05 謎の男

「――……幾多の刃も返し、巌の盾」


 瞳を閉じてから、どれだけ経っても痛みがこない。おそるおそる瞳を開くと二つの斧が何かに当たって止まっているようだ。その何かが何なのかはわからないが。しかし、ミノタウロスは何度も斧を振りかざし、そのたびにさらに力を入れているように見える。


 誰かの声が聞こえたその方向に目をやると、頭まですっぽりと覆う深緑の羽織をまとった人物が立っていた。声からして男であることはわかる。


「刻の理すらも打ち破らん」


 男が再び何かを言って手をミノタウロスへ向ける。するとミノタウロスが振り上げていた斧は空中で止まり、まったく動かなくなった。


「こっちだ、早く来るんだ」

「ちょっ……俺そんなすぐ動けねえんだってば」


 右手に力を入れてやっとの思いで立ち上がるも、少し離れた場所にいる男の元へはすぐにはいけない。転げ落ちたことで余計に背中の痛みが強くなっていたのだ。男はそれを見かねて俊に駆け寄った。


「手をかそう」


 男は俊の右手を自分の肩にかけ、俊に合わせて歩き出した。

 男の声にどこか聞き覚えがあるようにも感じたが、俊は黙って足を進めるのだった。そして動かなくなったミノタウロスたちから離れていった。




「うん、この辺りなら追われる心配はないだろう」


 男が足を止めたのは少し木がまばらになり、空から優しい日差しが差し込む拓けた場所だった。


 男は俊を倒れた木の上へと座らせると、自分も俊の向かいの地面に座った。


「あんた誰だよ、ここは何なんだ?」

「失敬。私はオタヤ。旅をしながら商売をしている」


 オタヤはそう言って頭まで隠していたフードをとった。

 伸びた黒い前髪が目の下まで来ている男。その髪を手でかき分けて、背負っていたリュックを下し、中身を漁り始めた。


「あったあった。君、怪我してるんだろ? 血は出てないようだが、これを痛むところに塗るといい。少しは和らぐ」


 オタヤはそう言って黒い小さな壺を手渡した。

 それを受け取った俊は恐る恐る匂いを嗅いだ。


「心配しなくても、それはただの痛み止めだよ。ここらの植物から作ったものだ。独特な匂いがするけど、効果はあるよ。今使わなくても、持っておくといい」

「ふーん……」


 打ち付けた体は痛むが、時間が経って少しはましになってきている。

 受け取った壺はコートのポケットにしまった。


「さっきの質問は名前と……ああそうそう、ここがなんなのかっていうことだったね」


 座りなおしたオタヤは俊の目を見て話し始めた。


「私はここら辺についてはそんなに詳しくないんだが、君みたいな人を何人も見てきた経験からすると、君たちから見てこの世界は異世界というらしい」

「は? 頭いかれてんのか?」

「やだなあ。私はおかしくなんてないよ。私からみたら君の方がおかしい。この森を無防備に進むなんてね」


 オタヤはリュックから茶色くなった古い地図を取り出して俊の前に広げた。

 その地図には赤い大きな円がいくつも書かれている。


「いいかい? 今いる場所はここ。そして私が君を見つけたのはここ。そこはミノタウロスの縄張りテリトリーの中なんだよ。だから侵入者を排除しようとして、彼らは追いかけていたわけだ」


 今いる場所は円から外れている。オタヤが示した俊が転んだ場所は、円の内側だった。

 この森にはいくつもの円がある。その一つ一つが何かの縄張りなのだろう。


「あいつやっぱりミノタウロスっていうのかよ。俺が本でみたやつとは色が違ったぞ?」

「ミノタウロスに限らず、生き物には属性があってね。自分の属性の色をしていることが多いんだ。さっきのミノタウロスは赤と青……炎と水の魔法を使うんだ」

「魔法なんてあるわけねえ」

「知らないのかい? でも見ただろう? さっき君を助けたのは魔法だよ?」

「あ……うん?」

「ほら、さっきの。最初は防御の盾、二つ目は動きを止める……時間を止める魔法を使ったんだ」


 先ほどのミノタウロスに襲われたときのことをよく思い出してみる。


 振り上げられた斧が目の前で何かに当たって止まった。そしてその後、ミノタウロスの動きが止まった。


 辻褄があうオタヤの話が嘘ではないということがわかる。


「私はあまり攻撃魔法は得意ではなくてね。何があっても逃げられるように、逃走に役立つ魔法ばかりが得意なんだ」

「ちょっと待て……そんなのはどうでもいい。俺は結局なんなんだよ?」


 オタヤがにこやかに話すが、頭に入ってこない。

 現実がどうなっているのか訳が分からない。


「そうだよね、混乱するのも無理はない。整理しようか。私の経験からすると、君は異世界であるこの世界に何らかの理由があってやってきた。この世界にはいろんな生き物がいて、君は偶然にも襲われたところを私が助けた」

「どーやったら帰れる?」

「それは知らないな……君みたいに知らないところからやってきた人は、気づいたらどこかへ行ってしまっていたからね。その後どうなったのかはわからない」

「つっかえねえ」


 俊は舌打ちをした。

 異世界と言っているのだから、おそらくここはアナザーなのだろう。

 思い出すのは家に届いた手紙。「アナザーで更生」という内容だった。つまりはここで更生しろというところなのかもしれない。だが更生については何もしらない。


「更生かよ、意味わかんな」


 ――グウゥゥゥ……。

 必死に体を動かして、頭を使った。そのため、俊のお腹が空腹を告げる。俊は羞恥心で、耳まで赤くなった。


「ははっ。お腹が空いたんだね。ここで待ってるといい。私が何か探してこよう。その間暇になるね……そうだ、この本あげるよ。生活に役立つ」


 笑顔でオタヤは一冊の厚い本を差し出した。表紙の文字は何語なのか全くわからない。日本語や英語ではないのは確かだ。


「あ、文字読めないか。でも読めなくても中身は絵がほとんどだから大丈夫だよ。じゃ、私は食べ物探しに行ってくるね」


 リュックを背負ってオタヤはスタスタを歩いて行ってしまった。

 俊の目の前には広げられた地図と、まるで辞書のような厚い本。


 本をパラパラとめくる。文字は全く読めないが、木の実や魚の絵が描かれていて、その隣に丸やバツが書かれている。


 たまたま手を止めたページに書かれた青い実とそっくりなものが、手の届くところにあった。本のこの実には丸が書かれている。丸なら食べられるってことなんじゃないかと、ふと思った俊は、好奇心から実をもぎ取って小さくかじってみた。


「んっ……あまっ!」


 実はみずみずしく甘かった。見た目や形は違うが、桃に似ている。

 驚くほどおいしかったので、すぐに一つを食べきった。


 本の意味がわかった。

 この本は食べられるものかどうかが書かれている。

 丸は食べられる、バツは食べられないのだろう。面白いと思った俊は木の実を片手にページをめくっていった。


 毒々しく見える実に丸がついていたり、ピンク色のおいしそうな実にはバツがついていたりする。キノコも載っているが、どれもこれも同じキノコに見えてしまう。魚は小さいものから大きいものまで、見たことがないような姿の魚が載っている。俊は童心に帰ったように夢中でページをめくった。

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