第15話 追撃
12月の半ば、悪天候を突いてベルギーのアルデンヌ地方からドイツ軍の大規模な反攻作戦が始まった。
出撃はまずないとゆっくり寝るつもりだったゼウスは、夜明け前に起こされた。身支度をして外に出ると雪が激しく降っていた。
第一報はアルデンヌ地方のアメリカ軍が急襲されたというものだった。森に姿を隠した小規模な攻撃と思われたのも束の間、戦車を含む大規模な機甲部隊が通りを突進してきた。この深い森を敵が抜けてくることはないと油断していた連合軍は、思わぬ猛攻に退却を続け、ドイツ軍はアルデンヌ地方に大きく突出した。
基地のP-51の部隊は爆撃機の護衛任務をしばらく取りやめになった。しかし、ベルギーに航空支援を行うにも、悪天候で基地から1機も飛び立てなかった。
次の日も、その次の日も、激しい雪と風に連合軍の航空戦力は無力だった。ドイツ軍は頭上の悪天候を味方に西へと進んだ。
ゼウスやショーティ、ユング、他、基地の面々は連日集まり、地図を睨んでは情報をやりとりした。天候が回復した場合に備えて攻撃目標をあれこれ議論したが、日ごとに敵の情報は大きく変動した。
基地の活動は実質、格納庫での機体の整備と、パイロットの待機しかなかった。
島国のイングランドはまだ天候はましだったが、大陸は絶望的で、フランスやベルギーに展開している戦闘爆撃機もまったく何もできなかった。
ゼウスは夏に帰郷したばかりのため、クリスマスに休暇をとる予定はなかったが、いずれにしても年末年始の休暇は完全にありえない事態になっていた。娘に帰れないということを伝えたくても、今の状況を家族に伝えるわけにはいかなかった。
一方、クリスマスを前に悪天候のため、飛行任務は数日にわたり休まざるを得なかった。
地図を囲んだ会議を繰り返し、合間に食事をし、せめてもの気晴らしに屋内であれこれと体を動かした。
パイロットや整備兵はそれぞれ適当にグループを作ってカードに熱中し、夜はバーで好き放題飲んでいた。ゼウスも多少はつきあったが、カードであまり勝ちすぎるなと何人かに釘を差し、明日晴れるかもしれないから飲みすぎるなと別の何人かに注意した。背中に煙を吹き付けられ、文字通り煙たがられて帰るという日々だった。
そしてある朝。明るくなりつつある穏やかな空に風も雪もなく、ゼウスは「ついに飛べる!」と悟った。ほどなく、この天候が大陸でも同様であると確認された。
何日かぶりに銀色の機体が次々とエプロンに並べられ、しんとした寒気の中で整備が始まった。次々とエンジンの暖機運転が始まり、ゼウスが基地のゲートをくぐる頃には、轟々とした音が曇り空の下に響き渡った。
ブリーフィングルームで朝一の哨戒任務について説明した。ベルギーの地図に対空陣地の場所を示し、その空域の飛行を避けるよう指示した。増加燃料タンクは爆撃機の護衛に使うものより一回り小さいものに変え、サドルタンクに給油しないことにした。飛行隊はゆるいグループでベルギー上空を飛び、連合軍の戦闘爆撃機を援護する。3時間程度の任務を午前と午後の2回行うと告げた。
「で、中佐はまた『ライトニング』ですか?」
ショーティは任務に就く前の一服をふかしながら尋ねた。
「ああ。君らが見えないところから撃たれないよう監視を行う」
「でもドイツ空軍は来ますかね」
「独裁者が最後の賭けに出たんだ。何でもすると考えるべきだろう」
「最後の賭け、ですか」
「『タイガー』戦車が森に何両もいて、こちらの戦車じゃ手がでないと聞いてる。これが最後の博打でなくて何だというのか」
「ああそういえば」
「見つけたら50口径で蜂の巣にしてやれ」
「やってみます。無駄かもしれませんが」
「戦車なんて横しか防げないよ。とにかく奴らの足を止めろ。優先するのは敵の戦闘機だがな」
「サー!」
曇り空の下、北海の波は鉛色のうねりとなっていた。真っ先に離陸したP-38の2機は後続のP-51を待たずにベルギーに向かった。
暗い色の海の向こうに真っ白い陸地が見え、やがて海岸線を超えた。
それとほぼ同時に、左前方で対空機関砲のオレンジの光が激しい勢いで雲に飛び込んで行くが見えた。
「あれはどこだ?」
ゼウスはユングに聞いた。2機とも最初から通報用周波数にしていた。
「アントワープの方ですね」
「ああ、港の対空機関砲か。やはり爆撃機が来てるのか」
「空襲にしては対空砲火が少ないですね。偵察機じゃないですか?」
「偵察か。敵はムーズ川を超えていないと聞いているが、まだあきらめてないのかな」
「さあ?」
交信を終えると、ゼウスはアルデンヌ地方の方向に視線を移した。
頭の上をねずみ色の雲の底が流れ、足元を雪原がゆっくりと後ろへ流れていった。
「3時の方向にP-47が8機。2時の方向はタイフーンだと思います」
ユングが周囲を飛ぶ味方の戦闘爆撃機について報告してきた。
「タリホー(視認した)」
簡単に答えて、ゼウスは森の上空に敵を探した。
アルデンヌ地方の奥深い森は黒く雪の中に横たわり、何箇所か煙が立ち上っていた。前方に鮮やかなオレンジの炎がきらめいた。空の中ほどから地面に向けて炎の矢が突き進み、次に黒煙が沸き起こった。タイフーンのロケット弾攻撃のようだった。
「気をつけてください、味方が撃ってきます」
目の前を曳光弾がさっと飛びすぎ、すぐユングの警告が入った。
森の際にジープやシャーマン戦車の一群を認め、十分な距離があり命中弾の恐れはないとゼウスは一息ついた。
「『ジョーカー』は来てるだろうか?」
「さあ。しかし、まさに『伍長』の最後の賭けです。出し惜しみはしないでしょう」
ゼウスの不安をユングが一掃した。確かにそうだ。ここで連合軍の分断に失敗すればドイツ軍にこれ以上攻勢をかける余裕はない。
そもそも、ソ連を相手に防御に転じたドイツが、これほど大規模な攻勢をかけてくること自体が驚きだった。
「ムーズ川です。ここからはどこに敵がいるか分かりませんよ」
ユングの報告の通り、雪原の中を流れる黒い川筋を2機のP-38は超えた。
「いたぞ!」
ゼウスは無線を通話にして叫んだ。
「どこですか?」
「正面だ。森の上スレスレにグレーのやつがいる」
左方向に撃ち上げられた機関銃の曳光弾から、その先を追ってゼウスは小さい白っぽい機影を森の上に見つけた。かなりの距離がある。
「見えました。あれだけ小さいと109ですかね」
「とにかく後を追う」
スロットルを前に進めると、獲物をめがけてP-38は突進した。
そのゼウスの眼前で、2つの炎が鮮やかに燃え上がった。
「やられた!」
「P-47です。味方です!」
炎に縁取られた半楕円の翼の形をゼウスも視認した。
「飛行隊長は何をやってるんだ!」
ゼウスは叫んだ。後ろの2機が撃墜されたのに、前をゆく6機は漫然と前に進んでいた。そして、続けて2機がぐらりと傾き、炎を上げて森に墜落した。
「くそったれ!」
ゼウスは普段使わない言葉で毒づいた。
「ユング! 1時の方向に敵が離脱する。追うぞ!」
「了解!」
森のなかに燃え上がる炎が眼下を過ぎ、森の上を飛ぶ小さい影が徐々に大きくなっていった。小規模な対空砲火が時折り上がり、敵はそれを遠巻きに回避して飛んでいた。
「雪です」
ユングの声に、ふと周囲を見ると、まばらな粉雪がかなりの速さで後ろへと流れていった。
前を向くと、雪にかき消されそうになって、ようやく敵の機影を目に捉えた。4機のまばらな編隊はそろって旋回し、東に向きを変えた。
「基地を特定できるかもと思ったが、この雪では見失うかもしれない。攻撃する。後方の援護を頼む」
ゼウスはそう伝えると、右端にいる敵の4番機を正面に見てまっすぐ進んだ。
「了解」
ユングの返事を聞きつつ、照準器のレティクルに敵の機影を入れるよう彼は操縦を続けた。
「気づかれた!」
ゼウスは叫んだ。敵の4番機は鋭く左にロールし、吹き飛ぶように左旋回を始めた。
「これが油圧サーボだ!」
操縦輪をぐいと回すと、P-38はくるりと回転し、敵の旋回にやすやすとついていった。翼にエンジンの重さを抱えているとは思えない動きだった。程なく遠心力がパイロットを座席に押し付けた。
「敵の3番機が斜め宙返りで隊長を追っています!」
「わかった。そいつから目を離すな!」
ユングに返事をしつつ、ゼウスは微妙に舵を操作し、目標を照準器の中心へ、次に遠心力で弾道が落ちる分上に照準を修正した。そして、機関銃と機関砲を一斉に発射した。
機首の4挺の機関銃と1門の機関砲がまばゆい火焔を放ち、硝煙が操縦席を囲んだ。機首から細く伸びた曳光弾はどれもほぼ同じ弾道を描いて突き進んだ。ほんのわずかな間合いの後、小さい影となって見えるMe109の右の翼が折れ曲がり、やがて敵機は不安定に回りながら森の中に消えた。
「隊長! 6時の方向、上をとられてます!」
ユングが声を張り上げた。
「オーケー!」
ゼウスは左に回していた操縦輪を激しく右に回すと、機体のバンク角が水平になるタイミングで操縦桿を力いっぱい引いた。再び強い遠心力がかかり、機体は真上へと昇った。
「ユング、敵はついてきてるか?!」
「少しオーバーシュートしています!」
「上を向いてるんだな!」
「隊長の腹の下までもう少しです!」
「分かった!」
雪雲の底が目の前に立ちはだかっていた。そのまま雲に突っ込むと思えた瞬間に、彼は左のスロットルを思いきって引いた。
「速度が落ちている敵を狙え!」
左の推力を突然失ったP-38は唐突に左に機首を向け、雲の底をかすりながら、ほとんどスピンに近い状態で回転した。そして、機体が下を向いたタイミングでスロットルを戻した。ゼウスが操るライトニングは何事もなかったかのように回転をやめ、森に向け降下を始めた。
降下をしながら、敵の3番機がいるであろう方向が見えるように機体を傾けると、雲の底で背面状態にあった敵に機関銃と機関砲の弾丸が命中する瞬間が見えた。
敵のほぼ真後ろにユングのP-38がいて、照準も何もなく射撃し、敵の機体を破壊した。
「ユング! よくやった! 1機撃墜だ」
炎を上げながら森に落ちてゆく109を見ながらゼウスは告げた。
「レドチェッカー、聞こえるか? 『ワイルドカード』にやられたらしい。ブルー小隊が応答しない!」
イングランドの基地に向け西に向きを変えたところで、無線に通報が入った。
「こちらP-47の地上攻撃部隊。後続の1個小隊の応答がない」
「遅かったな」
ゼウスは低い声で答えた。
「何か知ってるのか?」
「4機は我々が見ている前で撃墜された。敵は1個小隊の109だ。そのうち2機を撃墜した」
「何だって?!」
「君の部下は1個小隊が全滅した。繰り返す。1個小隊が全滅した。仇は半分とった。だが、君の部下の4人は絶望的だ」
しばらく飛行隊長の混乱した声がヘッドホンに響いた。
舞い落ちる雪の中に残りの2機を見失ったことが、ゼウスには悔しかった。
ベルギーの雪原はやがて途絶え、眼下は北海のどす黒いうねりに変わった。
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