメイトと一言も言葉を交えないまま下校時刻を迎えるなんてこともざらで、当時の会話の相手を円グラフにとるならば、二七〇度はこのお姉さんが占めていたように思う。休みの日に博物館やミュージカルに連れて行ってもらったこともあった。その時に買ってもらったペンギンのぬいぐるみは今も箪笥の上に座っている。

 だけど中学にあがるとさすがに毎日面倒を見てもらうという感じでもなくなるので、私の主食はコンビニ弁当へと遷移し、彼女とは徐々に疎遠になって、高校に上がる頃には「そういえばそういう人もいたな」くらいの認識になっていた。

 それが先週エレベーターの前で偶然会って、居心地が悪くなりながら数分間立ち話をした。彼女が趣味で綱渡りをしていることを教えてもらったのはその際だった。

 何かのイベントや活動としてやっているわけではないらしい。ただの趣味の綱渡り。

 趣味だからどこにも告知もしてないし、そもそも夜間にビルに忍び込んで勝手にロープを張るのだって違法もいいところだ。だから全部自分一人でやるのだと彼女は言っていた。

 半年をかけて二つのビルの屋上までの鍵を手に入れ、先にドローンでビルの間に軽いロープを渡し、それに沿ってワイヤーを走らせるのだと言っていた。

 きっと今、彼女が四十メートルの上空に足を踏み出せたということは、彼女のこの半年間の単身の頑張りが報われたということなのだろう。

 誰も空を見上げていない。たまに通る人々はみな、何かに祈るみたいに俯いていて、足早に駅の方角へと向かっていっている。

 だからきっと彼女が今、上空四十数メートルに創り上げた彼女の王国で、命綱なしに単身ビルとビルの間を横断しようとしていることを知っている人間は、私しかいなかった。世界中で私だけが彼女の墜落を期待していた。

 彼女の歩みは順調だった。バランスをとるための長いポールを器用に使いながら、一度も止まることなく中央分離帯の上を通過した。一度上の方で風が吹いたようで、一瞬立ち止まったものの、すぐにまたゆっくりと前進を再開した。

 これまで五メートルの高さでしかやったことがないとは思えないほどにスムーズな進行だった。私にはよく分からないけど、五メートルも四十メートルも技術的には変わらなかったりするのだろうか。

 彼女は順調に歩みを進め、なんの波乱もなく対岸へ辿りつこうとしていた。丁度私が立っている真上のあたり、あと数歩も歩けばなんら面白味もなくゴールするだろう。

 というときに、私の制服のスカートが大きく膨らんだ。条件反射でスカートを抑える。目を上げると、バランスを崩した彼女がワイヤーの上で小さくしゃがみこんでいた。

 もう一度スカートが膨らんだ。風はビルの背を伝い上空へと昇っていく。

 ワイヤーが目に見えて揺れていた。

 彼女は慎重にバランスを取り、ゆっくりと斜めになりながら、最後まで重心を残そうと抵抗をしていた。そしてそのためにスローモーションのように静かに重心が移動して、ゆっくりとワイヤーから両足が離れた。

 最初のコンマ数秒で綺麗に頭が下になり、次の瞬間には彼女の頭だったものは私の足元で半分以下の体積になっていた。遅れて、地面で高く跳ねたポールが再び落ちる音。私のローファーには、彼女の頭の中身が吐瀉物みたいに跳ねていた。

 私はスマートフォンで彼女の写真を一枚とって、騒ぎが起きる前にその場を去った。


 ローファーについた血や固形物を公園で綺麗に洗い落とし、靴下はビニール袋でしばってコンビニのゴミ箱に捨てた。駅のトイレで全身を眺めたけど、制服は無事のようだった。

 登校時刻にはまだ随分と早かったので、最寄りのツタヤで時間を潰した。好きなシリーズものの翻訳推理小説の新刊が出ていたのだけど、悲しいことに帯がいつもの洒落たなデザインのものから「映画化決定」とでかでかと書かれた、何の思想性もないものに変わってしまっていた。私は本を買うときに帯や版数に拘るタイプだ。既刊に統一された帯じゃないと嫌だし、初版第一刷りじゃないと絶対に嫌だ。そこに五分以上立ち尽くし、本を裏表しながら随分と悩んだけれど、結局私はその本を買わないことにした。

 こういうのって何年か経ったらこれまで通りの綺麗な帯が新しく作られるのだろうか。いやでもその頃には初版第一刷りじゃなくなっているからという理由で私はやっぱり買わないだろうな。一番いいのはとりあえず新刊を買っておいて、ちゃんとした帯に戻ったころにもう一冊買って帯だけ付け替える作戦だろう。しかしそういうセレブな二冊買いをするには、今月の食費が少し心許なかった。だから私は今まで毎巻楽しみにしていたこのシリーズもののミステリを今後一生買わないだろう。小学生の頃に読んでいた少女向け雑誌も似たような理由で読むのを辞めた記憶がある。私はちょっとしたことですぐにモノへの執着を失ってしまうのだ。


 午前の授業は古文と数学Ⅱと物理と情報だった。

 古文はクラスの半分が寝ているし、数Ⅱは回答を板書させられる日ではなかったので頬杖をついているだけでよかった。

 物理も本当は睡眠枠だけど、今日は人間がビルの最上階から落ちた際の地面にぶつかるまでの時間を知りたかったので、過去に配られた授業プリントを読み返すのに充てた。フォルダを行ったり来たりしてついに「物体の自由落下」の項のコラムに、空気抵抗がある場合の落下時間の求め方を見つけることができた。しかし、式の中にコサインとか累乗があったせいで、私の不出来な頭は考えることを拒絶してしまった。

 だけど次の情報の時間にこっそりネットで調べたら、それを勝手に計算してくれるサイトを見つけられた。どうやら四十七キログラム(仮定)の人間が四十メートルの高さから落ちると、二・九秒程度かかるらしい。頭からまっすぐ縦に落ちるときとスカイダイビングみたいに腹這いで落ちる時では抵抗の大きさが違うのではないかとも思ったけど、まあ二・九秒なら誤差みたいなものだろう。時計を見ながら二・九秒を感じてみた。思ったよりも長いし、思ったよりも短い。例えば今まさに落ちている人間にとっては、その体感時間はぐんと伸びるのだろうか。それとも二・九秒はあくまで二・九秒の範疇なのだろうか。こればっかりは自分が落ちてみないと分からないだろうな。

 お昼は購買でパンを買って教室で食べた。クラスの人たちはだいたいみんな食堂に行くから、必然教室は閑散とする。私も本当は食堂のご飯を食べたいけど、私の性格上、美味しくても人口密度の高い食堂と、閑散とした教室で食べるパサパサのサンドイッチとでは後者の方が優勢になってしまう。この時間の教室は次の英語Ⅰの予習を済ませていない人たちが黙々と辞書を引いているくらいなので非常に平和だった。英語は好きでも嫌いでもないけれど、英語の前の時間は教室が静かになりがちなので結構嬉しい。

「知っている? 秒速25メートルなんですって。人間の落下する速度」

 だから最初、その声が自分に向いているものだとは考えなかった。

「あなた。あなたよ、あなた」

 もう一度声があって、なんとなく振り返ると、彼女と目が合った。それでその「あなた」が私のことを指していたのだと分かった。

 見たことのない人だったから、たぶん違うクラスの人だ。過去に同じクラスになったこともない……ような気がする。

「私ですか?」という意味合いを込めて小さく首を傾げると、「あなたよ」という風に彼女も小さく首を傾げた。そんな風に綺麗な顔で自分の動作を真似られりしたら、その時点で心のシャッターを下ろしてしまいそうだけど、彼女のその仕草は、肩の下までまっすぐ下りた透けるような黒髪と整った容姿に助けられて、ものねだりをする絵本のお姫様のように見えないこともなかった。だから少なくとも、ギリギリ私の許容範囲に収まることに成功していた。

 いや、そうではない。その前だ。彼女は今なんと言っただろうか。「あなた」の前。

「知っている? 秒速25メートルなんですって。人間の落下する速度」

 私の思考を読んだかのように、彼女が繰り返した。

 背中にじわりと冷や汗がにじむ。

 私にこの言葉が欠けられる以上、それは今朝の一件についての話だろう。

 今朝の私を見られていたのか? いや、単に情報の時間に調べていた履歴を見られただけかもしれない。そんな錯綜がわずかな時間の内にあって、

「私にご用ですか?」

 と私はコーヒー牛乳の残りをストローで吸い上げながら尋ねた。人間の起こす面倒ごとには極力関わりたくない。あなたは私にとってコーヒー牛乳よりも関心の低い存在です、という意志を示したかった。

「私ね、今日あなたを見たの」

 彼女が隣の人の机に軽くお尻を乗せた。

「はあ」

「これ、あなたでしょう?」

 彼女がスマートフォンの画面をこちらに向けた。

 朝。曇り空。幅の広い道路。人通りのない歩道。『彼女』の写真を撮る私。

 正直結構動揺した。私が死体の写真を撮っていたところを撮られたところまではいい(よくないけど)。だけど、その写真を私に見せてくるのはどういった了見か。

 あの場に居合わせたということは、私が通報もせずに足早に立ち去ったことも知っているはずだ。別にそれ自体は犯罪じゃないと思うけど、そういうことを大人に知らされたら後々面倒なことになるのではないか。ケータイを没収されて中の写真を検められたりでもしたら色々な動物の死体の写真を見られてしまう。それ自体も犯罪ではないと思うけど、そのせいでありもしない心の闇をでっちあげられて、スクールカウンセラーに謎のトラウマを捏造されるのなんて死んでもごめんだ。中学時代に似たようなことがあったから、私はこういう流れに結構詳しい。

 彼女が話しかけてきた意味について、様々な可能性が頭を駆け巡る。

「動画もあるのよ」

 彼女がビデオを流し始める。音が付いていたので慌ててスマートフォンをひったくって、スリープ状態に戻した。

「ふうん、こういうのは慌てるのね」

 彼女が小さく舌を出す。天使に扮した悪魔のよう。

「なにか用?」

 私は気持ちをリセットして、二十秒前の会話からやり直すことにした。

「ここじゃあ嫌でしょう? 来て」

 彼女が一切れ残った私のサンドイッチを取って教室を出た。仕方なく私もついていった。

 階段を一階降りて、渡り廊下を渡り、四階まで登った。

 こっちの棟は美術室とか視聴覚室とか、そういう普段使わない特別教室ばかりだから、授業がない限り人が少ない。私は休み時間を持て余したときにわざわざこっちのトイレを使いにきたりするからたまに来ることはあった。だけど階段の一番上まで来たのは久しぶりだった。屋上に鍵がかかっていることはみんな知っているから(私も入学直後に試したことがある)、誰も行かないし、そのためにデッドスペースとなった踊り場を利用して、文化祭や体育祭用の普段は使われない小道具がたくさん積み上げられている。

 彼女は去年の文化祭で使われたアーチと大玉の間を器用に進んで、折りたたまれたテントの中に入った。テントは脚が折りたたまれていたけど屋根は張ってあったから、ちょうどキャンプに使うテントみたいになっていた。よく見ると逆Uの字に切れ込みが入れてあって、そこが暖簾のように出入り口になっていた。

「靴は脱いでね」

 そこはいうなれば彼女の秘密基地だった。足元は体育用のマットが敷いてあって座れるようになっていたし、どこからか延長コードが伸びていてケータイも充電できるようになっていた。しかも枕まで完備されていて、足を延ばして昼寝をすることも出来そうだった。

「食べていいわよ」

 彼女が隅にあった防災袋をひっくり返すと、たくさんお菓子が出てきた。ポッキーは味が三種類も揃っている。

 私はマットの隅の方に膝を抱えて小さく座った。目で訴えると、彼女は気づいたように私のサンドイッチを返してくれた。私は手持無沙汰に任せて草をはむ牛のようにちょっとずつそれを食べた。

「それ、血が跳ねたの?」

 彼女が靴下を穿いていない私の足を見て言った。

 私は無言で小さく頷いた。なんで初対面の人にそんなこと答えなきゃいけないんだという気持ちと、私の写真を握られている恐怖、それにこんな秘密の場所を持っている彼女に対する好奇心がほんの少し。

「人が死ぬのが好きなの?」

 彼女がポッキーを咥えながら尋ねた。私はちょっと考えてから、

「死んだものを見るのが好き」と答えた。

「つまりあなたは運動じゃなくて状態が好きなのね」

「写真消して。動画も」

「どうして?」

 彼女が人差し指を唇に当てて、幼い子どもの様に首を傾げた。

「……迷惑」

「あなたが迷惑だと感じることと、私があなたに迷惑だと感じさせることは独立でしょう? 仮にあなたが私を迷惑だと思ったって、それは私が写真を消す理由にはならないわよね。だって私自身はそのことに迷惑を感じていないのだから」

「独立じゃない」

「言い方を変えましょう。あなたが迷惑だと感じるからといって、そのことは私があなたに迷惑をかけるのを止めることと何の関係があるの?」

「それは……そうだけど……」

 そういうことは私も考えるからよく分かった。例えば私が誰かに嫌な思いをさせられていたとする。しかしだからといってそれがその『誰か』が私に対して嫌なことをするのを止める理由にはならないのだ。

 思えばここが私の最初の躓きだった。たぶん小学校二年生のとき。道徳の授業で「自分がされて嫌なことは他人にしないようにしましょう」と教えられた。私にはそれが上手に理解できなかった。だって自分が誰かに嫌なことをしているとき、自分は嫌な思いをしていないのだ。私と『誰か』は別人なのだから、『誰か』が鞭を打たれていたって、私は痛くも痒くもない。もしかしたらあとで報復として自分が同じことをされるかもしれないけど、私にその罰を下す『誰か』は、その瞬間鞭で打たれていないのだからやはりこの理論は成り立つと思う。つまり『私が嫌がっている』は『私が嫌がっているからやめなければならない』に転換されないのだ。

 だけど私は結構物分かりが良い方だったので、なんとなくこれがどういうシステムかは理解できた。つまり、あたかも相関のありそうな事象Aと事象Bを並べて、私たちが子どものうちから偽りの相関性を刷り込んでいくことで、自分が得をしにくい代わりに損もしにくいような社会の仕組みをオトナたちが作ろうとしているのだ。

 仕組みが分かってしまうと、確かにこれは結構便利な方便だった。だって相手は「他人の嫌がることはしちゃいけない」と信じているから、「嫌だ」と言うだけで私がされて嫌なことを止めてくれたりするのだ。もちろん、止めてくれない場合もあるけど、これは止めてくれないのが自然な状態なので、十回「嫌だ」といって一回でも止めてもらえれば、それだけでシステムのアドバンテージが得られるのである。

 しかしそれは嫌悪の歴史でもあった。だって私が振りかざしているのは、大人たちが決めた偽りのルールであって、決してそれは真理ではない。しかも騙されているいくらかの人々とは違って、私はそれが嘘だと分かった上で行使しているのだ。「嘘をつくのは悪いことだ」とも教えられた。ルールが矛盾している。しかし最大の嫌悪対象はやはり、『嘘だと分かっていてもそれを使っている私』そのものだった。大人の、というか他者の作った欺瞞に胡坐をかいて利得を得ている私。利益につられた穢いルールに組み伏された私。それは世界からの抑圧に私が屈した証であり、同時に権威に服従した弱い私の証明であるのだ。

 にもかかわらず今、私は「迷惑だからやめて」という論法を使ってしまった。

 それに対して彼女の答えは「どうして?」である。

 だからあとから「どのタイミングで彼女のことを好きになったのか?」と問われることがあるならば、まさにこの瞬間であったと答えるべきだろう。

 人差し指を口元に添えて首を傾げるその姿。

 テントの中は薄暗い。彼女はマットの上にぺたんと座って、スカートが円状に広がっている。左手のポッキーを小さく齧る。

 私は感情を出さないように「迷惑」と答える。

「独立でしょう?」と彼女。

「独立じゃない」

 私は性根が曲がっているから、システムに騙されている人のふりをする。

「言い方を変えましょう。あなたが迷惑だと感じるからといって、そのことは私があなたに迷惑をかけるのを止める理由にはならないわよね?」

 彼女が澄んだ声で、明瞭に言い切る。

「それは……そうだけど……」

 間を埋めながら確信する。彼女もこの嘘のシステムを見抜き、また同時に私がこのシステムに義憤を抱いていることを知っている。たぶん私の目の色や、喋り方、サンドイッチの食べ方にそういう雰囲気が出ていたのだ。それは同じことを考えている人間だけに知覚されるような、暗くて、澱んでいて、だけどどこか安心できるような匂い。旧家のタンスを開けたときとか、体育倉庫とか、久しぶりにエアコンを起動したときの、カビっぽくて全身に膜を張るような香り。

 だから彼女は初対面の私をこの三角柱を指先で弾いたような形の秘密基地に連れてきた。

「私はね、死んでいくものを見るのが好きなの」

 彼女が身を前に出して、私の耳元で囁くように言った。

 そのままマットの上に押し倒される。

 私の耳たぶを甘く噛みながら、彼女は針に糸を通すようにゆっくりと私の首にスマートフォンの充電ケーブルを回した。

 彼女がゆっくりとそれを絞める。

 耳が遠くなる感じ。息が出来なくて、顔がどんどん膨らんでいくような気がする。

 なにも考えられなくなっていく私の下唇を甘く噛みながら彼女が言った。

「ねえ。私たちってお友達になれたら素敵だと思わない?」

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