第17話

 M社六階の広報室にはボッカが張り付いていた。天井の隅にあるウォールカーペットがわずかにめくれたスペースに陣取り、直木と藤村の会話に耳を傾けていた。

「どうだね? 探査ロボットの収穫の方は」

 直木が訊ねた。

「システムなしの稼動ですから、情報データの収集には手間取っていますが、続々と強力なセンサーの効果は出ています」

 藤村は説明するためにタブレットで資料をチェックしていた。

「それで巣は見つかったのか? どうなんだ」

 直木がイライラしながら訊ねた。

「ちょっと待ってください」

 藤村は資料のチェックを続けた。直木は仕方なく説明をじりじりしながら待った。

「巣はいくつも見つかっていますが、残念ながらまだ転送システムの影のようなものは見当たりません」

「じゃあ、意味がないじゃないか!」

「まあ、そう焦らないで下さい。そのうちに尻尾を掴めるかもしれませんから」

「コンサルタント料もウナギのぼりで、支社長も頭を抱えている。何とか早く決定打を掴まないと・・・・・・」

「うちもロングアイランドのシステムコントロール室を破壊されて大被害を蒙っているんです。後は専門家に任せてもらわないと!」

 藤村もストレスの塊だった。

「新聞記者もロングアイランドの件を事故じゃなく事件として嗅ぎ回っているから、くれぐれも注意してくれよ」

 直木はそう言いながら、自分の軽率さを悔やんでいた。他人に向かってかん口令を敷けという自分が大穴を開けたのではないか。

『あの美樹という女はただの娼婦で、五木田という男とは何の関係もありません』

 探偵事務所の結果報告が直木の脳裏を掠めていた。

ロングアイランドに探査ロボットのコントロール室があるなんてことは、俺からあの女に洩れた以外には考えられない。コントロール室が破壊されたのは、女と寝た直後だ。その現場を妻の咲江に押さえられるというおまけまでついている。誰かが仕組みやがったんだ。裏で動いているのは五木田なのか。あるいは、あの女なのか。田村という探偵も連中とグルじゃなかろうか。

誰も信じられず、直木の頭は混乱していた。

一度五木田という男に会ってみよう。何か掴めるかも知れない。ようやくそれだけを決めた。直木は最上を呼び出し、会う機会をつくるように指示した。

最上の連絡を受け、俺は少々戸惑った。自分に疑いを向けている人物に会うのをことわるのは簡単だ。しかし、会ってやらなければ最上の査定に響くだろう。いずれにしても、美樹との関係を少しでも悟られてはならない。会う場所は支局にしよう。それも昼間の時間帯だ。俺はOKの連絡を入れた。


直木が最上を伴って支局を訪れたのは、その日の夕方だった。支局のアシスタントには早引けするように言い渡していた。直木は案内した支局長室のソファから腰を浮かせ、窓から夕暮れのマンハッタンを覗いていた。

「なかなかいい眺めですなあ」

 直木が微笑んだ。

「ご用件は何でしょうか?」

 俺はビジネスライクに切り出した。一瞬直木が睨んだように感じた。

「五木田さんは美樹さんという女性をご存知でしょう?」

 俺は最上の顔に目をやった。最上は下を向いていた。

「どちらのミキさんで?」

「娼婦ですよ。下品な女だ」

 ムカッとしたが、ポーカーフェイスを装った。

「わたしに娼婦の知り合いはおりませんが」

 最上が俺の方を見た。まさか最上が美樹のことをバラしたのではないだろうな。支局長室に沈黙が流れた。

「ご質問がそれだけならどうぞお引取り下さい。M社の広報部長ともあろう方がなさるようなご質問とは思えませんがね」

 俺はデスクから立とうとした。

「最上、お前があの女を動かせるようなタマじゃないことぐらいはわかっている。あの美樹という女は五木田さんの何なんだ!」

 直木は立ち上がり、隣に座っていた最上の首筋をギュッと両手で掴んで持ち上げた。

「部長、おっしゃっている意味がよくわかりません」

 蚊の泣くような声を発した最上は、首根っこを押さえられた猫のように体を硬くして下を向いていた。

「嘘をつけ!」

直木は怒鳴りつけて、最上の体を解放した。

「部長、部下に対して暴力はいけませんよ。それこそパワハラで訴えられますよ」

 俺は部屋のキーをポケットから取り出し、カバンを持って立ち上がった。

「逃げるんですか?」

 直木が語気を荒げた。

「逃げるですって? わたしも忙しいんですよ。迷惑です!」

 俺は直木を睨みつけた。

「では言いましょう。五木田さん、あなたは美樹という女を使って、わたしからロングアイランドにあるロボットの秘密基地のことを聞き出した。それは以前うちの殺虫剤に関する社外秘の資料を、最上から受け取ったこととも関係することだ。資料があなたの手に渡った後で、ゴキブリの体内からワクチンが発見された。そして、あの女が現れてから直ぐにロングアイランドの爆破が起きた」

「今、爆破とおっしゃいましたね。ロングアイランドは事故じゃなかったんですか? 報道では爆破事件じゃなく、単なる爆発事故と伝えているはずですが」

 直木の顔にまずい、という表情が浮かんだ。俺はすかさず反撃に出た。

「部長は先ほどからロボットの秘密とかをその女性に知られてしまったのを、どうもわたしが仕組んだことのように疑っておられるようですが、先ほどから申し上げているとおり、わたしはその女性は全く存じ上げません。以前最上さんから社外秘の資料を受け取ったのを口実に、ロボットの秘密とかいうことまでわたしのせいにされようとしておられるような気がします。もし、その秘密あるいは極秘事項をご自分でその女性にお話しになってしまったのなら、広報部長失格ですね。さあ、部屋から出てください! わたしが帰れませんから」

 強引に直木の腕を掴み、部屋の外に連れ出した。部屋を出て鍵を掛け、エレベータホールに向かおうとした時、直木が駆け寄った。

「大変失礼なことを申し上げました。お許し下さい。それで、もしも可能でしたら、もう少しお時間をいただくわけには参りませんでしょうか?」

 直木の真意が計りかねていた。うっかりロングアイランドの件を爆破事件だと広報部長自らマスコミに認めてしまったことを社に知られたらヤバイと思い、必死にごまかそうとしているのだろうか。

 それはそれとして、このまま振り切って帰ってしまえば、最上の立場もなくなる。俺と美樹の関係を一切話そうとしない最上のためにも、ここは踏ん張らなくっちゃ。俺は直木の懇願するような顔に向き合った。

「わかりました。少しくらい時間をお取りしましょう」

直木の表情が緩んだ。

「ありがとうございます。最上君、ダンサに予約の電話を入れてくれ」

 ダンサか。要注意だぞ。俺はトイレに行くふりをして、最上の電話が終わるのを待って、ダンサ・ママに電話を入れた。

「あら、ゴキタさん。たった今最上さんから電話があったわよ。一緒に来られるんでしょ?」

「それが直木も一緒なんだ」

「ナオキさんも? 一体どんな風の吹き回しなのかしら」

「ママ、俺と美樹はお互いに全く知らないことにしてくれ。店の女の子にも倉田にも口封じだ。了解?」

「わかったわ。じゃあ、待ってます」

 美樹にも電話を入れた。幸いその夜、美樹はダンサに現れる予定はなかった。

 相棒の吾郎にも連絡を入れ、ダンサに来るように伝えた。直木という人物を吾郎に直接知っておいて欲しかったからだ。今は俺を酒に誘い、一見親しげな態度を見せてはいるが、腹の底では何を考えているのかわかったものではない。いずれ正体を現わすのではないか。

 俺は、最上を従えてソファに深々と腰を降ろしている直木の横顔を気取られない程度に見つめていた。

 吾郎は間もなくやって来た。直木と最上を紹介した。直木は吾郎の顔を繁々と見つめたので、吾郎はその視線を避けるように俺の隣に腰を降ろした。

「ブリ蔵、倉田が・・・・・・」

 言い終わらないうちに、俺は吾郎を目立たないように手で制止した。吾郎は口をつぐんだ。

「えっ? ブリゾウとかおっしゃいました?」

 直木が吾郎、続いて俺の方を見た。

「あのピアノを弾いている男、ゲイなんですよ」

 俺はとっさに直木の注意を倉田の方に向けた。

「ええ、知っていますよ」

「ああ、そうでした。直木さんはここに来られたことがあったのでしたね。もう何度目ですか?」

「これで四回目かな。倉田には毎回尻を触られるんですよ。ぞっとしますがね」

 直木はクスリと笑った。ママが直木の新しい水割りを作った。

「ところで五木田さん、なかなかいいスーツをお召しですね。黒光りしている。特注されるんですか、スーツは」

「いや、まあこれはわたしの好みでして。大したもんじゃありません」

 直木は直ぐに話題を変えた。

「五木田さん、ご出身はどちらで」

「京都です」

「京都か。懐かしいな」

「直木さん、居られたことがあるんですか?」

「うちの京都支社にね」

「へえ。それは、それは」

「五木田さん、お生まれは京都のどちらですか?」

 直木が水割り片手に訊ねた。

「嵐山の方です」

 咄嗟に観光ガイドで見たことのある有名な観光地の名前を答えた。

「嵐山ですか。わたし何度も行きましたよ。宴会が多かったな」

「なるほど。ところでM社の京都支社ってどちらでしたっけ?」

 俺は質問する側に回った。

「鉾町の近くです。ほら、山鉾巡行で有名な祇園祭の鉾を保存する町内の一角ですよ」

「そうですか。支社には何年おられたんですか?」

「五年ほど居ました。その後全国の支店を合わせて七年程回ってからニューヨークに来ました」

「ご家族は?」

 直木がどう答えるか興味があった。

「妻と娘がいます」

 ケロっとした顔で言った。

 嘘つけ! この前離婚しただろう。女と寝ているところを嫁さんに踏み込まれて、素っ裸のまま土下座してたじゃないか。

俺は噴出しそうになったが、努めて平静を装った。

「そうですか。娘さんはどうされていますか?」

「ニューヨーク大学で美術を専攻しています。夜はこの直ぐ近くのクラブでバイトをしているんですよ」

「へえ、よろしければ何処のお店ですか」

「築地っていう店です」

 直木が水割りをなめた。

「ハナコを引き抜いた筋向いのお店よ」

ママの声にくやしさが滲んでいた。俺は和服で三味線を弾く華子の姿を思い出していた。

「直木さんは築地には行かれないんですか?」

 俺はタバコに火を付けた。

「娘のいるところでは落ち着いて飲めませんからね」

 直木はそう言って笑った。

 それにしても、何故直木は腹立たしさを押さえて、俺と付き合う気になったんだろう。その疑問が頭の何処かに突き刺さったままだった。うっかりロングアイランドの件を爆破事件だとマスコミの人間に口を滑らせてしまったのがやはり気になっているのだろうか。

それにしてもこんな風に当り障りの無い会話にうつつをぬかすために、わざわざ俺と飲もうと思った訳ではあるまい。俺は直木の真意を計りかねたまま、水割りのお替りを重ねていた。

 もうそろそろ潮時かなと思った頃だった。直木が少し姿勢を正して、俺の方に向き直った。

「五木田さん、突然こんなことを尋ねて何ですが、ゴキブリのことを京都では何といいますか?」

 直木の顔に妙な真剣さが覗いていた。

「京都でですか? そうですね、ゴキブリとかアブラムシ、それにボッカブリという人もいますねえ」

俺は知り得る限りの単語を並べ立てた。ボッカのことが念頭に浮かんだ。

「ボッカブリ? それは京都の方言でしょうか」

「改めて訊かれると、よくわかりませんけどね」

 京都に五年ほどいたという直木が、ゴキブリの方言の知識を使って、俺は京都出身でないことに探りを入れているのかも知れないなどと気になった。直木の話は京都から離れて海外のゴキブリの単語に移った。

「スペイン語ではラ・クカラーチャ、英語ではコックロウチですね。ラ・クカラーチャというのはあの賑やかなスタンダード曲の名前にもなっている。陽気にゴキブリと人間がダンスでも踊るような印象を受ける名曲ですね。正確な内容は知りませんが、少なくとも曲からはそんな印象を受ける。太陽が輝く国々ではゴキブリと人間は仲が良いのかも知れませんなあ」

 直木は独り納得しているようだった。確かに太陽はゴキブリ帝国の守護神である。

「ところで、五木田さん。ゴキブリが想像を絶するスーパー・テクノロジーを持っているという話をお聞きになったことはありますか?」

「いや、知りませんが。そんなことがあり得るのでしょうか?」

 直木が何を言おうとしているのか気になっていた。

「ゴキブリの体内からワクチンが発見された時、うちのネットワーク網を使って世界各国で採取したゴキブリを殺虫剤では殺せないと思い、それ以外の方法で殺して調べました。そしたらゴキブリ全てから殺虫剤から身を守るワクチンが見つかったんです。実際にはあり得ませんが、例えてみますと、ある独裁国家が敵国民に対して個々に発射したミサイルを打ち落とす迎撃ミサイルを、敵国民一人一人が装備するというスーパー・システムで身を守っているみたいなものです。果たしてゴキブリがそんな驚くべきシステムを持っているのかどうか。直ぐには信じがたいことですが、もしも万一そんなことが考えられるとしたら、防衛網だけじゃなくて、ゴキブリが人間に対して先制攻撃を仕掛けてくることもあり得るのではないかとまで考えてしまいます」

「ゴキブリが人間を襲うってことですか? ヒッチコックの映画『鳥』を連想するようなお話ですね。あの映画では鳥が人間を襲いますから」

「今のところ人間は奴らをコントロール出来ていますから安心ですがね」

 直木は俺の反応を探るように、ゆっくりとグラスを傾けた。

そもそも人間がゴキブリをコントロールしているなんて考えること自体、直木すなわち人間どもの奢り高ぶりも甚だしい。俺は反論に転じた。

「ゴキブリというのはその大半が屋外で平和に生活しています。ところが、何らかの原因で家や建物の中に入って来るゴキブリがいますね。そのゴキブリを見つけ次第殺そうとするのが人間です。人間からすれば、ゴキブリは共存できるような生物じゃない。姿を見ただけで気味悪くなり、殺虫剤やハエたたきで殺そうとします。殺しちゃえばそれで終わり。ぽいと捨てて後は振り返りもしないわけです」

 直木はグラスを置いて俺を見つめ、口を開いた。

「えらくゴキブリの立場に立った発言ですなあ。五木田さんはゴキブリの顧問弁護士になれる。奴らを殺した後で一体何を振り返れと言うんですか? 殺虫剤は別にしても、ハエたたきで叩きゃ、奴らは内臓が飛び出してペチャンコになってお陀仏でしょうが」

 直木は笑いを堪えていた。俺はゴキブリに対する人間どもの見方が如何に浅薄であり、驚くほど単純なことに改めて戦慄を覚えていた。

「五木田さん、この世にゴキブリ人間なんてものが存在していると思いますか?」

 直木が意地悪そうな顔を向けて来た。

「一体どういう意味でおっしゃっているのかわかりません」

 俺はポーカーフェイスを決め込んだ。

「ゴキブリが抜群に優れたテクノロジーを持つとすれば、ひょっとしたら人間に化ける術も持っているんじゃないかと思いましてね」

 直木が顔を覗き込む仕草をしたように見えた。俺はドキリとした。直木は何かを掴んだのではなかろうか。いやに自信たっぷりの言い草だ。いや、そんなはずはない。探りを入れようとしているだけだ。

「ゴキブリが人間に化けるですって? ばかばかしい!」

 とりあえず否定してみせた。直木の目は俺の表情のわずかな変化でも捉えようと必死になっているように思えた。胸の中に仕まい込んでいる触角アンテナが震えないように、しばらく息を止めた。

「おっしゃる通りゴキブリが人間に化けるなんて考えることは、全くばかばかしいことです。でもそうでも考えないと理解できないようなことがわたしの周りで起こっているんです。あの女がわたしの前に現れてからは・・・・・・」

「あの女というのはおっしゃっていたコールガールのことですね?」

 俺は直木に対するポーカーフェイスを楽しむようになっていた。直木は軽く頷きながら水割りをなめた。そして続けた。

「私自身殺虫剤メーカーに勤めていて時折感じることは、もし害虫という害虫がこの地球上から姿を消してしまったら、一体どうなるのかということです。害虫が存在するからこそ我々の商売は成り立っている訳です。そういう意味では、本当なら害虫に対して、せめて年に一度くらいは感謝の祈りを捧げるなり、供養をするなりしなくちゃならないと思うくらいです。ゴキブリがいなくなれば、我々は大きな収入源を失うわけですから」

「もしも火事が絶対に起こらない世の中になれば、消防署員は全員首になるという論理に近いですな」

「しかし火事がなくなることは考えられない。この世に火が存在し、燃えるものが存在する限りは。ゴキブリが適当に家の台所をうろついてくれるから、ゴキブリ駆除剤が売れる。カネを生み出すからゴキブリ様様だということになりますね」

俺は蛇のようにしつこくゴキブリの話をし続ける直木の真意を探りながら、水割りを飲み干した。

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