第5話 告白と疑惑

*****



 唇から伝わる柔らかな感触で、身体の芯から温まっていく。


 なんだろう、この感覚は……。


 あたしはゆっくりと瞼を上げた。始めのうちはうまく焦点を合わせられなくて、何が見えているのかわからなかった。次第に輪郭がはっきりとしてくると、自分がどんな状態なのか理解する。


 病院?


 見えてきたのは真っ白な天井と、同じく真っ白なローブに身を包んだアベルの姿。それも派手に椅子を倒してあたしから遠ざかっていくところの。


 状態はわかるが、状況がわからんのだが。


 あたしは目をぱちくりさせながらアベルに視線を向けた。


「ごっ……誤解しないで下さいねっ! 今のはおまじないといいますか……民間療法といいますか……」


 やたらあたふたとしている。想定外の事態に遭遇したらしい。顔を真っ赤にしながら弁解する姿はちょっと可愛くすら思える。


 うーん、あたしは何もしてないんだけど?


「その……すみません! あのっ本当に悪気はなくって……」


 えっと……口づけされたってことでよいのかしら?


 むくっと上半身を起こしてアベルに向き合う。


「善かれと思ってしたなら、逃げなくったっていいんじゃない?」


 小さく首をかしげる。そのとき初めて自分の首に包帯が巻かれていることに気付く。どうやらあのとき受けた傷は回復していないらしい。


「いえっでもっほらっ」


 顔だけじゃなく、全身が上気している。色白であるだけにその違いは明らかだ。


「寝室侵入事件のことがあるから気にしているの? 今日は怒らないって」


 不思議と怒る気にはならないのよね。あのときは部屋にいただけであたしは悲鳴をあげたわけだけど、今回は口づけされたわけで、その罪は重くなっていてもおかしくはないのだろうけど。


 あたしはアベルの慌てっぷりに気持ちが緩んで思わず笑ってしまう。


「ですが私は……」


 戸惑いの表情。警戒しているような素振り。いまだに彼は壁に寄って近付こうともしない。


「なぁに? 下心があったの?」


 にやりと笑んでじっと見つめると、アベルは勢いよく首を横に振った。さらさらの長い銀髪がそれに合わせて揺れる。


「滅相もない! 私はあなたがなかなか目覚めないから……だから、そのっ……」


 ま、許してあげるか。不意打ちでそれなりに驚きはしたけれど、あたふたするアベルを見れたから満足だし。それに……アベルにキスされて、ちょっとだけ嬉しかったし。心配してくれたことはとても嬉しかったから、ね。内緒だけど。


「だったらそんなに遠くにいないで、こっちにきなさいよ。ね?」


 手招きすると、アベルは恐る恐るあたしのいるベッドにやってきて、倒した椅子を元に戻した。


「――もう大丈夫なんですか? どこか調子が悪いところはありません?」


 不安げにアベルはあたしを見つめる。まだ頬は赤い。


「えぇ、平気。アベルはどうなの?」

「あなたのお陰で軽傷で済んだようです。すぐに旅をすることは止められましたが、一週間ほど静養すれば問題ないと」

「……今回はそれで済んだけど、次は本当に死ぬかもしれないわよ! あの男は本気であなたを殺すつもりだったわ。なのに命乞いはしないだなんて、正気で言える台詞じゃないわよ! そんなことされて残されてもあたし、嬉しくないっ!」


 あの夜のことが次々に思い出される。それだけでも身体は震え、心は揺れた。あのとき言えなかった気持ちが次から次へと言葉に変わる。


「ですが、あなたには逃げてもらわないと意味がなかった!

 ――それに助けるためだけに命を無駄使いするような奇特な人間でもありませんよ。あなたには証人になってもらう必要があった。あの男が何をしたのかを伝えてもらわないとならなかったんです!」

「ばかなことを言わないで! あたしがあなたを見捨てて逃げるような女に見える? 人選を誤っているって思わないの? あたしだってバカじゃないわ。勝算のない争いはしないわよ!」

「それで倒れて三日間も眠られたんじゃ、こちらだってたまりませんよ! どれだけ私が心配したと思っているんですかっ。あなたを勝手に巻き込んでしまった上に、このまま目覚めなかったらどうしようかって不安に思っていたこと、あなたにわかるっていうんですかっ!」


 そこではたと気付く。


 三日……ですって?


「……ちょっと待って。――あたし、そんなに気を失っていたの?」

「そうですよ。私を治療するなり高熱を出して倒れられて……。医者には特にできることはないから様子を見ているように言われるし、あなたは苦しそうにうなされているし、……それもずっとですよ? 自分の心配どころじゃないですよ。だから私にも何かできないものかと……」


 それで口づけしてみたわけだ。あたしの霊魂アストラルに対して働きかけたのだろう。あの優しい温もりはアベルの霊魂アストラルによるものだ。


「……ごめん。それは悪かったわ。甘くみていたの。まさか倒れるとは思ってなくって……。そんなに心配かけさせていたとは考えなかった。嬉しいよ。ありがとう」


 うまく気持ちを言葉にできなかったので、あたしはアベルを引き寄せて抱きしめた。


 もう大丈夫だからね。本当にごめんね。


「……あなたが無事で良かった」


 あたしが思わず呟くと、アベルはぎこちなく手を背中にまわす。彼の胸に密着したあたしの耳は、鼓動が少し早くなったのを聞き逃さなかった。


「簡単には死ねませんよ――少なくともあなたの無事が確認できるまでは」

「死なせたりしないわよ。あたしがそばにいる間は、絶対」


 あたしがアベルを解放すると、彼もそっと離れて微笑んだ。


「良かった。もう心配はいらないですね」

「お陰様で。――口づけの効果かしら?」


 おどけて言うとアベルは再び頬を紅潮させた。


 これは面白いネタを手に入れたものね。


「そのこと、誰にも言わないで下さいよ。――私はあなたを起こすためにそうしただけで、本当に他意はないのですから」


 アベルは視線をわずかに反らして呟く。言葉に照れが混じっているのは言わずもがな。


「あら、それはなんか残念だわ」


 わざとらしく言ってがっかりする素振りを見せる。


 半分くらい本当の気持ちだけどね。


「――全く他意がなかったら、さすがの私でもきっとしませんよ」


 むすっとした顔でぼそっと呟かれたその台詞に、あたしは思わず目をしばたたいた。心拍数が上がってしまう。


「……へ?」

「相手があなたじゃなかったら、しなかったって言っているんです」


 ちょっと待って。


 そして、アベルはあたしを真っ直ぐ見つめた。左右で色の異なる特徴的な瞳があたしをしっかりと捕らえて離さない。心まで奪われてしまいそうな、感情がこもった美しい瞳。


「私にはあなたが必要なようです。今まで自覚していなかったのですが、あの襲撃事件ではっきりしました。あなたにはそばにいて欲しい。できればずっと」

「なっ……!」


 なななななっ! なにっ! 何が起きているの?


 あたしはどうしたら良いのかさっぱりわからない。耳を疑うが、目の前のアベルはいたって真面目そうだ。自分の目も疑うべきだろうか。


 だって、それってさ、その台詞ってさ……告白ってことでしょう?


 あたしが言葉を詰まらせている間に、アベルは言葉を続けた。


「ですが、これは私の一方的な感情だ。あなたの都合を考慮していないわがままな気持ちです。――私はあなたの退院が決まり次第、一度実家に戻ろうと思っています。その時に是非ともあなたに同行願いたい。嫌だとおっしゃるなら別の方法を考えましょう」

「……えっと……」


 なんと答えるべきなの?


 適当な言葉が浮かばない。混乱していた。まだ寝ぼけているせいかもしれない。


「今すぐに返事をとは言いません。時間はありますから」


 言うと彼はにっこりと笑む。

 それに対してあたしは何も返せない。ただ見つめ返すくらいが精一杯。ひょっとしたら瞬きさえしていなかったかもしれない。


「――医者を呼んで来ますね。目が覚めたら呼ぶように言われているんです」

「……あ、うん」


 なんとか頷くくらいの反応はできた。なんか現実味を全く感じられない。夢を見ているみたいな気分。久々の良い夢。

 アベルはほっとしたような穏やかな表情のまま部屋を出ていった。


 だけどさ、アベル? あたしは本当にあなたのそばにいて良いの? あなたのその気持ちは嬉しいよ。それは本当だよ。……でも、あたしは答えられないの。だってあたしは――アンジャベル家の末裔だから。



*****



 やってきた医者に診察をしてもらい、あたしは再びベッドに横たわった。

 この部屋に置いてある調度品がしっかりしている様子から、かなり良い部屋なのだろうと推測する。しかも個室だ。アベルのはからいだろうか。町でも大きな建造物にあたる総合病院の一部屋らしいことはここから見える景色から知れた。今はあたししかいない。

 しばらくして食事が運ばれる。味気ない麦がゆを口にしながら、ぼんやりとあの夜のことを思い返す。


 あの男はあたしのお母さんを知っていた。今どうしているのかも知っているようだった。


『――だがな、アンジェリカ。クリサンセマム家のせいで君のお母さんは死んだんだぞ! クリサンセマム家がベスを見捨てたせいで彼女は命を落としたんだ! 復讐するのは当然の権利だろうがっ!』


 あたしはその台詞に対して何も答えることができなかった。アベルが割り込んできたからということもある。


 あの状況で彼が割り込んできたのは聞かれたくないことがあったから? いや、考えすぎね。アベルはアベルであの男に確認しておかなければならないことがあったんだもの。


 つまり、アベルの兄がどうして死んだのかということを。

 アベルは自分の兄がすでに他界していることをあたしに隠していた。今思えば見抜くこともできたのかもしれないけど、あたしはあたしのことでいっぱいいっぱいだったから全く思いもしなかった。

 始めから彼は兄が他殺だと考え、復讐するつもりであの陣を描いた人物を捜していた。アベルが実家に戻りたくなかったのはそのためであろう。


 前に一度、捜すなら実家に戻って協会に協力してもらえば早いのではと提案したことがある。そのときアベルは表情を曇らせて「それはできません」とはっきり答えている。あたしに会ったときからすでに復讐の気持ちは固かったのだろう。

 あの穏和な感じのするアベルがそんなことを考えているとは微塵も想像していなかったのだけど。


 話がそれたわね。アベルのことはあとで良いのよ。今はあたしがどうすべきなのかが問題なんだから。


 美味しいと思えない麦がゆをもごもごさせながら考察を仕切り直す。


 あの男の台詞が事実ならお母さんは死んでいることになるし、その原因はクリサンセマム家ということになる。

 しかし因果関係が見えてこない。あの男とお母さんの関係も、だ。復讐を誓うぐらいだから相当親しい間柄だったのだろう。


 でも、親戚には思えなかったけど。


 年の頃なら二十代前半。背は高く、ぱっと見た感じでは細身に思えるがそれは無駄な脂肪がついていないだけで、質の良い筋肉がついているのだろうと想像する。あの俊敏な動きは魔術だけで生み出せるようには見えなかったから。

 あとは夜の闇よりもなお深い黒い髪と光を吸い込んでしまいそうなくらい真っ黒な瞳。やや目尻が吊り上がっていて迫力があるのが特徴的だろうか。

 目だけじゃない。存在自体に凄みがあった。威圧感というべきか。戦いに慣れている感じがしたし、負けるとは思っていないようでもあった。確実に仕留めるという強い意志――。


 雰囲気はもちろんだが、髪や瞳の色からすればアンジャベル家の血筋とは無縁のように思える。あたしの髪は黄土色だし、瞳は森の緑と同じだから。髪が縮れ気味なのもお母さん譲り。どう考えても親戚とは思えない。

 じゃあ、どうして復讐を誓えるくらいクリサンセマム家を憎んでいるのか。あたしがクリサンセマム家に対して持っている疑問からくるものだろうか。


 そういえば、陣魔術の復権を願う団体がアンジャベル家の復興を望んでいるみたいな話もしていたわね……。お母さんは知っていたのかしら。


 そこまで考えて、あの男の名を聞いてなかったことに気付く。


 しまったなあ……。これじゃ捜したくても情報が少なすぎる。ここはアベルと別れて独自に調査するべきか……。


『そんなに大事か? 君にとっても彼女は憎むべき対象なんだろう? 違うか?』


 ふと男が言った言葉が蘇る。あの言葉の意味はなに?


 まだ引っかかることならある。


『――どうして君は格好をつけたがる? 君は彼女を利用したいだけだろう? ならばそう言えばいいじゃないか。どうして自分を綺麗に見せたがる? そんなんだからアイツは……!』


 この言葉の意味を、あたしはどう解釈したらよいのだろう。男の台詞を素直に受け入れるなら、アベルはあたしに恨みを持っているけれど、別の意図があって連れていくことにしたという意味になるだろう。


 じゃあアベルの意図ってなに? あたしを利用して何をしようっていうの?


 胸の奥がざわざわとしている。あの男の言動とアベルの言動とであれば、信用できるのはアベルになるのは明白なのだけども。


 あぁ、そういえばあたし、告白されたんだっけな。一緒に首都に来てほしいって言われたんだった。あれには何か裏があると警戒しておくべきなのかしら? だけど……。


 唇に手をあてる。まだありありと思い出すことができる。


 心が痛い。


「……あたしは」


 手に温かなものが伝った。慌てて離してそれがなんなのかを確認しようとするが、像を結ぶことができない。

 それで初めて自分が泣いていることに気が付いた。


「どうして……?」


 どうして涙が溢れてくるの? 悲しいことなんかないじゃない。つらいことなんてないじゃない。


「違っ……」


 ひっくひっくと嗚咽が漏れる。止まらないし止められない。食べかけの麦がゆはそのままに、あたしはわけもわからず泣き続けた。

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