第37話

 さらにひと月が経ち、ブリ蔵はほぼ回復を見せていた。

だが、それはゴキブリとしての回復であり、人間に戻るための手当が行われる気配はなかった。

 ある日巡回に来た医者にそのことを尋ねてみたが、要領を得ない。

 誰に聞けばいいのかと重ねて尋ねても、口をつぐんだままで答えてくれない。俺は大帝に掛け合うことにした。秘書室からその日の午後にアポがとれたということだった。

 約束の時間に俺は車椅子でゴーキー大帝を執務室に訪ねた。

 黄金のデスクで書類に目を通していた大帝は俺を認めると書類をデスクにおいてこちらを見つめた。

 何と恐ろしい顔だ。帝国に戻り、ゴキブリの顔に少しは慣れたと思っていたのに、大帝の顔にはとりわけ閉口した。

「おお、ブリ蔵。身体の方はどうじゃな?」

「ありがとうございます。お陰様でほぼ回復したようです」

俺は気後れしながらやっと答えた。

「それは結構なことじゃ。さて、今日はどういうことで参ったのじゃ?」

 大帝の眼が光った。

「ゴキブリとしてはほぼ回復しましたが、人間として回復するための手術がいつまで経っても行われません。それで大帝に直接お伺いすることに致しました。一体・・・・・・」

 大帝が遮った。

「聞いておらんのか。お前はもう人間には戻れないのじゃ」

 大帝の顔がピクピク痙攣しているように見えたが、痙攣していたのは俺の顔の方だった。

「えっ! 今何と仰せで?」

「耳はまだ回復しておらんようじゃな。お前はゴキブリには戻れたが、人間に戻る機能は失ったのじゃ」

 俺は不安がいよいよ現実のものになったのを感じ、暗澹たる気分に陥った。

「機能を失ったと申しますと?」

「わが超医術をもってしても、もう元には戻らんというのが専門医グループの判断じゃ」

「もう、戻らない? あの・・・・・・」

 頭の中が真っ白になった。

「専門医の判断で決断した。お前は海外諜報部から本部付に異動するのじゃ。長い間人間どもの相手をさせてご苦労じゃったが、これからはこの地下帝国で働いて欲しい。これは昇進と受け取って欲しい。いいな?」

 大帝は戸惑う俺の表情を探っている。

「何じゃ、不服なのか」

「いえ、とんでもございません。わかりました。失礼いたします」

 俺は車椅子の向きを変えて、執務室をあとにした。

 もう人間に戻れないなんて! 一体家族はどうなる! 

ニューヨークをこんなに遠く感じたことは恐らく初めてのことだった。諜報部員として帝国を後にし、ニューヨークに赴任する時よりも遥かな距離感だった。

 その時から俺の中にこの地下帝国を捨てて、家族の暮らす地に戻ろうという気がもくもくと湧いて来た。

 帝国で出会う同胞の醜さが際立って来ていた。あの黒光りする身体の不気味さ。ニューヨークに赴任した頃は鼻高々だった闇の中で光るスーツも今は昔、気味悪さで身体が震えて来る。

素早く動き回ったり、飛んだりするゴキブリの基本動作さえ気持ち悪い。第一、顔が醜すぎる。

そんな連中が集団やグループであちらこちらを歩いている。自分も同じ姿恰好なくせに、同胞とすれ違うだけで吐き気がして来る。一日も早く帝国から逃れないと、このままでは精神に異常を来たすに違いない。身体はゴキブリでも、今や精神は完全に人間になっている。振り子が人間の方に振り切れてしまっているのだ。

俺は密かに帝国から脱出するための準備を始めた。リュックサックを調達し、必要な小物をあちらこちらから掠め取り、詰めた。

連絡手段として特殊携帯は絶対必要だ。スパイとして赴任した頃のように今度は誰も助けてくれない。欲しいものは自分で全て調達しなくちゃならない。

一応本部付きになるのだから、連絡用に携帯を申請するか、受け取るかすればよかろう。総務部に出かけて理由を述べたら、確認してからすぐに手に入れられた。

武器や船はそう簡単に手に入らない。帝国を出てからニューヨークまでの長い道中、どんな敵に遭遇するとも限らない。武器は絶対に必要だ。

それに島から近くの島にわたる船が要る。ロングアイランドの時のように水生昆虫に助けてもらえればいいが、無論今回は無理だ。

ある夜、闇に紛れて帝国軍の武器庫に忍び込んだ。デスクの上にあったペン・ライトを使い、そっと武器のしまわれている棚を照らした。当然のことながら全て施錠されている。ドアをこじ開けることも出来ない。

辺りを照らしながら、何とか出来ないものかと思案した。

その時、武器庫の入り口で声がした。

「本当にこんな夜中に呼び出されて迷惑だよ!」

「すまんな。うっかり銃を取り忘れていたんだ。明日の演習が早いんで、今のうちに装備をしっかりしておかないと上官からどやされる」

どうやら銃を取りに来たらしい。軍服を着た方が鍵束の中からキーを選び、棚を開けた。

二人の会話が漏れ聞こえて来た。

「ところで、ミニプレーンが島の空港に常置されたの知ってるかい?」

「聞いた、聞いた。一体何処にあるんだ」

「倉庫沿いに人間どもの格納庫があるだろう? その傍に溝があって、数字が打ってある。その六番のところに小さなドアがあって、その中にある。軍人なら自由に乗れるらしいぞ」

「キーは何処にあるんだ」

「ここだよ。ほら、ドアとミニプレーンのキーがペアになってる」

「へえ、今度一回乗ってみよう」

 ボッカが危急を救ってくれたあの時のミニプレーンだということはピンと来た。俺も乗ってみたい。こっそりペア・キーをいただき、二人が銃を選んでいる間に、予備を含めて二丁の銃を取り出し、二人が銃を選び出して棚のドアを閉める間に飛び出して弾丸庫でも同じ動作を繰り返し、銃と弾を手に入れた。

次は船だ。港に出て、係留スペースに近づいた。少し強めの風が吹いて、岸壁に波が押し寄せ、何艘ものボートが揺れ、カタカタとボート同士が打ち当たる音が辺りに響き渡っている。船の周りを照らしながらいただく船を決め、係留の鎖をはずして乗り、沖に向けて漕ぎ出した。

俺は闇夜の波に揺られながら大帝に書き残したメッセージのことを思い出していた。

『ゴーキー大帝殿

 この度の折角のご命令に背くことをお許しください。わたしは大帝のご命令に従い、人間どもの世界にスパイとして潜入して以来、ある時はゴキブリ、ある時は人間となって日々を送ってまいりました。そのせいか、わたしの中でゴキブリと人間とのバランスが人間の方に傾き、その結果ついに限りなく人間に近い存在になってしまったようです。人間の妻以外、子ども二人ともゴキブリと人間のハイブリッド状態であります。大帝のおそばでお仕えしたいのは山々でありますが、ゴキブリという存在を離れたような身体になった自分には、大帝のおそばで仕事を続けることはとても出来ません。全く勝手ではございますが、わたしは大帝の許を離れ、人間どもの世界で暮らす所存であります。どうか身勝手なわたしをお許しください。これからも人間どもの世界から帝国の繁栄を祈っております。なお、わたしが帝国で知り得たことは一切口外しないことをここにお誓い申し上げます。ブリ蔵拝』

 果たして大帝はどんな反応を示すのであろうか。厳命に逆らい大帝の逆鱗に触れて、殺しの許可証を与えられた追手に殺されてしまう運命なのか。

 最高の医術を俺に許可出来たのは大帝しかいない。そのお陰で俺の身体はこんなにも回復した。それは俺のこれまでの働きとこれからの仕事に対する大帝のご期待の賜物だ。

 にも拘わらず、俺は帝国を捨てて逃げている。明らかに大帝に対する裏切行為だ。厳罰を下されてもおかしくない。

 だが、俺には人間界に家族がいる。目の中に入れても痛くない家族が。

 待っていてくれ! 必ずお前たちのもとに帰るからな! 俺は心の中で叫んだ。

 知らぬ間に空港のある島の港に着いていた。闇夜に倉庫群の灯りだけが燦然と輝き、倉庫の影が長く伸びている。その倉庫の間をニューヨークの摩天楼の間を吹き抜けるビル風のように、少し強めの風が吹き抜けている。

 倉庫沿いにしばらく行くと、人間どもが乗る飛行機の格納庫があった。その格納庫の前の道路を少し入ったところに人目を避けるように溝があり、節目ごとに数字が打たれている。その六番の下に小さなドアがあり、キーで開けると溝と直角に入る細い滑走路のような管が通っていた。この奥に格納庫があるはずだ。弾む心を押さえながらも小走りで進むと、超ミニプレーンが数機駐機していた。

その一機に乗り込んで、キーでエンジンをかけ、操縦かんを握り、少し機を前進させた。滑走路からドアを抜けて溝に出た途端、今度は直角に急上昇し、格納庫を飛び越えて飛行を開始した。雲が多い夜だった。

装備や性能を確かめてみる。操縦かんはとってもシンプルだ。コックピットのモニターに機能表示を出してみたら、帝国の超技術による最新機能を備えており、燃料は一定の量で永遠にリサイクルを繰り返す「超燃料」が使われている。航続距離には∞マークがあり、これなら何処までも飛んでいける。スピードは超ミニ機種にも拘わらず、時速八百キロは出る。ニューヨークまで単純計算で十六時間だ。改めて帝国の技術力に目を見張った。

緊急時にはどうするか。モニターでチェックしてみたら、装備を備えた飛行服が機内のボックスから飛び出し、自動的に身体を覆い、機から飛び出すようになっているとのこと。

だが、有頂天にばっかりなっておられない。

自分自身の今回の無謀さには呆れてしまった。ただ最新型のミニプレーンを乗り回してみたいというまるで駄々っ子のような気持ちだけで、それがニューヨークという目的地を目指す最適手段かどうかという吟味さえせずに飛びついてしまったからである。

やはり良枝のあの殺虫剤とハエたたきの衝撃で身体インフラの根っこの一部が永遠のダメージを受けてしまっていたのかも知れない。

それにしても、キーが格納庫とは別の武器庫に保管されているとはいえ、こんな便利なものを軍人が自由に使えるなんて、ちょっと規制が甘過ぎるんではないかなどと思ったものの、帝国から脱走する身である自分を振り返り、そこはとっても有難く思った。

腹が減ったらリュックから食料を出し、トイレも操縦席に座ったまま出来る。

眠る時には自動運転にしておけばよい。その気楽さから帝国脱出の緊張感で疲れが出たのか、つい居眠りをしてしまった。このままニューヨークまで運んでもらえるという安心感のせいだろう。

どれだけ時が流れたのかわからない。機体の揺れで眼が覚めた。エンジンが切れて機は紛れもなく落下を続けている。それにしても周りが異様に赤い。一体何が?

鳥だ! 鳥の群れだ! 無数の赤い羽の鳥が空を真っ赤に染めて飛んでいる。その真っただ中に機が突っ込んだらしい。

GRGRGRGR・・・・・・

飛翔する無数の鳥と機がぶつかり合い、外部をモニターすると、機体の表面には粘液のようなものがびっしり付着し、それに赤い羽根が纏わりついている。

コックピット機器の音声も画面も乱れてはっきりわからないまま、機は落下してゆく。

手が緊急脱出ボタンに触れた。意志を持ってボタンを押した感じではなかった。どうかしているぞ、お前! 俺はシャキッとしない自分に腹を立てていた。

BOOOM! BOOOM! BOOOM!

俺は身体ごと機体から飛び出していた。下はどうも海らしい。轟々という波の音が耳をつんざく。身体はプロペラ様の動力で飛ぶ飛行服のようなものに包まれて、空を飛んでいる。手元のグローブに表示されているモニターチャンネルで基本的な「プロペラ飛行服」の機能を検索したら、アナログどころか、超ハイテク飛行ウェアーであることがわかった。果たしてどれだけ飛べるのかと案じていたのは杞憂にすぎず、ホッと息をついた。衣服から突き出ている操縦かんも結構しっかりしている感じだ。

強い風に煽られながら右往左往し、とにかく飛べるところまで飛んで行くのがいいだろう。

そんなに気分も悪くない空からの宙ぶらりんのような状態で、現在地をモニターで探った。南米のエクアドル手前の海上だ。ニューヨークまで約千八百キロ。

しばらくすると、眼下に島影が見えた。ゴーグルのモニターをズームインしてみると森に覆われたほぼ円形の島だ。モニターチャンネルを動作して地図で島を確認する。このまま行けばエクアドルの山岳地帯の上空を通過することになる。

俺は思い出していた。敵の探査ロボットの基地爆破のため、ロングアイランドの先端にある研究所に侵入した時、赤と青のツートンカラーのボディからアームが突き出している探査ロボットがエクアドル山岳地帯の上空を飛行しているのをモニターで確認したことがあった。

間もなくあの時探査ロボットが飛んでいた空を、俺はまっしぐらにニューヨークに向かって飛んで行くのだ。

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