第31話
俺は傷が癒えて退院した。久しぶりに社宅に戻り、自宅療養をしている。良夫もすっかり元の身体に戻り、一週間前にニューヨークに帰って来た。親子四人が長時間一つ屋根で過ごすのは、本当に久しぶりのことだ。
社宅で日向ぼっこをしていると、人間とゴキブリの最終戦争などと走り回っていた頃はもうずいぶん昔のことのように思えてしまう。人間社会は何とめまぐるしく時間が過ぎ去っていくのだろうか。
俺には次の任務が待っていた。引き続き殺虫剤などによる人間どもの同胞殺りく作戦を阻止すること。それに帝国に芸術を広める橋渡しをすることだ。後者についてゴーキー大帝はこう言われたと記憶する。
「人間どもは優れた音楽や絵画など芸術の世界を持っている。我が帝国が人間どもから学ぶべきものがあるとすれば、それは技術ではない。芸術の世界なのじゃ。それを帝国に広めることが出来れば、鬼に金棒じゃの」
とりあえずは、リサーチを兼ねて家族で美術館を巡ってみようか。自宅療養を終えた俺は良枝に声をかけ、子どもも連れてメトロポリタン美術館へ出かけた。
エジプトのコーナーでは、子どもたちにピラミッドは人類の残した最高の遺産であり、頂上を極めてしまったことで人間はその後怠け者になって、せっかくの技術力を失っていったことを話した。
技術と一口に言っても色々ある。ニューヨークに来て間もない頃、ちょうどこんな風に家族でマンハッタンを歩いていた。その時に話題になったのは火をおこす技術だった。俺はその時の家族の会話を思い出していた。場所はロックフェラーセンターのスケートリンクを見下ろす一角だ。
良子「あそこにある金色の像は誰なの?」
俺 「プロメテウスだよ」
良子「ギリシャ神話の神様だよね?」
俺 「そうだ。動物が持っているような強い生存能力は人間になかった。それを憐れんだプロメテウスが天界から火を盗み、人間に火をおこす技術を与えたんだ。火は天地創造の力を持つ神の焔(ほのお)で、持ち出し厳禁のものだった。それで最高神ゼウスが怒り、プロメテウスは厳罰を受けた。火を授かった人間は文明の恩恵を受けられるようになったが、その火を使って武器が作られ、戦争を始めた。火の恩恵は人間にとって他の動物に対抗する大きな武器になったけど、一歩間違うと全てを焼き尽くすという諸刃の剣になったのさ」
良枝「さっき地球を担いでいる男の像があったわね」
俺 「ギリシャ神話の巨人・アトラスだ」
良夫「パパ、最近ギリシャの神々が登場するのは最新ゲーム・ソフトやアニメの世界だけど、ニューヨークじゃ古代ギリシャの神々が町のど真ん中にいるんだね。そしてギリシャでもない街中で親子一緒に今みたいな話が出来る。ニューヨークっておもしろいなあ」
俺 「それはニューヨークがアメリカに乗っかっている小さな地球だからさ。ここには何でもあるんだよ」
良夫はいい観察力を持っていると、その時俺は感じた。
そして今。家族四人の会話が途切れてしまっている。会話に参加していない人物、それは良枝だ。きっとあのことがよほどショックだったんだろう。でも、それは実によくわかる。良枝の想像が当たっているだけに、俺も非常に辛い。しかし、死んでもこのことは墓場に持って行くべき事柄だ。それを永遠の秘密にしておくことが、俺のこの世での役割であり、存在理由なのだから。
「この頃ママ変だね。ちっともしゃべらないし。ぼくらを無視しているようだし」
良夫が首を傾げている。何か声を掛けてやらないと。
「良夫、女性には生理というものがあるんだ。生理中は精神が不安定になって、様子が普段と違って見えるんだ。あんまり気にするな」
と、言ってはみたものの、俺もすごく気になっている。これからずっと良枝が家族の中で浮いてしまったらどうしよう。しかし、あんまり心配してばっかりでは、身が持たない。気になるけれど、できるだけ気にせずに行くしかない。
良枝は良枝で悩んでいた。よりにもよって何でゴキブリなんだろうか。一番嫌いな虫と、一番愛する家族が同じイメージでダブって見える。何て不幸なことなのか。わたしも明るく家族と暮らしたい。それが女性としての当たり前の欲求じゃない? しかし、それが叶えられなくなってしまった。
俺は努めて明るく振舞いながら、巨大美術館を巡っていた。
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