第4話 悪夢と現実

*****



「――顔色、悪いですよ?」


 家を出てから三日が経過した朝。宿の食堂で向かい合わせに食事中である。


「ちょっと眠れないだけよ。なんてことないわ」


 とろみのある温かいスープをすすって答える。食欲も半減中。


「早速、ホームシックになっているのでは?」


 アベルは焼きたてのバケットをちぎって頬張る。


「なってないもん」


 小さく膨れる。

 昨日あたりからアベルはそう言ってはあたしを追い返そうとするようになった。邪魔者扱いである。出発の朝にちょっとした事故があって、無理してついてこなくたっていいじゃないかと文句を言われてしまう始末。


 だってしょうがないじゃん。びっくりしたものはしょうがないじゃん。悲鳴くらいあげるわよ。女のコだもん。


「ちょっと夢見が悪いだけよ」

「慣れないことをしているから身体に負荷がかかっているんですよ。表に出ない精神的な負担って夢に出るそうじゃないですか」

「関係ないわ」


 むすっとしたままサラダをつつく。


「――私にはそう思えないんですよ」


 アベルはどこか遠くを見るような表情を浮かべて呟いた。


「あまり心配をかけさせないでください。あなたの身になにかあったら落ち着きませんから」

「そんなに自分が盛った薬の経過が気になる?」


 にやりと笑んでアベルの反応を窺う。


「それなりには」


 さらりとした返事。彼にとって薬の件はどうでもよいことのようだ。


「あっそう」


 あんまり面白い反応ではなかったのであたしは受け流す。

 あの晩にからかわれたのをいまだに根に持っているので、どうにかしてアベルをあたふたさせたいのだが、これがまあうまくいかないわけで。体調が悪いせいか頭も回らないし。


「――今日はここでゆっくりしようと思うのですが、いかがでしょう?」

「え? だってあなた、本名で泊まっているでしょう? 大丈夫なの?」


 あたしは食べる手を止めてアベルを見つめる。


「問題ありませんよ。この町に支部はないですから、そうそう捕まえに来たりしないでしょう」


 あれ? そこまで考えていなかったけど、もしかして?


 あたしがきょとんとしていると彼は続ける。


「――大掛かりな修復のせいで、体力が回復しきっていないのかもしれません。それにあなたにとって旅は慣れないものでしょう。少し休んだ方がいい」


 そして安心させるように微笑んでくれた。


 気を遣わせてる?


「ご、ごめんなさい。あたしなら大丈夫だから」

「焦ったところで情報が集まるわけではありませんよ。なんの手掛かりもない今だからこそ、しっかり休んで体力を回復させるべきです。旅はまだ長そうですからね」

「ごめん……」

「謝るくらいなら早く元気になって下さい。あなたに元気がないと張り合いがないんですよ。私を楽しませてくださるんじゃなかったのですか?」


 口先ではそう言っていたけど、彼があたしを心配しているのは確かだと思う。この台詞は彼なりの照れ隠しといったところなんじゃないかしら。


 だったらあたしはこう答えないとね。


「そうよ。あたしと旅をすることに決めて良かったって思わせてあげるわ」


 小さく胸を反らせてはっきり言ってやる。足手まといにはなりたくないから。


「期待していますよ」


 にこっと笑む。あたしもそれに応えて微笑む。

 少なくともあたしは、こうやって誰かと一緒に食事ができるだけでも幸せだ。相手がアベルだから特別、ってことはないと思いたいけど。


 だけど、楽しいと感じられるのは本当だよ。



*****



 うなされるようになったのは別にアベルに盛られた睡眠薬のせいではないと思う。しかしその結果が予期していなかった事態を招くことになるとは。


 深夜の脱走阻止攻防戦から明けた朝、なかなか起きることができなかったあたしをアベルが伺いにくるという失敗をしてしまった。なんとまあ寝覚めが悪かったのなんの。


 別に夜更かししていたせいではないのよ? 気分が憂鬱になるくらいひどい夢を見ていたせいなんだから。あたしにしては夢を見ること自体が珍しいことなんだけどね。


 一方で彼にしてみれば、自分が盛った薬のせいであたしに何かあったらと気が気でなかったらしい。その意見に納得してあげてもいい。


 だけど、よ? 目が覚めたときに自分の部屋に男がいたら普通は怒るだろうし、いろいろと疑うものでしょう? 不機嫌にだってなるものじゃないかしら? 悲鳴をあげる権利くらいあるわよね?




 そんな事件で幕を開けた一日は、これがまたなかなか大変だった。

 修復のために移動用人形エーテロイド・マシンを掘り起こし、あたしがアトリエとして借りていた場所まで運ぶ。その修復はかなり大掛かりなもので、半日を必要とした。


 なんせかなりの間補修を怠っていたらしく、調べれば調べるほどあちこちに疲労箇所が出てくる。それを片っ端から直していたらさすがに体力だって尽きるわよ。


 とはいえこの修理はアベルに好評で、あたしのエーテロイド職人としての技量をしっかり認めてもらうことができて満足である。だてにトリプル持ちを名乗っているわけじゃないってところを見せつけておかなくっちゃいけないでしょ?


 午後は人形パペット屋に残っていた演芸用人形エーテロイド・パペットをまとめ、エーテロイド協会に運んで換金。当面の旅費にする。

 ついでに役場まで行って、店の状態と今後についてを相談。土地は借地だったので貸してくれた人のところに事情を説明。ひとまず半壊した店は取り壊して更地にし、土地を返すということに決まった。

 これらの事務処理を終えたあとにお父さんの墓参りをしてこれから旅をすることを報告。それでやっとアベルに合流し、夕方も近い時間に町を発ったのだった。

 こうして思い返せば、ろくに休めていないのは明白である。無理をしていると思われたっておかしくない。


 でも、疲れが出ているといっても、あんな夢を見ることはないと思うんだけどな。あんな……。



*****



 そんなことがあってから、さらに時間が経った。

 一日休んだくらいでは回復しきれないくらいのダメージだったのかはわからない。気持ちの問題だと言われたらそれまでだし、なんかもっと違うもののようにも思える。

 とりあえず言えることは、悪夢はしつこく続いているということ。旅を始めてから半月くらい経過したけれど、夢見は悪いままだし、これといった情報も見つからない。五ヵ所ほど支部をあたったが、陣魔術師エーテリスト自体の情報が全くないのだ。これには本当にお手上げね。

 それでもあたしたちはめげることなく旅を続けている。アベルの前では明るく振る舞って心配かけないようにしているつもりだけど、あの様子だとあたしがあんまり眠れていないのを知っているみたい。


 でも無駄な努力だとは思われたくないわ。あたしは彼を支えるつもりだし、楽しませると言ったのはあたしだもの。自分の言葉に責任を持つつもりよ。だいたい、つまらない女だと思われたくないもの。くだらないプライドだとわかっていてもね。


 夢のこともあって、あたしは結構遅くまで陣魔術の勉強をする日々を送っていた。実家から何冊か気に入っている本を携帯していたので、それらをぺらぺらとめくりながらアベルの人形マシンに描かれていた魔法陣について考察を深めているところである。


 あたしはまだ納得していないから。何かの間違いであってほしいから。


 しかしこの思いとは裏腹に、その陣の効果があたしに現実を見せつける。どこをどう解釈しても、本に書いてあることがでたらめでない限り、疑似霊魂アストラルにとってあまり良くない影響を与えることを示していた。

 あたしはまだその調査結果をアベルに伝えていない。


 自分が不確かだと思っている情報を不用意に教えるものじゃないでしょ? 確信を得るまで、あたしは黙っておくつもりだ。


「……さてと」


 そろそろベッドに横になろうかと思い立ち上がる。開けてあった窓を閉めようとしてあたしは異変に気が付いた。


 あの影……。


 窓の外に人影。この方向は宿屋の中庭――主に移動用人形エーテロイド・マシンを停める場所として使われている――のはずだから、こんな時間に人がうろついている訳がない。見間違いかとも思ってじっとその影を追っていると、それはあたしたちが泊まっている建物へと近付き、ある部屋の中へ窓を破って侵入した。


「えっ?」


 ガラスの破られる音がかすかに響く。そこまで大きな音ではなかったから、注意して聞いていないとそれとわからないだろう。


 ううん、そうじゃなくって。


 明らかにあの影は目的を持ってあの部屋を選んでいる。この町では大きい宿であるここは、一階の一部から三階までを宿泊部屋としている。あたしがいるのは三階の角に近い部屋で、たまたま中庭の全体が見渡せる絶好のポイントだったんだけど。


 あれ?


 そこで一度思考停止。すっと血の気が引いた。


 まさか。


 宿屋の見取図を頭に思い浮かべながら、あたしはペンと紙を探した。


 あの影は迷うことなく二階の部屋を選んだ。始めからそこに入ることにしていたように見えた。ただの強盗なら、逃げやすい一階かちょっと値が張る部屋を選ぶと思う。


 だけど、あの影が消えた部屋は……。


「アベル……!」


 そう、あの部屋はあたしが記憶している限りではアベルが泊まっている部屋なのだった。

 あたしは自分の最強の武器であるペンと紙を握ると慌てて部屋を飛び出す。

 部屋の前はとても静かだった。廊下は真っ暗で、ランプを持ってこなかったあたしは自分の目を頼りに、慌てつつも他の宿泊客の迷惑にならないように小走りでやってきたのだが。


 不気味なくらい静かね……。


 仮にあたしが寝ぼけていて、あれが見間違いだったとしよう。部屋を訪ねて彼が普通に眠っていたのだとしたら。


 また同じネタは使えないわよね。


 中の様子を窺うためにドアに耳を当てる。どういう訳か寝息さえ聞こえない。


 どういうこと……?


 不審に思い、咄嗟に紙に陣を描いた。風の状態を変化させ、音を聞き取りやすくするものだ。あたしはすぐさまに発動させる。

 聞こえてきたのは話し声。少なくともアベルは寝ていないし、あたしの知らない第三者がそこにいる。


「――ベスのかたきだ。悪く思うなよ」


 聞き覚えのない男の声はそう言った。


「その台詞、そのまま返しますよ!」


 粋がっているものの、心なしかアベルの声は震えていて小さい。嫌な予感。


「その怪我でよく言えたものだな! ――まぁいい。すぐに楽にさせてやるよ」


 殺意むき出しの声にあたしは寒気を感じ、なんの策も練らないままにドアを魔術で吹き飛ばした。いや――正確には、精神状態を安定させることができなくなって、聞き耳を立てるためだけの術が暴走してしまっただけなんだけど。

 でも今はそんなことを気にしている場合ではない。


「アベル!」

「アンジェっ来ちゃダメだ!」


 部屋は魔術で作られた青白い明かりが灯っており、アベルの姿と彼が対峙している相手の姿が目に入った。

 しかしのんびりしている暇はない。男はあたしが認識するよりも速く動いた。


「っ!」


 暴走する風が障壁となって男の攻撃がわずかにそれる。


 かなり戦い慣れしている!


 男が向けたナイフはあたしの喉を狙っていて、殺すことを全く躊躇していなかった。喉を狙ってきたのは悲鳴をあげさせないためでもあるのだろう。偶然避けられたけれど、あれでは確実に命を絶たれていたはずだ。

 致命傷とはならなかったものの、その剣先は首元を覆っていた襟を切り裂いていた。


 痛っ……。完全に避けきったわけじゃないのね。


 切られた場所に手をやる。出血はわずかで、これならすぐに回復できる。擦り傷だ。


「……その痣」


 男はあたしから数歩離れた位置に一瞬で飛び退くと、自分で付けた傷を見つめた。


「なるほど、ベスの娘か。なんでこんなところに」


 相手の殺意が消える。少なくともあたしを殺すつもりはないらしい。


「ベスって……まさかエリザベス=アンジャベル?」

「やはりそうか」


 あたしは動揺していた。エリザベス=アンジャベル、それはお母さんの名前だ。行方知れずとなった、あたしのお母さんの……。


 男はゆっくりとあたしに近付く。あたしは合わせて下がる。


「なんで君がこんなところにいるんだ?」

「あなたには関係のないことだわ! アベルに何をしたのよ!」


 視界の端には左肩から血を流すアベルの姿。止血を必要とする大怪我だ。


「関係ない? ――いや、それはないだろう」


 あたしが壁においやられると、彼はぴたりと止まった。


「俺には奇妙に映るね。どうしてアンジャベル家の人間である君が、一族を没落へとおいやった原因そのものであるクリサンセマム家の人間と一緒にいるんだ?」

「!」


 悪夢の続きを見ているかのようだった。

 アンジャベル家はクリサンセマム家によって歴史の表舞台から引きずり下ろされた。ある事実を踏まえるとそう捉えることは充分に可能だ。しかし今まであたしはそれを否定してきたはず。


 なのに……。


 奥歯に力が入る。唇は動かせなかった。


 あたしは……言い返せないよ。


「アベル君の様子からすると結構仲良くしているように見えるが……。――うまく手懐けて利用しようとしているのか?」

「…………」


 何故かあたしは言葉が出てこない。さっきの攻撃に怖じ気づいているわけではないと思う。


 だとしたら……あたしはこの男の考えを肯定しているってこと?


 痛む首を横に振ることしかできない。


「……ふぅん」


 男は嫌な笑いを浮かべてあたしの頬を撫でた。固くて冷たい感触。あたしはその手を払うこともできずに、じっと男を見つめるばかりだ。動けない。


「――面白い女を連れているものだね」


 その台詞は部屋の隅で苦しそうにしているアベルに向けられたものだった。男はあたしに触れたまま、視線をアベルに移した。


「彼女は無関係でしょう? あなたの用は私だったはず。彼女を解放してください」


 息が上がっている。この位置からは確認できないが、察するにアベルの顔から血の気が失せているだろうと思える。


 あたしがアベルを助けなくっちゃ……。


 そう感じているのは確かであるはずなのに、全く身体がいうことをきかない。何かの術を掛けられたにしては、相手の動作にそれと思えるものはなかった。


 なら、どうして?


「君の件とは別件だが、俺は彼女にも用事があってね。――ところで君は彼女がアンジャベルの末裔だとわかっていて連れていたのか?」

「…………」


 アベルは答えない。返事ができないほど消耗しているわけではないだろう。彼はあえて黙っている。鋭い視線をこちらに向けて。


「ふん、だんまりか。言いたいことがあるなら今のうちに言っておくことを勧めるぞ?」

「彼女を解放してください」


 男の挑発に対し、アベルはとても冷めた落ち着いた声で言い放った。意志の強い瞳は男を捉えたままだ。


「そんなに大事か? 君にとっても彼女は憎むべき対象なんだろう? 違うか?」


 それってどういうこと?


 あたしは男が何のことを言っているのかわからない。あたしがクリサンセマム家に対して持っているわだかまりなら説明するほどではないけれど。


 どういうことなの? アベル?


「そんなことを知ってどうするつもりです? 私が誰とともに旅をしていようが、あなたには関係のないことだ。――そして、私の願いは一つ。アンジェリカさんを解放してください。……私は命乞いなんてしませんよ」


 アベルはそう言ってごまかしたけど……ちょっと待て。そんなのあたし、認めないわよ!


「潔いな。いい心掛けだ」


 男がやっとあたしから離れた。一歩ずつゆっくりと余裕のある足取りでアベルに近付いていく。


「――しかし、その条件はのめない。俺は彼女を必要としているからな!」

「ちっ!」


 振り下ろされた男の手には黒光りする小振りの刀。一瞬手の甲が光って見えたから、魔術で刀を生み出しているのだろう。つまりこの男は……。


 陣魔術師エーテリストってこと?


 アベルはギリギリのところでその剣先から逃れる。致命傷を避けられただけで、彼を包む白いローブは新たな赤い染みを作った。


「気が変わった。――そんなつまらないことを言う奴にはきっちりと苦痛を与えてやらないとな! ベスがどれだけ苦しんだのか、その身に刻んでやらぁっ!」


 男は目をぎらぎらとさせながら刀をふるう。その太刀筋はいずれも致命傷を与えることがないように計算されている。

 一方のアベルはなんの反撃もせずに受けるばかりだ。


 だけど、なんで?


 人形エーテロイドを使えば充分に対応できるはずである。アベルはあの移動用人形エーテロイド・マシン以外にも複数の人形エーテロイドを持ち歩いている。今日だって部屋に持ち込んでいたはずだ。


 なのに……。


 そこまで考えて、ようやく事態を把握した。


 そうか、この明かりのせいで気付かなかったけど、ひょっとしたらこの部屋は……。


 握り締めていた紙にペンを走らせると、術をすぐに発動させる。部屋を満たしていた青白い光は柔らかな橙色の光に変わる。それと同時に無数の魔法陣が浮かび上がった。


「あ!」


 どおりで外から中の音が聞こえなかったはずである。

 この部屋のいたるところで消音、防音、人払いを目的とした陣が展開していたのだから。それもかなり複雑な、高度な陣である。その中には傀儡師アストラリストの扱う魔術を封じるものさえあった。これではアベルは手も足も出せない。

 男の動きが止まった。


「――何故、彼を助けようとするんだ?」


 アベルの呼吸は浅い。気を失ってもおかしくない状態だと思う。それでも男はとどめを刺さなかった。よほど深い恨みを持っているのだろうか。


「友達を助けるのは当然でしょ? それに、殺されそうになっている人間を黙って見捨てるなんてあたしにはできないわ」


 あたしの声はどうしようもなく震えていた。いつもならもっと歯切れよく言ってやるところなのに。自分でも感じ取れるくらいの迷いが台詞に含まれていた。


「そりゃ正義感が強いことで。さすがはベスの娘だな。そういうところはそっくりだ。――だがな、アンジェリカ。クリサンセマム家のせいで君のお母さんは死んだんだぞ! クリサンセマム家がベスを見捨てたせいで彼女は命を落としたんだ! 復讐するのは当然の権利だろうがっ!」

「――だからあなたは私の兄を殺したんですか?」


 アベルの細い声が割り込む。


「あれは事故だろう? 操作ミスで死んだんだ。自分の能力を過信したためにね」


 男は嘲り笑う。


「そうでしょうか? あなたが人形マシンに陣を描いて操ったんじゃないのですか?」


 人形マシン……陣……。じゃあ、人形マシンを譲ってもらったって話は……?


 男は笑うのをやめて、今にも死んでしまいそうなアベルを冷たい目で見下ろした。


「……なるほどな、カイルよ。あんたの目的はそっちだったのか」


 ぼそっと男は呟くと、再び右手の甲が淡く光った。


 カイル? どっかで聞いた名前だけど……。


「――アベル君、他に言い残したことはないか? いい加減に楽になりたいだろう?」


 血塗れのローブに身を包むアベルだったが、その双眸に宿る光は色褪せない。


「……アンジェリカさん……逃げて」

「――どうして君は格好をつけたがる? 君は彼女を利用したいだけだろう? ならばそう言えばいいじゃないか。どうして自分を綺麗に見せたがる? そんなんだからアイツは……!」


 ナイフが振り下ろされる。

 あたしは二人のやり取りを聞きながら描いていた陣を発動させた。

 解除用の魔法陣。それも取って置きの強力なやつ。範囲はこの室内全域。対象は魔術に関したもの全て。


 制限はあたしの最大魔力容量キャパシティってところでどう? それだけあれば、全部一時的に解除できるでしょ?


 部屋が一気に暗くなる。魔術的なもの全てを無効化したため、外の明かり以外に光はない。


「くそっ! 解除魔法かっ」


 苛立ちと焦りの気持ちを隠さない男の声。


「さ、これなら他の宿泊客も気付くんじゃないかしら?」


 しまったな……身体が熱い……。


 一度に複数の魔法陣を解除させたことによる反動を直に受けている上に、自分の身体に刻まれた魔法陣が変な反応を起こしている。


 まずったわね……自分の痣のことをちゃんと考えておくべきだったわ。


 男は大きな舌打ちをする。


「ちっ! ――なぁ、アンジェリカ。君も一緒に来ないか?」

「どうしてあなたについていく必要があるのよ?」


 遠回しに拒否宣言。


「陣魔術の復権を願っている集団がある。彼らはアンジャベル家の復興を切実に望んでいるんだ。是非とも君に協力願いたい」

「陣魔術の復活とアンジャベル家の復興は関係ないわ。余計なお世話よ」


 気持ちだけはしっかりと言っておく。体力ギリギリのせいで迫力に欠けたんだけどもね。


 だけどはったりだってときには必要でしょ?


「後悔しても知らないからな」


 男の声が遠ざかる。外を走って行く音はすぐに聞こえなくなった。


「――アベルっ! ちょっと我慢していて。すぐに応急処置をするから」


 熱っぽさと気だるさで頭がぼうっとしてくるが、今は自分のことよりもアベルの手当てのほうが一刻を争う。あれだけ出血していたのだ。これ以上血を失ったら本当に……。

 アベルに駆け寄ると、彼はぐったりと床に転がったまま動けずにいた。ローブは真っ赤に染まり、特に状態のひどい左肩の辺りはしぼれそうなくらいに濡れている。


「止まらないものですね……」


 激痛に顔を歪ませながらアベルは絞り出すように声を出した。


「もう黙っていなさい。あの男なら出ていったから」


 紙に描ける大きさの陣では足りないと思い、いつも身に付けているチョークを取り出して床に直接陣を描く。その床にも無数の血痕があった。


「……すみませんでした。あなたに怪我をさせてしまった。……申し訳ない」


 アベルの焦点は定まっていない。空虚に天井を見つめている。言葉も虚ろで、声は浅い呼吸の中に埋もれている。


「あたしは擦り傷。もう回復しているから、大丈夫。――だから、あなたは黙って自分の心配をしてなさいよ」


 声に涙が混じってしまう。


 あたしは諦めない。必ず救ってみせるんだから。だから泣いちゃダメよ。


 それにアベルにはあぁ言ったけど、あたしの怪我は完治していない。解除魔法の影響で傷口が開いてしまったのだ。


 思ったより反動がキツイ……。あの男、相当強力な術を使っていたのね。


 人形エーテロイドの修復に使用するものを人体用に応用した魔法陣が完成すると、すぐに発動させた。部屋を橙色の柔らかな光が包み込む。患部を完全に治せるものではないが、止血をするだけなら充分なはずだ。


「くっ……」


 アベルの傷口に光が集まり出すと、彼は苦痛で顔を歪ませた。回復する際に生まれる熱に反応したのだろう。その感覚はよくわかる。


 はぁ、良かった。魔術を使えるだけの力が残っていなかったらどうしようかって心配しちゃったわ。


 少しの間アベルはうめいていたけれど、やがて静かになり彼はあたしに顔を向けた。穏やかな表情。あたしは彼のローブを脱がせ、左肩の状態を見る。


「止まったみたいね……」


 あれ……? 視界が……?


 ふわふわとした感覚。いや、くらくらする。


「アンジェ?」


 アベルは起き上がれるまで回復したらしい。良かった。


「――あくまでも応急処置だから……必ず病院には行ってね」


 不本意ながら、あたしはアベルに寄り掛かるように倒れた。彼はしっかりと受け止めてくれる。


「大丈夫ですか? すごい熱じゃありませんかっ!」


 あぁ、まずい。大丈夫じゃないかも。


 意識していなかったが、完全に息が上がっている。こんなことは初めてだ。


「自分を大事にしなさい……あたしなら平気だから……」


 格好がつかないのだけど、あたしはそう呟きながら彼の腕の中で気を失っていた。


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