第36話

 身体の機能が完全に失われる寸前に、俺は緊急事態を知らせる信号を送った。それを受信したボッカはGPSで俺の居場所を把握し、最近ニューヨークにも配備された超ミニプレーンで飛んで来た。

場所は俺の社宅の庭にあるゴミ箱の中。俺は動かない身体で必死にゴミ箱の中に濃く漂う悪臭に耐えながら救助を待っていた。悪臭を感じられるので鼻の機能はまだ大丈夫らしい。生命維持装置の発する微かな音だけが辛うじて聞こえている。耳もまあまあだ。

 ゴミ箱の蓋を開けるため、吾郎に変身したボッカは必死でゴミ箱の中を探っていた。

 俺は声が出せず、身動きも出来ないので、ボッカに見つけてもらうのをずっと待った。

「おお、お前酷い恰好で!」

 ボッカはぐしゃぐしゃになった俺の姿を見るや否や、叫んだ。

「念のためだ。人間にやられたとすりゃ、ワクチンで毒消ししておこう! ちょっと待ってろよ」

 ボッカはそういうと、取り出して来た備え付けのワクチンを俺の口に注ぎ込んだ。あとからつらつら考えてみたら、このボッカの機転が俺の命を救ったと思う。

ボッカは俺のはみ出したボディの肉片をかき分けてボタンを引き出し、スイッチを入れた。

 ウィーーンという音がして予備電源が入り、全く不完全ながら俺の身体機能が僅かながら動き出した。

 もげて落ちた以外の手足が辛うじて動くようになった。そのうちに破壊された脳の神経細胞がカラカラと機能し始めて、俺の失われる寸前の記憶が戻り、ぼんやりとボッカの姿が見えた。

 声を出そうとしたが、言語中枢がやられたせいで、せいぜい口が若干動く程度だった。

「何か言いたいんだろうが、今しばらくは我慢しろ。これからお前を病院に連れて行くからな」

 そう言うと、ボッカはミニプレーンからボックスを取り出して、ゴミの中に入り、俺をボックスに収めて、ゴミ箱から担ぎ出した。

「さあ、行くぞ。気を確かにな!」

 ミニプレーンはあっという間に上空に飛び上がり、ミッド・タウンにある帝国ホスピタルに向かった。

 ホスピタルのICUでは徹底的な精密検査が行われ、破壊された部分の機能を回復させるための手術が続いた。

 その間、ボッカはICUの外に待機し、緊急事態を帝国に知らせていた。

 早速ゴーキー大帝からのお見舞いが届き、最高の医術を施すため、帝国から専門医グループがニューヨークに向かったという。

 

人間になったゴキブリが一匹死のうが、生きようが、地球が朝になれば、太陽が顔を出す。

太陽神さま、お助け下さい。わたしにはまだまだすることがあります。俺は守護神に向かって心の中で叫んでいた。

 徹夜の手術が終わり、機能はわずかずつ回復され、口から言葉らしき音も出始めた。

しかし、脳の機能と言語中枢の間にはまだ不具合が残り、意志を伝える心が言語として吐き出されるには、さらなる微調整が必要だった。

心の中では様々な想いが駆け巡っていた。

俺が突然姿を消してしまい、良枝はさぞショックを受けていることだろう。

良夫や良子は一体どうしているのか。

果たして俺の人間としての機能、それにゴキブリとしての機能は元通りに回復するのだろうか。とっくに死んでいてもおかしくないレベルの傷を負っているのだぞ、お前は。

それでも大まかな大手術は終了し、成功したようだ。ボッカの話では、さらなる細部の調整は帝国本部の病院で行われるという。あの懐かしい太平洋の地下帝国に戻るのか。

しかし、懐かしさ以上に脳裏に不安が広がって来る。

今度のことでそのまま帝国本部に異動させられたらどうしよう。

正直なところ、もう俺は帝国には戻りたくない。スパイ活動でゴキブリに一時変身するのならいいが、基本は人間として暮らしたい。だって、俺には人間の家族がいるんだから。

俺は雑念を振り払おうと、「超医術」のことに頭を集中させた。

あれだけのダメージを受けたにもかかわらず、ボッカの機敏な応急処置と帝国ホスピタルの医術で俺の身体は再び命を吹き返しつつある。そのもとになっているのは火星を通じて太陽神から賜った超技術にさらに磨きをかけて編み出されたゴキブリ帝国の超医術に他ならない。

人間という不俱戴天の仇に対抗するために、人間が技術の研磨を怠っている間に帝国が完成させていったオリジナルの医術である。

本部に帰れば、俺は再び寝台に横たわり、各分野の専門医による調整が始まり、ひとつ終わればまた次の専門医が俺の前に現れ、最高の医術で処置を施し、次の分野の専門医にバトンタッチしてゆくだろう。

俺は人間になるために施された最初のオペのことを思い出していた。

スパイ・アカデミーを卒業し、海外諜報部に所属を命じられた時の緊張感。

危険極まる人間界での活動を想像するだけで激しく騒いだ胸の内。

ゴキブリを人間に変身させる超特殊医術。

俺はカプセルの中に放り込まれ、麻酔されて知らぬ間に人間に変えられていた。

誇り高きゴキブリから人間に変わった瞬間に感じた、人間なんぞに落ちぶれてしまったという失望感。

そして今は正反対の気持ちが俺を支配する。

瀕死のゴキブリの超蘇生医術で再び人間に戻ろうとしている幸福感。それは良きにつけ悪しきにつけ人間世界というものを肌身で体得してしまったからだろう。

ところで、良枝には突然行方不明になったことをどう説明しようか。

あれこれと考えているうちにゴキブリとしての機能が薄皮を剥ぐように回復していくのが手に取るようにわかる。

例えばゴキブリ語で思いつく範囲の言葉を次々に舌に載せてみる。滑るように口をついて出る語彙が増えて来た。

脳と言語中枢が完全につながった証拠だろう。神経細胞があちこちに繫がり、耳機能も、鼻機能も、視覚も回復した。

これらすべてが回復したら、今度は副次的な人間機能への回復の扉が開かれる。いや、今や人間機能の方が俺にとってはメインだ。人間機能はすでにゴキブリとしての身体に内蔵されたものだから、改めて埋め込む必要はないはずだ。内蔵されているすべての部位がチェックされ、調整されて元の人間に戻れるはずだ。

しかし、今度のミスでもし大帝にスパイ失格の烙印を押されてしまったら、万事休すだ。そうなれば、俺はもう二度とニューヨークには戻れなくなり、良枝にも子供にも会えなくなるのではないのか。

俺の胸に不安がどんどん広がって行った。


ニューヨーク。瞬時に家の中で俺が消えてしまってから三週間ほどが経った。

良枝はそれ以来狐につままれたような状態で、家に籠りきりになっている。

夫が突然姿を消してしまった日、今から思うと、はっと思い立ったことがあった。

ひょっとして、わたしがゴミ箱に捨てたあの死んだゴキブリが夫なのかも知れない。それは「家族ゴキブリ疑惑」でピンと来たことだった。

あの時、わたしは矢も楯もたまらず、ゴミ箱に走った。

ひょっとしたらわたしが夫を殺してしまったのではないだろうか。

躊躇しながらもゴミ箱の蓋を開けて、臭いも汚れも構わずに両手を突っ込み、ゴミ箱をひっくり返して必死に死んだゴキブリを探したが、いない! 醜くつぶれて死んだゴキブリが何処にもいない!

良枝は涙が込み上げて来て、ゴミ箱のそばでしゃがみ込んで嗚咽(おえつ)した。 

あなた、一体何処に消えてしまったの。子供らが何度も聞くのよ。あなたが消えた瞬間のことを。でも、わたしに聞かれても、どうにも答えられないの。だって、あの時わたしがしたことと言えば、ゴキブリの姿を見て、あわててスプレーを噴射して、力一杯ハエたたきで打ってゴキブリを殺しただけなんだもの。その瞬間今の今まで傍にいたあなたの姿が消えてしまったんだもの。たったそれだけ。

良枝はふらつきながら家に入り、洗面所のタオルでようやく目を腫らした顔を拭った。

 甲斐がないとは思いつつ、警察に行方不明者の届を出した。新聞の三面記事などにある肉親などへの呼びかけ欄にも「連絡乞う」と載せてはみた。

 でも、あの消え方は普通言うところの行方不明の感じじゃない。何処かに出かけてから消息を絶つのならまだわかるが、わたしの目の前で忽然と消えてしまった。まるで神隠しにあったように。本当にそんなことがあるのかしら。良枝はその場にへたり込んだ。

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