第10話 聖典にあたるもの


 本を手に取るなり、指輪が淡く光り出す。表紙をめくると指輪の役割がわかった。


「なるほどね」

「面白い作りですね、それ」


 指先で文字をなぞるとその下から別の文字が浮かび上がる仕掛けになっていた。確かにこれなら指輪のない人間には書いてある内容を知ることはできない。


「無駄な演出だわ」


 呆れた口調で答えながらあたしは文字を追った。

 今開いているのは『エーテラーナ』の方である。話を聞く限りでは人形エーテロイドの作り方についてまとめたものらしいのだが……。

 読み進めていくうちにあたしの手は震えてきた。何もこの本の偉大さに感動を覚えたからではない。驚愕の真実――今後この国を脅かすだろう危機についてを示唆するものだったからだ。


「そんな……」


 陣魔術は比較的万能な魔術である。知識があれば誰でも使うことができる技術だ。その程度には多分に個人差があるが、光を灯すくらいの芸ならすべての人間が扱うことが可能だと思ってもらって構わない。

 しかし、魔術はなんの対価もなしにその効果を得られるものではない。陣魔術では使えば使うほど体力を消耗する。つまり、肉体に負荷がかかる。

 これは陣魔術から枝分かれしたエーテロイド職人や傀儡師アストラリストが扱う魔術にも同じことが言えるし、これらの知識は試験に出されたら確実に点数を取れるとされるくらい基本的なことで、魔術に関わらない人たちにとっても常識となっている。


 そう、この認識が当たり前で誰も疑問に思うことはなかった。もしもこの現象が重大かつ深刻な現象の一部分に過ぎなかったとしたら、一体どうなる?


 ジュン=アンジャベルはそのことに最も早く気付き、書物にまとめた人物だったのである。

 このまま陣魔術を使い続けたらどうなるか、それを示して警告することが『エーテラーナ』に課せられた役割。アンジャベル家の人間にしか読めなくなっている部分は『エーテラーナ』を書くに至った経緯が記されており、この本によって陣魔術師エーテリストたちが窮地に立たされる可能性さえ示唆していた。そしてそれが彼の望みでもあるとも書いてある。たとえこの本によってアンジャベル家が滅ぶことになろうとも、子孫繁栄を捨てるだけの意味があると。


「…………」


 薄々予感していた。昨日の勉強会で気付いていたからだ。なんでこれらの技術が生まれたのか、よりその使用環境が制限される魔術が広まるに至ったのか、それらの事実に。

 あたしは一通り目を通すと、震えが止まらない手で『アストララーナ』を取る。こちらの本も同じ仕掛けがされていた。


「!」


 なっ! それってどういうこと?


 視線を上げて横から覗き込んでいたアベルを見る。彼の目も驚きで見開かれていた。


「……未完成って」


 そこにはそうはっきりと書いてあったのだ。人々の目を欺き、問題を先送りにするために創られたのがこれら人形エーテロイドを中心とした魔術であると記されている。ゆえに未完成で不安定な要素も、陣魔術で回避不可能な問題さえ内包する魔術なのだとも。

 『アストララーナ』は傀儡師アストラリストがどのようにして人形エーテロイドを操作するのかをまとめた本とされている。事実、インクで書かれている文章は教科書でよく引用されている内容で埋めつくされていた。しかしその下に隠されていた文章は別の可能性を示唆するものだ。

 人形エーテロイドを中心とした魔術の再構成は、陣魔術が持つ危険を先送りにするために行われた。より多くの人に安全に使用してもらうためにも必要なことだったとある。

 だが、陣魔術の使用が減れば待ち受ける深刻な事態への時間かせぎにはなりうるだろうけども、根本的な解決を得ることはできない。そこが肝心な部分である。それを知りながら人形エーテロイドを軸とした未完成の魔術の使用を推奨したのは何故なのか。この本に書かれている予測された危機に直面していたということなのだろうか。


 そんなバカな。


「――ねぇ、アベル? あなたのお父さんはこのことを……ここに書かれている内容を知っていたの? それで図書館の改革を行なったっていうの?」

「…………」


 アベルは黙って顔を上げたが視線を合わせようとはしなかった。その仕草が意味するところは――。


「まさかあなたも知っていたのっ!」

「……知ったのはここに戻ってきてからですよ。あなたのことをお母様に話したら教えてくれました。ですが信じていなかったのです。まさか陣魔術にそんな特性があり、その特性をエーテロイド職人や傀儡師アストラリストが使う魔術も引き継いでいたなんて……。協会が危険を承知で使用を推奨していたなんて、そんなことがあってよいとは思えない」


 もしや……。


 そこであたしはひらめくものがあった。本を開く直前にアベルがあたしに言ったこと、それはここに書いてあることを知っていたからこそ生まれてきた選択肢ではないかと。


「だからあなた、改革をしないかって誘ったの?」


 アベルは戸惑いが感じられる様子を含んで頷いた。


「これは公表すべきことだ。こんな危険をはらんでいるのに、そのまま放置しておくだなんて許されることでしょうか?」

「――しかし、それがこの国には必要だったのだよ、アベル」


 扉が開かれると同時に響いた低い声。あたしたちはぱっとそちらを見つめた。


「お父様……!」


 そこには、エーテロイド協会の制服が豪華になったみたいな衣装に身を包んだ四十歳前後に見える男性とテンが立っていた。アベルがお父様と呼んだその男性はにっこりとあたしに微笑んだ。


「ようやくここにたどり着いてくれたようだね、アンジェリカさん。――私はクリストファー=クリサンセマム。アベルの父親であり、現在エーテロイド協会会長を務めている。あなたに会うことをずっと楽しみにしていたよ」

「はっ初めまして。お世話になっています」


 はて、楽しみに?


 あたしは緊張のあまり舌を噛んでしまったが、なんとか言いきって頭を下げる。この人も見るからに雰囲気が違うんだが。どうしたらこんな気配をまとうことができるのだろう。


 ってそうじゃなかった。聞かなきゃならないことがたくさんあるのよ。


「お父様っ! 国のためとはどういうことです?」


 つかつかとクリストファーに近づいてアベルは詰問する。


「テン、資料を」

「はい」


 テンは腕に抱えていた紙の束を中央の机に置いた。紙の色が変わっているものも数枚あり、年季を感じさせる。


「アベル、お前がいろいろとかぎまわっていることは聞いている」

「お父様、私の問いに答えて下さい!」


 クリストファーは厳しい表情を作ると、アベルを無視するかのようにテンが並べた資料の前に立つ。


「協会の成り立ちや図書館の改革を調べていたそうじゃないか」


 調べていた? じゃあ、昨日まで忙しそうにしていたのは調査のためだったの?


 あたしはクリストファーの指摘を聞いてアベルに視線を移す。


「……えぇ、そうですよ。なかなかお父様と話す時間が取れなかったものですから」


 ふてくされた様子でアベルが答える。


「協会や屋敷に置いてある資料はただの建前だ。『エーテラーナ』『アストララーナ』を読んでわかったろう?」


 やっぱりこの人、知って……。


人形エーテロイドに関した魔術にリスクがあるのを知っていて、それでありながら隠しているなんて正気とは思えません!」

「――なぜエーテロイド職人や傀儡師アストラリストが国家資格になったのだと思う?」

「はぐらかさないでくださいっ!」

「これは大事なことなんだよ、アベル」


 ゆっくりと諭すようにクリストファーが問うと、アベルは黙って考える仕草をした。少し落ち着いただろうか。


「……それは……管理のため?」


 使用者の管理ができるから?


 アベルと同じ答えをあたしも導いていた。だって国家資格にすれば国で管理することができる。誰がどこで魔術を使用しているのかを一括して把握することが可能なのだ。


「そう。そしてこれが得られた結果だ」


 言ってクリストファーは机に置かれた紙の束をめくり、ある箇所を指した。アベルとあたしは一緒に覗き込む。


「――原因不明の死者の人数?」


 表のタイトルにはそう書かれており、資格所有者とそうでない人との差が記されていた。そのほか、比較できそうな様々なデータがならんでいる。


「統計は協会が国営化されてからだが、それでも充分役に立つはずだ」


 見るからに明らかである。魔術使用者の方が死者の数は多く、そして若かった。


「――結局回避できていないではありませんか! 今の政策になんの意味があるんです?」

「……そうだな」


 呟いてクリストファーは苦笑した。そこには深い哀しみの念が感じられる。あたしはその表情に引っかかりを覚えた。

「これでも予測されたものよりは遅いペースなんだ」

「早急に対策を練る必要があります。お父様ほどの人間がこんなところで手をこまねいている場合じゃないでしょう?」

「それでもこの国の発展を天秤にかければそう簡単にはいかない。――知っているだろう、図書館の改革以降のこの国の成長を。人形エーテロイドを中心とした社会はもう充分に機能している。今さら人形エーテロイドを手放すわけにはいくまい」

「それはお父様がそうなるように社会を作り変えたからだ! その責任をあなたは取らないおつもりなのですか!」

「正論だけで社会が成立すると思うな、アベル」


 静かに響くクリストファーの声。哀しみと迷いの含まれた音。


「私がなんとかしてみせれば良いのですか?」


 アベルの問いにクリストファーは首を横に振る。


「――今まで何もしていなかったわけではない。図書館の改革はアンジャベル家の人間を呼び寄せるためでもあったし、実際に彼女たちはここにたどり着いた。

 私はエリザベスさんに提案したのだ。このままではこの国は成り立たなくなる。力を貸してほしい、と。彼女は少し考えさせてほしいと言ったっきり姿を消してしまった」


 クリストファーは改めてあたしの顔を見た。


「アンジェリカさん、あなたがエリザベスさんを捜していたことは協会づてに聞いている。私たちも全力で捜していたのだ。しかし、残念なことに彼女は……」

「えぇ、どうも死んでしまったらしいですね」


 あの男が言っていたことは本当だったのだ。もう変な期待はしないようにしよう。


 あたし、独りぼっちになっちゃった。


「知っていたのか」

「ついこの前に」


 平気なふりをして笑んだつもりだけども、あたし、うまく笑顔を作れたかしら。


「それであなたが来るのを待っていたんだ」

「なぜ? あたしはよくてもエーテロイド職人です。お母さんほどの知識も力も持たない一般人。待たれても何もできませんよ」


 ちょっと陣魔術を扱えるだけの、どこにでもいる普通の女の子じゃない。


「少なくともこの本の解析を行えるのはあなたしかいない。それだけでも充分だ」

「道具になるつもりは毛頭ありません」


 よくそんなことを会長相手に言えたものだと思う。あとから思い返せば冷や汗ものだろう。


「……そうか」


 落胆するクリストファーにあたしは心が揺れる。

 確かにこれらの本を解析できるのは今のところあたしだけだ。うまくすればこの指輪の機能を複製して誰もが読める状態にすることはできるかもしれない。

 しかし、わざわざ曾祖父がこのような仕掛けを施したのには何か意味があるはずだ。


「協力してほしかったのだが……」

「アンジェ、手伝ってはくれませんか?」


 アベルがあたしに向けた瞳には必死な様子が見て取れた。


「……ごめんなさい。もう少しだけ待ってくださらないかしら? どうしても確認したいことがあるんです」


 もう一度、あの男に会ってお母さんの身に何があったのか聞かなくてはいけない。それさえ聞ければきっと答えを出せるわ。


「式典までには必ず返事をしますから」


 あの男が式典を邪魔しに来てくれることを祈るしかない。これは賭けだ。


「わかりました」


 アベルはしぶしぶ頷く。


「良い返事を期待しているよ、アンジェリカさん。――良ければその資料も使ってほしい」

「助かります」


 あたしは頭を下げる。


「ではこれで失礼するよ」


 言って、クリストファーはテンを連れて出ていった。



*****



 夕方、部屋に戻るとそこには見たことがないものが置かれていた。


「うわぁ……」


 思わず見とれてしまう。扉を開けた正面に、なんとも豪華な装飾が施されたドレスがトルソーに着せられた状態で飾ってあったのだ。


「あ、届いたんですね」


 部屋まで送ってくれたアベルが、立ち止まったあたしの視線の先に気付いて言う。


「これ、あたしが着るの?」

「そうですよ。特注品なんですから」


 あたしが夢現で呟くと、アベルはさらりと答える。


「……あ」


 自分には不釣り合いすぎる華美な装飾を見ていて、あたしは唐突に、現実に引き戻された。


 一体誰がこのいかにも高額そうなドレスの代金を払うんだ?


「どうしました?」

「どうしたもこうしたも、あたし、こんなドレスを買えるだけのお金、持ってないっ!」


 すっかり忘れていたが、あたしは首都に行くためのお金すらない状態だったからアベルに便乗してここまで来たのだ。当然、ドレスを買えるだけのお金を持っているわけがない。

 しかも手に職あれど、今は無職の居候だ。いかにしてお金を工面すべきか。


「差し上げますよ。無理言って式典に出席してもらうのですから」


 困惑するあたしの気持ちを知ってか知らずか、事も無げにアベルは答える。


「似合うと思いますよ」


 付け加えてにっこりスマイル。


「そういう問題じゃないのよ! あたし、困るっ!」


 目が回りそうな値段が飛び出してきそうなそのドレスを着るなんて信じられない。似合う似合わないの問題ではなく、着たらその値段で卒倒してしまいそうだ。


「困らないで下さい」


 どんな文句だ?


「困るものは困るんだから仕方ないでしょ?」

「それでは私が困ります」

「…………」


 あたしは頭を抱える。

 ときたまアベルはこういうお金の使い方をするようなのだが、あたしには全く理解できない。高額の品をほいほいあげる神経のことではなく、お金を使ったときの態度が気になる。


 坊っちゃん育ちだからか、どうもお金のありがたみをわかっちゃいないみたいに思えるのよね。これでもあたし、人形パペット屋を経営していたから、働いてお金を稼ぐことの大変さを知っているつもりなんだけど。


「あのさ、アベル? あたしが確認しなかったのも問題あるけど、こういう品を買うならもうちょっと相談してくれてもいいんじゃないの?」

「時間がなかったのですからしょうがないではありませんか。サイズなら確認しましたよ?」


 とぼけているのか素なのかわからないが、アベルは言って不思議そうに首をかしげる。


「言っておくけど、あたしはあなたに養ってもらうつもりはないし、恵んでもらうつもりもないの。今はいろいろ都合があってお世話になっているけど、本当なら外で宿をとっているはずなんだからね。だからこういうことをされると困るの」


 ちっぽけな矜持プライドというやつである。あたしは自分の境遇に見合っただけの生活を望んでいるだけだ。そのためにはちゃんと働くし、それ相当な収入を得たい。それ以上は望まない。


「私の気持ちですよ。遠慮することはありません」


 なんだかなぁ。


「気持ちは受け取るわ。でもドレスは別よ。なんの対価もなしに受け取ることはできない。あなたの気持ちとはいえ、これほど高価なものをありがとうと言って受け取れないわよ」

「素直に喜んでくれたっていいのに」


 アベルが頬を膨らませる。


「あたしが安い単純な女に見える?」

「ばかにしたつもりはないんですよ? あなたに着てほしいと思ったからそうしただけです」

「うん、それはわかってるの。気持ちは受け取るって言ったでしょう?」


 彼は再び首をかしげた。


「だから――そのドレスに見合うだけの仕事をしたと自分で認めることができたら、改めて受け取るわ。それまでは借りるってことにしておいてよ。じゃないとあたしの気持ちがおさまらないわ」

「あぁ」


 はっとした表情を浮かべたあと、アベルは小さくくすくすと笑った。


「な、なによっ」

「いえ、実にアンジェらしいなって思いまして。確かにあなたはそういう人でしたね。失礼いたしました」


 言いながらも笑っている。


 全く、失礼しちゃう!


「わかってくれたならそれでいいのよ」


 なんとなく気にくわなくってむっとした態度になってしまう。

 別に嬉しくないということはない。普通に暮らしていたらこんなドレスは買えないだろうし、買えたとしても着てゆく場所がないだろう。こんな機会は滅多にないことだ。


 やっぱり素直じゃないのかな、あたし。


 部屋の中に入るとドレスを間近でじっくり眺めた。隣にはアベルがいる。


「それにしても、すごいドレスね……」


 金色の糸で絹の生地に細かな刺繍が施してあるのだがこれがまた複雑で、描かれた幾何学模様は幾重にも組み合わさって美しい。とても短時間で作れるようなものではない。刺繍以外ならシンプルな形であり、上等な布らしいということくらいしか特徴はなかった。


「盛装ですからね。これくらいしてもらわないと」


 一体式典とはどんなものなんだ? 屋敷もそうだが、その規模が全く想像できないんだが。


「あれ? これは?」


 しっかりと首元まで覆うようになっているデザインなのだが、なんか引っかかる。恐る恐る手を伸ばしてついと引っ張ると……。


「げっ」


 外れた。首元の布が、べろんと。


「どどどどどっどうしよう! はっはずれちゃった!」


 おろおろするあたしに対してアベルは実に冷静に頷いた。


「えぇ。そうなるように作ってもらいましたから」

「へ?」


 あたしはきょとんとする。


 えっと……どういうこと?


「アンジェが首の痣を気にして隠しているのはわかっているつもりです。ですが、私は気にすることではないと思うんですよ。むしろ綺麗なんだからもっと見せてもいいと思うんですよね。ですからあなたが了承してくださるなら、是非ともその部分を外した上で着て欲しいなって」

「却下」


 あたしは即答する。


 だってこの痣、かなり目立つのよ? 髪を下ろしているのだって、首の辺りを隠すためなんだから。


「――その痣はアンジャベル家の証のようなもの。てっきり私はアンジャベル家を誇りに思っているからこそ、クリサンセマム家に対してわだかまりがあるのだとばかり思っていたのですが」


 アベルの冷やかな瞳はあたしの心をえぐる。


「べ、別にあたしは……」


 否定できるだろうか、彼の言葉を。

 だってアベルの言う通りではないか。この痣はアンジャベル家の証。アンジャベル家の末裔だからこそあたしの身体に刻まれているのだ。


 血をひいていることを誇りに思うなら、それを見せたって構わないんじゃないの? ならばどうしてためらう? 誇りに思ってないなら、どうしてクリサンセマム家を恨むの? なんで悪夢にうなされるの? おかしいでしょう?


 言葉が頭の中でぐるぐる回る。もっともらしい理由が出なかった。


「どちらでも構いませんよ」


 アベルはふうっと小さなため息をついて寂しげに笑んだ。


「……まだのようですね」

「ごめんなさい」


 あたしの心は涙で濡れていた。本当に泣いてしまいそうで、そっとうつむく。


「何が足りませんか? 『エーテラーナ』『アストララーナ』を読み終えてなお、あなたの心に引っかかっているものはなんですか?」


 それはきっと、あなたへの不信感。信じて委ねることができないゆえの葛藤。


「ごめん……」


 あなたはこんなにも優しくしてくれるのに。あなたはこんなにも想ってくれるのに。


 ねえ、どうしてあの男の言葉が過ぎるの?


「何故、謝るのですか? あなたは悪くない。むしろ無力な私を許してほしいくらいだ」

「……ごめんなさい」


 声に涙が混じってしまう。


 溢れる気持ちに耐えられないよ。


「泣かないでください。何が悲しいんですか?」

「……ばかぁっ」


 アベルが伸ばした手を払って、胸に飛び込む。


 泣き顔を見られたくなかったんだから仕方ないでしょ?


「あたしの気持ちを知っていてそんなこと言うなんてずるいわよっ。あたしがあなたをどうしようもなく好きでしょうがないことをわかっているくせにっ!」


 好きなのに信じることができないの。こんなにも大好きなのにあなたについていけないの。変なプライドが邪魔するし、難癖つけて拒否したくなっちゃうの。あたしがアンジャベル家の人間であなたがクリサンセマム家の人間だからという理由だけじゃない。本の謎ならもう解けたし、納得している。


 ならばこの気持ちはあなたへの想いがあなたへの不信感に混じって歪んでしまった結果なの。それが悪夢に変わるのよ。ごめんね、アベル。


「アンジェ」


 アベルはそっとあたしを抱き寄せ、優しくその両腕で包み込んだ。


「私は嬉しい」


 耳元で囁かれる声に温もりを感じる。


「やっとあなたの気持ちを聞くことができた」


 温かい。彼の優しさがあたしの心にしみる。


「――好きなだけ泣いてください。あなたの気が済むまでそばにいますから」


 ダメだ……。流されちゃう。甘えてしまう。ずっと気を張ってきたせいだ。優しくされたら拒めないよ。


「ごめんね、アベル……」


 その台詞は果たしてちゃんと声になっていただろうか。

 あたしは彼に言われた通り、気が済むまで思いっきり泣いた。アベルはその間もずっと抱きしめてくれて、あたしの泣き顔を見ようとはしなかった。

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