第20話

 全てを焼き尽くすのではないかという太陽光線が熱帯雨林に繁茂する植物の肉体を突き刺していた。火傷の部分を少しでも減らそうと傘のように広がった葉は勢いよく生い茂り、光線を阻もうとしている。雨林の根元には赤土が広がり、熱帯の巨大な蟻の群れが瀕死のゴキブリにたかっている。

 ゴキブリはつい今しがたまで人間の家の中にある食器棚の裏通りを、いつものように触覚を震わせながら蠢(うごめ)いていた。狭くて薄暗い通りから、太陽のように輝く蛍光灯の下に出た瞬間だった。

ビシッ! バシッ!

 ゴキブリはいきなりとてつもない圧力を身に受けて内臓破裂を起こし、その場で動けなくなった。もぎ取られた足が二本、ピクピクと動いている。意識が混濁して来ている。風前の灯火となった意識の奥で懐かしい人間の声が響いて来た。

「とうとうやったわ! あなた、ゴキブリをやっつけたわ!」

 人間の女がハエたたきを手に、嬉々として屈みこんで、こちらを見つめている。

 顔を見て驚いた。良枝だった。

と、いうことは、俺が瀕死のゴキブリ?!

とうとう一番恐れていたことが・・・・・・。

蟻の軍団が絶命寸前の俺を巣へ運んでいる。蟻の体が太陽を反射して黒々と輝いている。俺は眩さに酔いそうになっている。

うっすらと意識が戻って来た。体中の皮膚が汗ばんでいる。

「夢だったのか」

 二度とは見たくない夢だった。でも、夢でよかった。俺はベッドのサイドテーブルに置いてあったタオルに手を伸ばし、汗を拭った。

テーブルの上でスマホが鳴り響いた。相手を確かめると、直木だった。

 一体直木が何の用だろう。心当たりがなかったが、電話に出た。

「お休みの日に申しわけありません」

 直木の声が耳元で事務的に響いた。

「どうしました?」

 俺は少々胸騒ぎを覚えていた。

「五木田さん、やはり嘘をつかれていた」

 声にしたたかな笑みが混じり込んだ。

「あの娼婦のことですよ。あなたは全く知らないと言う。私に娘がいることは申し上げましたね。築地というクラブにいます。その築地に華子という娘(こ)がいる。あなたもよくご存知のはすだ。むかし、その娘はダンサにいましたからね」

 直木が一体何を言おうとしているのか、少しずつ見えて来ていた。

「うちの娘に頼んで、華子さんに美樹という女のことを訊かせたのです。そうしたら、あの美樹という女はよく五木田さんとダンサで会っていたというんですなあ。これはどういうことですか? やはり五木田さん、あなたはあの女をよく知っていた。そして女の色仕掛けで、わが社の秘密を奪い取った。図星でしょ?」

 勝ち誇ったような声が気に入らなかった。

「存じ上げませんなあ。そういうことは」

「しらばくれるのもいい加減にしろ!」

 鼓膜でも破れそうな大声を避けようと、俺はスマホを耳元からずらせた。

「百歩ゆずって、その女性とわたしが知り合いだとしても、わたしがその女性を使ってあなたの会社の秘密事項を手に入れたという確たる証拠でもあるんでしょうか。色仕掛けに引っ掛かって秘密をゲロしたのは、あなたでしょ? 何なら御社の高木支社長にそのようにぶちまけましょうか?」

「五木田さん、わたしにはあなたがゴキブリ人間とでもいうべき存在なのが直感的にわかる。でもそれを証明する術を持っていないのが残念でならない」

 電話の向こうで歯ぎしりの音が聞こえた。

「ゴキブリ人間ですって? ばかばかしいことをおっしゃる。もうよしませんか。こんな無駄な会話は」

「五木田さん、わたしは決して諦めませんよ。あなたの正体をつかむまでは」

 電話が一方的に切れた。俺は静かにテーブルの上にスマホを置いた。


マンハッタンに夕闇が迫っていた。五番街はクリスマスのデコレーションが点灯され、人々がショッピングに繰り出し、華やいでいた。毎年地方の巨大な樅の木がニューヨークに運び込まれ、飾り付けられるロックフェラーセンターのクリスマスツリーも点灯式を終え、年の瀬の街を盛り上げている。

俺は家族と一緒にそのツリーを見上げ、ショッピングをしながら、師走の街に溶け込んでいる。冬将軍が凱旋する嫌な季節の到来だが、黒光りするコートの襟を立てながら、子供たちに向かって言った。

「二人とも何か欲しいものがあれば言いなさい。今日だけは父さん、いい父親になりたいんだ」

「珍しいことをいうわね。大雪でも降り出すんじゃないの?」

 良枝が顔をほころばせた。

「さあ、こんな機会めったにあるもんじゃないわ。お父さんの気が変わらないうちに、好きなものをおねだりなさい!」

 良枝は子供たちの肩を抱いた。

「わたし、ブランドのバッグがいいな」

 良子が甘え声を発した。

「よし、ぼくはマイクロソフトのゲーム機だ!」

「さあ、買いに行こう!」

 俺は白い息をふうと吐いて、家族の先頭に立って歩き始めた。

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