第9話 国立図書館

 *****



 フェオーセルに滞在してから五日目の朝を迎えた。相変わらずうなされ続けていたあたしだったが、今朝はそこまでつらくはなかった。何故なら――


「機嫌が良いようですが、よく眠れたんですか?」


 今、隣にアベルがいる。ついでにその頭の上にはカイルが載っているのだが、あたしには関係がない。


「まぁそんなところよ」


 機嫌が良いのは自覚している。あたしたちは国立図書館に向かっていた。

 昨日の夕食後に今日の予定を告げられたあたしは舞い上がっていた。書類審査が無事に終わり、許可がおりたのである。『至急』ということで申請したため、いくつか条件を求められたが大したことはない。

 その条件の一つがアベルの同伴である。


 いや、クリサンセマム家の人間なら誰でも良かったらしいんだけど、それぞれ自分の仕事で手一杯みたいだし、まさかアベルのご両親に頼むのもおかしな話でしょ?


 アベルとレイナに頼んでみて、それで彼が出てきたというわけだ。ただし、カイル付き。


「顔色も良さそうだね。レイナとの勉強会で少しは気が紛れたんじゃないか?」

「そうですね、多少は」


 カイルの問いにあたしは頷く。

 昨日の勉強会はそれなりに収穫があったのだ。どうして人形エーテロイドが創られたのか、そしてそのメリットとデメリット。それらを突き詰めてゆけば、お母さんがクリサンセマム家のせいで死ななくてはならなくなったと言ったあの男の台詞の意味がわかるかもしれなかった。


「それなら良かった」


 ほっとしたように呟いたのはアベル。それであたしは気が付いた。


「昨日、レイナさんがあたしの部屋に来たのはアベルがそう仕向けたからじゃないの?」


 あたしがベルに小言をぶつけているのを聴いていて、気を回してくれたんじゃないの?


 その問いに対し、アベルは苦笑いを浮かべた。


「あ、ばれてしまいました?」

「やっぱりそうなんだ。ごめんね、気を遣わせたみたいで」


 資料などが入った大きな鞄を持ち直し、あたしは手を合わせて謝る。もっと早く見抜くべきだったかもしれない。


「いえ、ずっとほったらかしにしていたのは事実ですからね。――ですが、今日からは幾分か自由な時間を取れそうですし、一緒に食事をする余裕もありそうですよ」


 とても楽しみにしているらしく、にこにことしながら語る。その様子を見て、ちょっと安心できた。


「うん。それは嬉しいわね。独りで食べるのって寂しくって」

 お父さんが死んでからはずっと独りで食事をしてきたけども、こういうのって慣れるものじゃないかもしれない。少しは忘れられるかもしれないけど、ときどきふとした瞬間に虚無感に襲われる。あたしは独りぼっちなのだと。


「えぇ、私も同じです」


 寂しいと思う気持ちを共有しているのは少しだけ変な感じがする。だけど今はそれが嬉しかった。寂しさを埋める相手として互いを選び、求めたなら。



*****



 大通りをしばらく歩くと、右手に大きな建物が見えてきた。国立図書館である。上空から見たときはなんて広い敷地に建っているのだろうと思ったが、地上から見ればその高さも一般の建物に比べて飛び抜けて大きい。入口は太い柱で支えられ、重厚な感じがした。


 アベルが受付で許可証を出すと奥の部屋から係員が出てきてあたしたちを案内した。

 やってきたのは地下室。重たそうな扉には頑丈な鍵がつけられていて、その奥で管理されている本をしっかり守っているらしかった。

 がちゃりと鍵が外されるとあたしたちは中に入る。


「時間になりましたら迎えに参ります。それまではご自由にお使い下さい」


 エーテロイド協会の制服と色違いである衣装を身にまとった係員は丁寧に一礼してからこの場を去った。


「時間ってどのくらい?」


 あたしは紙に魔法陣を描いて光を灯す。うっかりランプを倒したら大変なことになるので、あらかじめ危機は避けておくに限る。


「夕方まで貸し切りですよ。明日からは別の人が使うそうですから、できるだけ今日中に終えるように、と」

「わかったわ。努力する。――ところでアベル? 式典っていつを予定しているの?」


 持ってきた資料を中央の机の上に置きながら訊ねる。持って入ったランプの火はすでに消していた。


「確か明後日ですよ。すべての段取りが予定通りに進むならば」

「じゃあ、それまでに答えを出さなきゃいけないわね」

「あなたが良い返事をしてくれることを祈ってますよ」


 アベルはわざとらしくおどけて答える。


「――さて」


 準備が整ったところで、あたしは部屋に収められた様々な書物の背表紙を眺める。ここにある本は曾祖父が活躍していた時期のものである。よって陣魔術関連の、今では決して手に入れることができないだろう貴重な本ばかりだ。あたしの家に保管されているタイトルも幾つか見かけたが、大半は知らないものだった。


「さすがに『エーテラーナ』『アストララーナ』を読むことは叶わなかったみたいね」


 ちょっぴりがっかりして呟くとアベルが言った。


「いえ、そろそろ届けられると思いますよ」

「え?」


 そのタイミングで扉が叩かれた。


「ほらね」


 アベルはとことこと扉に向かうとそっと開けた。


「あれ? お母様」


 扉の向こうにいたのは二冊の本を大事そうに抱えた女性。見た目はかなり若く美人だ。腰まで届くふんわりとやわらかそうな髪は月の色と同じで、優しげな瞳は太陽と同じ色をしていた。そのたたずまいからは気品が感じられる。エーテロイド協会の制服に似た衣装なのだが、全く別の服にも見えた。


「これでもわたくしはこの図書館の管理者ですからね」


 やんわりと微笑みながら部屋の中に入る。室内の明るさが増したように思えたのは何もランプのせいではあるまい。


「よく時間が取れましたね」

「だって将来娘になる人でしょう? きちんと挨拶しておかないといけませんわ」


 にこやかに答えるとあたしを見つめて会釈した。合わせてあたしも頭を下げる。


「なかなかお会いできなくて申し訳ありませんでした。アベルの母のコーネリア=クリサンセマムです。アベルがすっかりお世話になりまして。命の恩人だそうですね。その節はありがとうございました」

「いえっ! こちらこそ迷惑をおかけしてばかりで。――アンジェリカ=アンジャベルと申します。よろしくお願いします」


 勢いよくあたしは頭を深々と下げる。


 直視できないくらい神々しいのですがっ! これが王家の血を継ぐ人間の迫力ってやつ?


「まぁ、なんて可愛らしい。そんなにかしこまらないで下さい。――アベル、よくこんな素敵なお嬢さんを連れて帰ってこれたものね」

「あの……別に私はそういうつもりでは……」


 コーネリアにからかわれて、アベルはしどろもどろになっている。横目でちらりと見れば彼は真っ赤になっていた。


「お母さんは期待してますわ。頑張りなさい」


 その台詞をまったりとした口調で言われても、いささか勢いが出ないのですが……って、いや、頑張られるとあたしは困るんだったわね。それはつまり嫁に来いってことでしょ?


「お母様っ!」


 アベルが怒鳴るとコーネリアはくすくすと上品に笑って持っていた本を差し出した。


「さぁどうぞ。『エーテラーナ』、『アストララーナ』の原本ですよ。久し振りに取り出してみましたの。お使い下さいませ」


 原本っ! んなもん出して良いものなのっ!


 コーネリアはあたしに差し出したのだが、相手が彼女であるという意味も含めて手が震えた。


 だってその話が本当なら、この本は曾祖父ことジュン=アンジャベルが書いたものってことになるのよ?


 クリサンセマム家が独占したお陰であたしの家にはオリジナルがほとんどないため、余計に緊張する。見たところさすがに国立図書館が管理していただけあって、保存状態はかなり良い。


 こんな国宝級の品をあたしなんかが手に取っても良いものなのかしら?


「大丈夫ですか?」


 なかなか受け取ろうとしないあたしにコーネリアは首をかしげる。


「……まさか本当に出していただけるとは思っていなかったものですから」

「何をおっしゃいますか。元はアンジャベル家の物でしょう? わたくしたちは預かっていただけのこと。遠慮することはありませんわ」


 預かって?


 あたしはコーネリアの表情を窺う。にこにことした笑顔は全く崩れない。


「さあ、読みたかったのでしょう?」


 その言葉にあたしは頷き、震える手を本へと伸ばす。


「!」


 その表紙に触れた途端に光が走った。空中に魔法陣が展開される。


「なっ!」


 反射的に手を引っ込めたが、そのときにはすでに術は発動していた。


「指輪?」


 右手の薬指に見慣れない指輪がはまっていた。傀儡師アストラリストの契約指輪に似ている。金属の光沢を持つシンプルなものである。


「――本当にアンジャベルの末裔なのですね」


 コーネリアが冷気を持った声で告げる。相手を突き放すというよりは哀しみを含んだと表現するのがふさわしい声色にあたしは戦慄した。


「これはどういうことなんですか?」


 生まれた指輪に触れながらあたしは問う。回すことが可能なのに外せないとは、やはり何かの魔術らしい。淡い金色の光を放っている。


「わたくしが知る限りではあなたが二人目ですよ、アンジェリカさん」

「?」

「エリザベス=ダイアンサス、つまりあなたの母親にお会いしたときも同じことが起こりました」


 お母さんもこの本を読んだの?


 あたしが困惑したまま黙り込んでいるとコーネリアは続ける。


「エリザベスさんも何か疑問に思うところがあったのでしょう。確か二年ほど前のことだったかしら。緊急に読む必要があるとのことで、こちらにお通ししました。そのときも同じようにわたくしが本を届けに伺ったのです。――その指輪はアンジャベル家の血を引く者の証。それを知るためにも本物でなければならないのですよ。その指輪がなければ、本を読むことができないのですから」

「え?」

「『エーテラーナ』『アストララーナ』というのはエーテロイド職人、傀儡師アストラリストにとって聖典にあたるもの。――しかし本来の目的は違います」


 コーネリアは机の上に二冊の本を並べた。


「この本は陣魔術の生き残りを賭けて書かれた本なのですよ。このまま滅びさせないために、ね」

「どうしてそれを公表しないんです?」


 それが本当なら、こんな制限は必要ないんじゃないの? 現に陣魔術を扱う人は少なくなっているし、それによって今反発が起きているんでしょう? 一体どんな意味があるっていうのよ?


「――あなた、彼女にそっくりですね」


 どこか懐かしむようにコーネリアは呟いた。


「エリザベスさんも同じ問いをしました。何故、公表しないのか、と」

「そのときはなんと答えたのですか?」

「読めばわかるのでは、とお答えしました。その当時は内容を知らなかったからそうお答えしたのですが、内容を知ってしまった今はそれで良かったのだと思っておりますわ」


 つまり、読めということかしら?


 あたしは並べられた二冊の本に視線を向けて、ごくりと唾を飲み込んだ。緊張する。


「読んだ上で、結論を出して下さい。わたくしから言えることはそれだけです」

「わかりました。わざわざご足労ありがとうございました」

「いえ。お会いしたかったのは本当のことですから。――その本があなたの役に立つことができますよう」


 哀しみを含んだ微笑みの意味があたしにはわからなかった。


「――カイルを借りても良いかしら?」


 アベルの頭の上に載ったままおとなしくしていたカイルだったが――協会職員にはカイルが人形になっていることを隠しているので――コーネリアの台詞に首をかしげた。


「いいですけど、何か?」


 アベルが問う。


「話があるんです」


 真剣な様子に断る理由もなくアベルは頷く。


「わかりました。どうぞ」


 その返事に合わせ、カイルは面倒くさそうにコーネリアの肩に飛び移る。


「それではまた」


 軽く会釈をすると、コーネリアはカイルを連れて出ていった。


「――なんとなく、お母様の策略にはめられたような気がするんですが……」


 やや不満げにアベルが呟く。


「そうねぇ。久し振りに二人っきりだわ」


 肩を竦めてあたしは答える。

 テンが迎えに来てからは二人っきりになることはなかった。というのも、テン曰く「二人で逃避行されてはかないませんからね」とのこと。護衛だけでなく監視役も兼ねていたとあって、簡単にまくことはできなかった。


「そうですね。頭が軽くなって清々していますよ」


 そしてため息。


「カイルさん――いえ、ローズさんに監視されちゃってるの?」

「えぇ。あなたのために名を捨てるだなんて宣言したせいでしょうか?」

「勢いでそんなことを言うからいけないのよ」


 あたしが笑うと彼はむっとした。


「私は本気で言ったんですよ! それを笑うなんてっ」


 その言葉に対して小さくため息をつき、落ち着いた声を作ってあたしは諭す。


「――わがままが許される子どもじゃないのよ、もう」


 覚悟はしていた。だからあたしはここまでやってきたのだ。

 あたしが式典で何をするかによって未来が変わるかもしれないという可能性。それに気付いたときから、何を選ばなくてはならないのかをずっと考え、それがどのように影響するかを想像した。

 そんな大事おおごとじゃないと笑ってくれて構わない。いや、そうであってほしい。


 でも、あたしが直面していることってそんなあっさりしたものじゃないでしょう?


 だからアベルも覚悟を決めてほしいんだ。たとえあたしがあなたを裏切る結末を選んでも、あなたはあなたが望む未来を描き続けると誓ってほしい。なにが最善なのかはわからないから、だからこそ。


「――その通りです」


 しばしの沈黙のあとにアベルは頷く。

 彼は賢い。気持ちに流されやすい面は多少あるけども、それでも物事をきちんと考えられる人だ。理解している上で、ダメ元でも何かをしようとするのがアベルという人――あたしと同じだ。

 結構強情で、一度決めたら譲らない性格。そこがあたしは好きなんだな、厄介なことに。


 だからあたしを幻滅させないでね。


「ですが、その台詞を言ったときの気持ちに偽りはありません。ゆえに、後悔はしていない」

「でしょうね」


 いまだに気持ちは真っ直ぐあたしに向いているってことはベルを見ていればわかるわよ。人形エーテロイドには術者の感情が出るものなのよ?


「それを踏まえた上で提案があります」


 彼は真剣な表情だ。慎重に言葉を選んでいるように感じ取れた。


「なに?」

「良ければなんですが……感情論は抜きにして考えてほしいんですけど……」

「前置きはそのくらいにして、本題を言いなさいよ」


 言いよどむアベルをあたしは急かす。仕事はこれからなのだ。時間が惜しい。

 アベルの二色の瞳があたしを捕らえた。


「どうせなら、協会ごとあなたの手で変えてはみませんか?」

「……はあっ?」


 一体なんの話だ。


 あたしがきょとんとしているとアベルは続ける。


「端的に言い過ぎましたね。――これらの本を読んで私たちのことをどう思おうとあなたの自由です。しかし、その結論から導き出された選択肢の一つとして、このままクリサンセマム家に残り、改革を行うことを考えほしいのです」


 改革を……?


 あたしは黙って耳を傾ける。鼓動がどんどん早くなっているけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。

 アベルは自分の言葉をじっくりと選び取るように、唇を動かした。


「――運が良いのか悪いのか、私にはクリサンセマム家を継ぐ機会が与えられます。現時点においては全くの無力ですが、このままなにごともなければ、いずれ協会の頂点に立つことになるでしょう」


 確かに、これまでアベル自身は継ぐつもりがなくてレイナに譲りたいと言ってはいるが、この流れのままに身を任せるのであれば、彼は確実にエーテロイド協会の会長に就任するのだろう。

 あたしは小さく頷いた。


「今までその地位については面白く思わなかったのですが、あなたに改革を行う意志があるならば、その地位を持って手助けをしても良いと考え直しました。いかがでしょう?」


 ん? いかがでしょうって……。


 勘違いだったら、と思いつつも、あたしはアベルにその言葉の意味を確認するために口を開いた。


「――そ……それって、プロポーズと取って良いわけ?」


 半ば茶化すかのように振ってみる。まさかそれはないだろうと思いつつも。


「あなたがそう解釈なさるならそう取ってもらって構いません」


 おいおい。


 思わず顔が引きつった。


「――一つ補足するなら、私は今回の件であなたをお飾りに据えるつもりはありません。一時的にこの混乱状態を緩和させるためだけにあなたを呼んだわけではない。長期的に取り組み、陣魔術師エーテリストたちとの軋轢を解消させる時期なのだと考えているからこそです。それができないのなら私は何もしないで見送るつもりでいます。つらいことですが、私一人では何もできないでしょうから。

 ――ですが、あなたとならなんとかなるような気がするんです。あなたが私を変えたように」

「……変えた?」


 これまた話が別の方向に転がってきたものだ。


「えぇ。あなたが」


 アベルは頷いてにっこりと微笑む。


 訳がわからないんだが。


 あたしが首をかしげると、アベルはくすっと小さく笑った。


「理解できなくても構いませんよ。私の根幹にあなたは触れた、それだけを知っていただければ結構です」

「それらをひっくるめて出した案の一つがそれってことね?」


 わかることといえばそのくらいか。


「はい。――あぁ、別に結婚してくれと強制しているわけではありませんよ。そりゃああなたのことは好きですし、そうなれば良いなぁなんてひそかに思っていますが、結婚せずともあなたを援助することは充分に可能ですからね。だってあなたは腕の良いエーテロイド職人だ。順調に出世すれば首都にやってくることになりましょう。私のそばにいられないならそれまで待ちますよ」

「やたらと気の長い話ね……」

「そうですか?」


 アベルはきょとんとして首をかしげる。この男は自分が言っていることの意味をちゃんと理解しているのだろうか。ときどき不安になるんだけど。


 しかも、どさくさに紛れて告白されたわよね、あたし。


「――よし、わかったわ。候補の一つとして考えておくわよ。選ぶのはあたしだし、勝手にさせてもらうわよ」


 あなたのそばにいられたらどんなに良いことか。あたしがそう思っていることをあなたは気付いているの? あたしがどれだけ悩んだのか、あなたはわかってくれているの?


「あなたならきっと良い結論を導くと信じていますから」


 嘘偽りのない澄んだ瞳がこちらを見つめている。それがあたしの心に痛みを生む。


「よくそんなことを言えるわね。出会ってからひと月くらいしか経たないのよ?」


 裏切るかもしれないんだからね?


「あなたは信じるにあたう存在です」


 あなたを敵に回すかもしれないんだからね?


「人を好きになるって、そういうことじゃありませんか? あなたが私に示したんじゃないですか。あなたは私を信用できないのですか?」


 不意にあの男の台詞が脳裏を過ぎる。


 ――君にとっても彼女は憎むべき対象なんだろう?


 あたしはアベルを信じることができるのだろうか。あんな男の台詞で動揺してしまうあたしに、アベルを好きになる資格があるのだろうか? 苦しいよぉっ。


「……それは答えられないよ。あたしはまだよくわからないから。――でもさ、こんなに迷ったり悩んだりするのはあなたのことが気になるからなんだと思うわ」


 素直じゃないな、とは思う。自分に正直になってこの想いをぶつけることができたらどれだけ楽だろう。

 だけど、気軽に口にできる台詞じゃないってことぐらいわかっているつもり。あたしは限りなく一般市民の一人で、彼は国に口出しすることさえ可能なクリサンセマム家の人間。たとえあたしにアンジャベルの名の知名度があろうとも、普通に暮らしていたら出会うことさえなかっただろう相手だ。

 それに今は敵対の可能性がある。あたしは陣魔術師エーテリストで彼は協会側の、いずれはその頂点に立つかもしれない人物。おいそれととやかく言える立場じゃないってことぐらい承知しているつもりだ。


 アベルがそうするみたいにあたしだっていろいろ伝えたい想いはあるけども、あたしまで同じようにしていたらどうにもならないじゃない。この状況でどう素直になったら良いわけ?


「……それだけ聞ければ充分です」


 あたしの困惑を察したのか、アベルは頷いた。この話は終わりにしようという合図。


「……あなたの気持ちはちゃんと受け取ったから。だからあたし、気持ちが整理できたら必ず返事をするからね」

「はい」


 ごめんね、アベル。答えをきちんと出すから。そのためにもこの機会を無駄にはできない。


「そうと決まれば行くわよ」


 大きく息を吸い込むと、あたしは本に手を伸ばした。



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