五木田ブリ蔵の冒険

安江俊明

第1話

 太平洋に浮かぶ島。熱帯雨林の地下深くにゴキブリの帝国がある。太陽光線が矢のように熱帯植物の肉体を突き刺している。傘のように広がった葉は生い茂り、火傷の部分を少しでも減らそうと、光線のトゲを阻もうとしている。植物の根元には赤土が広がり、熱帯の巨大な蟻の群れが瀕死のゴキブリを巣へと運んで行こうとしていた。

 俺はブリ蔵という。この帝国で生まれ、スパイ・アカデミーを卒業し、海外諜報部に所属を命じられた。諜報部に属すれば、危険極まる人間界で活動しなくてはならない。すなわちゴキブリから人間にならねばならない。帝国の開発室ではゴキブリを人間に変身させる特殊技術を持っていた。俺はカプセルの中に放り込まれ、麻酔されて人間に変えられた。その後、帝国のゴーキー大帝の訓示を受けた。

「お前も知っての通り、我々は地球上に三億年暮らしている。人間どもは地球生存者の大先輩である我々を事あるごとに抹殺しようと企み、ありとあらゆる環境汚染を広げておる。我々は人間の反地球的な謀略を阻止するため、他の昆虫と結んでいる相互安全保障を初めとする地球環境保護と人間の謀略阻止のためのネットワークを広げていかなくてはならぬのじゃ。環境破壊の元凶を封じ込めるために任務遂行をよろしく頼んだぞ」

「はい! わかりました!」

 大帝のお言葉をしっかりと胸に受け止めた俺は、総務部が揃えてくれた偽造パスポートを持って、近くの島にあるローカル空港から飛行機を乗り継ぎながら日本の地を踏んだ。日本に行ったのは日本人になりすますためで、日本の知識や慣習などを十分に詰め込んでから最初の赴任地ニューヨークに向かう手はずである。ニューヨークではテレビ局の支局員という偽装で活動することを念頭に置いたので、日本ではテレビ局の報道セクションでバイトをした。カメラ助手として海外取材も何回か社員スタッフに同行した。人間の表の顔になる日本名は、「入り口を開けて物事を始める」という意味の『肇(はじめ)』という名前を採り、姓名を『五木田肇』とした。

日本で数年を過ごすうちに人間女とも結婚し、子どもも儲けてからニューヨークの駐在契約社員を募集していたテレビ局の試験にパスして、ニューヨークに潜入した。

デリのネオン。イェロー・キャブ。ブロードウェイの劇場に向かう観光客の群。地下鉄の轟音。

 この大都会でこれから人間の皮を被って暮すのかと思うと、興奮し夜眠れなかった。俺はメインストリートらしい五番街をどんどん南に歩いてみた。気が付くと、ワシントン広場まで来ていた。暗闇で何かが蠢いている。人間らしい。黒光りするスーツの上着のボタンを締め、心して気配のする方向に歩を進めた。

突然、けたたましい声があたりに響き渡った。白い眼が不気味に闇に光っている。黒人が数人、サッカーボール代わりにウィスキーボトルを蹴り合っていた。酒に酔っているらしい。硬いボトルを蹴る鈍い音があたりの乾いた空気を切り裂いていた。白い眼がボトルを執拗に追っている。俺のスーツはその闇の中で光を発している。

「誰だあ! そこに! い、いるのはあ?」

 アフロ・アメリカン特有のラップ・ミュージックのような調子の声が響いた。黒人らは一斉に白い眼を俺に向けた。

「怪しい者じゃない。続けろよ」

 俺は微笑んだ。

「変な野郎だぜ。その黒光りするスーツは一体何だ。悪趣味もいいところだ」

 そう言うと、連中は何もなかったように、またボトルを蹴り始めた。

俺は大都会が好きだ。そこには必ず裏の世界がある。日本にいる間に、珍しさも手伝って人間の夜の世界に入り込んだ。日頃の鬱憤をはらすためか、男は酒を飲む。浴びるほどに。狂った夜が明ければ、朝帰りとなる。周囲にはゴミがあふれ、残飯や空のウィスキーボトルが山積みになっている。吐き気のするような臭いが辺りに漂う。それでもそんな裏町が好きだ。表通りのつんとすました世界よりも。

ニューヨークに来て、俺は早速多国籍クラブ&ピアノバーを見つけた。店はミャンマー人のママが経営していた。

ママは日本人向けの観光パンフレットの表紙にもお気に入りの和服に身を包んで店をPRする。今夜の着物は白地に濃紺の大胆な波文様で、波間に紅葉した楓があしらってあった。アジア系の顔立ちをしているが、丸顔でつぶらな瞳が魅力的で、化粧が濃い。アメリカの先住民に言わせれば、騎兵隊との戦場に赴く戦士の色塗りの顔とでも表現するであろう。

店名はダンサというママの名前を採っている。各国のホステスがいる。韓国人、モロッカン、日本人、ヒスパニック、それにニューヨーカー。国連ビルの近くにあり、まさに多国籍にふさわしいロケーションだ。俺は彼女らを称して「多国籍軍」と呼んでいる。店の壁にはミャンマーがビルマと呼ばれていた頃の大きなエッチング画が掛かっている。軍隊が象に乗り、行進している姿が描かれている。

「ビルマ軍は隣にあるタイを侵略したんだろ?」

 ほろ酔い気分で訊いたことがった。

「ゴキタさん。それは大間違いよ。我々は他国を侵略なんかしていませんから!」

 ママはムキになっていた。国連のミャンマー代表部にいる親戚と一緒にニューヨークに来て、ここに店を開いた彼女にとっては聞き捨てならないことなのだろう。

「タイにアユタヤって町あるだろ? 日本の山田長政という人物がタイの王朝に仕え、日本人町を作ったところさ。そこに取材に行った時、破壊されたアユタヤの遺跡をタイ残留元日本兵と歩いたんだ。その御仁が、巨象に乗ったビルマ軍が大挙して押し寄せて、遺跡を破壊したと言っていたよ」

「その人、間違っているわ! 一方的な意見よ」

 その辺で止めておいた。これ以上言えば酒がまずくなる。

「ところで、ママ。この前、観光PR誌の表紙になっていたね。顔立ちがはっきりしているから、和服姿は広告にピッタリだな」

「サンキュー、ゴキタさん」

 ママが満面の笑みを浮べ、円らな瞳で科(しな)を作った。

         

マンハッタンから地下鉄で二十分ほどの社宅に落ち着いてからしばらく経った頃、本社営業のおエラさんが、広告代理店のオッサンとニューヨーク入りして来た。

 彼らの宿泊先となったホテルに出向き、夜の打ち合わせをした。代理店の沖山という男は所用があり、案内するダンサには後で顔を出すことになった。俺は結構詳細な道案内のマップを書き、沖山に手渡した。そして、何度も念を押した。

「場所はおわかりになりましたか? ホテル待ちのタクシーに乗ると、道不案内の観光客と思われ、連れ回されて、高い料金をふんだくられます。ホテルを少し離れたところで流しのタクシーを拾ってください。それから・・・・・・」

「君ねえ、沖山さんは子供じゃないんだから、もう充分おわかりだよ。大丈夫ですよねえ?」

 営業部長の神田が顔をしかめながら、ムスッとしている沖山の顔色を窺った。

「マンハッタンで初めての店を探して行くのは大変ですよ。何でしたら、御用がお済みになった時点で、クラブに電話いただけますか。わたし、お迎えに参上いたしますので」

 俺は咄嗟に閃いたことを口にした。

「それはいい考えだ。さすがわが社のニューヨーク支局長だ。そうしてもらえるかね、五木田君」

 神田の表情が一変し、俺に笑顔を見せた。沖山もほっとした表情をしている。

 俺はダンサ・ママに電話を入れ、事情を説明した。

「神田部長は日本流の演出がお好きだ。和服のママはいいとして、華子ちゃんにお得意の三味線を弾いてもらいたい。準備の方よろしくね」

「任せといて!」ダンサ・ママの快活な声が電話口で響いた。


 店に入ると、神田は早速多国籍軍に包囲され、鼻の下を伸ばしてご機嫌だった。俺はピアノ弾きのゲイ・ボーイ、倉田の伴奏に合わせて、わざと音程をはずして一曲歌った。

「五木田君、君は相当の音痴だねえ。歌というのはこうして歌うんだ。お兄さん、この曲を頼む」

 神田は歌詞表を指差しながら、マイクを持って立ち上がり、多国籍軍の喝采を浴びながら、ピアノのそばで恰好をつけて歌い始めた。

 聞き慣れた演歌だったが、どう聞いてもまだ俺の方がマシだ。倉田も目を白黒させながら、必死に伴奏を合わせていた。多国籍軍にもそれがすぐに伝わり、どう受けたらいいのか、戸惑いが走った。

「何でもいいから、拍手喝采するんだ」

 俺は多国籍軍の耳元で指図した。二度と聞きたくない歌が終わり、神田は拍手に迎えられて席に戻った。

 沖山から電話があったのは、それから二時間後だった。代わりに電話口に出たクラブのママに話を聞くと、沖山は所用先で酒に誘われ、そのクラブに足を踏み入れた。今酩酊状態だと言う。沖山が所用で会った人間は、沖山の酒癖の悪さに愛想をつかし、怒って先に帰ってしまったという。

「五木田君。悪いがね、ヒック。彼をホテルに送ってやってくれ。俺はもう少しここにいるから、な。ヒヒック、ウイ」

 神田は少し苦しそうだった。

「大丈夫ですか、部長」

「大丈夫、ヒック。早く行ってやってくれ」

 俺は直ぐに用意していたリムジンで沖山を迎えに行き、ホテルに送り届けてダンサに戻ると、今度は神田がぶっ倒れていた。

「ゴキタさんが出掛けた直ぐ後で、急にふらついて寝込んじゃったのよ。起こすのも何だから、そのままにしておいたの」

 ダンサ・ママは困惑顔だった。多国籍軍は新しく入店した客に群がっていた。

 倉田と二人がかりで、死んだように眠っている神田を店の前に停まっているリムジンまで運んだ。重いったらなかった。その間中、倉田がこっそりと神田の一物を握り続けていたのを覚えている。

ダンサ・ママに支払いを済ませて、ホテルまで送り届ける道中、神田は猛烈ないびきをかき、リムジンの運転手が笑いを堪えているのがわかった。

 旅の恥は掻き捨てと言うが、ここはいやしくも大ニューヨークだぞ。日本企業の営業部長なら少しでもそれらしく振舞うのが礼儀というもんだ。

 鼻提灯を垂らしながら、座席に倒れ込んでいる神田の間抜けた顔を引っ叩いてやりたいような衝動にかられた。


赴任して間もなく、日本の大手殺虫剤メーカー・M社ニューヨーク支社の営業部員・最上(もがみ)がマンハッタン高層ビルにある放送支局にやって来た。M社が米最大の殺虫剤メーカーと提携して開発した最新ゴキブリ駆除剤「ミサイルX」の資料を届けに来たのだ。

「この新製品はゴキブリに噴射すると、行動範囲にいるゴキブリを一網打尽にすることが出来るんですよ」

 最上は胸を張った。

「詳しい成分表はもらえないか?」

「それは勘弁してください。それよりも放送で大PRお願いしますよ」

「秘密は厳守するからさ。成分表をぜひ頼む!」

 俺は頭を下げた。すると、最上は何かをねだるような表情を見せた。その意味はすぐに飲み込めた。美樹と寝たいのだ。

美樹はニューヨークに赴任した夜に日系スナックで知り合い、意気投合したコールガールで、ピンク作戦に使えると一本釣りしたのを最上はうっすら感づいているのだ。

 夜七時にクラブ・ダンサで最上と落ち合うことにし、美樹に連絡を入れ、最上との密会を依頼した。

一足先にダンサに着いた最上は多国籍ホステスらに囲まれ、ご満悦の様子だった。間もなく美樹が現れた。カラフルなドレスの上にテンの襟巻きを纏(まと)い、今夜のお相手に最高の微笑を振り撒きながら、最上の隣に座った。最上は上気して恥ずかしそうに下を向いてしまった。

「あら、随分とうぶな方ね」

 美樹は顔を覗き込んだ。最上は下を向いたまま、体を強張らせていた。

 多国籍軍は美樹の妖しさに見とれ、最上の不甲斐なさを楽しんでいた。

「さ、最上さん、お得意の喉を聞かせてよ」

 ダンサ・ママが雰囲気を変えた。最上は水割りを飲み干して、頭を掻きながらピアニストの倉田の横に立った。多国籍軍から拍手が起こった。

 倉田がイントロを弾き始めた曲は、最上の得意とする演歌ではなく、ロマンチックなスタンダード曲だった。美樹を意識した選曲であるのは間違いなかった。倉田が伴奏にてこずっているのがわかった。最上が歌い終わると、美樹が素早く拍手を送り、多国籍軍は一歩出遅れた。

「すてきだったわ」

 美樹が声を掛けた。最上は頭を掻きながら、嬉しそうに美樹の顔を見つめた。

「さあ、もっと飲みましょう」

 美樹は最上の口元にゆっくりとグラスを運び、自らもウィスキーを舐めながら、今宵の客の気を引いた。  

 最上が美樹の妖しい掌の上で踊らされ、染め替えられていくのを想像しながら、俺はジェントルマン・ジャックの水割りを舐めた。

 しばらくして最上は美樹と腕を組んでダンサを出て行った。あの最上がどのような格好で美樹を抱くのか、覗いてみたい気にかられた。

俺は美樹の使うホテルを知っていた。レセプションで美樹の源氏名であるMINNYの部屋番号を聞き出した。その部屋の手前の廊下にあるソファに座り、辺りに人のいないのを見計らってパンツの中に手を突っ込み、臍(へそ)の下にあるボタンの安全ピンを外し、変身スウィッチを一回転させた。あっと言う間に体が縮み、俺はゴキブリに姿を変えた。そして部屋のドアの下から部屋の中に潜り込んだ。

 当然ながらゴキブリの視点になれば、周りの人間サイズの物は何でもデカくなる。そのひとつ美樹の巨大なブラジャーが山のようなベッドの端にぶら下がっている。

 急いでベッドの足を上り、触覚アンテナで探りを入れながら、ベッドを覗きこんだ。美樹のピンク色の尻が室内の間接照明に映え、眼前にそびえている。その下敷きになるように、最上の萎えた一物が死んだ芋虫のように垂れ下がっている。

 突然、美樹の吐息が辺りの空気を押し広げた。何と最上は、いびきをかいて眠り込んでいた。

「お兄さん、眠っちゃだめよ!」

 美樹の増幅された声が俺の耳に響き渡った。最上は酔いが廻って、極上の女体にひと指も触れないまま眠り込んでしまったらしい。美樹は最上の体を何度も揺さぶったが、目覚める気配は全くない。美樹はあきらめてベッドを降り、身支度を整えて出て行こうとした。その瞬間美樹の視野に俺が入った。

「まあ、ゴキブリ! 何て不潔な部屋なの!」

 サイドテーブルにあった巨大なティシューの箱がすぐさま俺に向かって飛んで来た。耳に轟音がし、はずみでベッドの下に転げ落ちた。

 美樹は部屋のドアをバタンと閉めて出て行った。最上はその騒ぎも知らず、部屋中の空気を揺らすようないびきを発していた。

 俺はドア下の隙間から外に出た。人間に戻ろうとした途端、巨大な男と女が廊下を部屋に向かってやって来た。

ドカン、ドカン! 男の屋根のような靴に押し潰されそうになり、俺は命からがら部屋の前の廊下にある植え込みの陰に身を隠した。 

男は部屋の中に入り、全裸で寝込んでいる最上を横目で見ながら、しゃがみ込み、持っていた懐中電灯で床やベッド周りを覗き込んだ。

「マダム、ゴキブリなんていませんよ。何かの勘違いじゃありませんか」

 男はホテルの従業員だった。

「間違いないわ。確かにこの眼で見たの。もっとよく探してみて!」

 女は美樹だった。従業員は顔をしかめながら、もう一度辺りを照らしたが、見つかるはずもない。

ここに居るぞ! 俺は植え込みの陰から叫んだ。美樹はクレームをつけ続けていた。

「わかりました。おっしゃるように料金は頂きません。その代わり、この男性を起こして連れて帰って下さい。お早く願いますよ」

 従業員は懐中電灯を切り、そそくさと部屋から出て来た。美樹は仕方なく、最上の頬を引っぱたき、身体を揺すって起こしにかかった。最上は目を虚ろに開け、自分が一体何をしていたのかわからないまま服を着て、美樹にもたれかかりながら、部屋を出て来た。

「とんでもない人ね!」

 美樹はかんかんだった。赤っ恥をかかされた俺は、植え込みの陰から最上を睨みつけていた。

 そんなことをしている暇はない。俺は急いで支局に戻り、帝国宛てに至急メールを打った。間もなく極秘の成分表が手に入ると。ゴキブリと人間の激しい戦いが始まろうとしていた。

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