第35話

 休日で一日中家にいた。家というのはありがたいものだ。社会の束縛から解放されて、家で何をしようが文句は言われない。同じ家で、同じようなことをしていても、新しい発見をすることがある。  

その日もそうで、暇に任せて納戸で片づけをしていた。隅に殺虫剤のスプレーが無造作に置いてあった。ラベルを見たらミサイルXXXだった。コマーシャルに釣られて、良枝が買って来たものだろう。

俺がこいつのせいで、どれだけ工作を繰り返し、世界の同胞を守って来たか、もちろん良枝は知る由もない。ゴーキー大帝がおっしゃっていたように、人間とゴキブリの最終戦争というものはまだ戦われていない。しかし、その時が将来きっとやって来る。俺はその日のためにこれからも任務を果たして行こう。帝国のスパイという与えられた任務をもう一度自分の胸に描き、誓いを新たにしていた。

「あなた、何をしてるの?」

 突然、良枝の声がした。

「納戸を片付けているんだ。それはそうと、ここに殺虫スプレーが置いてあるけど、お前が買って来たのか」

「そうよ。ほら、すごく宣伝してたじゃない。強力だって。だから買ってみたのよ。でもね、しばらくしてちっとも効き目がないって販売中止になったでしょ? クレームが殺到してさ。だから結局一度も使ってないのよ」

「効かないのなら捨てるぞ」

「はい、どうぞ。それとね・・・・・・」

「それと、何だ」

 俺は良枝の言葉を待った。

「わたしね、最近ゴキブリが前ほど嫌いじゃなくなったの。何でかよくわからないんだけどね」

 良枝は、はにかみながら俺を見つめていた。わかるでしょ、という意味を込めた目のようだった。

俺は良枝の心理を読んでみた。

 子どもにも夫にも人間とゴキブリのハイブリッド状態が存在する。わたし以外家族全員が半分ゴキブリだなんて信じられない。余りのショックに心も激しく揺れたけど、そんなことで悩みながら人生を送ってはもったいない。どうせ体の中なんて見えないし、夫も子どもたちも幸い健康だ。わたしの意識さえ変えれば、済むことなんだ。それで意識を思い切って変える努力を始めた。割合うまく行きそうな感じ。

ま、こんなところだろう。

 その瞬間、目の前をゴキブリが走った。

「あっ!」と声を上げた良枝。無意識に殺虫スプレーに手が伸びたが、引っ込めた! 備えてあるハエたたきも手にしようとはしない! 鼻歌を歌いながら、何事もなかったかのようにはき掃除を始めた。

無理しているんじゃないのかい? 俺は良枝の様子を食い入るように見つめていた。片づけのため、物を拡げた狭い納戸の中で、殺虫スプレーの缶が足に纏わりついた。俺はバランスを崩して、お腹から物の上に倒れ込んだ。そのショックでロックが外れ、ゴキブリに変身するスイッチが入った。瞬時に俺はゴキブリの姿を曝した。はっとして良枝の方を見る。良枝は眉をしかめ、もう我慢できないという表情をこちらに向け、がっちり殺虫スプレーを手に掴んでいた。

「わたし、やっぱダメ!」

狂おしく、絞り出すような呻きが洩れた瞬間、殺虫スプレーが俺に向けて噴射されていた。

「あああああ!」

 俺の身体はしびれ出し、急速にパワーが失せて行くのがわかった。

くそっ! 何たる不覚! あれだけ同胞を救って来た俺が、いつの間にかゴキブリなのを忘れて、ワクチン飲むの忘れてた!

 ヒリヒリと弱々しく足を動かせている俺に、今度はハエたたきが飛んで来た。

BANG! BANG!

恐ろしい力で振り降ろされた。

 急激に薄れて行く意識の中で辛うじて残っていたのは、遠ざかって行く良枝の声だった。

「あなた、何処にいるの? ねえ、あなた!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る