第13話 ライトニング
高度11.000m。
足元の世界は純白の綿を敷き詰めたように雲に覆われていた。地平線の位置は明らかに低く、それが地球が丸みだと察せられた。頭の上は青く晴れ渡り、天頂は星が見えそうなほど黒かった。南には太陽がギラギラと輝いていた。
ゼウスは爆撃機の梯団を左下方に見ながら、その南側を飛んだ。高度をとり、太陽を背にして襲いかかる敵がいるならば、その敵に対して自分たちが太陽を背に襲いかかることを狙った。飛行機雲は出ていなかった。
P-51ではどうしても到達できなかったこの高度をライトニングは問題なく飛ぶことができた。零戦を相手にわずか6000mの高度で苦戦したP-40とは隔世の感があった。同じアリソンV1710でありながら、ターボチャージャーを搭載したP-38はP-40とまったく異質の戦闘機だった。
2機のP-38は偏西風に押され、どうしても爆撃機より前に出がちだった。ゼウスは周囲を警戒しながら一定時間ごとに向きを変え、ジグザグに飛んで速度を爆撃機に合わせた。
向きを変えるときはゼウスは自分の体を捻じ曲げ、左後ろのユングの機体を確認した。銀色に輝く機体は、機首の反射防止の黒塗装のすぐ下に、白と赤のペンキで『ユングフラウ2』と書かれていた。主翼と胴体の下は白黒の縞模様が描かれ、垂直尾翼は外側の面が赤と白のチェック、内側が赤一色で塗られていた。眩しい太陽の光にさらされ、機体は非常に色鮮やかに見えた。
翼の上に突き出た透明なキャノピーの中に、パイロットは上半身むき出しで座っていた。ゴーグル越しにユングの目がこちらを見ているのが分かった。ゼウスは左を指さし、続いて左に旋回した。
彼の機体は、機首に『シルキー・エリス』と書かれていた。エリスはギリシャ神話でゼウスとヘラの娘とされる、争いと不和の神だ。彼はギリシャ神話にちなむ呼び名を全面的に受け入れることにし、自分で機体の名前を決めた。誰かに任せてアルテミスやディアーナといった月の女神にされることを阻止したかった。
「シルキー」は実家の家業にちなむものだった。オレゴンで彼の一族は日本と絹の取引をしていた。日本人の知り合いも多かった。士官学校を出て陸軍航空軍のパイロットになったが、任地のフィリピンで日本人と殺し合いになったことに胸がきしむ思いだった。だからこそ、不和の女神にあえて「シルキー」と形容詞をつけた。
ある程度北東に進んでから、ゼウスは機体を右に旋回させ、今度は南東に進んだ。ジグザグの飛行を続けながら、眼下の雲の上に怪しい機影がないか探した。
P-38の高度から見えるB-17とB-24の爆撃機は200機ほどだった。高度は4,000m下にあり、4発の重爆撃機といってもかなり小さく見えた。その周囲を更に小さいP-51がよりそって飛び、ドイツ軍の迎撃機を警戒していた。東に進むほどに雲の隙間から大地が見えるようになり、爆撃機は予定通り目標に投弾が可能なようだった。
操縦席は暖房が十分で特に寒いということはなく、むしろ照りつける太陽が暑いほどだった。彼は飛行服のニクロム線につながるプラグを抜いた。熱気で注意力が失われることは避けたかった。長時間の任務に備え水分を控えたが、逆に喉の渇きを感じつつあった。
アクリルガラス一枚隔てられた外はマイナス60℃ほどで、薄い空気のために酸素マスクがなければたちまち意識を失う。ここに並び立つには自分と同じように金属でできた飛行機に乗らなければならない。飛んでいる間ずっと周囲や下方を見回したが、今のところ、翼に黒い十字を描いたドイツ機の姿は見られなかった。
無線機は沈黙を保っていた。ユングとのやりとりはもっぱらハンドサインとし、無線は『ワイルドカード』が現れたときに備えて通報用の周波数に合わせていた。この周波数での通話は控え、彼は飛行帽のヘッドホンに聞き耳を立てた。
飛行隊の無線はユングが周波数を合わせていた。時々ゼウスはユングの方を振り向き、耳を指さして無線の状況を聞いた。特に連絡がないと、彼はそのたびに首を横に降った。
爆撃機は先頭の梯団が高射砲陣地に差し掛かった。雲の上にいくつも砲弾の爆発による小さい煙の塊が浮かんだ。目標はまだ距離があるらしく、爆撃機は進路をやや北に変えて対空砲火を避けた。
爆撃機の上空で援護をしていたP-51が何機かが南に向きを変えた。ゼウスは機体を傾けて下方を見た。雲の上に敵戦闘機の影が十数機見えた。P-51はそれを迎え撃つために向きを変えたと分かった。
自分の敵はあんな多数ではない。ゼウスはそう判断し、違う方向の空に敵影を探した。
「レッドチェッカーのライトニング、聞こえるか?」
ゼウスはヘッドホンに突然響いた声にはっとした。
「『ジョーカー』らしき敵影を発見した。東北東方向。我々より1000m上空を西に向かう2機の109だ」
さっそく現れたか。幸先がいい。ゼウスはそう感じつつ、知らされた方角の雲の上を探った。
「こちらレッドリーダー。そちらの機位と敵の方位を知らせ!」
彼はそう返信しつつ、操縦輪を押して機体を降下に入れた。
「こちらはB-24の第一梯団。敵の高射砲陣地の真北にいる。敵は11時の方向。向きは西向きのようだ。10時の方向に変わりつつある」
「高射砲陣地は把握している。そちらの指定する方向に向かう。変化があればこの周波数で知らせよ」
「了解。109がこちらに向かう前に落としてくれ」
ユングに左手で合図を送ると、機体を降下させ、速度をつけながらゼウスは機体を北東に向けた。400km/hをやや下回る速度で巡航していたのがすぐに制限値の500km/hに近づいていった。浅い降下角を維持しつつ、高射砲の弾幕を眼下に爆撃機の方向に向け進んだ。左後ろを確認するとユングもついてきていた。
「敵はどこですか?」
通報用周波数に切り替えたユングの声が聞こえた。
「前方のB-24のさらに向こうだ」
ゼウスはそう返した。速度が500km/hに達し、高速で気流の乱れから振動が発生し、舵も明らかに重くなっていた。計器の誤差を直した真速度は700km/hを超えているはずだった。
「敵の高度はいくつですか?」
「爆撃機の1000m上だ。速度を維持して敵の上に出る。下方に敵を探せ」
「了解です」
「頭を下げすぎるなよ!」
ゼウスは半分自分に言い聞かせるように通話を送った。振動が続くとともに、すでに操縦桿を押してもいないのに機体は勝手に降下の姿勢になっていた。そして程なく、機首が下がらないよう操縦輪を力いっぱい引く状態になった。
「ユング、そちらの操縦輪はどうか?」
「引いてます! 機体が勝手に降下してます!」
高高度の低温のため音速が低く、P-38は音速に近づいて空気の圧縮性の影響を受けていた。主翼は揚力を失い、水平尾翼の下面に立った衝撃波は機首上げの操縦を無効にし、P-38は降下角が勝手に深くなる特性があった。操縦輪での引き起こしが不可能になり、速度超過に陥って分解する事故が相次いだ。急降下はP-38の禁止事項だった。
「ダイブブレーキだ!」
「ブレーキ使います!」
ゼウスはユングの返信と同時に自分の機体のダイブブレーキのスイッチを入れた。ブレーキと言うほど強い減速は感じられなかった。しかし、突っ込みがちだった機首がわずかに上を向き始めた。
「ブレーキは効いたか?」
「効いてます!」
ユングの返信でゼウスは一息ついた。ダイブブレーキは主翼の下面に小さい板を立てるものだった。わずかな突起が空気の流れを変え、衝撃波の発生を減らして機首が上を向くようにした。
速度が低下しはじめて気持ちに余裕ができ、ゼウスは改めて前方の雲の上を探った。
「ライトニング、敵は見えたか?」
既に自機の下方を通り過ぎたB-24から問い合わせが入った。
「視認した!」
ゼウスは答えた。機首の下方の雲の上に尖った機首の戦闘機の影が2機見えていた。
2機は上空から近づきつつあるゼウスらを特に気にするでもなく、西に向け飛んでいた。南方に見える爆撃機も眼中にないように見えた。
ゼウスはその上空を1000mほどの高度差をつけて交差した。それから鋭い左旋回を行い、敵の機体をよくよく確認した。
「こちらレッドリーダー! こいつは『ジョーカー』じゃない! ムスタングだ!」
角ばった主翼の上の、青と白の星のマークをゼウスははっきりと確認した。
「『ウェザースポーツ』だ。目標の天候を確認して帰るところだ!」
「『ウェザースポーツ』! 了解した! 確認感謝する!」
2機のP-51Dの右上に位置をとり、しばらく並行して飛びながら、ゼウスは爆撃機と交信した。
『ウェザースポーツ』は爆撃機の10分ほど前を先行して飛ぶ2機のペアの戦闘機だった。名前の「ウェザー」の通り、爆撃目標の天候確認が任務であり、天候を確認したら交戦することなく基地に戻ることになっていた。機体は戦闘機の飛行隊ではなく、爆撃コマンドのパイロットが操縦した。
「レッドチェッカー、こちらレッドリーダー。敵と思われる機体を確認したが『ウェザースポーツ』だった。再び高度をとって監視に戻る」
飛行隊の周波数に合わせると、ゼウスは状況を報告した。
レッドチェッカーの本体の飛行隊は爆撃機とともにすでに先に進んでいるだろう。ゼウスは方位を南に向け、高度をとるため上昇を始めた。
「ユング、周囲の警戒を怠るな!」
「はい!」
「それにしても、ライトニングも思ったほど使えないな」
「ですね」
「もっと急降下が得意なら言うことなしなんだが」
「翼が厚すぎますね」
「そう思うか」
「設計が古いから仕方ありませんよ。僕は好きですよ。水平飛行ならスピードは抜群です!」
「上昇力も最高だ!」
ゼウスは上昇を続けながらユングと交信した。
高度をとって、この位置で旋回しながら爆撃目標から戻る味方を待とう。そう考えた。高度は10,000mにとどめた。敵と高度差がありすぎると、ライトニングでは直行できない。うすうす感じてはいたが、最新の型でも急降下が不得意という特性は変わっていなかった。
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