第4話


「キャーーーーーー!」

 社宅中に響き渡る悲鳴。二階の書斎でテレビを観ていた俺は仰天した。

「おい、どうしたんだ?」

「あなた、ゴキブリが出たのよ!」

 良枝の怯えきった声が耳をくすぐる。

「何だ、ゴキブリぐらいで」

「あなた、早く! 早く!。逃げちゃうわよ。さっさと降りて来てよ!」

 仕方なく、階下に降りてみた。

「ほら、そこ、そこ。食器棚の隅のところよ」

 棚の隅に触覚が動いているのが見える。良枝は先日日系のスーパーで買い求めたハエたたきを取って来た。

「さあ、確実に殺してよ」

 良枝は恐る恐る俺の後ろから覗いていた。

「向こうに行ってろよ。潰れたら気持ち悪いぞ」

 ハエたたきを構えて、振り下ろした。

「あっ、手が滑った」

 ゴキブリはその瞬間、すばしこく棚の後ろに姿を隠してしまった。

「もう、へたくそなんだから」

 良枝が口を尖がらせた。

「小さなゴキブリじゃないか。かわいいもんだよ」

「まだ棚の後ろにいるわ。追い出して頂戴」

 良枝は俺を睨みつけた。仕方なく、ハエたたきを食器棚の裏側に突っ込んで、カサカサと追い出す仕草をした。

 ゴキブリはじっとして動かない。ハエたたきをさらに突っ込み、追い出しにかかった。

「あっ、反対側から出てきたわよ。早く!」

 ゴキブリは素早く隣の部屋に逃げ込み、今度は本棚の裏側に消えた。

「もういいだろう? あんなちっぽけな奴は」

「何言っているの。殺さなきゃ、もっとでかくなって何十匹にも増えるのよ」

「大体、ニューヨークは日本で言えば、緯度は青森あたりだ。ニューヨーク市のニックネームはビッグ・アップルだろ。リンゴの産地で緯度が高い。ゴキブリは元々熱帯から亜熱帯の原産だよ。寒さに弱い。だから暖かい部屋に入ってくるんだ。住み易いんだよ」

「何をのんきなことを言っているの。あなたはゴキブリの味方なの? 病原菌をもたらす害虫なのよ」

「ゴキブリは世界中にいる。ゴキブリと一言でいうが、実に四千種類ほどいる。しかもその殆どは屋外に住んでいるんだ。だから、外に追い出せば充分だよ。無駄な殺生はしない方がいい」

「そんな仏教のお坊さんみたいなことを言って。わたしはゴキブリ大嫌いなの。ゴキブリとわたしとどっちが大事なの?」

「そんな比較が出来るものか」

「どういう意味よ、それ。ああ、身震いして来た」

 良枝は本当に体を震わせていた。

「連中は地球上に三億年も住んでいる。生き物としては、人間よりもずっと先輩なんだよ」

「えらくゴキブリの肩を持つわね」

「連中は三億年生きて来た知恵を持っているということだ」

「一体どんな知恵なの?」

 良枝は腕組みをして、俺を問い詰めるような視線を向けていた。

「気の遠くなるような年月の間に起こった無数の自然環境の劇的な変化に対応して来たということだ」

「よしてよ。そんな理屈は」

「理屈じゃない。事実だ」

「もういいわ。勝手にして。今度スプレータイプの殺虫剤を買うわ。あなたのハエタタキの手元を見てたら、お話にならないもの」

 良枝はしかめっ面で部屋を出て行った。

本棚のあたりを見ていると、ゴキブリが触覚アンテナを震わせながら顔を覗かせている。

 何もしないから、早く外に出ちゃいな。

 俺はテラスに通じるガラス戸を少し開け、野外への通路を作ってやった。

 俺の正体を知ったら、良枝は卒倒ぐらいでは済まないだろうな。逃げて行くゴキブリを見送りながらそう思った。

その良枝と知り合った頃のことがふと脳裏に浮かんだ。あれは日本に居たころだった。俺は人間の生態を調べるために、コンビニエンス・ストアに勤めたことがあった。虎の巻を見ると、コンビニは主に食べ物等を販売するチェーンの名称と書いてある。人間が気軽に出入りし、食べ物が常にあり、冬場は長時間店内が暖房され、職に就くのが比較的簡単らしいことなどがコンビニ選択の理由だった。

レジの打ちかたも最初は難しかったが、そのうち慣れた。色んな人間が入って来て、商品を買い求めては出て行く。コンビニは一人暮らしの客にとってなかなか便利なところのようだ。

常連客の中に気になる女性がいた。いつも夜七時ごろ買い物に来る。美人というよりは、かわいらしいタイプで、地味な服装を身にまとい、落ち着いた感じがした。どんな風に声を掛けたら良いのか見当がつかなかったが、毎夜その女性が買い求める食料品の代金をレジで計算し、袋に詰めて手渡すのが最大の楽しみだった。彼女が財布から金を取り出そうと下を向く瞬間に、容貌や胸元をチラリと見た。釣り銭を手渡す時、目が合ったら恥ずかしくて直ぐに目を反らせた。仕事を終えてアパートに帰っても、いつの間にか彼女のことを思い浮かべてしまい、切ない気持ちが胸をくすぐった。こういうのを人間世界では一目惚れというのかも知れない。


小春日和の休日の午後、俺は近くの公園のベンチで日向ぼっこをしていた。小型犬を連れた女性が俺の方にやって来た。あの人だ。犬が激しく吠えた。

「ランディ、だめよ! いけない!」

 女性が犬を制止した。

「ごめんなさい。時々人に向かって吠えるんで、困っているんです」

 俺は人間じゃない。ゴキブリだ。でも、人間なんだ。心の中で微笑んだ。

「いいんですよ。犬は吠えるのが商売ですから」

「あら、あなたコンビニの人ね」

 気付いてくれた。胸がときめいた。

「いつもお買い上げありがとうございます」

マニュアルめいた言葉が自然に口をついて出た。

「この近くにお住まいなの?」あの人が尋ねた。

「ええ、直ぐ近くのぼろアパートに」

「緑風荘のこと?」

「そうですが・・・・・・」

「わたしも緑風荘に住んでいるわ。あなた何号室なの?」

「一階六号室です」

「わたしは二階の八号室」

「そうだったんですか。気付きませんでした」

 初めてあの人と微笑みを交わした。

「もし差支えなければ、お話でもしませんか」

 積極的な自分に驚いた。

「いいですよ」

 女性は犬のリードを持ったまま隣に腰を掛けた。

「ボク、五木田肇です」

「わたし、山中良枝」

「良枝さん? いいお名前ですね」

「ありがとう」

 良枝ははにかんでいた。

「ランディって言うんですか? ワンちゃんの名前」

「知人がつけたのよ。その人が阪神タイガースの大ファンで、阪神を日本一に導いた四番打者バースのファースト・ネームですって。その人からもらった犬なの」

「強打者のバースにしては、ワンちゃん、ちょっと可愛すぎる感じだなあ」

「ミスマッチと思うけど、元々の名前だから」

 そう言って、良枝は犬の頭を撫でた。


それ以降コンビニで顔を合わせる度に、良枝と挨拶を交わすようになった。

「一度食事でもしませんか?」

 ある日、レジをしながら良枝を誘った。

「土曜日なら空いているわ。何時にしましょう」

「夕方の五時、コンビニ前で待ち合わせは如何ですか?」

「OK。楽しみだわ」

 良枝が微笑んだ。俺はいつものように、彼女の買った品物を袋に詰め込んで手渡した。

「ありがとうございました。またお待ちしています」

 良枝は袋を受け取り、ほほ笑んで手を振りながら出て行った。

 その直後俺の体内の触覚アンテナに反応があった。辺りを見渡すと、レジの下の床に小さなゴキブリが居た。

(まだ子どもだな)

 声を掛けたので、ゴキブリが驚いた。

(おじさんは人間なのにどうしてゴキブリの言葉が話せるの?)

(それはね、言葉を勉強するのが好きなんだよ。人間の言葉でも日本語、英語、フランス語、それにドイツ語が話せる。レイ・ブラッドベリーという人間の作家を知っているかい? 知らないだろうな。彼の本を読むと、植物が人間に踏みつけられ、「痛い!」って悲鳴を上げるところがある。そういう風に考えたら、植物だけじゃなく動物も、昆虫も皆それぞれの言葉で話している。ボクらゴキブリのように。人間は鈍感だから気付かないだけのことさ)

 見ると、その子が震えていた。

(一体どうしたんだ?)

 俺はかがんで子どもを覗き込んだ。

(父さんや母さんから、人間には気をつけろ、絶対に近付くなと言われたのを思い出したんだ。殺されてしまうって)

(安心しろ。お前を殺したりなんかしない。早く親のところに戻るんだ。さ、早く)

「すみません。待っているんですが」

 人間の声が耳に飛び込んで来た。気が付くと、お年寄りが俺をカウンター越しに覗き込んでいた。商品を入れた買い物かごがカウンターに置いてあった。

「どうも失礼しました。ちょっと考え事をしていたもんで」

 俺は急いでレジを打ち始めた。

 

 土曜の夜、近くにあるレストランのテーブルで良枝と向かい合っていた。二人とも洋定食を頼み、俺は生ビールを注文した。

「良枝さんは何をしているんですか?」

 俺はストレートに訊ねた。

「予備校の英語の教師なの」

「きっといい大学を出たんですね」

「二流大学よ。でも教える情熱だけは持っているわ」

「ボクも語学は好きです。それには少し自信があります」

「そうなの。頼もしいわ」

 良枝はナイフとフォークを使い、ハンバーグを口に運んだ。

「肇さん、ご家族は?」

「天涯孤独です。親父とおふくろは幼い頃に亡くなったし、兄弟もいません。施設で育ったんです」

 良枝は咀嚼を止めて、ゴクンとハンバーグの塊を飲み込んだ。目線が俺を見つめていた。

「同じよ。わたしも全く同じ境遇」

「そうなんですか。偶然ですね」

 良枝の長い髪がキラリと光った。

「偉いよね。女性の方が大変でしょ? 一人暮らしは」

「バースがいるわ。あの子がいれば充分よ」

 はにかんだ笑顔があった。

「すみません。プライベートなことばかり訊いて」

 俺は生ビールを口にした。

「いいのよ。肇さんに嘘言ってもしょうがないもの。あっ、唇に泡がついているわ」

 良枝はナプキンで泡を拭ってくれた。

「やさしいんだな」

 良枝を見つめた時だった。

「キャー!」

 突然、良枝が叫んだ。店員と客が一斉にこちらを見た。

「ゴキブリよ。今床を走ったの」

 事情を飲み込んだ店員が殺虫剤のスプレー缶を持って、走り去るゴキブリを追った。

「すみません。申しわけありませんでした」

 店員がテーブルにやって来て謝った。

「殺したのか?」

 ゴキブリのことが心配だった。

「すばしっこくて取り逃がしました」

 胸を撫で下ろした。コンビニに現れた子供ゴキブリの親かも知れなかった。

「わたしこそ御免なさい。大きな声を出して。ゴキブリが大嫌いなもので・・・・・・」

 良枝が店員に詫びた。


 それから何度目かのデートでプロポーズした。良枝ははにかみながら頷いた。

 彼女は俺の部屋に引っ越し、毎月の家賃が一戸分浮いた。翌年息子・良夫が生まれ、次の年、娘・良子が誕生した。そして、俺は家族と一緒にニューヨークに乗り込んで来たのだった。

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