第2話

 俺は海外諜報部の同期であるボッカが近々ニューヨーク入りすると聞いていた。帝国の地球防衛ネットワークの中で、アメリカには首都ワシントンとロサンゼルスに支局があり、全米をカバーしていたが、日米の大手殺虫剤メーカーが手を結び、強力な殺虫剤の開発がニューヨークで進んでいた。そこでニューヨークに新支局を設けて、俺が送り込まれたのだが、その助っ人に選ばれたのがボッカだった。

ゴーキー大帝の強い後押しでニューヨークに派遣されて来るボッカは並々ならぬ決意でこの地を踏むのだろう。俺はボッカがやって来るのを心待ちにしていた。帝国を出発してから、日本それにニューヨークと長い間仕事面での孤独が続いていたからだ。

ボッカの到着に合わせて帝国ではニューヨークに医師団を派遣し、ボッカの人間改造手術が行われた。手術はマンハッタンの地下深くにあるゴキブリの総合病院・帝国ホスピタルの巨大なスペースで行われ、ボッカは人間になった。

麻酔が完全に解けた日、俺は久しぶりにボッカと再会したのだが、何しろ人間になった彼を見るのは勿論初めてで、彼にしても人間になった俺に会うのも最初だったので、随分妙な感じの再会となった。 

俺たちはお互いを認識するのに相当な時間をかけることになったが、ようやく俺は口を開いた。

「どうだ、人間になった感想は?」

 ボッカは手術後ずっと裸のままだったが、俺が部屋に持ち込んだ姿見に自分を映した。

「これが俺の新しい顔か。顔が真っ白だ。黒い髪の毛が頭に生え揃い、目の色は黒い。鼻が盛り上がり、二つ穴が開いている。その下に赤い唇。そして顎。顔の両側には大きな耳があるぞ」

 ボッカは顔を両腕で撫で回し、恐る恐る体の各部分に触れた。肩から胴体、それに脚。下腹部には茂みに覆われた立派な一物が突き出ていた。

「体の中を血が音を立てて流れ始めているような感覚がするんだ。自分であり自分でないような・・・・・・」

 首を傾げるボッカに声を掛けた。

「直ぐに慣れる。もうひとりゴキブリ人間が誕生したんだ。今夜は早速祝杯を上げることにしようぜ。さあ、服を着てみろ!」

 買い揃えた下着とシャツ、スーツ、ネクタイにベルト、それに靴をボッカに手渡した。

「こんなものを身に付けるのか?」

 ボッカは下着を不思議そうに手に取った。下着を身に付けた上にシャツを着て、ボタンをひとつずつ留めて、ネクタイを締め、スーツの上下を着た。

「靴のサイズはどうだ? 背丈からして俺と同じくらいだからこれでいけるはずだ。ちょっと履いてみろ。俺の好きなボストニアン製の靴だぜ」

 ボッカの足を持ち上げて、靴下の上に靴を履かせた。

「めんどうだな、人間は」

 ボッカは苦笑しながら、両足に靴を履いた。

「どうだ、具合は?」

「変な感触だ。でも大きさはちょうどいい」

「なかなか良く似合うぞ。さて、身なりはそんなところだ。さて、お次は人間としての名前だ。どんな名前にしようか」

「見当もつかない」

 髪の毛を撫でながらボッカは首を傾げた。

「俺の姓ゴキタをひっくり返したらタキゴだ。名前はゴローにする。タキ・ゴロー。滝吾郎というのはどうだ?」

「滝吾郎? へえ、それが俺の人間名か」

「そうしよう」

 不思議そうな表情をしているボッカに微笑んだ。

「滝は俺と同じ放送局のシンガポール支局から赴任して来た人間ということにしておこう。海外生活は初めてということにしておいた方が怪しまれないだろう。人間にはまだ慣れていないから、何かと都合がいい。それと今俺たちはゴキブリ語で話しているからいいが、お前には人間の言葉を出来る限り早く覚える必要がある。従って、諜報活動に並行して語学の特訓を地下病院のランゲージ・ラボラトリーで受けることになっているからそのつもりでな」

「人間の基礎的なコトバは帝国で勉強して来たから何とかいける。とにかくしばらくは人間に変身した何とも言えぬ感覚が続きそうな気分で、それの方が不安だぜ」

 伸びをしたり、腕をくるくる回したりしながらボッカは落ち着かない様子だった。

 俺はボッカを連れてホテルに行った。アパートが見つかるまでとりあえずホテル暮らしをさせようと思ったからだ。レセプションで取り敢えず一ヶ月の予約を取り、部屋でボッカに人間としての生活の基本を教え込んだ。

「とても一度には覚えられそうにはない」

 ボッカは顔をしかめた。

「ゆっくり時間をかければいいさ。俺も最初は何もわからなかったんだ」

「お前がそう言うなら安心だ。ゆっくり構えてみよう」

「変身ボタンの操作だけは早く慣れろ」

「ああ、これだな」

パンツの中に手を突っ込み、臍(へそ)の下にあるボタンの安全ピンを外し、変身スイッチを一回転させた。あっと言う間に体が縮み、ボッカはゴキブリに姿を変えた。

「ああ、参るな。この感覚」

「さあ、今度は人間に戻れ」

 ゴキブリの体にあるロックを外し、変身スイッチを回転させた。瞬間、ボッカは人間に戻った。

「その調子だ。何度もトレーニングするんだぞ。いざという時に自由自在に変身出来るようにな」

「OK」

「さあ、マンハッタンを闊歩(かっぽ)してみようぜ」

 人気の無い裏通りから大通りに出ると、明るい日差しが覆い、街の喧騒が耳に飛び込んで来た。

「まぶしい。こんな真昼間に出歩くのは苦手だ! それに辺りがうるさすぎるぜ」

 ボッカは思わず目と耳を抑えた。

「慣れるんだ。でないと人間に成りすませないぞ」

 ボッカは必死に耐えていた。街角から南米音楽が流れて来た。インディオのグループが軽やかな演奏を聞かせている。ボッカとしばらく民族衣装を身に付けたグループに耳を傾けて、音楽に合わせて体でリズムを取ってみた。

俺は人間になってから初めて余裕というものを感じ始めていた。人間としての後輩が誕生したせいだろう。


ボッカと一緒にクラブ・サンダで美樹に会った時、俺は耳元で囁いた。

「今度ニューヨークに新しく赴任して来た男がいる。あそこでママとしゃべっている奴だ。後で紹介するが、滝吾郎という。あいつを男にしてやって欲しい」

 美樹が吾郎を一瞥した。

「あの年でまだ女を知らないってわけ?」

 美樹が眉をひそめた。

「真面目な奴でね、奥手なんだ。ひとつ童貞を破ってやってくれ」

「童貞なんてホント久し振りだわ。任せてよ」

 美樹はタバコを燻らせながら吾郎の横顔を楽しげに見つめていた。

           

翌日の夜、吾郎は美樹とマンハッタンにあるホテルの部屋にいた。俺から耳打ちされ人間女と交わるように言われたものの、どうすればいいのかさっぱりわからなかった。

美樹という女はシャワーを浴びている。先にシャワーを浴びた吾郎は、パンツをはいただけの姿でベッドの上に座り、美樹の現れるのをハラハラしながら待っていた。しばらくして美樹がシャワー室からバスタオルを体に巻いて出て来た。吾郎の表情に緊張が走った。

「そんな顔をしないで。わたし五木田さんにあなたのこと頼まれたのよ。もっとリラックスして頂戴よ」

 美樹はサイドテーブルの上に置いたタバコケースから一本取り出し、ブランドのライターで火を付けた。一服ゆっくりと吸って、灰皿に置き、吾郎を見つめた。タバコのフィルターに口紅がついていたが、吾郎には気付く余裕もなかった。美樹はタバコを灰皿で軽くもみ消し、部屋の明かりを暗くした。そしてバスタオルをゆっくり胸元から外した。乳首の立った胸が薄暗い部屋の中で白く浮き上がって見える。思わず吾郎は目をそらせた。美樹は吾郎の顎(あご)を左手の親指と小指でグッと持ち上げて自分の顔と対面させ、吾郎をうっとりとした目で見つめた。

「立派な顎ね」

 指の間から洩れて来る吐息が吾郎の体を硬くした。

 ゴキブリは顎が発達していることを人間はきっと知らないんだろう。硬い樹の皮でも食いちぎって食べられるんだぞ。

人間女になすがままにされていることに対する抵抗の呟きだった。

「だめよ。もっとリラックスしなきゃ」

 途端に唇同士が触れた。吾郎は離れようと体をねじった。美樹は吾郎をベッドの上に押し倒し、思い切り唇を吸った。甘美な香りに包まれて、喘ぐような声が耳に飛び込んで来た。

いつの間にか、吾郎は今まで味わったことのない快感を覚え始めていた。これがブリ蔵の言っていた人間男の快感なのだろうか。一物が別の生物のように動き始め、何かを求めて立ち上がっている。

美樹の動きに合わせて腰を動かせているうちに快感が増し、重なり合った体の動きが増す度に吐息が口の中に溢れた。吾郎は脳から体全体がみるみる開放されていくような感覚に導かれていた。絶頂感を意識した瞬間、吾郎は自分でも驚くような声を発して果てた。


「ボッカよ、楽しく過ごせたのか」

翌朝、俺は意地悪く尋ねてみた。少し間を置いて、微笑みながら答えが返って来た。

「美樹さんて優しい人なんだな。初めてだったけど、俺を一人前に扱ってくれた。人間になってよかったと初めて思ったよ。また二人で過ごしたい」

 俺はすかさず言った。

「男女の恋愛のためにあの場を設けたんじゃないぞ。仕事のためだ。人間女と寝て重要な情報を掴まなくてはならん時もあるからな。そのために人間男の性感覚を掴んでもらうためだったことを忘れるな。お前は名誉あるゴキブリ帝国の情報部員だからな」

 ボッカは姿勢を正した。

「すまん。美樹さんに溺れてしまったようだ。反省しなくっちゃな」

「今言ったような仕事面のこともあるが、お前の人間としてのめでたい門出だから美樹に頼んだのさ。今度美樹に会ったらこれを渡してくれ。お前のレッスン料だ」

 俺は胸ポケットからキャッシュを差し入れたマニラ封筒を取り出してボッカに手渡した。

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