第38話

 ブリ蔵が姿をくらましたことは、あっという間に当局の知るところとなった。

報告を受けたゴーキー大帝、怒髪冠を衝き、ブリ蔵の捕捉を厳命。武器を携行していることで、もし抵抗すれば殺すように殺人許可

証、いや「殺ゴキ許可証」を与えた。

帝国から軍部隊が急遽出動し、広範囲の徹底的なローラー作戦が開始された。その過程で、格納庫から盗まれた超ミニプレーンの残骸が海中から見つかり、緊急脱出用の装備がなかったことから、ブリ蔵は脱出し、遺体も発見されないため何処かに超ハイテク飛行ウェアーで逃亡したことが判明した。

当のブリ蔵はエクアドルの首都・キト近郊にあるマリスカル・スクレ国際空港に降り立ち、国際線ロビーまで自分の羽で飛んで、ニューヨーク行の便を待つ女性客の口の開いたハンドバッグの中にちゃっかり潜り込んで、ニューヨークに向かっていた。

ニューヨークの空港でその女性がバッグから何かを取り出そうとジッパーを開き、中を覗き込んだ時、何とゴキブリがバッグの中にへばり付いているのを発見、「キャー!」という大声を発してバッグを投げ出したので、テロでも起きたのではないかと大騒ぎになった。

その騒ぎに乗じて、今度はマンハッタン行きのバスの乗客の荷物に紛れ込んだままマンハッタン中心部に出て、鉄道のターミナルであるグランドセントラルから社宅までハーレム・ラインの急行に乗った。

懐かしい! 何か月か離れていただけなのに。ブリ蔵の胸に慣れ親しんだニューヨークの雰囲気や景色が蘇って来ていた。

社宅に着いて裏庭に回った。部屋の中に家族がいる気配を感じていた。

突然窓が開いて、良枝が顔を覗かせた。

良枝! 俺は声を押し殺して思わず妻の名前を呼んだ。良枝はちょうど洗濯物を干すところのようだった。

「ママ、いつまでここに居られるの?」

 姿は見えないが、良夫の声が響いた。良夫! 元気か? それにしてもここに居られるかどうかとは? 察するに俺が行方不明になって何か月も経つので、会社から家族に社宅を出るように言われているということなのか。

「パパのことがすっきりしないから、もう少し待って。死んだのか、生きているのか、ママにもさっぱりわからないんだから」

 ここにいるぞ! でもこの姿じゃお前たちに会えないんだ!

どうしても人間の姿に戻らないとな。

洗濯物を干し終えた良枝は窓を閉めて、家の中に引っ込んだ。

人間に戻り、家族を路頭に迷わすことだけは避けねばならない。

ボッカに連絡をとって様子を見よう。帝国の手配が回っているだろうが、そんなことは言っておられない緊急事態が家族にも迫っている様子だ。携帯でボッカを呼び出した。

しばらくして、ボッカの声がした。

「ブリ蔵! お前一体何処にいるんだ!」

「社宅の裏庭にいる。会えないか」

「今から行くから待っていてくれ」電話は直ぐに切れた。

 しばらくすると超ミニプレーンが飛んで来た。コックピットからボッカが顔を出した。

「お尋ね者の手配書は回っているかね?」俺はボッカに微笑んだ。

 ボッカは、とにかくコックピットに乗り込むように言った。

「大帝は大そうご立腹だ。お前に対する殺しの許可証まで出ている。俺もお前に協力すれば容疑者隠匿罪に問われる。ま、それはおいてと、俺の聞いている範囲では、お前は人間に戻れないということだな?」

「そう大帝に言われた。専門医の判断らしい」

「それは恐らくお前を帝国に引き留めるための嘘だと思う」

「えっ、俺は人間に戻れるのか?」

「いや、話はそう簡単ではないが、希望がないことはない」

「どういうことだ。説明してくれ」

 その前に、ボッカは自分の話をした。

「もうじき華子と俺にベイビーが誕生するんだ」

「えっ、そうなのか。それはおめでとう」

「お前と共同作戦で出かけた水生昆虫王国の再建された砂漠地帯に新婚旅行に出かけた時のハネムーン・ベイビーだ」

「へえ、じゃあ、華子は間もなく築地を辞めるんだな」

「そういうことになる。ゴメン、悪かった。お前の話に戻そう。お前が失踪してから日本の本社は、お前に代わって俺がニューヨーク支局長となり、社宅に入れと言う連絡が来た。でも、俺はお前と一家の事情を知っているので、社宅には暮らさないと言ったら、それなら社宅契約を打ち切ってオーナーに家を返せと言い出したので、待ってくれ、考え直すと言った。だから今は俺が社宅に住んでいるふりをしてごまかしている。連絡は必ず支局にしてくれと言ってあるので、間違いがない限りご家族は社宅に住んでいられるようにしてある」

「恩に着るぜ」

「お前一体これからどうするつもりなんだ?」

「とにかく一刻も早く人間の姿に戻りたい。今さっきお前が言いかけたことを話してくれないか」

「俺の人間化手術をした専門医は今もこちらにいる俺の親友だ。そいつにお前が本当に人間に戻れないのかどうか診察をしてもらう手はある。ただ、いくら親友といえ、お尋ね者のお前の身体を黙ってチェックしてくれるかどうかは何とも言えない。もしそのことがバレたら彼の身も危うくなるからな」

「確かにな」

「それにたとえ診察が出来たとしても、本当に人間に戻れないということも考えておいたほうがいいだろうな」

「とにかくトライはしてみたい。すがれるのはお前しかいない。さっき社宅で良枝を見かけた。どんなに声を掛けたかったことか。子供の声もした。でも人間にならなければ、家族に会うことさえ出来ない身だ。頼む!」

「何とかしてやりたいのは山々だがな。だが、何とも難しい話だ」


ボッカは策を練った。専門医の親友・ブーリーは心優しいゴキブリだが、自分の身に危険が及ぶことまで果たしてやってくれるかどうかわからない。それにブリ蔵が、ここニューヨークにいることがブーリーを通じて万が一大帝の耳に入り、それを俺が報告しなかったとなれば、俺の身にも危険が及ぶ。ここはやはり、ブーリーに気づかれないまま、事を運ぶ必要がある。果たしてどんな手があるのか。ボッカの頭は破裂しそうだった。


マンハッタンの帝国ホスピタルからある薬品が消えたのはそれから一週間後のことだった。その薬は服用することで記憶を一時的にそっくり消し去る作用があり、帝国の超技術による「秘薬」のひとつだった。

薬を飲まされたのはブーリーで、薬品を盗み出して飲ませたのはボッカである。ひとりの親友の窮状を救うために、別の親友を裏切るという行為にボッカの良心はちょっぴり痛んだが、こうするしかブリ蔵を救う方法はないと思い切ったのだった。

薬を盛られたブーリーはブリ蔵の人間化手術に取り掛かった。自分が執刀する相手が帝国の犯罪者であるという記憶を完全に失っている。その薬が効いている約十時間のうちに手術を終えさせなくてはならない。

ボッカはその手術に立ち会い、薬の作用が続く時間のラップを計っていた。

八時間ほどが経ち、人間化手術は成功した。術後、ブリ蔵は早速ホテルの部屋を借りて人間になってみた。

腹に仕組まれた変身ボタンのロックをはずして押し込むと、あっという間に人間になった。久しぶりの不思議な身体感覚である。

自分の人間としての恰好を姿見で何度も確認し、自分なりに納得した俺は、人間の「再試運転」に滝吾郎と二人でマンハッタンに繰り出した。

舗道を色々なスタイルで歩いてみて脚の具合を確認し、車の流れや歩行者の動きを見ながら眼の動きを試す。人間の姿でありながら、ゴキブリの機能として持っている複眼も、テストのため機能を最高度にしてモノを見据えてみた。現場に向かうパトカーのサイレンや地下鉄の轟音、聞こえる音という音を聞き分ける聴覚を試した。フラワーショップの客のふりをして、様々な花や植木の匂いを嗅いで嗅覚を試した。どれも正常に機能しているのが確認出来た。

「よし、これなら家族と会える。二匹はちょっと狭いけど、ミニプレーンに乗っけてくれ。俺が操縦するから」

「お前乗ったことがあるのか?」

「ああ、脱出の時にね」

俺はボッカとゴキブリに変身し、ミニプレーンに搭乗した。帝国ホスピタル上空から摩天楼の高層ビル群をはるか下に見ながらマンハッタン島を北に飛び、ブロンクスを越えた。あっという間に社宅上空に着き、裏庭に降り立った。

人間の姿に戻り、社宅のドアホンを鳴らした。覗き穴から来訪者をチェックした良子は気色ばんだ。ドアが勢いよく開いた。

「あなた~!」

良枝は涙ぐみ、俺に抱きついたまま離そうとはしなかった。俺も良枝の身体を両腕でしっかりと包み込んだままじっとしていた。人間の肌の温もりが伝わって来た。妻と再会出来た喜びが身体全体を包み込んでゆく。

その日はちょうど日曜で、良夫も良子も家に居た。

「パパ、お帰りなさい! 本当に無事なのね! よかった」良子が飛んで来た。

「こんなに長い間一体何処に行ってたの?」良夫は微笑みながらも首を傾げている。

「みんなありがとう! 詳しいことはあとだ。中で休ませてくれ」

 あの時から火の消えたようだった家は久しぶりに家族の賑わいを取り戻した。

「一体何処でどうしてたの?」

 少し落ち着いてから良枝が尋ねて来た。

お前のせいでエライ目に遭ったとは口が裂けても言えない。神隠しに遭ったのだというぐらいしか説明の仕様はなかった。

「俺も未だに狐につままれたような感じがして仕方がない。長い間海辺の洞穴のようなところに居たような気はするが、よくわからない。記憶が殆どないんだ。とにかく、やっとそこから出ようという意志が芽生えて、そのあとは歩きに歩いた。夢の中を。そしていつの間にかこの家にたどり着いていたんだ」

 神隠しなんて訳の分からないことの説明は、同じく訳のわからない答えで充分である。

「早速日本の本社に連絡を入れてちょうだい。これで何とか引っ越さずにすむと思うから」

 本当はデタラメな神隠しの話を会社にも繰り返したくないが、これも家族のためだと思い切り、連絡をとって事情を説明した。結果、欠勤の間の給与はカットされることになったが、元通りの勤務はOKになった。

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