Ⅳ◆契約フレンド◆

 ◆


 あたしは、


 週末、彼氏と会う約束を取りつけた。これが最後の約束になる。こんな男とは一刻も早く別れなければならない。そんなあたしの気持ちに反し、彼氏は楽しそうにどこにいきたいんだ、と問うてきた。あたしは精一杯のぶっきら棒で、どこでもいいと返した。


 車の助手席にあたしを乗せて高速道路を走る彼氏は、鼻歌を歌うほど機嫌がよかった。あたしが今日別れを切り出そうとしているだなんて全く察していない様子。杏鈴あんずをあんな風にしておいて、普通の顔をして過ごしているなんてありえない。走行中は出来るだけ、彼氏のほうを見ないようにして込み上がる怒りを抑えた。


 ふと、見たことのある景色にはっとすると同時にぞっとした。彼氏に連れてこられたのは都会を超えて二時間ほどのところにある南関東の海だった。雨が降りそうで降らない微妙な曇り空が広がっているせいで、あたし達以外にほとんど人はいなかった。どこでもいいとは言ったけど、よりによってどうしてこのタイミングでこの場所なのだろうか。ここは、あたしが彼氏に告白された場所だった。


 肩を並べて砂浜に腰を下ろして理解した。鼻歌なんか歌って、能天気なふりをして、こいつはあたしが考えていることを察している。


 Aから何か情報が流れたのかもしれない。でも構うもんか。もう依存しない。


「あのさ、話したいことの前にひとつ聞きたい。何で杏鈴をあんな風にしたんだ?」


 彼氏の目を一瞬窺ったが、すぐに逸らしてしまった。彼氏の瞳孔は開いていた。ギョロリとあたしを見る目が怖かった。


「Aからもちょびっと聞いたけどさ、梨紗りさ、誤解しすぎなんだけど」

「は?」

「あの女が勝手に喚いて落ちたんだよ」

「嘘つけ! そんなわけあるかよ。じゃあ何であの日希望の大樹のところにいたんだよ。Aからそこに十八時にいって杏鈴に攻撃しろって言われて従ったんだろ!?」

「ちげぇっつってんだろ! 梨紗があの女に友達ぶられて、つき纏われて、迷惑がってるって。しまいにはあの女が俺と別れたほうがいいって梨紗に勧めてるってAから言われたんだよ! 腹立ったから俺が自ら絞めてやりたくてAにあの女を呼び出してくれって頼んだんだよ!」


 堪えていたものが崩れた。目が燃えているように熱い。鼻の奥がツンとする。息が苦しくなる。Aに騙されているだけでいてくれたほうがましだった。まさか騙されたあげく、こいつ自ら杏鈴に手を加えることを所望していただなんて。何よりあたしを蚊帳の外において、Aなんかのことを信じて勝手な行動を起こしたなんて。どうかしてる。


「とりあえず初めは普通に話すかって思ったら、あの女、すげえ勢いで顔顰めて拒絶してきやがってさ。一回梨紗迎えにいったときに面識あったし、俺のこと覚えてたんだろうな。何の用ですかって、ひっでえ態度だなって。首絞めてやろうとしたんだよ。したら邪魔なしょうもねえネックレスがついてて、もぎとってやろうとしたら突然キンキンうるせえ声で叫んで大暴れし出して、俺の腕に噛みついてきやがった」


 ネックレス――その単語に鼓膜が裂かれた気がした。杏鈴の一番大切なもの。きっと自分の命より大切だと思っているもの。もう永遠に会えないかもしれない、好きな人からもらったかけがえのないプレゼント。


「その反動で俺、あの女の首から手え離しちまって。したら勝手に階段転がったんだよ」

「ネックレスはどうなった?」

「はっ?」

「杏鈴のネックレス、どうなったんだって聞いてんだよ!」

「知らねえよ! っつーか何なのお前。俺よりあの女の心配かよ!」

「当たり前だろ! 自分が何したか分かってんのか! Aなんかに騙されて、今も杏鈴寝たきりなんだぞ!? 殺したのと同じだよ!」

「てめえ」

「別れて」


 ふっと彼氏の顔から赤みが消えた。それでもあたしは怯まなかった。


「別れて。いや、別れる。別れてください。さようなら」


 ゴッと痛い音がした。あたしの頭蓋骨に彼氏の拳がぶつかった。あたしは砂浜に倒れた。開けっ放しだったせいで口の中に砂が入った。砂と唾液を吐き出しているあたしに対し、スイッチの入ってしまった彼氏は容赦なかった。


「いっ……た!」


 左のこめかみのあたりから髪の毛を鷲掴みにされた。引っ張り起こされた身体は再び砂の上に落ちた。


「いや! やめて! 痛い!」


 髪の毛を強く引っ張られたまま、砂の上を引きずり回され始め、自分の声じゃないみたいな悲鳴が出た。頭が痛い、身体が痛い、心が痛い。ずるずるずるずる、彼氏はあたしを引きずり続ける。何度も叫んだ。やめてやめてやめて! ぶちっと音がして髪の毛が抜けた。砂の上で変に跳ねたあたしの身体を、彼氏は一度蹴り飛ばすと、再び髪の毛を掴んできた。


「ぎゃあ!」


 あたしの左足に彼氏の右足が乗せられた。ゴリゴリと強い力で踏み潰してくる。今まで受けたDVの中で一番ハードな痛みだった。髪の毛が抜けた瞬間の何万倍も痛かった。


 もう抵抗する声も出ない。痛いと叫ぶ気力もない。このまま骨が砕けてこなごなになるのを待つしかないなら、もっとひどい仕打ちを受けて死ねたほうがいいかもしれない。杏鈴があたしの彼氏から受けた恐怖は、ネックレスを破壊されかけた恐怖は、こんなDVなど容易く超える暴力だったはずなのだから。


 あたしのせいで杏鈴は苦しんだ。目を閉じている今だってきっと苦しんでいる。


「なあ、梨紗! 俺のこと好きだろ! 言えよ! 愛してるって言えよ!」


 吐き気が込み上げてきた。吐いた。さっきの砂と唾液とは違うものを吐いた。目からも鼻からも垂れてくるものが止まらない。抵抗する気力も叫ぶ気力もないのに言えるわけがない。何よりもう愛してもいないし好きでもない。嫌いだ、大っ嫌いだ。あたしの大切な友達を傷つけたこんなやつ、とっとと死ねばいい。


「……ね」

「ん?」

「……ね。死ね! 死ね死ね死ね死ね! お前なんて死ね!」


 振り絞って出た言葉がそれだった。どう死んだって悔いだらけ。だからせめて最後に思い切り罵声をと、本能が働いた。


 あたしの左足を乱暴に放した彼氏は馬乗りになってきた。首元がごつくて大きな両手に掴まれた。気道が狭まっていく。反射的に感覚のある右足が上下した。眼前にある鬼と悪魔を混ぜたような顔をしている彼氏の顔が、徐所に分からなくなり始めたその時だった。


 彼氏があたしの首を絞めるのをやめた。あたしの身体から下り、勢いよく背後を振り返った。ケホケホと咽せながら引き戻され始めた意識の中で聞こえてきたのは歌声だった。


 ずっと垂れ流していたものとは違う新しい涙が出た。透き通ったソプラノトーンの歌声、何て美しいのだろう。地から響いてくるような厚みもある。包んでくれるような温かさもある。救いの声だとそう思った。


 ドッドッと砂を蹴る音が遠ざかっていく。彼氏は逃げ出した。この現場を人に見られたらとんでもないことになると判断したのだろう。最低だ。最後の最後まで最低だった。


 右も左も見向けぬまま仰向けに転がっているあたしに足音が近づいてきた。気がつけば天使の歌声はやんでいた。視界が暗くなる。視界に入り込んできた顔を見て驚かずにはいられなかった。


「あん……ず?」


 とうとう幻覚が見えるようになったのか。ぐらぐらと回り続けている視界の中でそう思った。けど、それはすぐに幻覚じゃないと分かった。


「……裏切り者」


 再び首を絞めつけられた気がした。白くて細い指先は一本もあたしに触れていないのに。あたしを軽蔑し蔑む凍った視線。怒りの限界を超えて怒る杏鈴の瞳孔は静かに開き切っていた。


「杏鈴……ちが」

「裏切り者、裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者!」


 否定しようとしたあたしの声を、杏鈴は金切り声で踏み潰した。


 杏鈴が傷つくきっかけを生み出してしまったのは迂闊なあたしだ。罪は認める。だが裏切り者には誤弊がある。あたしもAや彼氏に裏切られた側なのだ。黙り込んではいけない、事実を伝えて謝らなくちゃ。


「杏鈴! 違う! あたしは裏切ってない!」

「うるさい!」

「あたしもAに騙されたんだ! 彼氏にも騙された! あたしはあのふたりと共犯グルじゃない! あたしは杏鈴の」

「うるさい! うるさいうるさい! あんたのせいだ!」


 杏鈴の悲鳴にも違い叫びに、あたしの声は掻き消される。腹の底から張り上げているはずなのに、杏鈴は目の前にいるのに、ひとつも届かない。


「うっ……」


 杏鈴はさっきの彼氏同様あたしに馬乗りになり、圧しかかってきた。白い両手はあたしの胸倉を掴んだ。杏鈴の血走った眼は、あたしの話しを聞く気など一切ない色をしていた。


 杏鈴は俯き震えだした。掴んだままのあたしの胸倉をぐらぐらと激しく揺すってくる。


「あんたのせいでっ……あんたのせいでっ……大切な記憶がなくなったんだよ!」


 杏鈴の首元から青色の花びらを浮かべたハートのネックレストップが飛び出してきたと同時、あたしは耳を疑った。


「へ……」


 顔を上げた杏鈴は泣いていた。ボロボロと大粒の涙を零していた。それでもあたしからは目を逸らさなかった。たっぷりと憎しみを込めた瞳であたしを捉えていた。


「わたしに何の恨みがあるの!? 返してよ! わたしの記憶! 返して!」


 わーわーと杏鈴は声を上げて泣きじゃくり始めた。大切な記憶。限定的な、特別な記憶。杏鈴が階段から落ちた衝撃で失ってしまったそれが何であるのか、あたしには分かる。


「杏鈴、落ち着いて……」


 あたしの胸倉を掴んでいる杏鈴の両腕を両手で掴もうとしたが叩かれた。あたしもまた泣けてきた。今度は悲しくて堪らない涙だ。あたしに何が出来る? 何をしてあげられる?


「そのネックレスだよ! それは杏鈴が好きな人からもらった大切なもの。歌もその人に凄く褒められたからっ……」


 あたしの口走りを聞いた杏鈴は絶叫し激昂した。とうとうあたしは口を訊けなくなった。あたしの上に乗っかったまま、杏鈴は両手で頭を抱えて、言葉にならない言葉を吐きだし続けている。失われたものは取り戻せない。取り戻そうとすれば、化け物に邪魔をされてしまう。憎い。そう思うのに、もはや、何が憎いのか誰が憎いのかも分からなかった。


 救いの歌じゃなかった。杏鈴が奏でたのは絶望の讃美歌だった。


 ただひたすら悲しみに打たれて、あたしの意識はそこでなくなった。






 ◆





 次に目覚めた時、あたしが見たのは真っ白な天井だった。病室であると理解するのに数秒かかった。海辺で意識を失ったあとのことは病院のナースから聞かされた。


 意識を失ったあたしを海辺からすぐ近いここの病院に連れてきてくれたのは、杏鈴と杏鈴の母親だった。杏鈴が激昂したあと、どんな顔をしていたかは分からないが、救急車を呼ばなかったのは、あたしを思っての判断だったように思う。この期に及んでまだ希望を持ちたいのか。浅はかだと思ったが、着せられている病衣の隙間から覗く痛々しいあざを見てそう思った。実家から母親がこちらに向かってきている途中だったけれど、明日には退院出来るし松葉杖で帰れるからきてもらわなくて大丈夫だと強く伝えた。もしも地元の病院に運ばれていたら、家族にこのあざがばれ追及されていたに違いない。ふう、と深い息をついた。


 あたしの左足の骨にはひびが入っていた。目覚めてすぐは、包帯でぐるぐるに巻かれていたから気がつかなかったけど、自宅に帰ってから包帯を外して絶句した。赤黒いのか青黒いのか、身体に今までついたものとは比べものにならないほどの辛いあざが出来ていた。ひびによる痛みは薬で抑えられる。けれどこの傷みを抑える薬は存在しない。そのうち消える。そう言い聞かせるしかなかった。


 週明け、包帯を巻いた左足に松葉杖をついた姿で学校に登校すると、クラスメイトが優しく声をかけてくれた。大丈夫? そう聞かれるだけで涙が出そうになったが、あたしは堪えて笑顔で頷いた。


 廊下で元仲間達とすれ違ったが、互いに目も合わせなかった。あたしももう一切関わる気はなかったし、向こうも全く同じ気持ちだったのだろう。虚しさがゼロなわけではなかったが、最初から友達じゃなかったんだ。あたしがバカだっただけ。


如月きさらぎさん」


 放課後、クラスメイトに名を呼ばれて、出入口のほうを見て喉を鳴らした。あたしを訪ねてきたのは杏鈴だった。生物室に向かう道中、互いに一言も口を開かなかった。


 生物室につくと、珍しく杏鈴は前方後方両扉に鍵をかけた。室内の中程まで進んだところで、杏鈴はあたしを振り返った。その表情に喉に何かが詰まった感覚がした。冷酷だとも思わない。軽蔑的だとも思わない。無だ。無ほど恐ろしいものはない。


「……あ、あのさ。この、前は」

「契約しよ」


 教室中に杏鈴の声は跳ねかえった。凛とした声だ。


「契、約?」

「一昨日のあのことは何があっても外部に漏らさない。あなたがDVを受けていたことも、その左足にあざが残ったことも、あなたがわたしを突き落した件に関与していたことも話さない」

「ちょっと待って、だからそれは……ひとつだけ教えて。どうして一昨日、あの海にいたの」


 事実は違う、けど否定しても無駄だ。杏鈴の感情を逆撫ですることを覚悟で問うた。幻でなかったと実感している反面、やはり幻だったのではと思う感情も存在していたからだ。杏鈴は特に怒らず、むしろ淡々と答えてくれた。


 杏鈴は病院で意識を取り戻してすぐ、何かが足りないと感じた。ぽっかりと大きな真っ黒い穴が、脳みそに開いている感覚。医師にも看護師にも家族の誰にも言えなかった。ただ足りない。もやもやしたまま退院し自宅に戻ると、自室のテーブルにネックレスが置かれていた。母親が看護師から受け取ってくれていたそうだ。鏡の前で徐にそれを首につけてみて、心はとても熱くなるのに何も浮かんでこない。慌ててキッチンで夕飯の支度をしている母親の元へ向かいネックレスについて問うと、杏鈴が昔にもらってずっと大切にしているものだと回答が返ってきた。心音が早まった。けどそれだけだった。くれたのが誰であるのか、顔も、名前も、浮かばない。思い出がひとつも浮かばない。自室に駆け込み、ベッドにうつ伏せになって泣いた。枕に顔を擦りつけて、泣いた。大切だったその記憶だけを失ったと気づいてしまった。


 泣き尽くした途端、どうしてか妙に潮の香を嗅ぎたくなった。もしかしたら失った記憶と関係があるのかもしれない。だから母親に頼み込んだ。母親が遠出をするなら折角だから旧友に会いたいと言ったため、旧友が暮らしている場所に近いあの海になった。母親が旧友とカフェで楽しくお喋りをしている間、あの人気ひとけの少ない場所で、ひとりで歌を歌った。歌うと胸が燃えるように苦しくなったが、だからこそ止めずに歌い続けた。でも記憶は真っ黒のまま。そんなところに|見たことのある二人がやってきた。


「だからあなたも、わたしの記憶がそがれていることを誰にも言わないで。わたしは今日を境に、歌を歌うことも辞める」

「そんなっ……」


 杏鈴の潤んだ瞳が震えている。握られている両方の拳も震えている。無は何にでも簡単に染まることが出来る。憎しみと苦しみに燃え始めたその姿に言葉はもぎ取られた。


「普通に、なりたいの」


 記憶を失ったことを杏鈴は異常と捉えていた。もう自分は普通の人間ではない。上手に普通を装って生きていかなければならないと。


「わたしは、普通として、生きていきたい」


 あたしの知っている杏鈴はもういない。あたしが失わせてしまった。


「あなたもそのほうが楽でしょ。友達じゃない。けど、互いに約束は守る。ただそれだけ」


 あたしが杏鈴に償えることはこの契約を受けること、ただひとつだった。


 決して、友達ではない。あたし達は契約フレンドになった。


 ◆


 元彼から何かストーカー的に復讐されはしないかと胸の痛む日々が続いたが、幸い、現れることもなければ連絡がくることもなかった。胸の痛みは少し和らいでも、左足はずっと痛い。その痛みは苦手な黒タイツでくるんで、世間で言う青春を謳う高校二年を終えた。


 ◆


 高三になって、何の神のイタズラかあたしと杏鈴は同じクラスになった。イタズラは重なり、クラスのいくつかに分かれる女子のグループも同じになった。あくまでも普通を装って生きる杏鈴は、あたしに対し普通のクラスメイトとして接してきた。話しをしたのは高二のあの日、契約を結んだ日以来だったが、関係性はそれ以上にもそれ以下にも変わることはなかった。あたしも契約をきちんと守った。他の誰にも知られぬよう互いに普通を遂行した。


 Aからの嫌がらせはなくなったが、杏鈴はあの出来事のせいで男性恐怖症も併発してしまったのか、男子生徒とは必要最低限以外、話さないようにしているように見えた。同じグループに属している子から、相変わらず告白はよくされているが、全て断っているとも聞いた。


 あっという間に夏になった。けど、変わらずあたしは黒いタイツで傷を隠して過ごした。周囲から問われはしたけれど、冷え症がひどくてどうしようもないのだと、苦しい言いわけをしてごまかした。


 進路について口うるさい担任教師にうんざりしていたある日の放課後、グループのみんなでファーストフード店で勉強会をしようと提案された。了承しかけて気がついた。杏鈴の姿がない。用事があるからまた今度と言い残し、教室を出ていったらしい。あたしはそっくりそのまま同じ言葉を伝えると、教室をあとにした。何となく、あの場所が気になった。あたしは約一年振りに放課後の生物室に近づいた。


「何してるの?」

「うわっ!」


 引き扉を少し開けて覗き見しようとしていたから、背中から声をかけられて本気で驚いてしまった。呆れたように目を細めた杏鈴は、戸を引き先に室内に入った。帰れとは言われていない。その後ろについてあたしも室内へ踏み入った。


「ねえ、梨紗ちゃん」


 窓際まで歩いた杏鈴は振り返りざまに、あたしの名を呼んだ。不意打ちを食らった。心の奥が狭まり苦しくなる。


「わたし、卒業したら、海の近くで暮らそうと思う」


 海と言うワードに、あたしの左足は敏感に反応した。紺色の長ソックスに隠している消えない痕。彼氏から受けたDVにより出来ていた他のあざは時間と共に消えてくれた。だが、左足に受けたこのあざだけは、いくら時間が経てども消えなかったのだ。


「ここから脱出したら、少しは見えるかな……光」


 あの日には見えなかった杏鈴の気持ち、普通を願う中で光を見出したいと思っている。杏鈴は全てに絶望していたわけじゃなかった。だからこそ答えられなかった。見えるよ、なんて安易な発言はあたしにする資格はないと思った。


「そういや爪、塗るのやめたの?」

「え?」


 自身の両方の爪先を見た。指摘の通りあたしはあの出来事を期に、爪にマニキュアを塗るのを完全にやめていた。杏鈴が大好きな歌を捨てると言ったから、あたしも何か捨てねばならない、そんな風に思った故の行動だった。いつ杏鈴は気がついたのだろうか。高三になってからと言うのは間違いなさそうだが、よく見ている。


「あー、うん。ちょっと飽きたって感じで」

「塗ってたほうが似合うよ、梨紗ちゃんは」


 杏鈴の口角が少し上がった。目尻も少し柔らかくなった。その顔を見て耐えられなかった。あたしはまた明日も告げず、生物室を飛び出した。思い出が甦る。辛いことが起こる前の杏鈴との思い出が。出会ってから、話すようになってから、毎日が楽しかった。嬉しかった。いっぱい笑った。あたしは杏鈴と――友達になりたかった。けどもうなれない。卒業したら会うことはないだろう。これが永遠の罰だと思った。涙が止まらなかった。


 ◆


 卒業と同時にあたしは都会へ出た。進路は美容の専門学校のネイル科を選択した。辛い思い出からあたしも出来るだけ離れる必要があると考えていたけれど、進路にだけ、唯一の忘れたくない思い出を、こっそり託すことにした。


 あたしは恋愛も出来なくなった。元彼から受けたDVの影響で男性恐怖症に陥っていたわけではなく、都会に出てきてから初めて付き合った男に一瞬にして振られ、一種の男性不審になったからだ。服を脱いだ途端、左足のあざに引かれた。DVをされていたこともすぐにばれ、その男元カレの顔がちらついて気持ち悪い、お前なんて抱けないと言われた。もう本気で人を好きになっちゃいけないし、なれないと思った。それを機にセックスは性欲を満たすだけのものと割り切った。身体を満たし続ければ、とりあえず浮かんでくる寂しさと虚しさを埋めていける。だけどそう開き直っても、身体を焼くのはやめられなかった。少しでも紛らわせなきゃ。少しでも目立たないようにしなきゃって。


 卒業後の杏鈴は、田舎を出て都会に比較的近い地域の海の傍にあるカフェで働いていると、風の便りに聞いた。


 あの日、あたしが騙されなければ違う未来が描けていたのかな。


 そうに違いない。けど、後悔しても、もう何も戻らない。戻れない。


 ――あたしは一生、消えない傷を刻んで生きていく。










 ■Past RI END■

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