第25話 帰還
「我々の基地に不時着した爆撃機がある。あなたは操縦ができますか?」
「双発機のライセンスは持っている。4発もなんとかなるかもしれない」
「分かった。君の同志のところに連れてゆこう」
ソビエトの宿営地に滞在して何日もしないうちに、アレクセイエフ大尉からゼウスに思いがけない帰還の道筋が示された。話に同意すると、大尉はその手でジープを運転し、半日かけて東へ走った。畑の中の道をしばらく走って、かつてのドイツ軍の空軍基地に到着した。格納庫はボロボロに壊され、飛行場の隅に破壊されたドイツ機が積み上げられていた。
基地から迎えに出た、小太りの指揮官がゼウスを迎えた。ゼウスはアレクセイエフと互いに肩を抱き、握手を交わして別れた。続いて、穴だらけの屋根の下の格納庫にあるB-17爆撃機に案内された。
「アメリカ人の皆さん、パイロットを連れてきました」
指揮官はいくらかたどたどしい英語で、爆撃機の中に向け喋った。
中から5人のアメリカ兵が降りてきた。皆アメリカ空軍のカーキ色のつなぎとジャンパーを着ていた。同じような飛行機乗りの姿をしたゼウスを認め、彼らはわらわらと走り寄ってきた。
「第8空軍で護衛の戦闘機を指揮していたハロルド・ジェイコブソンだ」
「ようこそ、ロシア軍へ。ハラショー!」
「ウラー」
「ウラー」
アメリカ人たちは久しぶりに見る新しいアメリカ人にはしゃぎ、ゼウスを囲んでロシア語を混ぜおどけて話しかけてきた。
「ズドラーストヴィチェ。ミニャー…ミニャー…ヤコブノフ、ヤコブノフ」
それに合わせて適当なロシア語を話ながら、ゼウスはそれぞれの手を握った。
「戦闘機に撃たれて、3人が機上で戦死、機長と副操縦士は重症を負いました。燃料タンクも被弾し、ガソリンもギリギリの状態で、手近に見つかった滑走路に不時着しました」
一番年長そうな航法士の少尉が機体について説明した。
「俺達はドイツ軍の捕虜になる覚悟をすっかり決めていました。機長は滑走路に着陸して、操縦席から降ろそうとしたら事切れていました。副操縦士は両手と片足を機関銃に撃たれて、とても操縦ができません」
そばで聞いていた軍曹が話を継いだ。
「基地のドイツ人は西に撤退した後でした。夕方には戦車とロシア兵が来ました。副操縦士はロシア人の軍医が見てくれて一命をとりとめました」
彼らは機内を調べて回るゼウスの後について歩き、どの機関銃が使える、爆弾はすでに投下した後だ、等、機体についていろいろと話をした。
「それで、この機体が飛べるようになったとして、戦争も終わっていないのに、ドイツを飛び越えてイングランドに帰りたいというわけだな」
操縦席に座り、操縦輪や計器の様子を確かめながらゼウスは尋ねた。
「イタリアに飛ぶにも、チェコやドイツの南部を超えるのは難しいです。スイスの国境をまたぐことはできません。それに、アルプスを越えようにも酸素の装備がありません。ドイツ空軍は著しく弱体化していますから、勝手の分かる西方向の進路をとれば、絶対に無理ということはないと思います」
「危険の程度も分かっているから、慣れたルートを行くというわけだな」
「ええ。天候を確認して、第8空軍の爆撃機が来る時刻に合わせれば、味方の護衛も期待できます」
「それもそうか」
「とにかく、夜な夜なドイツ娘の悲鳴やらすすり泣く声が聞こえる場所に、これ以上いたくありません」
「…」
その一言に全員が黙ってしまった。操縦席から振り返ると、皆がその先に何かがあるかのように、操縦席の窓ガラスを通して前方を見つめていた。
翌朝。ロシア兵に混じって朝食をとると、ゼウスはエプロンに向かった。機体は格納庫から引き出されて、最後の点検を受けていた。整備を担当しているのはソビエト空軍の兵士たちだった。
飛行場の別の区画では、この前見かけた液冷の戦闘機が何機か整備を受けていた。垂直尾翼の赤い星が朝日に眩しく輝いていた。
「ヤコブレフ中佐殿」
B-17を眺めていると、若い女性に不意に話しかけられた。
「燃料タンク、穴塞ぎました。エンジン、左の第1が、ダメです。油圧、ほぼOKです。ガソリン、少し漏れてますが、もう入れます」
彼女はたどたどしい英語で機体の状況を説明した。化粧のかけらもない薄紅色の唇の下から、あまり歯並びが良くない白い歯が覗いた。白い肌にはそばかすが浮かび、髪は癖のある赤毛だった。
「クイーン?!」
その緑色の瞳を覗き込んで、ゼウスはそう口にした。
「クイーン? 私ですか?」
「いや、なんでもない。イギリスに君にそっくりなエンジニアがいる」
「女のエンジニア、アメリカ軍、いますか」
「まあね。でも、君たちほど、女性は多くないよ」
整備兵のうち3人ほどが女性だったことに気づき、ゼウスはそうフォローした。
「ロシアでは、女のパイロットが、ドイツ軍をたくさん落としました」
「ハラショー。スパシーバ」
驚きと感謝の気持ちを込めて、ゼウスは、細く白い、しかし油で汚れた手を握った。
予定されていた離陸の時間が近づくと、アメリカ人たちが次々と姿を現した。今日こそ旅立ちだとばかり、ジャンパーを羽織り、雑嚢を肩に歩いてきた。ゼウスは2挺の拳銃以外特に持ち物はなかった。
昨日見た5人の他に、両手を包帯でぐるぐる巻きにし、足も包帯を巻いた副操縦士がロシア兵の押す車椅子に乗ってやって来た。
副操縦士と話を交わし、彼とともに機体を一周りして点検を行った。
左の第1エンジンはプロペラがフルフェザーの状態(プロペラのピッチを進行方向と平行にして空気抵抗を最小にした状態)にあり、最初から使わないものとされていた。
胴体の近くで、主翼から燃料がぽたりぽたりと落ちていた。主翼には、アルミの板をあてがってリベットで補強してあるのがかなり目立った。
やがて発進の時間になり、ロシア人に対して感謝を表明した後、ゼウスたちはB-17に乗り込んだ。エプロンでは基地の指揮官を始め、多くのロシア人の将校が見つめていた。
「離陸の手順の指導をたのむ。君がその手で操縦を補佐しなくていいように努力する」
「了解です」
操縦席の左側、機長席に着くと、ゼウスは右席の副操縦士にそう頼んだ。彼は数人に補助してもらってその座席に座った。
ゼウスは3基のエンジンを始動させ、暖機運転を行い、やがてエプロンから機体を動かした。空軍基地の風景は流れゆき、滑走路の風下側に至った。風はまだ弱く、離陸に支障はいっさいなかった。
「では、イングランドに向けて離陸する!」
B-17は滑走を始め、3基のエンジンで難なく離陸した。
機体はやや左に機首を向けたがる傾向があったが、ラダーのトリムで対応可能なものだった。車輪は無事収納され、機体は加速と上昇を続けた。
やがて眼下に、比較的大きい都市が見えてきた。
「ドレスデンですね。夜間爆撃で破壊されました。ひどいもんです」
「…」
副操縦士が眼下の景色に対しそう話した。
ゼウスは操縦席から、眼下に広がる、荒涼とした廃墟を眺め言葉を失った。
離陸するまでソワソワした雰囲気だった、若い乗組員も口をつぐんだ。
「連合軍は、ここまで都市を破壊し尽くしたのか…」
ゼウスが絞るように発した言葉に、応える者はいなかった。
「周囲の見張りはどうか!」
しばらく続いた沈黙を破り、ゼウスは大声を出した。
乗組員はそれぞれが持ち場につき、周囲の警戒を始めた。
「今の所、敵はいません!」
「同じく!」
「大丈夫です!」
「その調子で、一瞬でも気を緩めるなよ!」
高度は2000mをいくらか超え、空気はだいぶ冷たくなっていた。酸素の装備がないため、これ以上の高度には昇らないことにしていた。
「どうだ、直上攻撃を仕掛けてきそうな敵がいるか?」
副操縦士が首を前に出し、真上の方向を警戒していたため、ゼウスが話しかけた。
「今は見えませんね。ですが、不時着したあの日も、直上攻撃で2機があっというまに落とされました。この飛行機は墜落を免れましたが、被弾した機長と3人はご存知の通り、戦死しました」
話を追えると、副操縦士はまた周囲の見張りを始めた。
「直上攻撃を行った敵は、4機のMe109じゃないか?」
「そうですね。機首が尖った液冷の戦闘機ですよ。高度10,000mのあたりから護衛の戦闘機の間を縫って襲ってきました」
ゼウスは、去年の秋に見た光景を思い出した。
「『ジョーカー』か…」
「『ジョーカー』?」
「正しくは『ワイルドカード』だ。話は聞いているだろう?」
「ああ、あれがそうなんですか」
「だけど、今は『ワイルドカード』は気にしなくていい」
「え?」
「君が不時着した日より少し後だが、私と
「あなたが、ですか?」
「そうだ。この通り自分の機もやられて脱出する羽目になったが、おかげであいつの死体も確認した」
ゼウスはここ数日の出来事を思い返しながら話した。
「分かりました。直上攻撃が得意な敵は少なくとも1人減ったわけですね」
「1個小隊が消えたはずだ」
「ですが中佐、ドイツには100機以上のスコアを誇る『エクスペルテ』が山程いるんですよ。1人や2人死んでも変わりません」
「そんな、経験豊富なパイロットはもうごく少数だろう…」
「そうかもしれません。ですが、その少数が、手慣れたレシプロ戦闘機か、最新鋭のジェット戦闘機か、それともロケットか、とにかくドイツの優秀な武器で襲ってくるんです。連合軍の戦いはまだまだ終わっていません」
「…」
「中佐の言うとおりですよ、『一瞬でも気を緩めるな!』です」
副操縦士はまた、身体を大きく曲げて真上の見張りを始めた。
振り返ると、乗員がそれぞれの場所で警戒を続けていた。
ゼウスも、操縦席から見える範囲で、敵を探し始めた。
そして、左の視野に小さい光がきらめくのを感じた。
「10時の方向! 109が4機!」
キャノピーの太陽の反射だった。長い戦闘機乗りの経験により、誰よりも先に敵を発見した。
敵は細い尖った機首の、Me109と思しき戦闘機。それが4機、ゆるい編隊を組んで、左横から接近しつつあった。
「左向きの機関銃はどれだけ生きてる?!」
乗組員に戦闘機の迎撃を命じた。
彼らはその方向をしげしげと眺めた。皆が戦闘機に気づいたようだった。
「どうした! 射撃はまだか! 敵はもうはっきり視認できるぞ!」
ゼウスは戦闘機の姿を再度確認し、声を張り上げた。
1基の機関銃に1人がとりつき、その握把を握って前方を見ていた。しかし、射撃をするような素振りはなかった。
「なんだ?! 弾がないのか? なぜ撃たない!」
ゼウスは必死の形相で叫んだ。乗組員の一人が、見かねて彼の横に歩み寄り、左の方向を指差した。怪訝な顔で、彼は左方向を改めて確認した。
P-51だった。アメリカ陸軍航空軍のP-51D戦闘機が4機、B-17と平行に、編隊を組んで飛んでいた。透明なキャノピーの下で、彼らを見つめるパイロットの視線がはっきりと分かった。
ゼウスの横で、乗組員が大きく手を降った。機関銃の銃手も手を降った。P−51のパイロットが手を振り返した。
味方の戦闘機が、こちらに気づいて、護衛役になってくれた。
ゼウスは張り詰めていた気持ちがほぐれ、深々と息を吐いた。
『ジョーカー』は死んだ。少なくとも、『エクスペルテ』の1人は消えた。その分だけ敵は減ったのだ。たとえ100人のうちの1人だとしても、100の脅威より99の脅威の方が安全だ。徐々に静かに、遅くなってゆく自分の鼓動を感じながら、ゼウスは考えをめぐらした。
これで、まず間違いなくイングランドに帰れる。最後に、そんな確信に至った。
太陽の光に、P-51の銀色の機体が、透明のキャノピーが、回転するプロペラが、キラキラと光った。その光景を、ゼウスは素直に美しいと思った。
もうすぐ帰れる。
ユングが、クイーンが待つ連合軍の基地へ。
若葉萌える、春のイングランドへ!
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