◇31.一緒に


 かつてない重苦しさを空気は宿した。おどおどと、梨紗りさの瞳が、視点を求めて彷徨っている。


 わたるは悟った、梨紗の辛さの根源の部分を――だが、まだだ。切り出したい気持ちを堪えて待つ。途端、梨紗は堰を切ったようにに唇を動かし始めた。


「肌を焼くこと含めて全部が気休め。この左足のあざを極限まで紛らわすために、いつもスキニーを穿いてる。キックボクシングもそう。出来るだけ左足を使って、このあざが分からなくなるほどに他のあざが増えて全て埋もれてなくなればいいのにって。けど、願いはただの願いで終わる。何をしても何ひとつ紛れなくて、消えなくて。招待されたこのありえないCrystalクリスタルgameゲームは、ある種の希望だった。非現実のここになら救いがもしかしたらあるのかもって、過去から抜け出せるのかなって。そうしたら、杏鈴あんずがいた。まさか再会するなんて思ってなかったんだ。第一の物語では、わざと真也しんやDark Aダークエー)を挑発した。仁子ひとこを護る振りして、最低だろ? クズで臆病だから、中々自ら命は絶てなくてここまで生きてきてしまったから、ここで殺されて運よく現実に影響して楽になれないかなって。甘かった。あの時、杏鈴はあたしを救ったんじゃない。死んで逃げようだなんて許されないんだよって言うメッセージ。幸せの文字を奪った罪は重い。あたしみたいな人間に救いなんてない、分かってるはずなのに……」


 人間には、心がある、キモチがある。同じだ、梨紗と自分は同じ。逃げたって、傷つけたって、周囲から何を言われようと結局は後悔して自分を責め続けている。


 同じだからこそ分かる。


 君のことを救いたい。


「梨紗ちゃん、俺、二人は友達だと思う」


 梨紗の両目が大きくなっていく。


「杏鈴ちゃんさ、梨紗ちゃんのこと助けてるじゃん。殴られてる梨紗ちゃんを大切な歌で護ろうとしたんじゃなくて? W武器だって、彼女全然上手く使えないのに、第一の物語であれは梨紗ちゃんのために発砲してたんだよ。恨んでたり憎んでたらそんなことしない。殴られてたって放っておけばいいんだし、死んでほしいなら無我夢中にならないよ。梨紗ちゃん、いつも杏鈴ちゃんのこと考えてるじゃない。杏鈴ちゃんだってそうじゃん。互いのこと思い合ってるじゃん」


 梨紗の頬をまた涙が伝い始めた。その色は先程までの苦しみばかりのものとは少し違う。


「もう一回言う、二人は友達だよ。そう誰かに言ってほしかったんだよね、違う?」


 待っていた、その救いの言葉を。そう言わんばかりに、梨紗は目の縁から涙を零して嗚咽した。


 恐らく杏鈴は、航がこうやって梨紗を救ってくれることを願っていた。つばさの働くイタリアンレストランでやり取りをしたときの彼女の本意が、今ははっきりと分かる。


 あんまり深く考えないって口先では言うくせに、実は誰よりもいっぱい悩んで考えて。何とか真っ直ぐ歩くためにつきたくもない嘘で自らを塗り固めて――瞼に込み上げる熱さに堪らず、航は梨紗を引き寄せ抱き締めた。


 航の肩口に顔を埋めて、梨紗は泣き声を漏らし始めた。辛かったよ、苦しかったよ、素直な梨紗の思いがようやく聞けた気がした。


「人ってさ、不思議だよね」


 少し梨紗の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、航は口を開いた。見上げてきた梨紗の濡れた頬を、手でそっと拭いてやる。


「もう消えた、そう思っても結局表面上しか傷は癒えてなくて、忘れたころにふいに思い出して心臓がおかしいくらい苦しくなる。特に俺達は生きてる限り、これからもずっとそれを他の人より多く繰り返していくと思う。今、互いに曝け出しても傷は消えない。戻ることは出来ない。けど前には進んでいける。辛い辛いって叫びながらでも、もがき苦しみながらでも、未来は創れる」


 航は一呼吸置き、梨紗の目を奥までしっかりと見つめた。


「だめかな、これから一緒に強くなるのは」


 同じように見つめ返してくれた梨紗の目は、震えて少し光を含んだ。


「俺、根が気弱だからさ、ひとりで強くなろうとしても、全然上手くいかなかった。だけど、梨紗ちゃんと一緒になら強くなっていける気がする。絶対は存在しないけど、人は変わるし、変われる。ひとりじゃ意味がないんだ、梨紗ちゃんと一緒じゃなきゃ……」

「……それってさ、もしかして、プロポーズ?」


 俯けていた顔を上げた梨紗は、きょとんとした顔で問うてきた。


「は!? へ!?」


 航の全身を羞恥が駆け巡る。慌てて梨紗の身体から離した両手は、至って自然に白旗を上げるポーズになった。


「なーんだ、違うのかよ」


 口を残念そうに尖らせて、梨紗は上目遣いをしてきたが、数秒もしないうちにそのキメ顔を崩した。笑い声が響く。いつもの、航が好きな梨紗の明るい笑顔だ。


「本当、梨紗ちゃんには敵わないや」

「なって、いいよ」

「え?」

「あたしのこと、好きに、なってよ」


 いきなり女の顔をする不意打ちは卑怯だ。けど、嬉しい。その言葉は過去も左足のあざも含めてありのままの梨紗を受け入れたいと思っている航の気持ちが伝わった証だ。


 航は再び梨紗を腕の中に包んだ。梨紗も航の身体に手を回す。早くなっている心音が伝わり合う。


 この温もりを、ずっと護りたい。


 返事をする代わりに、航は少しだけ梨紗の身体を離した。顔の周囲の空気がやけに熱い。梨紗が静かに目を閉じる。航がゆっくり顔を近づけ目を瞑ったその時だった。


「わ!」

「びびっ……た」


 互いの左胸から溢れ出した同じ色をした強い光。部屋中に広がり窓を通って世界全体が黄色に染まった。


「航! 見て!」


 光を追って窓の外に気を取られていた航は、梨紗に呼ばれ首を回して目を見張った。浮かんでいるのはダイヤモンド型をした二つのCrystal。


「覚醒……した……」


 ひとつはその全面が梔子色に染まった、“Kindカインド Heartハート Crystalクリスタル”、もうひとつは斑模様のように向日葵色に染まった“Strongストロング Heartハート Crystalクリスタル”。“優しい心”と“強い心”。過去の所有者の色濃い血を感じるに相応しいCrystal名だ。


「梨紗ちゃんは、“強がりな心”のが正しいかもしれないけどねぇ」

「余計なお世話なんだよ」


 航が梨紗の頭を優しく撫でると、それを見て安心したのか、二つのCrystalは仲よく静かに姿を消した。


 黄色の光が消えると世界は元通りの色を取り戻した。窓から差し込む爽やかな陽の光に体感温度が上がっていることに気がつく。カレンダーを見ると、Adaptアダプトされた日付。


 勝ち抜いた、乱れ苦しんだ第三の物語を。目から垂れた一筋の涙を素早く航は拭った。


「つーか、ほんと、持ってないよなー航って」


 生まれる間。ほんの少し時間を巻き戻す。触れずに終わった梨紗の唇をはっと見てしまった。どうしてこうもすました態度を取れないのだろうか。恥ずかしさのあまり、航は梨紗をキッと睨んだ。


「う、うるさいなぁ、ほ、ほっといて下さいっ」

「今日はお預け、また今度な」


 柔らかい笑みを浮かべ、ベッドから下りようとした梨紗の二の腕を航は掴んだ。


「い、嫌だ……お預け」


 梨紗が驚く前に、航はその唇に自分に唇を重ねた。顔を離すと、少し照れたように梨紗は笑った。もう少しだけこの時間を過ごしていたい。



 強がりな少女を、優しい少年は包み込んだ。









 ◆◆◆


『無事、回収完了っ♪ これで、第三の物語は終結ですっ』


 暗い室内に響いたのは、やけに明るく高い精霊の声。二つの黄を纏ったCrystalは宝石室に格納された。一仕事終えたと言わんばかりに、精霊はふう、と息を吐き小さな腕で額を拭った。


「残りは五個だね」


 背後から聞こえた声に精霊の羽が震えた。小さな口が大きく見開く。目も、鼻の穴も、全身の穴と言う穴が広がった。


 精霊の声はもうしない。コツ、コツ、と宝石台に近づく革靴の音が止まり、響いたのは不敵で不気味なクツクツとした笑い声だった。


「ちょろいね~、選ばれし者達は」







 ◆◇◇



「……お、きたか」


 夕暮れ、さざ波の音が聞こえるCafeカフェ greenhouseグリーンハウス seaシーに、航はやってきた。テラス席でコーヒーを嗜んでいた翼が、こちらに気がつき手を上げた。


「ごめんね、少し遅くなっちゃって」

「……いや、むしろちょうどよかった」


 翼の視線を追うと、エプロンを脱いだ杏鈴がこちらに駆けてくる。上がり時間が十七時半だと聞いていたが、左腕の針は十八時を差している。今日は普段より少し忙しかったようだ。


「ごめんね、航くん」

「ううん、俺も今きたところで……」


 航は翼に目配せする。微妙な空気の変化を感じ取った杏鈴が首を傾げた刹那。


「え……? 梨紗、ちゃん……?」


 今日はひとりで杏鈴とおしゃべりにきたわけじゃない。本当の目的は梨紗をここに連れてくること。


 電車を乗り継ぎここまでくる道中、蘇るトラウマと極度の緊張のせいで、何度もトイレに駆け込む梨紗に、何度かリターンを提案したが、頑なに梨紗は頷かなかった。


 よたよたと梨紗はテラスに続く階段を上がってくる。吐き疲れたと分かるほど顔色が悪い。それは航が何も言わずとも杏鈴に伝わっていた。


「梨紗ちゃん!」


 杏鈴は迷わず梨紗に駆け寄った。階段で蹲った梨紗の身体を支える。梨紗が小さな声で何かを言うと杏鈴は激しく首を横に振った。それでも梨紗が再度言葉を伝えると、杏鈴は渋々頷き、梨紗の身体を支えながら一緒に立ち上がると、海のほうへ向かって歩き始めた。


「見守ろう」

「……ああ」


 翼の向かいに腰を下ろし、航は祈るような視線で二つの背中を見つめた。


 ◇


 波際のところまでくると、梨紗は足を止めた。振り向くと、小さくなった翼と航の姿が見える。どんな顔をしているのかは分からないが、航がそこにいてくれるだけで安心できた。


「ここらへんで、座ろ」


 杏鈴と肩を並べて砂の上に腰を下ろした。自分の顔色も相当悪いだろうが、ここまでのたった短い距離の間に杏鈴の顔色も悪くなった気がする。


 リアルに思い出す、あの日のことを。


 航に語ったあの日よりも、ここまでくる途中で浮かんだ記憶よりも臨場感があって吐き気が込み上げてくる。


 それでも戻らない、逃げ出さない。


 進むために覚悟を決めて、今日はここにきた。


「航に、全部話した」


 夕闇に染まった波を見つめていた杏鈴が、ゆっくりと顔を梨紗のほうに向けた。


「約束、破ってごめん……それだけじゃなくて……本当に、ごめん」


 声が震えて、視界が霞みかけて、梨紗は杏鈴から視線を逸らした。両方の耳を塞いでしまいたくなる。続く沈黙に、身体さえも震え始めた。


「あの日」


 ぽそっと、零すように杏鈴は呟いた。怖々と、梨紗はそちらに視線を戻していく。


「梨紗ちゃんと契約した日、歌うことを捨てるって言ったでしょう。けど、結局捨てられなかった。梨紗ちゃんを助けたいって思って歌った歌から逃げるのは、卑怯だと思ったの」


 もう我慢できなかった。目の前にいるのに杏鈴の顔が分からなくなる。目も喉も熱くて堪らない。


「謝らくちゃいけないのはわたし。許してくれなくていい。けど……ごめんね」


 声で分かった。杏鈴も泣いていると。これ以上たくさんの言葉は互いにいらない。もう十分に伝わり合ったから。


 梨紗と杏鈴は強く抱き合って涙を流し続けた。


 ◇


「あー、目から汗」

 しゃくり上げながら抱き合う二人の影を見て、航は目頭を抑えて天を仰いだ。コーヒーカップに口をつけた翼が、鼻から息を漏らして笑む。


「……今はまだ春過ぎなのだが」

「ごもっともです」

「……まさか泣くとはな」

「ん?」

「……杏鈴が泣くのは、旅人のことが絡む時だけなのかと思っていたから」


 航は梨紗の横顔をもう一度見つめた。負けていられない。握った拳に伝える勇気を包んだ。


「翼くん」


 カシャとコーヒーカップをソーサーに置く音がした。クールな眼差しを受け止め、航は続けた。


「杏鈴ちゃん、因果上、死ぬかもしれないんだ」


 少し心が強くなれたからこそ、賢成まさなりの言葉を受け入れられた。傷つけるのを怖がって隠して過ごすより、打ち明けて共に因果と戦うことが正解なのではないかと。


「……航、ありがとう。言いにくかっただろうに」

「ううん。黙っていて、ごめん」

「……話してくれてよかった。これで、より一層意思が固まった」


 落ち込むどころか、翼の表情は清らかだ。


「……何があっても終わりが決まるその時まで、逆らうまでだ」


 どこかでこの顔を見たことがある気がする。心臓の奥深くに眠っている過去の所有者の記憶が疼いたような気がした。


 航は握っていた拳を翼に向かって伸ばした。そこに翼が伸ばしてくれた拳がぶつかると、航は笑顔で頷いた。


 梨紗と杏鈴が海辺のほうから歩いてくる、繋いだ手を高く上げながら。


 航は立ち上がり両手で大きく手を振ると、翼と共に二人を迎えに走り出していた。







 ◇◇◇


 仁子は大学の最寄りの駅の構内を急ぎ足で歩いていた。目覚まし時計が鳴っていたにも関わらず、講義開始にギリギリ間に合うかどうかの瀬戸際。第三の物語が終わり数日が経過したが、気がかりなことが多く寝つきの悪い日が続いていたせいかもしれない。


 講義終わりには、誠也せいやと学食で会う約束をしている。心に溜まっているもやつきは、彼と話せれば少し削減されるだろう。


「きゃ」


 そうやって、どこかぼんやりしていたから、人を上手く避けられなかった。ばさばさと鞄の中身が散らばる音がする。自分の鞄ではない。ぶつかってしまった男性がその場にしゃがみ、プリント用紙を拾っている。


「す、すみません」

「あー、かまへんかまへん。わいがちゃんと鞄閉めてへんかったんが悪いんやし」

「私も拾います」


 男性の隣にしゃがみ、プリントを一枚拾い上げて仁子は手を止めた。視界に入った男性の横顔に手が震え出す。濃い口髭と髪型は一致しない。けど、それ以外は、まるでそっくりだ、あのCaretaker世話係おさだと予想されている過去の人物に。


「うわあ!」


 叫びを上げたのは男性だった。尻餅をついて、仁子の左腕を指差し、青白い顔をしている。


「お、お前……な、何で、それ……」


 見えている、選ばれし者以外の人間には見えぬ、この透明な腕時計が。


「あの、プリント!」

「くんな! そんなもんいらん! くれてやる!」


 優しそうな雰囲気だった男性は、途端に凶暴化すると逃げ出した。追いかけようとしたが、立ちくらみに襲われ、仁子は男性の姿を見失ってしまった。


 それでも、男性の左腕を仁子は目を細めて逃さず捉えていた。腕を振ることで捲れ上がった袖口に反射しているあの光は、きっと。


 手元に残ったプリントに仁子は目を見張った。記載されているのは仁子が通う大学の校章と、名前と、“鉱物学~結晶構造の追及~”と打たれた研究タイトル。彷彿される皇帝・クリオスの姿。休んでいる暇などない、第四の物語はすぐそこに迫っている。


 時刻を見てもう間に合わないと悟った仁子は、ACアダプトクロックのスクリーンを立ち上げた。プリントを握り締めたまま、ゆうの顔をタッチし、Cコールを飛ばした。











 Crystal:Episode three……


 ――A kindly boy held a storong girl.――

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