第6話
俺の密かな不安は的中していた。最上は連絡して来なくなり、M社の動きが掴みにくくなっていた。森屋は今回の事態の責任を取らされ、帰国後地方の支社に左遷された。風の噂によると、最上はニューヨークには留まったものの、出世街道の広報部門からはずされ、営業の外勤としてセールスに廻っていた。
最上の後任はシカゴから転任して来た西条という男だった。西条にも俺に近付くなという指令が出ているらしく、支局に挨拶さえ来ない。新しい戦略を考えざるを得なかった。
それから間もなく、再び新聞の経済面を賑わせる動きがあった。M社がS社と組んで、新しいゴキブリ専用殺虫剤の開発に乗り出すという記事だった。
俺は帝国に記事の概要を伝えたが、その具体的な内容は直ぐには掴めないという事情を報告した。
このまま手をこまねいていたら、世界の同胞がとんでもない危機に曝される恐れがある。何とか最上と交流を復活できないか。美樹の顔が浮かんだ。一肌脱いでもらおうか。しかし果たして最上がその話に乗ってくるだろうか。いや、あいつはまだ美樹に未練があるはずだ。一度試してみよう。それもこれも我が同胞を救うためだ。
意を決して、ミッド・タウンにあるM社に最上を訪問した。最上は外出中だと聞いて、スマホに連絡を入れてみた。
「もしもし、俺だよ。五木田だ。久しぶりだな」
「今セールス中なんで切らせてもらいますよ」
「じゃあ、何時頃電話すればいい?」
返事がないまま、スマホが切れた。折角ニューヨーク広報という地位に就き、将来は本社の重役にと出世の道を夢見ていた男が、社外秘の成分表を俺に渡したばっかりに、詰め腹を切らされたのだから仕方がなかろう。
でも、そのことで最上は同胞を危機から救ってくれた。あいつには恩義がある。時間を空けて、再び最上のスマホを鳴らした。
「しつこいですなあ」
「おい、切るな。美樹がお前に会いたがっている」
「・・・・・・」
「どうだ。もう一度美樹と会ってみないか。彼女の機嫌も直ったようだし、もし何なら橋渡しをするぜ」
少し間があった。
「よし、わかった。今度こそ男を立ててみせるぞ」
「その意気だ」
「だが、今度の新製品の資料は絶対に渡せませんよ。もし同じようなことが起これば、それこそ身の破滅ですから」
「わかった、わかった」
だが、開発の始まったという最新兵器の資料は絶対手に入れなくてはならない。触覚アンテナが体内でピリピリと武者震いしたのを感じていた。
ある夜、俺は珍しく早い時間に社宅に戻った。
「ただいま」
「あら、どうしたのかしら。熱でも出たの?」
良枝がとぼけながらドアを開けた。
「仕事が早く終わったので、たまには早く帰って休もうと思ってね」
「どんな風の吹き回しなの? わたし怖いわ。天変地異が起こるかもね」
良枝はキッチンでコーヒーを沸かし始めた。
「子供らはどうしている?」
「まあ珍しいこと! あなたでも子供の心配をすることがあるの?」
「昼間は昼間の仕事あり。夜には夜のお仕事で、なかなか時間がなくってね」
「本当に仕事なの? 何処かで若い娘といちゃついているんじゃない?」
「そんなことでもありゃ仕事に弾みがついていいのになあ。残念ながら世の中はそう単純ではないってことよ」
「そうかしら。この間高村さんから電話があって、ご主人に深夜タクシーで送ってもらい、ありがとうございましたと言っていたわよ。高村さんと言えば、いつも若いホステスを連れ歩いているっていう噂よ。あなたも一緒になって遊び回っているんじゃないの?」
「あいつは寂しいんだよ。単身赴任の宮仕えさ。寂しさを紛らわすために、遊んでいるだけだ。別にやましいことはないさ」
「この前、新聞の長谷部さんの奥さんと出会ったら、主人がいつもお世話になりまして、なんて言っていたわよ。二人でつるんでおいしいことしているんでしょ?」
「誤解を通り越して、曲解という領域に足を踏み入れているな。勘ぐりも程々にしろよ」
俺は良枝が二階に上がり、寝静まったのを見計らって、ガレージに行った。そこでゴキブリに変身し、ガレージのドアの隙間から裏庭に出て、芝生の上でボッカを待った。辺りは月光に照らされ、偶に表通りを走り抜ける車の騒音が聞こえるくらいで静寂に包まれている。気配を感じて振り向くと、ボッカが微笑んでいた。
「これがお前の住んでいる社宅か。でかい家だなあ」
「M社がまた新しい殺虫剤の開発に入っている。それに状況が変わって、肝心の成分表が手に入りにくくなった。だから、こっちから取りに行くことにする」
「了解! いつでも声掛けしてくれ。待ってるぞ」
「準備出来次第知らせる」
ボッカはあっという間に姿を消した。辺りを見渡すと、同胞のゴキブリが三々五々月夜の散歩としゃれ込んでいた。彼らの命を守らなければ! 俺はそう心に誓うと、良枝と子供が眠っている家に人間の姿で戻った。
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