第30話
「やっと眼が覚めたのね」
椅子に座っていた良枝が娘の良子と一緒に立ち上がり、ベッドに横たわっている俺の顔をのぞき込んだ。
「驚いたわ。あなたが撃たれて大ケガをしたっていうから」
「サンタモニカに居たんじゃなかったのか。良夫はどうした、一緒じゃないのか」
「良夫は強盗にケガさせられて入院してたのよ。あなたが心配するからと思って連絡しなかったの。もう起き上がれるくらいに治ったから、ホテルのシッターにあとを頼んで二人で戻って来たの」
「強盗にケガさせられた? 一体何があったんだ!」
良枝が一部始終を話し聞かせた。
「そうか。そんなことがあったのか。おい良子、元気か。久しぶりだなあ」
「パパ、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。良枝、医者は何と言ってる」
「入院して数日くらいはICUで面会謝絶だった。でも、割合速いペースで回復しているから、お医者さん驚いていたわ。傷の具合からすれば、普通ならもっとかかるらしいわよ」
あの時俺は防弾ベストを着用していたが、高村に気を取られているうちに後ろから撃たれた弾が尻に当たったんだ。
「拳銃で撃たれて大けがなんて、一体あなた何してたの」
良枝が尋ねて来た。
「FBIの射撃練習場で取材をしていたら、流れ弾が飛んで来てやられたのさ」
「射撃練習場ってニューヨークにあるの? FBI本部はワシントンDCにあるんでしょ?」
「全米に散らばっているFBIのエージェントは射撃練習のためにいちいちワシントンまで行ってられないよ。勿論このマンハッタンにもあるってことさ」
こんなことを尋ねること自体、良枝は幾分俺の話を信用していないのかも知れない。
「そうそう、高村さん亡くなったのね。新聞では未明の銃撃戦に巻き込まれて亡くなったと書いてあった。でも銀行に勤めている人が、また何でそんな時間帯に、しかも銃撃戦で殺されるようなことになったのかしら。いずれにしてもお気の毒よね。本当にびっくりしたわ。それと日本人会で聞いたんだけど、娘さんがもうじき遺骨を引き取りにニューヨークに来られるそうよ」
俺は高村のことを思い出していた。日本で娘さんの受験のため、あいつの単身赴任生活が始まったんだ。その頃から酒に溺れ始め、ニューヨークに来た頃には完全なアルコール中毒の患者状態だった。寂しさを紛らわせようとしてお酒に走ったんだろう。ようやく家族とこのニューヨークで一緒に暮らせるかも知れないと嬉しそうだったのに。
「ねえ、まだしばらく話せる?」突然良枝が真剣そうな顔で尋ねた。
「ああ、どうした?」
「良子、ちょっと席をはずしてくれる?」
頷いて、良子は病室を出て行った。
「何だよ。改まって」
俺は良枝が何を言い出すのかと構えた。良枝の口から出たことに俺は胸騒ぎを覚えた。
「それで、俺の臓器も調べたのか?」
「ええ。あなたがこんなことになったから、ちょうどいい機会だと思って」
そうか。ここは人間どもの病院だった。その時もし俺の意識があったら、地下の帝国ホスピタルに入院するようにしたのだが。
「良夫も良子も人間とゴキブリのハイブリッド状態の内臓。お前は完全に人間。それで俺は?」
「ハイブリッドよ」
良枝が俺を見つめていた。
「お前、そんなことを信じるのか?」
「信じたくないわよ、もちろん。でも一体どういうことなのかって。思い当たることがあったら正直に話して欲しいの」
良枝は懇願するような目で俺を見つめた。
「ばかばかしい。他人に比べてたまたま脂肪が多いだけさ。余計なことは心配するな」
「脂肪じゃないわ。わたしの言っているのは脂肪体よ。人間にしては極端に多いのよ。体全体にあるんだって。わたし以外」
「良枝、だからと言って、俺の存在が半分ゴキブリだとでも言うのか?」
「・・・・・・」
「もしも百歩譲って、半分ゴキブリだとして、俺と子どもたちを今までみたいに愛せなくなるとでも言いたいのか?」
「わたし自身がそんなこと信じられないのに、仮定法ではこんなこと話せないわ。でも・・・・・・」
「でも、何だ」
「正直言って、気持ち悪い。だってイメージが浮んでくるもの。どうしたらいいのかしら」
「イメージというものはやっかいなものだ。なかなか消すことができない。でも、間違ったイメージは改めないとね」
「間違っているとは、今のままでは言えないわ」
「じゃあどうすればいいんだ?」
「わたしにもわからない。ちょっと休ませて。めまいがして来たから」
良枝は病室を出た。休憩室には誰もいなかった。良枝はソファに腰を下ろして物思いに耽った。
わたしだって、夫と子どもたちが半分ゴキブリだなんて信じたくもない。でも、ゴキブリのように脂肪体が体全体にあるのは事実だ。ゴキブリは脂肪体に蓄えたエネルギーを使い、食糧難の時でも悠々と活動している。そういえば、夫も子どもも、貧乏暮らしにはめっぽう強いような気がする。少々お腹がすいていても、文句も何も言わない。脂肪体があるからかも知れない。わたしはどちらかというと空腹に弱い。我慢できない方だ。
夫婦のセックスだって、そう言われれば思い当たる節がないわけではない。夫がわたしを抱いて顔をすり寄せて来る時、顎(あご)が普段感じるより、すごく硬くなっているような気がする。モノの本によれば、ゴキブリの顎は硬い樹の皮も噛み砕くほど頑丈にできているらしい。夫が頂点に達しそうな時、わたしの顔や髪に何かが接触しているような感覚がある。ゴキブリなら、ピンと張った触角のような。きつく抱かれて引き寄せられる時、夫の腕に突然細かな毛が生えたような感覚もある。背中はぬるぬるした感じもあるし。
ああ、いやだ! 一番嫌いな虫とセックスしているなんて。良枝は、水をかぶった犬が全身を震わせて水分を振り払うように、イメージを打ち消そうともがいた。
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