第2話 変わらないこと
私は母にコンパクトを寄越せと叫んだ。
そして鏡に写っていたのは、紛れもなく私だ。
それも若い頃の。
色んな考えがグルグルと回り、二つの推論に達した。
『私は夢を見ている』
もしそうでなければ、
あるはずのものがない、何故か若返ってる母と私。
『過去に戻っている』
血の気が引いていく。
しばらくするとお医者さんが慌てた様子もなくやってきた。
私はこんな状況でもちらりと左手の薬指に視線を向けてしまう自分が嫌になった。なんて俗物なんだ私は。
それにこのわけの分からない状況。あらゆる負の感情がないまぜになり、涙を流していた。
「先生、夢から覚めるほ方法をおしえてくだざい!」
「落ち着いてください、ひどく混乱してますが、一時的なものですからね、まず自分が誰か分かりますか?」
「佐々木麻衣29歳!仕事は通信機器を扱う会社のコールセンター!むかつく上司は井上、あぁ家賃は4万円で部屋は1k、それからそれから・・・」
お医者さんは平静を装ってるが、目の奥から光が消えていくのが分かった。
何より明瞭な記憶が夢ではないことの証明になる気がして恐ろしかった。
「夢だ!だからもう一回」
そうだ、私はベランダから飛び降りたのだ。
あれは自殺と言っていいと思う。ただ正確には、何か別の世界への入り口を見つけて、そこへ飛び込んだつもりだったのだが。
しかし咄嗟に母を前にしていることに気付き、もう一回飛び降りたら、とは言えなかった。
「麻衣さん、しばらく様子を見ましょう、精密検査の結果が出るまでは、ね」
母はペコリと医者に頭を下げて、その背中を見送った。
「麻衣、しばらく安静にしてようね」
母の手が私の頭を撫で、とても懐かしい気持ちになり、すこし落ち着くことができた。
私はどうなってしまうんだろう、病室の清潔な白い天井がぼんやりと瞼で消え、深い眠りについた。
病院からの帰り道、母の運転する車のカーラジオからは、DJが今週リリースの曲ですと言って、懐かしい歌を流していた。
「ねね、お母さん、このバンドの人、不倫するから」
「バンドマンなんて、みんなそうでしょ」
未来の出来事をこっそり教えるサプライズのつもりが、人間の本質の前には、あまりに無力だった。
言われてみれば事故も事件も起こるべくして起こる。それがいつか分からないだけだ。
でもそれが分かっているとするなら?なんで私は今こんなことに?
終わりのない自問自答をグルグルしていると、
「なに深刻な顔してんの?なんともなかったんでしょ?」
と母がニッコリ『懐メロ』を聴きながら指でハンドルをトントンした。
「ま、まあね」
さすがに夢ではない何かだと諦めた私は、しばらく18歳の佐々木麻衣で生きることにした、心配をかけたくないし、周囲に合わせて生きるのは慣れっこだった。
ずっとそうやって生きてきた。
精密検査の結果はというと、どれも異常なしで健康そのものらしく、また何かあればいつでもいらしてくださいと形式的な文句だけを言われた。
窓の外には、とっくに潰れたはずのラーメン屋がノボリを出して営業していて、コンビニがあるはずの場所は、まだ更地だった。
思い出と言う名のアトラクションにでも乗ってる気分だ。
「ほら、家着いたよ?ゆっくり休みなさい、落ち着いたら、その勉強のほうも、ね?」
すっかり忘れていたが、私は浪人生だった。
これから机にかじりつき、蝶よ花よの女ざかりを大学ノートに吸い取られていったのだったと恐怖した。
母はパートへ出かける準備をしながら、
「お父さんには言わないでおこうね、ほら新しい家庭のこともあるし、私が嫌とかじゃなくて色んな事情があるから、あの人って心配性だから」
「分かってる分かってる」
卒業式に父がいなかったのは、母のせいだったのかと確信した。仕事の都合がと言っていたけど、本当は来たかったのだろう、そのことで随分と父を責めたことも思い出した。
父と母は私が小学生の時に離婚した。
傍目には仲が良く見えただけに、幼心にひどく傷ついたのを覚えてる。離婚した理由までは分からないけど、男女がくっついたり離れたりするのも、今の私ならなんとなく理解できる。
父とは、年に何度かは会うのだけど、父が再婚してからは、母は、私が父と会うのを嫌がっているようだった。
「じゃ夕飯までに帰るからね」
玄関が閉まる音、窓から差し込む柔らかい光、懐かしさでどうにかなりそうだった。
もう何年も実家に帰っていなかったからだ。
テレビをつけると、いつかのブームだったお笑い芸人が出ていた。
数年後消えるのに、と思いながら、私はその『再放送』をいつまでも眺めた。
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